第7章 part1
「早く帰ってきてくれよお」
啓二が、青白い光を放つ家の中に入ってから、どのくらい経ったのか。ブラックキャットと良平はただ待っているだけだった。一分か、五分か、十分か、三十分か、一時間か……。どのくらい経ったのかわからない。ただただ長い。
ブラックキャットはそわそわしていた。だが、突然全身の毛がものすごい勢いで逆立った。
「ど、どうしたんだよ」
良平が恐る恐る聞く。だがブラックキャットは答えずに、弾かれたように飛び上がって空間の中へ姿を消した。
「ま、待てったら!」
良平は完全に置き去りにされてしまった。
「くそー、ひとりぼっちかよ……帰ろうにも帰れないし、無理してついてくるんじゃなかった……」
愚痴をこぼしても、もう遅すぎた。啓二とブラックキャットが戻るまで、良平は一人ぼっちで待つしかないのだった。
ベランダ。
滅びの使者は、耳を動かした。自分以外の夢魔の気配が近くにある。だが己の臣下のそれではない。
(下等な夢魔が入り込んだな。まあいい、ブラックキャットごとき下等な輩は、害にもなるまいて。あの愚かな人間が勝手に追い払ってくれるだろう)
滅びの使者は、澄子から魂を取り出すことに専念し始めた。澄子の体の周りはどす黒い悪夢の霧で覆われてきた。
(もう少しだ、もう少しで壁を破れる……)
上空では、ナイトメアがシャドウホークを追い払おうと攻撃を続けていたが、相当苦戦しているようであった。しかし滅びの使者はそれにすら目もくれなかった。あくまで澄子に集中していたのであった。
男は、嫌な色に染まった啓二の首を絞め続けていた。啓二の両目は既に閉じられ、抗う力の無くなった彼の両手は、相手の手首を握るのもやめて床に倒れていた。
「貴様さえ、貴様さえいなくなってしまえば!」
その時、男の背後の空間がゆがんだ。ゆがんだ空間からブラックキャットが飛び出し、男の背中を鋭い爪でひっかく。引っかくといってもライオンに匹敵するその体の大きさ、力もその分強いのだから、引き裂いたという方が正しかろう。
黒いマントが爪でビリビリと裂け、派手な裂き傷を残して背中から外れる。男は啓二の首を絞める手を緩めて振り返ったが、ブラックキャットは容赦なく相手に体当たりした。啓二から弾き飛ばされた男は床に倒れこむ。ブラックキャットは男に馬乗りになった。フーッと激しく威嚇して、
(ボクノあるじニ、テヲダシタナ!)
金の両目をギラリと光らせる。すると、男の意識が一瞬にして失われた。ぐったりした男をふんづけて、ブラックキャットは啓二の傍に歩み寄る。そして左胸に前足を載せてみる。
心臓は、止まっている。
(ホッ、コレナラダイジョウブ。スグニ、オコシテアゲルヨ、けいじ)
ブラックキャットの体が淡い光に包まれる。そして啓二にもその光が伝わる。やがて、前足の下で、弱弱しく心臓が鼓動し始める。ブラックキャットは時々啓二の顔をざらついた舌でなめながらも、喉をゴロゴロ鳴らした。
夢魔は、自分の生気を生命エネルギーに変換して送り込むことで、対象の意識回復や疲労回復が行える。その要領で死者の蘇生もできるのだが、対象が死んでから間もないことが必須条件。すでに腐っていたり白骨化している遺骸は蘇生できない。この蘇生方法は、人工呼吸のように、施すのが早ければ早いほど効果が出るのだ。
啓二の体から光が消える。今度は、青白い光が彼の体を包んだ。ブラックキャットは驚いたようにニャッと声をあげ、前足をどける。これはブラックキャットの力ではない。光は数秒だけ彼を包み込んだ。それが消えると、啓二の胸が上下に、わずかに動いた。呼吸を始めたのだ。
(ナンダロウ、イッタイ……)
ブラックキャットの目がまんまるになり、好奇心と驚きでかがやいた。何かの力が啓二の蘇生を手伝ったのだ。ブラックキャットはおそるおそる啓二の顔に自分の顔をもう一度近づける。フンフンと鼻を動かしてにおいを嗅いでみるが、怪しいにおいはしない。啓二の中に何かがいることは、もうブラックキャットは知っている。夢魔を退ける力をもつそれの正体が一体何なのか、なぜ啓二を守ろうとしているのか、ブラックキャットはそれを知りたかった。
「うう……」
啓二の口から、うめき声が漏れた。顔色はすっかり元通りになり、絞められていた首から痣が消える。指がピクリと動き、手を弱弱しく握る。そして、目を開けた。焦点の定まらない目がしばらく宙を見つめ、やがて目の前にいるものの姿をはっきりと認識する。
大きな黒猫。
ブラックキャット。
「ブラックキャット……?」
(ウン)
夢魔は喉をゴロゴロ鳴らして主に顔をこすりつけた。啓二は腕を伸ばして、ブラックキャットを抱きしめた。
「助けに来てくれたんだね、ありがとう……!」
大量の生命エネルギーを蘇生に注いだことでくたびれきったブラックキャットは、そのまま床にへたりこんだ。啓二はなんとか起き上がって床に座り込む。まだ目の前がくらくらするが、だいぶ頭はしっかりしてきた。ブラックキャットは反対に疲れ切っており、しばらく腹であらく息をしていた。
体調が戻ってくる。だが、滅びの使者の悪夢の力の影響が強く、平常ほど回復しない。立ち上がるとふらついた。くたびれているブラックキャットはまだ立ち上がらない。
「いいよ、無理しなくて」
啓二は改めて部屋の中を見まわし、床に倒れている男に気がついた。
「わっ」
思わず身構える。しかし倒れた男は起き上がらない。啓二は夢魔に問うた。
「何をしたの」
(チョット、ネムッテモラッテルダケ。ダッテ、けいじノクビヲシメテタンダヨ! ダカラ、ソイツネムラセテ、けいじヲヨミガエラセタノ)
言われて、啓二は自分の首に思わず手を当てる。そうだ、この男に首を絞められた。さらに、ブラックキャットに蘇生してもらったということは、この男に自分は殺されたのだ。
死んだ? 本当にそうなのか? 息ができなくなって、少しずつ視界が暗闇に閉ざされたことまでは覚えているのだが……。死んだという実感がない。
(ソレニシテモ、ソイツ、イッタイナニモノナノ? コノヘンナヤツカラ、モノスゴイニクシミヲカンジタンダヨ)
嫌悪感まるだしのブラックキャット。
「憎しみ……」
首を絞められている時に聞こえた、男の言葉が断片的に耳の中にわずかに残っている。麻奈が死んだのは啓二のせいだ、そう言っていたような気がする。
(僕のせいで麻奈ちゃんが死んだ? どういうことなんだ?)
麻奈は自動車の事故で死亡した。啓二とは何の関係もないはずなのに。この男は明らかに啓二に対して憎悪をぶつけてきていた。仮面の下に隠された、憎悪に満ちた表情を簡単に想像できるほど、その憎悪は深いものだった。
啓二はふと思った。この仮面の下はどんな顔をしているのだろうか。おそるおそる、倒れている男の傍に近づいて、そっとかがむ。まだ目を覚まさない。夢魔による気絶効果は強力で、個体ごとに時間の限界はあるものの、その間は何をされても意識が戻らないのだ。啓二は仮面に手をかけると、そっとはずしてみる。
驚きの小さな声が啓二の口から洩れた。ブラックキャットは耳を後ろに向け、嫌悪感を丸出しにする。仮面の下から現れたのは、想像以上に老けた男の顔だった。憎悪を顔に刻んだしわがまず目に入る。……六十歳を超えていると思われる老人の顔と、真っ白な髪。声はまだ若々しかったような気がするのだが……。
「老け顔、なのかな……?」
(チガウヨ。セイキヲ、スイトラレチャッテルネ)
ブラックキャットが言った。
「生気を吸い取るって?」
(ほろびのししゃハ、ニクシミヤウラミノツヨイチカラモ、ダイスキナンダヨ。ダカラ、マイナスノカンジョウヲモッテルヤツカラ、チカラヲチョットズツスイトッテシマウンダ。ジブンノ、エネルギーニスルタメニネ)
「ちょっとずつ吸われてこのありさまか。全部吸われたらどうなる?」
(シヌ)
簡潔な答えだった。
(コイツ、タブン、ほろびのししゃト、ナニカけいやくヲカワシテイタンダトオモウヨ。けいじノ、ダレダッケ、ナントカイウヒトヲサラッタノモ、けいやくニヒツヨウダカラジャナイ? ソウジャナキャ、にんげんヲカンゼンニミクダシテルほろびのししゃガ、コンナコトスルハズガナイモン。にんげんトカカワリヲモツコトスラ、アイツハシナカッタハズダカラネ)
そこで啓二は思い出した。
「そうだ、澄子! 探さなくちゃ!」
駆けだそうとするが、膝が急にグラついて、啓二はその場で尻もちをつく羽目になった。めまいが襲いかかり、景色がゆがむ。まだ体力が回復し切っていなかったのだ。啓二はブラックキャットの体に、自分の体を預けて、深呼吸した。ブラックキャットは喉をゴロゴロ鳴らし、啓二の腕に尻尾を巻きつけた。
(ケッキョク、コイツナニモノナノ?)
夢魔の問いに、啓二は答えた。この男が麻奈の父親と思われること、理由は分からないが啓二を異常なまでに憎んでいる事、以前会った白ずくめの女と何か関係があるのではないかと思われること……。ブラックキャットは大人しく聞いていたが、前足をなめながら問うた。
(まなッテ、ダレ?)
見当はずれな問いに、啓二はずっこけた。そういえば、麻奈についてブラックキャットに話をした覚えなどなかった。それを思い出し、一から話をし直すとやっとブラックキャットは納得してくれた。そのころには啓二の体力も七割回復し、ブラックキャットも普通に動き回れるほど回復できていた。
(にんげんッテ、ヤッパリフクザツダネエ。サッパリワカンナイヨ、ボクニハ)
「わかんなくていいと思うよ……。僕も、わからないことがいくつかあるんだから」
男の意識が戻り始めると、ブラックキャットは背中の毛を逆立て、威嚇した。さっさと啓二を背中に乗せ、低空飛行で部屋を出た。廊下を逆戻りしていくと、階段の傍にドアが一つ見える。書斎のドアではない。ドアの隙間から青白い光が漏れている。啓二は、こんなところにドアなんかあったかと首をかしげた。ノブを握ってみる。だがその途端に、ノブごしにすさまじい力が手を攻撃してきた。冷たい力が啓二の手を一気にしびれさせ、思わず啓二はノブから手を離す。
滅びの使者の思念が、ドアごしに伝わってきた。怯えて、ブラックキャットの尾が垂れさがってしまった。
(しくじったな、あの愚かな人間め。まあよい、入ってくるがいい。どのみち貴様にも用があるのだからな、矮小なる人間よ)
何もしていないのに、ドアが勝手に開いた。青白い光が目の前を覆い尽くし、しばらく目がくらんで何も見えなくなってしまった。目が慣れてくると、光の奥に何かいるのがシルエットでわかる。ブラックキャットの全身の毛がブワッと逆立ち、ぶるぶる体が震えだす。啓二はブラックキャットの背中から降りると、ドアの向こうへ足を踏み出した。
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