第9章 part1



 前門の虎、後門の狼。
 ナイトメアが前から迫り、良平たちの後ろ側には膜が張られて逃げ道をふさいでいる。
 レッドフェレットはとっさに脚元の土を爪で勢いよくはね上げた。土が目に入り、思わずナイトメアはひるむ。とっさに良平はレッドフェレットの背中に飛び乗り、レッドフェレットは膜に沿って飛び始める。
「追うな、ナイトメア」
 男は、怒ったナイトメアをなだめた。ナイトメアは首を振って、やっと落ち着きを取り戻した。
「奴らはここを通ることなどできん。別の道を探そうとするだろう。それに、お前にはまだやることがあるだろう? 奴らを追って消耗してはならん」
 ブルルと鼻を鳴らして、ナイトメアはしぶしぶコウモリの翼を閉じた。その通りだったからだ。

「あれ、追ってこないな」
 良平は後ろを振り返った。木々が通り過ぎていくばかりで、ナイトメアの姿は見えない。レッドフェレットはいったん止まった。
(マジ? オッテキテルトバカリオモッテタヨ)
 それから改めて周りを見回す。辺りは森の中なので、上空からの光は枝葉に阻まれてあまりとどかない。代わりに、虹色の膜の光から放たれている光が周りを照らしている。昼間と同じくらいの明るさだ。
「それにしても、なんであのオッサン、あんなとこにいたんだ?」
 夢魔の背中に乗ったまま良平はつぶやいた。
「ただの結界の強化のために呼び出されたのか?」
(タブン、ほろびのししゃト、ナニカけいやくシテタンダトオモウ)
 レッドフェレットはまた膜にそって飛び始めた。上空から騒がしいシャドウホークの鳴き声が聞こえてきたが、不思議なことに、いずれも襲ってはこなかった。
(ほろびのししゃハ、にんげんノチカラガヒツヨウダッタンダロウ。ダカラアノにんげんトけいやくシタンダナ、キット。チカラヲトリモドスタメニ……)
 赤い毛皮がブルブル震えているのを、良平は感じ取った。怯えている。
 滅びの使者を恐れている。
 良平は話題を変えた。
「で、この虹色の膜をどうやって壊せばいいんだよ? 強化されてる上に、膜の向こうにはあの変なおっさんがいるんだぜ?」
(ソレガワカレバ、クロウシナイ!)
 夢魔は牙をむいた。
 だが、両者は喧嘩を始めなかった。
 目の前の空間が青白い光を放ってゆがんだ。

 ブラックキャットは、いったん止まった。シャドウホークのはばたきに交じって、いくつもの衝撃波が後方を襲ったからだ。後ろを振り返ると、はるか後ろの、後続の夢魔たちが衝撃波に次々とはね上げられているのが見えた。そして、上から降りてくるナイトメア。この突然の出来事について、ブラックキャットには、疑問に思う時間もなかった。ナイトメアに見つかる前にと、気力を振り絞って前方に飛び出した。後続の夢魔たちのことは心配だったが、さいわいナイトメアに気づかれる前に飛び去ることが出来た。
 しばらく飛んでいると、明るい虹色の膜が見えてきた。ブラックキャットはいったん降りる。そして、その虹色の膜に鼻を押しつけてみた。
(コレハ!)
 滅びの使者が張り巡らした結界に間違いない。老いたブラックキャットから聞いてはいたが実際に見たのは初めてだ。
 夢の力を使った結界。夢魔では破ることのできない特殊な結界だ。夢の力を注ぎこまねば破れない。夢を食べてしまう夢魔では夢の力を注ぐことはできないのだ。
(ドウシヨウ……)
 啓二がいれば、この結界を破れる。夢を見ることのできる異世界の存在ならば、夢を結界に注ぎ込むことが出来るからだ。だが啓二は滅びの使者に捕らえられている。かといってブラックキャットでは結界を破ることはできない。このままここで立ち往生してしまうのだろうか。
 いきなり、結界が弱まり、消えた。ブラックキャットは仰天したが、結界が消えたのはありがたかった。疲れてはいたが、すぐに結界の向こうへ入った。この先はおそらくナイトメアの領地、どのくらいたくさんのナイトメアが待ち構えているか分からない。だが、ブラックキャットは啓二を失いたくなかった。
(!)
 ふと、ブラックキャットは止まった。前方に、青白い光の球が表れたからだ。青白い光を放つ、人間の大人の握りこぶしくらいの球体は、ブラックキャットの傍に近づいてきた。いつかブラックキャットはこの青白い光を見たことがある。眠っている啓二の体を、まるで守ろうとするかのように包みこんでいた、あの光だ。夢魔の力をはじいたその光、今回も拒絶されるかもしれない。だがブラックキャットが警戒を解くより早く、青白い光はブラックキャットの体を包み込んだ。
(おねがい……きて……)
 誰かの声がした。そしてブラックキャットの目の前は真っ白になった。

 青白い光を放っていた目の前の空間。同時に、膜がグニャリとゆがみ、人が一人腹ばいになって通れるくらいの穴が開いた。
「あ、穴が……」
 さらに、その青白い空間のゆがみの前に、夢魔が現れた。
 ブラックキャットだった。
 レッドフェレットは我に帰るやいなや、ブラックキャットを見て威嚇した。ブラックキャットは良平の姿を見とめるまでに若干の時間を要した。良平は、目の前に現れたブラックキャットが、啓二のブラックキャットだとすぐわかった。
 ブラックキャットは現状をやっと把握した。ブラックキャットは良平を見たが、何も言葉をかけず、はじかれたように飛び上がって、後ろの膜にできた穴に飛び込んだ。膜の穴は少しずつ小さくなっていく。思わず良平は怒鳴った。
「穴に飛び込むぞ!」
 良平は夢魔の背中から降りて、穴をくぐる。次にレッドフェレットがやっとのことでくぐった。後ろ脚をやっと通しおわったところで、膜の穴は一気に小さくなって消えてしまった。
「フウ、間に合った」
 ブラックキャットはどこへ行ったのだろうか。良平は周りを見てみた。さきほどの森とは全く違う景色。荒れた道があり、細い木々はどこにもない。ただ、前方にそびえたつ巨大な木だけがあった。虹色の膜の向こうに、こんな巨大な木があるなんて……。
 ブルブルとレッドフェレットは身を震わせて縮こまった。
(ココ、ナイトメアノ、スミカ……)
 わかっている。あの強い気配が上空に山ほど。あんなものが一気に襲いかかってきたら……。
「そういえば、さっきの青い光は何だろ?」
(アレハ、たましいノヒカリ。ソレモ、トンデモナクキレイナ……)
 身をふるわせた後、レッドフェレットは鼻をヒクヒクさせて辺りのにおいをかいだ。
(アノたましい……コノけっかいニアナヲアケタ。モノスゴクヨワッテタノニ……)
「なんだかわかんないが、とにかくあのブラックキャットを追うぞ!」
 嫌そうな夢魔の反応。だが良平はブラックキャットのにおいを追わせた。レッドフェレットはブラッドドッグより鼻はきかないが、ナイトメアのニオイにまじったブラックキャットのにおいは微かだが確実にかぎ分けた。ナイトメアに気づかれないようにと、ゆっくり飛んでいくレッドフェレット。ブラックキャットはいったいどのくらい先まで行ってしまったのだろうか。
 木の根元。ツルツルした幹。節穴も見当たらない。人間が登るのは無理だろう。足がかりになりそうな突き出た枝は、上部にしかない。レッドフェレットに飛んで行ってもらうしかない。
 レッドフェレットの体はブルブルと震えていたが、やがて上に向かって垂直上昇を始めた。

 シャドウホークの群れは、ナイトメアの周りを少しずつ囲みつつあった。はるか下の森からは、数体のナイトメアに襲われる夢魔たちの悲鳴が聞こえてきた。
 黒い仮面をつけた白ずくめの女は、一歩も通さぬといわんばかりのナイトメアの群れをじっと見ていた。今のところ、シャドウホークとナイトメアが戦えば、かろうじてシャドウホークが勝つだろう。数の上では、シャドウホークの方がずっと多いのだから。とはいえ、滅びの使者が清らかな魂を食らって力を完全に取り戻してしまったら、勝ち目はないだろう。一刻も早く、この場を突破してしまわなければ……。
 ナイトメアたちは、下に降りた数頭を除いて、シャドウホークの群れをにらみつけている。いずれも、巨木のてっぺんを囲むように陣形を作っている。巨木の周りは虹色の膜でおおわれている。
「あのナイトメアの群れ……一瞬でもいいから、気をそらせてしまえないものかしら。陣形を乱せば何とかなるかもしれない。いつまでもこうしているわけにはいかないの!」
 その時、虹色の膜がぐんにゃりとねじれた。ナイトメアたちは一斉に振りかえり、シャドウホークたちは一瞬あっけにとられた。ゆがむことの無い、虹色の膜。滅びの使者が張り巡らせている強力な結界が、ゆがむなんて……。
 何が起こったか分かっていない女はシャドウホークの背を叩いた。
「今よ! 突っ込んで!」
 シャドウホークは我に帰るや否や、何も考えずに指示に従った。高速でつっこんできたシャドウホークに気づくのが遅れたナイトメアたちの隙をつき、ほかのシャドウホークたちも一斉に突っ込んできた。ナイトメアはあわてた。シャドウホークの衝撃波が次々とナイトメアを襲い、あっというまにナイトメアの陣形は乱されてしまった。地上に降り立っていたナイトメアたちは、仲間の危機とあってか、すぐに戻ってきた。シャドウホークの何体かは、ナイトメアの反撃を受けて膜にたたきつけられ、体内の夢の力を吸収されて体力を急激に消耗してしまい、森の木々の上に落ちて行った。
「あれは結界! なんてことなの……」
 女は仮面の下でどんな表情をしただろうか。だがすぐに考え直し、
「シャドウホーク! 森へ急降下して!」
 急降下するシャドウホークの群れを、ナイトメアが追う。先ほどの混乱で、結界の周りを守ることを忘れてしまったようだ。シャドウホークを追い払うことしか頭にないと見える。急降下するシャドウホークたちが森の木にぶつかりそうになった時、シャドウホークたちは体を半回転させて急上昇、衝撃波をナイトメアに向けて一斉に発射した。ナイトメアたちは衝撃波にあおられ、次々に虹色の膜にぶつかって、力を吸収され、落ちていく。結界のゆがみが元通りになるころには、ナイトメアのほとんどが結界に力を吸い取られて森に落ちて行った。

 急に結界がグニャリとゆがんだ。男は、仮面の下で驚きの表情を浮かべた。
「結界がゆがんだ!? 一体何が起きたんだ!」
 傍にいるナイトメアは、落ち着きをなくした。
「落ち着くのだナイトメア! 何が起きたのだ!」
(……ダレカガ、コノけっかいニ、アナヲアケタラシイ)
「何だと!」
 男の声にうろたえが生じた。
「私が結界を強化していると言うのにか?!」
(ソウダ)
 ナイトメアは否定しない。
「い、一体誰なのだ!」
(ワカラヌ。ダガ、ソレハ、キヨラカナたましいノヒカリイガイニ、アリエナイ!)
「何だと!」
 男の声が裏返った。
「あの器か?!」
(ワカラヌ)
 そう、わからない。麻奈の魂なのか、澄子の魂なのか、このナイトメアにはわからない。清らかな魂を見分けられるのは、滅びの使者だけなのだから。
 結界のゆがみが直ると同時に、上から何か降ってきた。最初は数羽のシャドウホーク、その少し後でナイトメアがドサドサと落ちてきた。いずれも、結界に当たったことで夢の力を吸収されて消耗している。
 戦闘があったことは間違いなさそうだ。ナイトメアは小走りに仲間の元へ駆け寄った。しばらく何か会話して、主にテレパシーを送ってきた。
(あるじヨ、ドウヤラナカマタチハ、シャドウホークトタタカッタヨウダ)
「シャドウホークふぜいに苦戦したのか?」
(シャドウホークニハ、あるじガイタノダ)
「……あの女か!」
(オソラクハ。アノおんなガ、シャドウホークニ、イレヂエシタノダ。ソシテ、ナカマタチハソロッテコノアリサマダ。あるじヨ)
 ナイトメアは近づいてきた。
(ホカノむまガ、ココヘムカッテクル。ヤツラノアシドメガオワルマデ、ココニイテモライタイ。ナアニ、スグニオワル。ソレガオワッタラ、アノオカタノモトヘイク)
「いいだろう」
 たくさんの夢魔たちが、結界に向かって突き進んでいた。半分以上ナイトメアに襲われたものの、それでもひるまずに前進を続けている。ナイトメアは、彼らを一瞥すると、大きなコウモリの翼を広げるや否や、巨大な衝撃波を生み出した。シャドウホークに負けず劣らずの威力と風圧。あっというまに夢魔たちの前列が飛ばされ、後列にぶちあたる。隊列が乱れ、夢魔たちは混乱して一時停止。もみくちゃになった。ナイトメアは主に手を触れてもらい、結界の中に入り込む。夢の力を持つ人間が手を触れて守っているからこそ、ナイトメアは消耗せずに済んでいるのだ。
 ナイトメア以外の、夢魔の気配。
(ダレカガ、ハイリコンダナ!)
 ナイトメアは怒りで鼻を鳴らし、いきりたった。そして、主を背中に乗せると、すぐに飛び上がった。
 木のてっぺん、滅びの使者の住処を目指して。


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