第6章 part1
二頭の黒馬が去った後、悪夢の力は一気に弱まり、煙のようにかき消えてしまった。闇に包まれていた周囲の街灯は光を取り戻した。そのうち自動車の通って行く音も聞こえてきた。
レッドフェレットから降りた良平は、地べたに座り込んで泣いている啓二を見つけた。
「どうしたんだ、なんでそんなとこで泣いて……」
が、啓二には良平の声が届いていないようだった。ブラックキャットは啓二の側に歩み寄り、体をこすり付けた。初めて啓二は反応し、横を向く。涙がとめどなく流れ続けるその顔を、夢魔はざらざらの舌で舐めた。
(ドウシタノ、けいじ)
涙は拭われる先からどんどん目から零れ落ちていく。
「澄子、澄子が……!」
「どうしたんだよ、あんた」
良平が啓二の前まで回りこむ。大粒の涙を流し続ける啓二は半ば呆けた顔で、夢魔の顔を見つめている。だが良平がかがんで彼の肩をゆすると、途端に啓二は良平の方に顔を向け、相手の両腕を乱暴にひっつかんだ。
「澄子が、澄子がああ!」
「お、おちつけ、落ち着けってば!」
良平は無理やり振りほどき、すがりつこうとする啓二の頬を強く殴った。それが効いたのか、啓二は涙を流したまま、またへたり込んでしまった。ブラックキャットは良平の行動に不満の目を向けたが何も言わなかった。夢魔としては主が傷つけられるのは嫌なのだが……。
「で、何があったんだよ……」
啓二はさんざん泣いた後、ぽつりぽつりと話し始めた。澄子が、あの黒ずくめの男と、額に十字模様のある大きなナイトメアにさらわれたことを。その話が終わると、ブラックキャットとレッドフェレットは体中の毛を逆立てた。
「どしたの」
啓二が問うた。ブラックキャットは大きく目を見開き、全身の毛を逆立てている。尻尾はさがり、腰が落ちている。
怯えている。
(ソイツハ、ソイツハ……)
ぶるっと身を震わせた。
そのナイトメアの名前は、滅びの使者。
かつてナイトメアを引き連れ、ほかの夢魔の絶滅を図った強大な力を持つナイトメアのボス。シャドウホークを初めとしたほかの夢魔の必死の抵抗で、夢魔たちの絶滅は何とか免れた。しかし、戦いによって滅びの使者は力を失い、身を隠した。ナイトメアたちは今も滅びの使者に忠誠を誓っており、いつか滅びの使者がナイトメアだけの夢魔世界を作り上げてくれるものと信じている。
(ズット、アイツハミヲヒソメテイタトバカリオモッテタケド、チカラヲトリモドシツツアルンダナ)
レッドフェレットはぶるっと身を震わせた。
「力を取り戻しつつある? カンペキに戻ったわけじゃないのかよ」
(アレハ、マダチカラガジュウブンニモドッテナイ。アノアクムノチカラハ、アノタタカイノトキヨリモ、ズットヨワイゾ。オマエ、ワカンナイノカ、バカメ)
レッドフェレットは毛をさらに逆立てた。良平は、かみついてきそうな夢魔の剣幕に負けた。
「そ、そう言うなよ。夢魔の戦いなんか知らないんだし……」
「それより」
啓二は立ち上がった。
「澄子を助けに行かなくちゃ!」
「た、助けるって?」
良平はまた啓二の前に回り込んだ。
「無茶言うなよ、助けに行くったって、どこへ行ったのかわかんないだろ! 夢魔の世界かもしれないし」
「いや、僕は知ってます!」
言うなり啓二はブラックキャットの背にまたがった。
「飛んで!」
ブラックキャットはわけがわからないまま、空へ飛びあがる。良平はレッドフェレットに乗り、あれこれ文句を言ってからやっと空に舞い上がった。
「どうしたんだよ、あんた! 知ってるって、何を知ってるんだよ!」
「澄子が連れて行かれた場所です!」
「何だって?! マジかよそれ!」
「マジです!」
啓二の目の前には、闇に包まれた町ではなく、彼が引っ越す前に住んでいた昔の町が、そして懐かしい家が見えていた。
麻奈の家。
(ここから遠いけど、夢魔の空間移動を使えば、もっと短時間で着けるはず)
ブラックキャットは啓二を振り返る。
「行ってくれ! あの滅びの使者のところに、澄子がいるんだ!」
夢魔はためらいを見せた。滅びの使者の近くに行くのが嫌なのは啓二もわかる。だが今の啓二はためらっている暇などないのだ。
「頼むよ! 行きたくないなら、近くまでつれていってくれればいい! 早くしないと澄子が危ないんだ!」
ブラックキャットは喉を鳴らしてしばらくためらっていたが、やがて進んだ。
(ドコニイクノ? チカクマデナラ、イッテアゲル)
「ありがとう!」
行き先と方角を告げられると、夢魔は空間を渡った。良平も、レッドフェレットに後を追うように言い、空間を渡らせた。
夢魔の空間移動では、水の中にいるような錯覚に陥る。息ができなくなり、全身に何か液状のものがぶつかってくるような感触がするのだ。薄い壁一枚を通るだけならいいが、何十キロもの空間を渡るとなると、長く息を止めなくてはならない。ブラックキャットは、何度か空間渡りをやめて適当な上空に来る。そのたびに啓二はぜえぜえと荒く呼吸して、心臓が落ち着くまで待つのだった。
「あと、どのくらい?」
(コレデ、サイゴダヨ)
ブラックキャットは空間を渡った。これで最後だ。啓二は息を止めて目を閉じた。その後を追って、レッドフェレットも空間を渡った。
(はやくきて……)
啓二の耳の奥に、誰かの声がこだました。
(誰……?)
ブラックキャットはちょうど空間を抜けた。ブワッと肺に酸素がなだれ込んできて、啓二はむせた。
(ツイタヨ、けいじ)
「すげえ」
呼吸の収まった良平は、周囲を見て思わず仰天した。
辺り一帯は、闇に覆われている。空に垂れこめた黒い雲のせいだけではない、見渡す限り、町は闇と静寂に包みこまれてしまっているのだ。夢魔たちの毛はまた逆立った。ブラックキャットが身震いしているのが、啓二のズボンごしに伝わってくる。
(何だ、この強すぎる悪夢の力は……これが、滅びの使者の力だっていうのか?)
啓二はごくりと唾を飲み込んだ。見渡す限りの闇、どんなに耳を澄ませても、彼ら以外の物音が聞こえてこない静寂。その冷たすぎる力に、自分の体が震えるのがわかる。人間の自分がこうなのだから、夢魔が震えあがってもおかしくはない。
啓二の目は、一軒の家に吸い寄せられていた。こぢんまりした何の変哲もない家。そうだ、あれは昔住んでいた家だ。じゃあ、麻奈の家は……
「あっ」
突然、一軒の大きな家が光を放った。弱弱しい、青白い光。その青白い光に包まれた家はまさしく、麻奈が住んでいた家だった。
「ブラックキャット、僕をここで下してくれ」
(エッ)
「これ以上近づいたら、君が危ないよ。僕なら大丈夫だから」
(デモ)
「大丈夫だよ」
啓二の表情に迷いはなかった。彼は、『大丈夫だと知っている』のだから。
夢魔はためらいを見せたが、それでもしぶしぶ地上に降りた。車も人もいない道路に啓二を下ろす。
「ありがとう。ここから先は一人で行くよ」
(けいじ! ヤッパリ、ダメダヨ!)
ブラックキャットは啓二のコートの裾を噛んでひっぱる。全身の黒い毛が逆立って、金色の目は爛々と光っている。
「大丈夫ってさ、あんたのその自信どこから出てくんだよ!」
上空から良平の声が降ってきた。啓二は上を見上げ、レッドフェレットの赤い毛皮を確認する。
「知ってるんです、大丈夫だってこと」
「はあ?! 知ってるって、どうしてそんなこと『知ってる』んだよ!」
「わかんないけど、知ってるんです」
啓二はそれだけ言って、ブラックキャットの牙からコートを引っ張った。そして、青白く光る家に向かって歩き始めた。
(けいじ……)
ブラックキャットはその場で主を見送った。だがそれ以上足を踏み出す勇気はなかった。滅びの使者の力は、ブラックキャット全部を束にしても敵わないほどすさまじいものだから。
「大丈夫かよ……」
地面に降りたレッドフェレットは今にも逃げ出そうと身構えている。良平はその背中に乗ったまま、ブラックキャット同様啓二の背中を見送っていた。
「まだか、まだなのか、滅びの使者よ!」
青白い光に包まれた家のベランダ。もとは物干し場と思われるやや広めのベランダで、黒ずくめの男は滅びの使者に怒鳴った。仮面の下の素顔は見えないが、あせっているものと思われる。
「お前の力なら、魂を取り出せるはずだぞ! 何をぐずぐずしているのだ、早く!」
ベランダには、青白い光に体を包まれた澄子が横たわっている。滅びの使者は彼女の周りを歩き回っているが一向に手を出す気配がない。
(あせるでない、人間よ。この器の中にある魂はとても堅固な壁を張り巡らせている。我が力をもってしても、取り出すのにもうしばらくかかるのだ。この付近の人間どもの夢をすべて集めきってもなお、この魂の壁は破れぬ)
「早く、早くしてくれ、そして――」
(焦るなと言っているのだ)
その時、空間を渡ってナイトメアが姿を現した。滅びの使者の元へそっと歩み寄ると、翼を小さく畳んで何かをささやく。滅びの使者は報告を聞くと、男に言った。
(この器の魂を取り出す間、貴様は暇であろう? ちょうどいい相手が、この建物にやってきたぞ。相手をしてやればよかろう)
黒ずくめの男は反射的に身構えた。
「あの女か!」
(違う。器を手に入れる時邪魔をしようとした、あの下等な夢魔ブラックキャットの契約相手だ)
「何だと!」
(早く追い出すのだな)
言われなくとも、とばかりに、男は家の中へ飛び込んだ。
ナイトメアは滅びの使者を見る。滅びの使者は上空に頭を向け、命じた。
(あの邪魔者を追い払え)
ナイトメアは翼を広げて飛び立った。
「どうしたの、シャドウホーク」
闇に包まれた上空。白ずくめの女は、突然夢魔が怒りの音を発したのに気づいた。シャドウホークは、けたたましい威嚇音をあげ、青白く光る家から飛び出す何かに向かってわめきたてる。
(ナニモノダ!)
ナイトメアが迫ってきた。
(キサマラカ。ココカラサキニ、チカヅクデナイゾ!)
「そういうわけにはいかないの。シャドウホーク、こいつを何とかして!」
主の声にこたえ、シャドウホークは翼を広げてナイトメアに飛びかかった。
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