最終章 part1



 馬の鳴き声が、後ろから聞こえてきた。
「やべえ! 追ってきた!」
 レッドフェレットの毛皮にしっかりしがみつきながら、良平は、後ろから追ってくるナイトメアを見て、裏返った声をあげた。
「もっと速く飛べよお!」
 だが、夢魔の返答は、
(コレイジョウハ、モウムリダ! ゲンカイダ!)
 レッドフェレットの言葉通りだった。レッドフェレットの息が切れてきている。レッドフェレット自身の限界が近いのだ。ナイトメアとの距離は徐々に縮まってくる。この巨大な木のてっぺんはまだ見えてこない。だが、その前にレッドフェレットの体力が尽きてしまうかもしれない。そうなれば、ナイトメアに追いつかれてしまう。
「逃すものか!」
 ナイトメアに乗った男は、しわがれた声をあげ、良平に向かって手を伸ばしてくる。今はまだ届かない距離にいるのが幸いだが、すぐにナイトメアが追いつけば、良平はレッドフェレットの背中から引きずりおろされてしまうだろう。
 不意に、木のてっぺんが青白く光り輝いた。
(ナ、ナンダ?!)
 突然のことに、レッドフェレットも、ナイトメアも、止まってしまった。
 光は辺りを青白く照らし出した。同時に、馬の鳴き声が、しかも耳をふさぎたくなるような悲痛なものが、辺りに響き渡った。
(!)
 ナイトメアが反応し、木の幹を蹴った。
「ナイトメア、どうした!」
 男の声にも耳を貸さず、ナイトメアはレッドフェレットを飛び越し、てっぺんを目指した。滅びの使者に何か起こった。ナイトメアにわかるのはそれだけだった。
(アノオカタガ! イソガネバ!)

 ブラックキャットは、木のてっぺんをめざして垂直に幹を駆けのぼっているところだった。さいわい、ナイトメアたちは誰も追ってこない。ほかの夢魔たちを追い払うのに忙しいのだ。一刻も早く啓二のもとへ向かわねばならない、それだけが、疲れているブラックキャットをつきうごかしていた。滅びの使者が啓二に何かしたことは明白だ、絆が一瞬断ち切られてしまったのだから。だが不思議なことに、その、切られたはずの絆はまた元通りにつながった。夢魔と夢魔使いの契約が断ち切られると、二度と元には戻らないのに。
 後少しで木のてっぺんにたどりつけるところで、急にてっぺんから青白い光が放たれた。ブラックキャットは思わず、ニャッと驚きの声をあげて棒立ちになった。
(キレイナ、たましいノヒカリ……)
 この、年若いブラックキャットが知る中では、もっとも美しい魂の輝きだった。続いて、耳をつんざくような、馬の鳴き声。ブラックキャットの目が大きく見開かれた。あの声は間違いない、滅びの使者だ! やはりあの木のてっぺんにいるのだ。
 だが、あの悲鳴はいったい……。
 とにかくブラックキャットは飛んだ。行ってみないことには、木のてっぺんがどうなっているかなどわからないのだから。ひとっとびでてっぺんの部分にかじりついたブラックキャットは、残った体力を振り絞って、青白い光の放たれているこの場所に何とか乗った。
(アッ)
 ブラックキャットの視界に最初に飛び込んだものは、悪夢の霧をことごとく払われて弱り切った滅びの使者と、その奥に見える青白い光だけだった。だがその青白くて眩しい光の中央に立つ二人の人間の姿をかろうじて見ることは出来た。その一人は啓二だった。もうひとりは誰なのだろうか。誰かはわからなかったが、啓二が傍に立っているその人物からは眩しい青白い光が放たれていた。その人間こそが、清らかな魂の持ち主だ。滅びの使者をはねかえせるほどの強い力が、あたりに満ち溢れている。
 ブラックキャットは、滅びの使者がやっとのことで体を起こすのを見た。悪夢の霧はことごとく魂の光で浄化されていき、滅びの使者をさらに弱らせていく。それでも、滅びの使者の放つ邪悪な霧は、ブラックキャットを総毛立たせるほど恐ろしいものだった。まだ、滅びの使者には力が残されているのだ。
 ブラックキャットの向かいから、一人の人間を乗せたナイトメアが飛び出した。あの、不気味な白い仮面をつけた人間が背中に乗っている。君主の姿を見たナイトメアは、主がとめるのも聞かないで、飛び出した。男は振り落とされかけたが、なんとか体勢を立て直した。
 やっと立ち上がった滅びの使者は、先ほどのような威圧感などすっかり失われてしまった。肉体はガリガリにやせ細り、隣に立つナイトメアのほうが屈強に見えたほどだ。
(貴様……)
滅びの使者の、額の十字模様が光る。角の先に黒い光が生まれ出る。同時に、隣に立つナイトメアから勢いよく悪夢の霧が吹きあがり、滅びの使者の体を包み込む。ナイトメアは急速に弱って倒れ、その体は悪夢の霧の塊となり、消えてしまった。
「何をするんだ、滅びの使者!」
 仮面が外れ、醜悪な老人の顔が下から現れた。滅びの使者はたけり狂って、
(あの清らかな魂を得るための力を吸い上げただけのこと!)
 いなないた。
(あの魂を食らうには、《麻奈》の魂の残りを食らわねばならん。だが、もう躊躇はしておれん!)
「ま、麻奈の魂を、喰うだと……!?」
 男は狼狽した。
 黒馬の全身から、また悪夢の霧を勢いよく噴出した。今度の霧はさらにどす黒い。悪夢の塊だ。ブラックキャットは全身を震わせた。あれに当たれば、自分は失神ではすまないだろう。その悪夢の塊は、青白い光に向かって飛んでいく。
「大丈夫だよ」
 啓二の声が聞こえた。同時に青白い光は一層強くなり、悪夢の塊を完全に弾き返してしまった。
 ブラックキャットは、後ろを振り返った。後ろには、結界を通り抜けて入ってきたと思われる、シャドウホークの群れがあった。さらにその後ろには、結界を通り抜けたシャドウホークの群れを追いかけてきたナイトメアの群れが見える。
 ギュエエエエエ!
 耳障りな金切り声。シャドウホークの鳴き声だ。こちらへ突っ込んでくるのが一羽。その背中に誰かを載せている。顔に黒い仮面をつけた不気味な女だ! 別の意味でブラックキャットの全身の毛が逆立った。

 シャドウホークの金切り声が上空からふってきて、レッドフェレットと良平はやっと我にかえることが出来た。上を見ると、シャドウホークが次々と、青白い光を放つこの木のてっぺんにむかって次々と飛び込んでいくのが見えた。
「な、何だあれ……」
 茫然。
(シラナイ……)
 だがレッドフェレットは、鼻をひくひくさせていた。なにかのにおいをかぎ取ろうとしているかのようにも見える。良平はレッドフェレットの鼻だけでなく、全身までもがぴくぴく動いているのを感じ取った。何か感じ取っている。そして、それは当たっていた。
(ウエニ、ナニカアル!)
 レッドフェレットは、清らかな魂の存在を感じ取っていた。そして、レッドフェレットはその光の元を確かめるべく、さきほどまでの疲れはどこに行ったのやら、また猛烈な勢いで上昇を始めた。そのとき良平は視界の端で、ほかの大勢の夢魔がこの木にむかって次々と押し寄せて行くのを追い返そうと攻撃するナイトメアの群れを、見た。
「なんだ、あれ……?」
 夢魔たちは、攻撃されながらも、懸命に木を上ってくる。一体なぜだろう。答えを出す暇なく、レッドフェレットは木のてっぺんにようやっと辿り着いた。
 今度は、良平は辺りの眩しさに茫然とした。だがその周りにある夢魔の気配の中に、ひときわ邪悪なものが混じっているのを感じ取った。だがそれは眩しさの原因となる場所からではなくその近くから発されていた。
 巨大な、白い十字模様を持つナイトメア。滅びの使者だ。
 その姿を見るなり、レッドフェレットの全身の毛がいっきに逆立っただけでなく、体もプルプル震え始めた。怖がっている。
 良平は、滅びの使者の隣で、眩しく輝くものを見つめた。眩しかったその光だが、その光の中に誰か人間が立っているのがわかった。二人。ひとりは啓二、もう一人は誰だろうか。
「大丈夫だよ」
 啓二の声が聞こえた。すると、青白い光が一層強くなった。
 上空から聞こえる、耳障りな鳥の鳴き声。見上げると、シャドウホークの群れがこの場所の上空をとりかこみつつあるところだった。

 澄子は、啓二の手を握っていた。啓二も澄子の手を握り返していた。
 夢に何度も姿を現した、不気味な黒い馬が、二人の前にいる。あきらかに、この黒馬は二人に対し敵意を抱いている。
 黒馬が全身から真っ黒な霧をふきだし、いなないて前足を振りあげる。
「大丈夫だよ」
 啓二の声がした。彼の言葉を裏付けるかのように、馬の蹄は彼らの体に当たる直前、青白い光にはばまれ、弾き返された。何かが蒸発するような音が聞こえたが、それは周囲の黒い霧が青白い光で中和されている音だった。そしてその音が聞こえるたびに、黒馬は悲痛な鳴き声を上げた。
(貴様ら!)
 冷たい声が澄子の心の中に響いた。馬の声?!
(我が力を、ことごとく浄化するとは!)
 憤怒。
「滅びの使者!」
 どこからか声がした。弱った老人のような声だ。
「麻奈の、麻奈の魂を食うとはどういう意味だ! お前は、麻奈を蘇生させると言い、契約を結んだではないか!」
 その老人の声に対して、黒馬はあざけるように鬣をふるった。
(愚か者めが! 貴様の執着する麻奈は、魂を宿しなおしたとしても、蘇生はせぬわ!)
「で、では、私をだましたのか……!」
 男の狼狽の声に応えるように、上から声が降ってきた。
「そうではないわ。あなたが勝手に勘違いしただけよ」
 上空から、シャドウホークが一羽降りてきた。が、着地はしない。その背中に乗っている人物だけが降りてきた。黒い仮面をつけた女。滅びの使者はその女に目を向けもしない。女は言った。
「滅びの使者がほしかったのは、大量の悪夢を集めてこられる手足。そのためにあなたをこきつかっただけのことよ。そのうち悪夢以外に、清らかな魂を持つ彼女と、麻奈の魂の半分を宿している彼に目をつけた。清らかな魂の力は悪夢を大量に摂取するよりも遥かにまさっている。魂ひとつで滅びの使者の力は元通りになると言っても過言ではない」
(そのとおり。はなから、麻奈の蘇生など我が眼中にあらず! 年月を経た人間のむくろを蘇生させることなど、我には出来ぬわ。ましてや貴様と契約を結んでもおらぬ! ナイトメアと同じやり方では、契約とは呼べぬ)
 男は、地面にへたり込み、滅びの使者を呆けた顔で見つめた。黒馬は男にはもう目もくれなかった。
(女、貴様の目的は何だ)
「その男の馬鹿げた望みを止めに来ただけよ」
 女はそれだけ言って、二人を指差した。
「麻奈は蘇生しない、それをこの男に理解させられたらもう十分。目的は果たしたも同然。あの二人の事は関係ないわ、遠慮なく喰い殺しなさいな」
 啓二が、澄子の手をより強く握った。
 黒馬はブルルと鼻を鳴らした。そして、
(よかろう。まずは――)
 ブワッと勢いよく噴射した黒い霧が、男と女を一瞬にして包み込んだ。霧が晴れた時、二人の体はなく、ただ、服のみがあった。
 滅びの使者の体が、どくんと大きく脈打った。
(我が養分となるがよい)
 シャドウホークの群れは泣き叫んだ。おそらくあの女と契約していたであろうシャドウホークが飛びかかったが、滅びの使者が黒い霧を吹き付けた途端に、身もだえして墜落した。
 澄子は思わず叫んだ。ブラックキャットとレッドフェレットは全身の毛をこれでもかと逆立てて恐怖に体を震わせ、良平は思わず「ひっ」と声を出す。麻奈が泣きだした。だがその中で、啓二だけが滅びの使者を瞬き一つなく見つめている。
(ふん、さほど美味くもない。だが、力は回復した)
 滅びの使者は、いきおいよく前足を振りあげた。だがそのとき、無数の夢魔たちが、木のてっぺんにやっと辿り着いた。その数は、木に到着した時と比べると半分にまで減ってしまっている。ナイトメアの頭数も減っている。人海戦術により、夢魔の頂点に立つナイトメアもやられてしまったのだ。
(ふん、雑魚が集まってきたか)
 集まってくる夢魔たちだが、円を囲んでいる。滅びの使者のもとへは近づけないのかもしれない。皆、体がピリピリしているのだ。この隙に、ナイトメアたちは、君主のもとへ集まった。
 黒馬の群れから一斉に悪夢の霧が噴出してくる。周りを黒い霧が覆い隠し、ほかの夢魔たちの姿も隠れる。澄子から放たれる青白い光が、霧に覆われはじめる。
「大丈夫だよ」
 啓二は、澄子に力強く言った。澄子は、啓二の顔を正面から見つめた。その啓二の顔には恐れも迷いも何もない。
「大丈夫、僕を信じて」
(信じるだと? 笑わせる)
 滅びの使者が、鼻を鳴らした。ブラックキャットもレッドフェレットも、ほか大勢の夢魔たちも、怯えている。目の前には、清らかな魂を持つ人間がいる。その魂を食らえば、滅びの使者の力は完全に戻ってしまう。それを何とか阻止しなければならないのに……。
 啓二だけは、怯えていなかった。
「お前はもうわかっているはずだ、澄子を一撃で倒す力などないことを」
 滅びの使者の目が細められた。
「それがわかっているからこそ、今、魂の力を弱らせるという回りくどいことをしている。そうでなければとても太刀打ちできないからだ」
 澄子の手を握ったまま、啓二が一歩踏み出す。すると、なぜかナイトメアたちが噴出している悪夢の霧は弱まった。ナイトメアたちが怯えたのだ。滅びの使者はそれに構わず、
(それがどうした! この場で貴様らを食らえば済む話!)
 ナイトメアの群れを飛び越え、啓二の体に直接蹄を振りおろしてきた。だが啓二の体に蹄が触れそうになった途端、青白い光が啓二の体も覆って、蹄をはじき返した。同時に青白い光は直線のように延び、滅びの使者の体を刺し貫いた。
 辺りに悲鳴が響き渡った。
 澄子の魂は、啓二を守っている。啓二を心から信頼している。だからこそ守っている。清らかな魂の光によって体を貫かれた滅びの使者は、悲鳴を上げた。先ほどよりも遥かにおぞましい、断末魔の悲鳴。滅びの使者の体から、霧がたちのぼっては消えていく。今まで吸い上げてきた悪夢の力だ。その中で、ふた筋の、灰色の光の塊が飛び出した。その魂は、地面に落ちている服の中に飛びこむ。すると、白い光が服を包み込み、それが消えると、その服の主たちが座っていた。
 滅びの使者は、倒れた。


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