第9章 part2



 啓二は闇の中を歩いていた。体に突き刺さるような冷たい風、どこまでいっても終わりの無い闇、自分の足音すらほとんど聞こえない静寂。時々声を出して「おおい」と呼びかけてみるが、こたえは返ってこない。誰もいないのだ。
 なぜこんなところを歩いているのだろう。この闇の出口はどこなのだろう。コートの上から忍び込んでくる寒さが、体力を徐々に奪っていく。だが、啓二はひたすら歩き続けていた。両目から涙が絶え間なく流れ、歩みは徐々に遅くなり、歩幅も小さくなってきた。とうとう啓二は立ち止まって座り込んでしまった。もう歩けなかった。
 どのくらい座って泣き続けていたのか分からなかったが、啓二は、ふと、涙でぬれた顔をあげた。はるか前方に、何か見えた。啓二は涙をぬぐってもう一度前方を見つめた。確かに何かが見えている。青白い光のようだ。何かある。正体は分からなくとも、何かがある。啓二の体に急に力がみなぎってきた気がする。彼は立ち上がり、青白い光に向かって走り出した。寒さも疲れも感じなかった。青白い光は、彼が走るにつれて、徐々に明るく大きく眩しく変わっていく。そして、啓二がやっとその光の傍に来るころには、人の頭ほどの光の球体が宙に浮いていたのだった。
 温かな光だった。啓二は手を伸ばした。すると、青白い光は自ら彼の掌に乗った。温かい。カイロのかわりに抱きしめたくなりそうだ。
「やっとここに来られたんだね」
 背後から誰かの気配がした。啓二は振りかえった。少し離れたところに、銀の髪と銀の瞳をもち、真っ蒼なローブを着た、不思議な青年が立っている。その青年を見た時、啓二は思わず声をあげた。なぜって、その不思議な青年の顔に明らかに見おぼえがあったから。
「驚いているようだね。でも僕らは初対面ではない」
 相手は言った。聞き覚えのあるような、ないような声だ。
「君は何度も夢の中に来たが、そのたびに僕は君を追い返していた。これ以上麻奈の記憶を呼び覚ましてしまうと、滅びの使者が君を狙ってくるかもしれなかったからね。まあ、結果はその通りになってしまったけれど」
 啓二の口が開きかけ、そこで止まってしまった。何をしゃべったらいいか分からない。それを察したか、相手は言った。
「僕が誰なのか、自己紹介させてもらおう。僕の名前は『井沢啓二』だ」
「えっ」
「正しくは、君の魂の一部が分離して出来た存在。君の記憶を一部預かっているよ。もちろんそれは、麻奈の記憶だけどね。そうだろう、麻奈」
 啓二の手の中におさまっている、青白い光を放つ球体がプルプルと震えている。啓二は、手の中の球体と、相手の青年を交互に見る。
「麻奈が事故死したことはもう記憶の底から引っ張り出してしまったね。麻奈の魂の半分は、そのとき滅びの使者に食われた。残った半分は必死で逃げ続けて、この体の中へたどりついたのさ。そのころの君は確かに麻奈のことは記憶していた。ちょうど葉書を一枚もらったばかりだったからね。麻奈の魂はこの体の中に逃げてくると事情を簡単に話し、隠れさせてくれるように頼んだ。そのとき、僕が生まれたんだ。滅びの使者が相手の魂に干渉できる事は麻奈の話から分かったから、このまま君が麻奈の事を覚えている限り、滅びの使者はきっと君ごと麻奈を食らいに来るだろう。君と麻奈を同時に守るには、君の、麻奈に関する記憶をすべて消すしかない。僕は君の、麻奈に関する記憶をすべて預からせてもらった。それによって君は麻奈のことを忘れ去り、滅びの使者に見つけられずに麻奈は無事に隠れ続けていたというわけだ」
 忘れさせていた……?
「できればもうしばらく忘れていてほしかったが、麻奈がどうやら君に思い出してもらいたくなったらしくて、君を何度も夢の世界に誘った。さらに悪いことに、彼女の母親が君にちょっかいを出して麻奈の記憶を呼び覚ましてしまう鍵を与えてしまった」
 母?
「気が付いていないのかい、いまだに」
 青年は肩をすくめた。
「シャドウホークに乗った、黒い仮面をつけた女だよ」
 啓二の目と口が大きく開かれた。
「あの女が何を考えてそうさせたのかはしらないが、とにかく君は麻奈について思い出してしまった。滅びの使者が君に目をつけ始めたのはそれからだ」
 青年は歩み寄ってきて、啓二の額に手を押しあてた。すると、啓二の頭の中に映像が流れ込んできた。それは、啓二の過去。麻奈と一緒に過ごした過去だった。
「もう封印しても仕方がない。残っている記憶を少しずつ君に戻すとしよう。一気に戻すとちょっと頭が混乱するから、少しずつだけど」
 啓二の手の中の球体がピョンとはね、地面で弾んだ後、形を変える。それは、啓二が夢で何度も見続けた少女「麻奈」の姿だった。
「麻奈ちゃん……」
 啓二はやっと声を絞り出した。そう、間違いない、麻奈だ。目の前に立っている、青白い光に包まれた少女は、たしかに麻奈だった。八歳の……。
 麻奈は、話しかけてきた。テレパシーで。
『けいじおにいちゃん』
 麻奈の声は、記憶にあったそれよりもう少し大人だった。八歳の少女の声だ。麻奈を見つめる啓二の両目から涙があふれてきた。
『また会えてうれしいな』
「まな、ちゃ……」
『やっとおにいちゃんが、わたしのこと呼んでくれた』
 麻奈は嬉しそうに微笑んだ。
『いっぱいお話ししたいことあるけど、それはまた今度ねっ。今は、あのおねえちゃんを守るのが先なの。けいじおにいちゃんが好きな――』
 麻奈の顔はちょっとしょんぼりし、啓二の顔は真っ赤になった。
『わたしのおにいちゃんじゃなくなっちゃったけど、いいの。麻奈は麻奈でおにいちゃんのことが好きだから』
 麻奈はフワリと浮き上がって、啓二に抱きついた。あたたかい。麻奈が光り輝いてその姿が消えた。だがその光は啓二の体を包み込んだ。
「麻奈は君の魂を守るためにほとんど力を使ってしまった。だから君の中に戻らざるを得なくなった。麻奈はもう悪夢の力から君を守れない。さあ、君も早く――」
 青年は啓二の両肩に手を置いた。そしてその銀の瞳が啓二の両目を見つめる。まるでその銀の穴の中に勢いよく吸い込まれていくような錯覚が、体を支配した。
「澄子を目覚めさせてくれ……」
 最後に、言葉が聞こえてきた。

 滅びの使者が啓二の魂をやっとのことで引き寄せた途端、その白く光る魂はすぐに啓二の体に戻ってしまった。そして、啓二は、ゆっくりと起き上がった。
(貴様!)
 滅びの使者は鼻を鳴らした。額の白い十字模様が光る。
(なぜ我が力に抗えた! 麻奈の力はとっくに――)
「そう、麻奈の力はほとんど失われてしまったよ。だから今、休んでいるんだ」
 啓二は淡々と喋り始めた。その銀の瞳を滅びの使者に向けて。
(貴様、何者だ! 井沢啓二ではないな!)
「いや僕は確かに『井沢啓二』だよ。ただ、魂が一部だけ分離して出来た存在にすぎない。この体に逃げ込んできた麻奈を匿うために、僕は生れてきたんだ」
(人間風情にそんな器用なまねができるとはな。だが、貴様を丸ごと食えば、麻奈の魂の残りも同時に食える!)
 滅びの使者が脚を振りあげると同時に、《啓二》は言った。
「澄子、目覚めてくれ」

 啓二は、またしても闇の中に取り残されていた。さっき、あの銀の瞳の《自分》の中に吸い込まれたと思ったのに……。
 だが闇はすぐ弱まってきた。そして、人の姿が見えてきた。青白い光がその人物の周りを包み込んで照らしているからだ。
「澄子!」
 そう、離れたところにぽつんと立っているのは、澄子だった。パジャマ姿のまま、啓二に背を向けていた。澄子は、啓二の声を聞いたのか、振りかえった。その顔は青ざめ、やつれている。
「澄子!」
 啓二は彼女の傍に駆け寄った。
「い、井沢くん……?」
 怯えたような澄子の目が、啓二を正面から見た。
「井沢くん!」
 澄子は啓二に抱きついた。コートごしに伝わってくる彼女の体は、冷たい。震えている澄子。啓二は澄子をそっと抱き返していた。
「大丈夫、もう大丈夫だから」
 澄子はいつの間にか泣いていた。そして、
「うん」
 小さくうなずいて、啓二の顔を正面から見つめた。澄子の体から放たれる青白い光が、一層強く明るくなった。
「あの子の、言ったとおりだった」
「えっ」
「さっき消えちゃったけど、女の子が来たの。井沢君がもうじき来てくれるから頑張って、って……」
 麻奈のことだろう。啓二の胸が熱くなり、痛くなった。
(麻奈ちゃん……)
 啓二が「ここ」に来るまで、麻奈は力を振り絞って澄子を元気づけていたのだ。
 澄子は微笑んだ。
「井沢君、ありがとう……」
 辺りは、真っ白な光で包まれていった。

 滅びの使者が脚を振りおろした途端、《啓二》の体を青白い明るい光が包み、脚をはじき返した。
「悪夢の闇から目覚めてくれたね、澄子」
 そう、澄子はやっと目覚めることが出来たのだ。澄子は目を開け、起き上がる。彼女の体は青白い光に包まれ、輝いている。
(魂を完全に目覚めさせてしまったか)
 滅びの使者はいらだたしげに鬣をふるった。《啓二》は澄子の傍に歩み寄り、手をとって立たせてやる。澄子は、自分が今どこにいるかという不安よりも啓二が傍にいることの安堵のほうが大きかった。ぐっと彼の手を握ったのだから。
「あの馬……!」
 澄子は《啓二》に体を寄せた。怯えている。
 滅びの使者は、悪夢の霧を身の周りにまとっているおかげもあり、怒りでひとまわり大きく見えた。翼を大きく広げて、今にもとびかかろうとしているかのようだ。
(貴様ら……!)
 体から勢いよく悪夢の霧が噴出してきた。霧は瞬く間に周りを暗く覆い隠してしまう。
「大丈夫だよ、澄子」
 啓二は、言った。その黒い瞳を、澄子に向けて。同時に、彼らの体から放たれる青白い光が強くなり、衝撃波となって悪夢を簡単に吹き飛ばしてしまった。衝撃波が滅びの使者を直撃すると、黒い馬は痛みで悲鳴を上げた。

 大きく虹色の結界がゆがみ、大きな穴が開いた。
「穴が開いた!」
 シャドウホークの背に乗った女は、夢魔に指示した。
「さあ、早く飛びこんで、気のてっぺんを目指して飛びなさい!」
 夢魔はためらいを見せたが、飛び込んだ。ほかのシャドウホークたちも、地上の夢魔たちもこれ幸いと飛び込んだ。ナイトメアたちは自分たちの支配者に何か起こったと悟った。滅びの使者の住処へ決して進ませまいと、結界の向こう側に飛び込んだ夢魔たちを攻撃しはじめた。
 ナイトメアたちの執拗な攻撃を逃れた夢魔たちは木を垂直に登っていき、滅びの使者の住処を目指した。一刻も早く、滅びの使者の力を弱めなければならない。ナイトメアによる夢魔たちの大虐殺が行われる前に!


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