第８章 part1
目の前の真っ白な光は消え、啓二はおそるおそる目を開ける。コートの上から突き刺してくる寒さ。周囲は嫌な色の赤い光に包まれている。地面はゴツゴツして固い。石を乱切りにして地面にバラバラとまき散らかしたように見える。見たことのない場所だ。ここは麻奈の家ではない。
「！」
啓二から少し離れたところに、滅びの使者がいる。そして滅びの使者が守るように立っている後ろには、青白い光に包まれた澄子がいる。まだ目を覚ましていない。青白い光は弱くなっている。
滅びの使者の、額の白い十字模様が光る。すると啓二の体は硬直して動けなくなった。
（この程度の力ならば、通用するか）
滅びの使者がゆっくりと歩み寄ってきた。ほんの数歩で、啓二の目の前に来る。巨大な馬。啓二は目を動かすのもやっとで、滅びの使者を上目遣いに見上げた。
滅びの使者の目が光る。
（ここならば邪魔は入らぬ……）
背筋が寒い。見つめられているだけで、冷や汗が出てきた。
（矮小なる人間、なぜ貴様を我が住みかへ連れてきたのか、知りたくはないか？）
滅びの使者は啓二に顔を近づけてきた。冷たい……。近づかれるだけで寒気が増す。まるで滅びの使者が氷でできているような……。滅びの使者は、わずかに身を震わせている啓二の反応を楽しむかのように、彼の周りをゆっくりと歩く。ふさふさした尻尾が啓二の背中をなでた時、コートごしにその冷たさが直接伝わってきた。
滅びの使者の目が赤く光る。その目を見た啓二の頭の中に、映像が流れ込んできた。
（我は、ナイトメアだけの世界を作るために、他の下等な夢魔どもを攻撃したのだ）
始まりは、滅びの使者に率いられた大勢のナイトメアが他の夢魔たちの縄張りを襲撃する場面。大勢の夢魔がナイトメアたちの後ろに屍の道を作り上げ、夢魔の世界は一時混乱に陥る。だが夢魔たちの反撃により、わずかずつナイトメアの個体数は減っていき、ついには滅びの使者に傷を負わせることにも成功した。滅びの使者は傷をいやすために、ナイトメアですら近づくことができない己のすみかに戻った。だが、夢魔がその生命力を回復させるには、別世界の生き物の夢を食らう必要がある。さらに滅びの使者はただの夢では回復できないほど力を失いつつあった。大量の悪夢では気休めにしかならない、完全に回復するには、夢を見させる大元である魂が必要なのだ。特に、複雑な夢を見ることのできる生き物・人間の汚れなき魂でなければ。滅びの使者は何年もかけて探し回った。そうして十一年前に見つけたのだ、汚れの無い魂を持つ人間・麻奈を。
（麻奈が死んだあと、我は麻奈の魂を食らおうとした。だが、魂は逃げ出した。我が食えたのは半分だけ。残りの半分はどこかへ飛び去ってしまった……）
滅びの使者の言葉の後、別の映像が頭の中に流れてくる。
麻奈の魂の半分が飛び去った後だった。滅びの使者の傷は癒えたが、力は回復しなかった。滅びの使者は必死で探しまわった。だが魂はきわめて巧みに己の存在を隠しており、ナイトメアたちにも探させたものの、見つからなかった。
また滅びの使者が目の前に歩み寄ってくる。大きな馬面が啓二の目の前にやってくる。
（まさか貴様の中に隠れていようとは、予想だにしていなかったぞ。麻奈の魂はまことにうまく貴様の中に隠れ住んでいた。だが、我はもっと上等の魂を見つけたのだ、麻奈以上に美しく清らかな魂をな）
滅びの使者の向こうで、目覚めない澄子。彼女の体を覆う青白い光は、徐々にどす黒い霧にとってかわりそうなほど、弱弱しくなった。
（そして、貴様があの器に接触するうち、我は気がついたのだ、貴様の中には、貴様の魂だけでなく別の魂も存在している事に。その覚えのある魂の気配こそ、喰いそこなった麻奈の魂なのだ。だが、あの器の方がより清らかで美しかった。麻奈の魂よりもはるかにな。だから麻奈の魂はあの器のついでに食らってやろうと思い、しもべにお前を見張らせる程度にしておいた。だが、いざ食おうとしたものの、我の力は足りなかった。あの魂を引きずりだすので精いっぱい。魂はあの器の傍から決して離れぬゆえ、食らうことは出来ぬ。食らうには、麻奈の魂の残りを食らい、力をもう少し回復させねばならんのだ）
滅びの使者の、額の白い十字が光った。
（だから、邪魔の入らぬこの場所へ、器と貴様を連れてきたのだ。貴様の中の麻奈の魂を取り出して食らい、そして器の魂を我が物にしてさらなる力を身につけるために！）
同時に滅びの使者が勢いよく両足を振りあげる。大きな蹄が啓二の頭を割ろうとする直前、啓二の体が青白い膜でおおわれ、蹄は跳ね返された。
（やはりまだ麻奈の力が強いのか。これだけ我が悪夢の力が周りに充満していると言うのに！）
滅びの使者から、ブワッと激しく悪夢が霧状になって放たれる。辺りが一瞬で真っ暗になったがすぐに霧は晴れた。それでも、啓二は気分が悪くなった。足がふらつき、だるくなってきて、立っているのもつらく感じてきた。何より、寒かった。悪夢の冷たさがコートの隙間から容赦なく入り込んできた。青白い光が彼の体を覆っているとはいえ、その青白い光の力は啓二を完璧に守ることはできないようだ。
（貴様を直接踏み殺せぬのなら、こうしてじわじわと魂の力を弱めてやるだけのこと。あの時と違って、麻奈の魂は半分、そのぶん魂の持つ防御の力は半分に減っているのだからな）
滅びの使者の呪縛はまだとけない。だがもし解けていたとしても、啓二は動けなかったろう。悪夢の力が急激に啓二の体力を吸い上げているのだから。滅びの使者は、徐々に弱っていく啓二を面白そうに見つめた。啓二の周りを覆う青白い光は少しずつその輝きを弱めていく。
（そろそろか……）
滅びの使者の額の十字が光ると同時に、啓二の目の前に、闇が滑り落ちてきた。だがその代わり、すぐに自分の目の前が明るくなった。
なぜって、自分の胸が、ほのかに白い光を放ち始めたからだ。同時に全身を襲う虚脱感。何かが自分の中から引きずり出されている事を感じ取った。
（貴様の魂を引きずり出さねば、麻奈の残りの魂は表れぬ。さほど美しくもない貴様の魂など要らぬが、貴様の魂を食らわねばならん。さぞまずいだろうな、貴様の魂は）
馬鹿にした言葉も、啓二の耳には届かなかった。自分の胸から人の頭ほどもある大きな純白の球体が表れた時、啓二の目の前には再び闇が滑り落ちてきたから。
啓二の体はそのまま仰向けに倒れていった。
滅びの使者はゆっくりと啓二の魂を己の傍に引き寄せていく。地面に仰向けに倒れた彼の体は、ぴくりとも動かない。だがその体は青白い光で包まれ始めた。啓二の魂は急に滅びの使者から離れ始める。
（最後の抵抗を試みるか。だが無駄なことよ）
滅びの使者の体からさらに悪夢の霧が噴出した。漂っている魂はブルブル小刻みに震えながら、滅びの使者と啓二の体の間で停止した。
不意に、啓二の肉体から一筋の青白い光が飛び出した。その糸のように細い光は、澄子の体に向かって突き進み、彼女の体に入り込んだ。だが滅びの使者はそれに気づかなかった。
ブラックキャットは、良平を無理やり連れて行ったレッドフェレットを追って、夢魔の世界に戻ってきたところだった。だが、レッドフェレットは別の場所に行ってしまったのか、姿はない。ブラックキャットが到着したのは、ブラックキャット族の住処。草原だ。年老いたブラックキャットたちがぐうぐうと眠っており、ある程度若いブラックキャットは主に夢を食べさせてもらうために人間の世界へ出かけている。
ブラックキャットは、草原の一方を見た。はるか先に、森があり、その森の中央に巨木がそびえたつところがある。それは、上位の夢魔シャドウホークとナイトメアの住処。特に、巨木のてっぺんには滅びの使者が住まう特別な空間があると言われている。他の夢魔は誰も近づけず、ナイトメアですらも滅びの使者の許しなしには立ち入れない。
滅びの使者は啓二をそこへ連れ去って行った。一体何のためなのかブラックキャットはよくわかっていない。ひとつはっきりしていることは、このままでは啓二が危ないということ。
（イカナクチャ！）
ブラックキャットは森を目指して飛んだ。
滅びの使者が啓二をこのまま生かしておくとは、とても思えないから。それに、啓二とのつながりがまた弱まり始めたのを感じ取ったから。
滅びの使者の元へいくには、単独では無理だろう。周りに住むシャドウホークたちの力を借りられないものだろうか。だが、連中も内心では下位の夢魔を見下しているし、滅びの使者の攻撃で最も打撃を受けた種族なのだから、簡単には力を貸してはくれないだろう。
悩みながら飛んでいると、背後にたくさんの気配を感じ取った。
レッドフェレットは、夢魔の世界へ強引に良平を連れてきた。良平はしばらく目を回していたが、やがて今いるこの場所が、自分の知っている世界ではないと気がついた。
「お前突然なにするんだよ！ てーか、ここ何処だよ！」
（キマッテンダロ、ムマノセカイダヨ。ソンナコトモワカンナイノカ）
「む、夢魔の世界……？」
良平の目の前に広がる世界は、彼の知っている世界とはまったく違っている。薄紫色の空があり、川と思われる溝には何もなく、ゴツゴツした赤茶色の岩がそこらじゅうにゴロゴロしている。その先には坂があり、坂を登った先にはうっそうと茂る暗緑色の森らしきものが見える。ここは明らかに、人間の常識の範囲を超えた世界だ。
（ソンデモッテ、ココハ、ほろびのししゃノスミカヘノチカミチ。オイラ、ジイサマニキイテ、シッテルンダヨ）
「滅びの使者って……近道って……」
良平は事情が全く呑み込めていない。当然だ、説明もなしにいきなり夢魔の世界に連れてこられ、しかも到着した場所が、滅びの使者の住処への近道。
「い、一体全体、何で俺を連れてきたんだよ！」
（オマエガイナイト、コマル）
「どうして！？」
（ココヲトオルニハ、ユメノチカラガイルカラ。ユメヲモッテルオマエガイナイト、ココヲトオレナイ）
「……だから、何で俺を」
レッドフェレットはそれ以上言わせなかった。良平を強引に背中に乗せ、素早くゴロゴロ岩の坂道を登り始めた。
ふと、後ろから夢魔の気配。振り返ると、レッドフェレットの後ろから、赤い毛皮や黒い毛皮が昇ってくるのが見える。
「な、何だよあれ！」
（ミリャワカルダロ、ホカノムマタチダヨ。ほろびのししゃガアラワレタッテンデ、ミンナソロッテイソイデルンダ。ヤツノチカラヲカイフクサセナイタメニモネ）
レッドフェレットは言って、坂を登っていく。すると、坂のてっぺんと思われる場所に虹色の膜が見えてきた。
レッドフェレットは良平を下ろす。そして、
（テ、ダセ。ソンデモッテ、コノけっかいニサワレ）
言われるまま、良平は手を伸ばして膜に触れる。すると、膜は良平の手を包み込んだ。あわててひっこめようとしたが、膜はそのまま良平の手を包んでいる。だが、やがて膜は一瞬だけまぶしく光って消え失せてしまった。
「な、何が起きたんだ？」
（オマエノユメヲキュウシュウシテ、キエタ。アノけっかい、ほろびのししゃガツクッタモノナンダ。ムマハユメヲタベルコトシカデキナイカラ、ソレヲリヨウシテ、ユメノチカラヲアタエナイトショウメツシナイけっかいヲツクッタンダヨ）
レッドフェレットはすぐに良平を背中に乗せ、飛び始めた。
（サッサトイクゾ！）
ブラックキャットの後ろから、大勢の夢魔たちが飛んできていた。大きな金色の目をさらに真ん丸にしたブラックキャットは、思わず止まってしまった。
（オジイチャン）
年老いたブラックキャットが、目の前に姿を現した。
（ほろびのししゃガ、マタメザメヨウトシテイルンジャ！ ハヤクトメニイカネバ！ オマエモ、クルンジャ！）
言われなくてもそのつもりなのだが、なぜ急に？ あれほど滅びの使者を恐れていたはずなのに。
（オジイチャン、チョットマエマデ、ほろびのししゃヲコワガッテタジャン。イマデモコワイケドサ。デモ、ドウシテキュウニほろびのししゃノトコロヘイコウトスルノ）
（イッタジャロウ！ チカラヲツケルマエニ、ほろびのししゃヲホロボスンジャ！ ヤツガ、キヨラカナタマシイヲクラウマエニナ。マタ、アノタタカイガハジマッテシマウマエニ、ヤツヲツブシテシマワネバ！ ダカラ、ワレワレハコウシテ、ほろびのししゃノモトヘイソイデイルノダ！ アアモウじかんガナイ、サッサトイカネバ！）
老いたブラックキャットは先に飛んで行った。その後を、他の夢魔たちが追って行った。取り残されたブラックキャットは、目をぱちくりさせていた。だがすぐに、後を追って飛んだ。少なくとも、味方が増えたことだけは理解できたからだ。
（ハヤク、けいじヲタスケナクチャ！）
啓二とのつながりがどんどん弱くなっていく。滅びの使者が何をしているのかは分からないが、このつながりの弱まり方は、麻奈の家でのそれと違っている。ブラックキャットは焦った。もし肉体の死ならば蘇生させてやれる。だが、啓二の魂や精神が破壊されてしまったら、どうしようもないのだから。
今のブラックキャットに出来ることは、仲間を追って全力で飛ぶことと、啓二の無事を確認するために弱いテレパシーを送ることだけだった。
ブラックキャットの上空に、たくさんのシャドウホークの群れが出来つつあった。
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