第6章 part2
「ここに澄子が……」
青白い光を放つ家。啓二はドアのノブに手をかけた。手袋越しに冷たさが伝わってくる。だが、外気にさらされて冷たくなったのではない。夢魔の放つ悪夢の力が建物全体に影響を与えているのだ。ドアノブを回すと、カギがかかっていないのか、あっさりと開いてくれた。
「うっ……」
啓二は思わずたじろいだ。ドアを開けたとたんに、古臭いにおいが漂ってきたのだ。大学図書館の保管庫や物置で嗅ぐような、ほこりのにおい。家全体が青白い光に包まれているせいか、室内の細部もよく見える。天井からはクモの巣のレースカーテンが垂れている。床はほこりのじゅうたんに覆われている。一体どのくらい掃除していないのだろうか。
(ここって空き家なのか? いや、空き家なら立ち入り禁止になってるだろうしなあ)
啓二は家の中に入った。ほこりのにおいが一層きつくなる。コートのポケットからハンカチをとりだし、吸い込まないように顔にあてた。これでゴーグルもあれば目からのほこり侵入を防げるのだが。
青白い光を頼りに、家の中を念入りに見回す。玄関には靴が置かれていない。廊下には人の足跡がない。階段が見える。行ってみようと玄関に上がる。さすがに靴を脱ぐ勇気はなかったので土足だったが。
「うわ、ここもほこりだらけじゃん」
階段にも足跡はなかった。ということはこの家は使われていないのだろうか。本当に空き家なのだろうかと疑いたくなってきた。
「行かなくちゃ」
とにかく啓二は足を踏み出して階段を上った。静かに、音をたてないように細心の注意を払う。階段のてっぺんにたどりつくと、周りの廊下を見る。やはりほこりだらけ。先へ進んで見る。食堂腱リビングを見つけて入ってみると、家具には布がかけられてほこりをかぶらないようになっている。しかし周りはほこりだらけのまま。天井から下がった小さなシャンデリア(の模造品と思われる)にも布はかぶせられていたが、その布から下を、クモの巣のレースカーテンがテーブルにむかってのびていた。窓のカーテンはすべて閉め切られて、カーテンもほこりが積もっている。おそらく窓は汚れに汚れていることだろう。
リビングを出て少し進むと台所、その隣に階段が見える。先に台所をのぞく。シンクにたまった水垢は乾燥し切っており、クモの巣がはりめぐらされている。冷蔵庫は稼働しているように見えない。仮に稼働していても開けて中を確かめる勇気はなかった。
階段を上る。ここからほこりの層が薄くなっている。上の段に上るにつれてほこりが少なくなってくる。登り切ってから廊下を見渡すと、この階は清潔に掃除されていることが分かる。
(なんでここだけ綺麗なんだろう)
ハンカチをポケットにしまい、コートのほこりを払い落してから廊下を進む。しばらく進むとドアが見えてくる。そっと開けると、中は山ほど本の入った部屋。デスクが置いてある。ここも綺麗に掃除されている。書斎のようだ。啓二はドアをそっと閉めて、また歩き出した。壁の窓から外は闇ばかりが広がっている。指紋一つないほど綺麗に磨き抜かれた窓ガラスに、青白い光によって自分の顔が映っている。
「!?」
啓二は後ろを向いた。だが、誰もいなかった。
「気のせいか……?」
窓に映った自分の顔の傍に、ほかの誰かの顔が浮かんだように見えたのだ。だが、後ろには誰もいなかった。
「気のせいだよな」
啓二は廊下を歩いた。突き当たりに、ドアが見える。ドアプレートにはかわいらしいリボンの彫刻が付いている。
『まな』
啓二はドアの前で足が止まった。
麻奈の部屋。
啓二の手が、勝手にドアノブを握り、回す。そして、開ける。
「あっ……」
ドアの向こうには、女の子の部屋があった。きれいなピンクのカーテン、イチゴ模様のシーツを敷いたベッド、まくら代わりのハート型クッション、かわいらしいぬいぐるみたち。澄子の部屋よりもかわいらしい。
部屋の隅に、こわれたランドセルが落ちている。
啓二の体は勝手に中に入り、ドアを閉める。まっすぐ部屋を横切り、デスクに近づく。かわいい小物がたくさん並んだデスクの引き出しを開ける。教科書とノート。啓二の手は勝手にノートをえり分け、一冊の小さな青いノートを取り出す。懐かしいデザインの日記帳だ。表紙には、「藤沢 麻奈」と名前が書いてある。
啓二の手は勝手に日記帳のページをめくった。
ブラックキャットはそわそわと辺りを歩き回っていた。啓二が家に入ってからどのくらい経つのかはわからない。だが、つながりが断たれていないので、啓二は今のところ無事のようだ。それでも心配だった。相手は上位の夢魔ナイトメアを束ねあげる最強のナイトメア・滅びの使者なのだ。アリが象に喧嘩を挑むようなもの。啓二が何の武器も持たずに相手の懐に飛び込んだところで、待っているのは死だけ……。
悪夢の力は、強くなったり弱くなったり、安定しない。滅びの使者の力が十分に戻っていないのだ。だが、近くにいるだけでも全身の毛が逆立つほど気分が悪い。背筋がゾクゾクしてくる。レッドフェレットはもう逃げ出したがっている。しかし良平が背中の毛を握っているので、帰れない。
ふと、空から何か聞こえてきた。皆が見上げると、大きな鳥の黒い羽がハラリと舞い落ちてきた。良平が拾い上げたそれは、シャドウホークの羽だった。
「シャドウホークの羽だ。ってことは、近くにいるのか?!」
探すまでもなかった。ギャアと耳障りな鳥の鳴き声が上空からかすかに聞こえてきたのだ。青白い光に照らされて、黒い馬と黒い巨大な鳥の姿が見える。激しく争っている。
「何やってんだ、あいつら」
(シルカ、ソンナモン! サッサトニゲルゾ!)
とうとうレッドフェレットは良平の手をふりほどいて、空間を渡って行ってしまった。
「あっ……あのやろ」
良平は、レッドフェレットの消えていった空間に手を伸ばしかけたが、下ろした。
「まあ、逃げてもおかしくないか。こんなに、ゾッとするくらいの悪夢なんだから」
良平はぶるっと身震いした。離れていても伝わってくる、滅びの使者の悪夢の力。こんな悪夢の力を受けたまま眠ったら、どんな恐ろしい夢を見ることになるのだろうか。
「それにしても、なんでここらへんの明かりは全然点いてないんだ?」
(ココラヘンノ、ユメノチカラヲアツメテルンダヨ。ダカラ、アカリモゼンブスイトラレテル。アノほろびのししゃハ、ミジカイアイダダケド、アラユルチカラヲウバイトレルンダ)
ブラックキャットは尻尾の毛をすべて逆立てている状態。興奮している。キラキラした金色の目は、青白い建物をじっと見つめている。行こうか行くまいか、足がもぞもぞ。主のことは心配だが、それよりブラックキャットには気がかりなことがもう一つあった。
(アレハ、ダレナンダロウ?)
以前、一度だけ見た青白い光。眠っている啓二を包み込んだ光。誰かの魂の光だということは分かっているのだが、一体誰なのだろう。あの青白い光に触れると、ブラックキャットは弾かれる。夢魔から啓二を守っているかのようだった。
(ダレダロウ、アレハ……)
青白い光に包まれる家を見つめ、ブラックキャットは首をかしげた。
「どこだ、どこにいる!」
男は家の中に飛び込むなり、室内を走り回った。ドアを乱暴に開け、部屋の中をあさり、家具の扉をこじ開け、どこに啓二が隠れているか探し回った。
「あ、足跡!」
埃だらけの廊下に、足跡がある。玄関から続く足跡は、一度リビングへ入り、続いて台所へ入り、さらに階段を上っている。男は階段を駆け上がる。埃一つ落ちていないこの階。啓二が踏んできた埃が足跡となって廊下に残っている。書斎を覗いて本をどけたが、誰もいない。
「あの部屋かっ……!」
男は書斎を飛び出し、『まな』の部屋に向かった。
啓二は、日記帳を読んでいた。日記には、麻奈の言葉がつづられている。学校の行事や遠足の感想など、普通のことが書かれている。だが、ページを追っていくと、
「おにいちゃんから、お手紙がとどかなくなりました。暑中おみまいはもう送ったけど、年賀状の時みたいにまた返事が来てません。おにいちゃん、麻奈がきらいになったのかな」
「お父さんが、おにいちゃんのはがきを捨ててました。わたし怒ったけど、お父さんは、「もう手紙を出してはいけない」と言いました」
「おにいちゃんの家に行きたい。お母さんは行かせたいみたいだけど、お父さんがきびしすぎてダメみたい」
「おにいちゃんに会いたい。けいじおにいちゃんに」
日記はここで終わっていた。事故死する前日で。
日記帳が急にぼやけた。手が震えて、持っていられなくなった。
「麻奈、ちゃん……」
啓二の手から日記帳が落ち、床の上でバサリと音をたてた。両目から涙が流れ落ちた。
「なんで、なんで忘れてたんだろう……」
後半の日記には啓二の事ばかりつづられていた。事故死する前日まで。なのに啓二は、麻奈のことをいつのまにかすっかり忘れてしまっていた。年賀状や暑中見舞いを出した覚えもない。どんなに記憶を手繰っても何も思い出せない。引っ越す前に麻奈と一緒に過ごしたことは思い出せるのに、その後のことはきれいに消えてしまっている。
「麻奈ちゃん……!」
啓二は床に座り込んだ。今この場に麻奈がいたら土下座して謝りたかった。これだけ啓二に会いたがっていたのに、啓二は彼女のことをきれいさっぱり忘れてしまっていたのだから。
(おにいちゃん)
少女の声が聞こえた。啓二は、涙でぬれた顔をあげた。
「麻奈ちゃん?」
だが声の主はどこにもいなかった。
(いるわけないじゃないか、もうとっくに死んでしまったのに……)
足音が聞こえてくる。ドタドタとやかましい足音。啓二は振り返った。ドアが乱暴に開けられ、そこには、男が立っていた。黒ずくめの、白い仮面をつけた男が。
「貴様……!」
悪夢の力に匹敵する凄まじい殺意。その殺意がブリザードのごとく吹き付け、啓二の足腰をあっというまに役に立たなくさせた。怯えた啓二は、涙の流れ落ちる目で相手の白い仮面を凝視したまま動けない。
「貴様のせいで、麻奈は、娘は死んだ!」
男は啓二に飛びかかった。よける暇も与えられず、啓二は押し倒され、馬乗りにされた。男の割に妙に細い指が啓二の首に食い込み、万力のような力で締め上げる。
「貴様さえいなければ、いなければ、いなければあああああああああああああ!」
男の悲痛な叫びとともにその握力が増す。啓二は必死で相手の腕を振りほどこうとするも無駄な努力だった。男の力は衰えるどころか、増す一方。啓二への憎悪と殺意だけで、この男は動いているのだ。
「もうすぐだ、もうすぐ娘は帰ってくる、私の元へ帰ってくるううう」
男の声は泣きながらも喜びにあふれ始める。だが、啓二に対しては、
「だが、二度と麻奈に貴様を近づかせるものかああああああ!」
「っ……!」
相手の手頸を掴む啓二の両手から力が抜けていく。目の前が徐々に暗くなり、酸素を求める心臓の鼓動が弱まってくるのがわかる。
「もうすぐだ、もうすぐ娘が私の手の中へ!」
だが啓二は何も聞こえなかった。
瞼が下がる。消えゆく青白い光の中に、澄子の顔が浮かんできた。
(澄子……)
啓二の瞼はゆっくりと閉じていった。
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