第8章 part2
「ここは……」
男は起き上がった。
(ワレラ、むまノセカイ)
ナイトメアは主に伝えた。ナイトメアの住処は、暗緑色の森の木々。巨木の枝のひとつひとつがナイトメアの住処なのだ。その巨木の下の枯れ枝にはシャドウホークが住みついているが、今は皆そろって出払っているようだった。
(ワガあるじヨ、チカラヲカシテモライタイノダ)
「……力?」
老いた顔の男はやっと立ち上がった。ナイトメアはそっとその体の傍に歩み寄り、支えとなる。
「私の力、だと?」
(あるじヨ、チカラヲカシテモライタイ。アノおかたハ、ソレヲノゾンデオラレルノダ。サモナケレバ、けいやくハタッセイデキナイ)
「契約……」
その言葉で、老いたその顔に生気が一気に戻ってきた。
「麻奈が帰ってくるためには、私の助力が必要だと言うのだな、ナイトメア」
(ソノトオリ)
「滅びの使者と交わした契約。麻奈の蘇生と引き換えに、奴の力をあるていど回復させるために大量の悪夢を提供する……」
ひとり呟いた。男は、深呼吸して、夢魔に問うた。
「で、私は何をすればいいのだ?」
(コノバショノけっかいヲ、キョウコナモノニシテモライタイノダ)
ナイトメアの首が後ろを向く。振り返ると、弱弱しい虹色の膜が辺りを覆っている。その膜の向こう側には、さらに荒れ果てた光景が見えている。
「結界を強固に?」
(あるじノユメガ、ヒツヨウナノダ)
ナイトメアは主につきそって虹色の膜に男を触れさせる。すると、弱い虹色の結界が一瞬のうちに強い光を放った。
(カトウナレンチュウガ、ココヘヤッテクル。ダガ、アノおかたニハ、ユビイッポンフレサセルワケニハイカナイノダ。ソノタメニハ、あるじヨ、あるじノユメノチカラガヒツヨウナノダ)
「なるほどな、こうやって結界を強固にすることができるのか」
男の周りは特に強い光を放っている。まるで結界は水のような感覚で、その中に体をつけているだけで、かがやく虹色の水の中に浸っているような気がする。
「それで、滅びの使者はどうしたのだ。どこにいるのだ?」
(アノおかたハ、キヨラカナタマシイヲうつわカラヒキズリダスベク、タタカッテオラレル。マダ、うつわハテイコウヲツヅケテイルノダロウナ)
ナイトメアはいまいましそうに鼻を鳴らした。
少しずつだが、他の枝からナイトメアが姿を現し始めた。
「まだ着かないのかよ」
良平はレッドフェレットの背中で愚痴をこぼす。レッドフェレットは森の中を飛んでいる。だがいつまでたっても出口らしきところは見つからない。
(マダ)
レッドフェレットは冷たくこたえる。
「近道を進んでるんじゃないのかよ」
(ソウ。デモ、ココラヘンハ、シャドウホークノなわばりダカラ、ミツカラナイヨウニシナイトイケナインダ。ダカラ、ユックリトンデル)
「シャドウホークのなわばり? ここらへんてシャドウホークの住処なのかよ」
(アイツラ、なわばりイシキガスゴクツヨイカラ、メッタナコトジャ、ココニタチイラセテクレナインダヨネ。ウシロ、ミテミロヨ)
良平が振り返ると、あれだけたくさんいた夢魔たちが、ほとんどいなくなっている。
「逃げちまったのかよ」
(チガウチガウ。シャドウホークヲシゲキシナイヨウニ、チョットズツキョリヲアケテルンダヨ。イッペンニクルト、アイツラヲケイカイサセチャウカラサ)
レッドフェレットはしかしながらフンフンと周りの空気を嗅いだ。
(ソレニシテモ、アイツラヲゼンゼンミカケナイナア)
「見つからないようにしてるからじゃないのかよ」
(チガウチガウ。アイツラノニオイガ、ゼンゼンナインダヨ、ココラヘン。オマエ、カンジナイノカヨ)
「お前の鼻と俺の鼻は違うんだっての! 気配だって、夢魔なんか山ほどいるだろ。わかんねえ」
レッドフェレットは主の答えにフンと鼻を鳴らした。
シャドウホークの群れが出来つつあることに、ブラックキャットは気がついた。
(ドウシタンダロウ。イツモハ、スミカカラゼンゼンデテコナイノニ)
ブラックキャットは立ち止まらず、それ以上シャドウホークについて考えるのもやめて、啓二へずっとテレパシーを送り続けた。相手の精神にテレパシーがぶつかれば手ごたえを感じるのだが、その手ごたえが徐々に弱くなってきている。
(けいじ……!)
他の夢魔たちに追いつき、そのまま森の中へと飛び込む。徐々に飛ぶ速度を上げていき、夢魔たちの先頭を走り、そのままの勢いで森の中を突っ切っていく。他の夢魔たちは警戒して速度を緩める。だがブラックキャットはシャドウホークのなわばりを犯してしまったことなど、今はどうでもよかった。一刻も早く森を抜けて巨木のもとへ急がねばならないのだから。
人間たちの生きる世界に、シャドウホークが一羽、姿を現した。辺りの闇はだいぶ払われており、街灯の光や車の光がぽつぽつ表れ始めている。
「シャドウホーク、戻ってきたのね!」
黒い仮面をつけた女は、麻奈の家のベランダで夢魔を迎えた。シャドウホークの翼の傷は癒えている。シャドウホークの背に乗り、女は言った。
「怪我はもう完治したのね。さあ、夢魔の世界へ連れて行ってちょうだい。あの男が馬鹿な事をしでかす前にね!」
シャドウホークは耳障りな鳴き声を上げ、空間を渡った。ついたところは、夢魔の世界の上空。シャドウホークたちが群れをなしている。
「他の夢魔使いはいないようね。これは好都合。ほかの人間を巻き込むわけにはいかないものね。夢魔たちもその点は考えているみたいだこと」
上空のシャドウホークたちは何やら落ち着かぬ様子。女のシャドウホークも同じく。
「滅びの使者はどこにいるの?」
その質問に、他のシャドウホークたちが一斉に耳障りな声をあげて鳴いた。
「そう、あの巨木のどこかにいるわけね」
女は、仮面の隙間ごしに、巨木をにらみつけた。
「シャドウホーク、巨木に近づいてみて頂戴。何か分かるかもしれないわ」
明らかに夢魔は嫌そうだが、しぶしぶ近づいて行った。だが、巨木に近づいた途端、十体以上のナイトメアに阻まれた。シャドウホークたちは激しくギャアギャア鳴き、衝撃波を翼から放ってけん制する。
「退いて、シャドウホーク! あの巨木には、確かに滅びの使者がいるようだから、もう確認の必要はないわ!」
シャドウホークは撤収した。ナイトメアはしつこく追跡せず、あくまで巨木の周りだけを囲んでいるだけだった。
「さて、どうやって近づくべきかしら……あの数のナイトメアを相手にするのは危険だわ」
女はナイトメアの群れをにらみつけながら、考え始めた。
地上から、たくさんの夢魔の気配を感じた。見下ろすと、木々の隙間から、黒や赤の毛皮が見える。ほかの夢魔たちが地上から近づきつつあるらしい。
「彼らにはおとりになってもらおうかしら?」
女はシャドウホークに命令を出した。シャドウホークは勢いよく降下して、木々にむかって勢いよく衝撃波をいくつも飛ばす。その強風にあおられた夢魔たちが何体か、木々の上まで跳ねあげられてしまった。ナイトメアたちは二体が地上に向かって降り立ったが、残りは依然とシャドウホークをにらみつけている。いくらナイトメアが最高の夢魔であっても数の差では圧倒的にシャドウホークが有利なのだ、簡単には戦力を割けないのだろう。
「あまり優秀なおとりには、なってくれなかったかしら」
女はつぶやいた。
突然の強風に良平は吹き上げられた。レッドフェレットはすぐ体勢を立て直し、木にぶつかりそうになった良平をすばやく背中に乗せなおす。何体か、後続の夢魔が強風にあおられて木々の枝の上に飛ばされていった。
「な、何だ一体?」
(シャドウホークガ、コウゲキシテキタンダ!)
「こ、攻撃?」
強い夢魔の気配。レッドフェレットは良平にしっかりとつかまるように言い、良平がその指示に素直に従うと、レッドフェレットはスピードをあげた。あっというまに後続の夢魔たちを引き離した。だが背後を振り返ると、ナイトメアが二体、降りてきているのが見えた。
「様子見にきやがったな」
(イソガナクチャ!)
仲間が心配なのだろうが、レッドフェレットは先を急いだ。あっというまに距離が離れ、ナイトメアの姿は見えなくなった。
しばらく進んでいくと、また虹色の膜が立ちふさがった。だがその虹色の膜の向こうには、荒れ果てた土地が見えている。今までとは違う景色。この奥が、滅びの使者の住処かもしれない。良平はレッドフェレットの背中から降りると、前回のように、膜に手を触れた。
「!」
だが、膜は消えなかった。一瞬だけ膜はゆらいだが、また元通りになってしまったのだ。良平は何度も手をあてるが、揺らぐだけで、膜は消えなかった。
「き、消えない……!」
(ナ、ナンデ?)
レッドフェレットもあわてた。
レッドフェレットは結界に鼻をつけてみた。
(ダレカ、ホカノにんげんノユメガ、コノけっかいヲキョウカシテル!)
「何だって?! 俺以外にも誰かいるのかよ!」
とっさに頭に浮かんだのは、啓二だった。この夢魔の世界に連れてこられる前に、ブラックキャットは怯えながら言っていた、「滅びの使者が連れて行ってしまった」と。
「まさかあいつが……」
(コノユメノカンジハチガウ……)
レッドフェレットは鼻をフンフンさせてにおいをかいだ。
(ジャアクスギル。フツウノにんげんノユメジャナイ。モットツヨイアクムノチカラヲウケタコトノアルにんげんノユメダ。ソレニ、ココカラニオッテクルノハ、ナイトメアシカナイ)
「じゃあこの結界を強化してるのは誰なんだよ」
良平は自分で言いながらも分かっていた。この結界を強化しているのは啓二ではないと。だが、それなら誰なのかと言われると、おそらくは……。
「何者だ!」
虹色の膜の向こうから声がして、砂利を踏む足音が聞こえてきた。良平とレッドフェレットはかたくなった。
結界の向こうから姿を見せたのは、黒ずくめの服を着た男。啓二を大学の上空で落とし、殺そうとした男だった。だが白仮面は外れており、声の割に年老いた醜悪な老人の顔が見えている。だが目は異様にギラギラ光り、良平はぞっとした。これが本当に人間の顔なのかと疑ったくらいだ。
老人は良平を上から下まで値踏みするようににらみつけてきた。
「貴様ら、何者だ。なぜここにいる」
「そ、そ、そりゃこっちのセリフだ! おっさんこそ何でこんなとこにいるんだよ!」
「貴様に教える必要はない。ナイトメア!」
主の呼び声に応え、ナイトメアが悪夢の霧の中から姿を見せる。
「私はここから動くわけにはいかん。ナイトメア、奴らを追い払え」
黒馬はブルルと鼻を鳴らし、馬鹿にしたような目で良平とレッドフェレットをにらみつける。大きな馬だ。踏みつぶされたらひとたまりもない。レッドフェレットの全身の体毛が総毛だっているくらいだから。
黒馬はいなないて、襲いかかってきた。
part1へ行く■書斎へもどる