最終章 part2



 滅びの使者は倒れたが、最後の力を振り絞って、ナイトメアを除いてこの場にいる皆をこの《住処》の外へと弾き飛ばしてしまった。皆が気が付いた時には、結界の外だった。穴のあいた結界はぐねぐねと嫌なうねりを見せながら、穴を修復していった。ナイトメアたちが力を貸しているのだろう。薄い結界は、その虹色を濃くしたり薄くしたりしながら、やがてしっかりとした悪夢の結界を作り上げた。
 とうぶん、滅びの使者は動けないだろう。残された力を使い果たしたのだから。
(オワッタノカナ)
 ブラックキャットは、啓二の傍に歩み寄った。
 澄子の体から放たれる青白い光はほとんど消えていた。そして彼に体を預けて、すやすやと寝息を立てている。
(たましいノちからヲツカッタンダネ。ダカラツカレチャッテルンダネ)
 ブラックキャットは啓二の頬に自分の顔をすりよせる。啓二はくたびれていたが、夢魔の毛むくじゃらの頬に自分の手を当ててなでた。
「終わったのか……」
 レッドフェレットの背中に乗ったまま、良平はぐったりしている。良平自身の緊張の糸が切れたのだ。
(デモ、コレナラ、トウブンハダイジョウブ)
 レッドフェレットはぶるっと身震いした。毛の先から、小さな悪夢の霧が落ちる。
(ちからヲホシガリスギテ、ジメツシチマッタンダヨ)
 その時、座り込んだままぐったりとしていた二人が起き上がった。二人とも、仮面の下から現れた素顔は、醜い老人そのもの。男は異常にしわがより、女は男と同様、しわが深く顔に刻まれている。しわがなければ相当の美人だったろう。
「き、貴様……」
 男は女を見て驚愕した。おそらくその顔を見て。
「ふふ、そうよ。驚いた」
 震えた声で女は言った。
「シャドウホークとの契約が解除された。そのために、今まで封印してきた時間がいっきにおしよせてしまったの。だからこんなに老けてしまった。麻奈を諦めないあなたに、死んでしまった麻奈を諦めさせるため。いいえ、もっと直接的に言えば、あなたを滅びの使者に食わせるために、シャドウホークに時間を渡したのよ。私があなたより先に死なないようにね。そしてあなたも同じように、急激に老けてしまった。おそらく、滅びの使者に時間を渡していたのね」
 女の、しわがれた声に力が籠ってきた。
「でも契約していたシャドウホークは滅びの使者に取り込まれ、養分の一部となってしまったわ。だから契約は解除されてしまったのよ!」
「滅びの使者に食わせる、だと?」
 男は女につかみかかった。
「何故だ! なぜ私を殺させようとするのだ!」
「私はあなたを愛していた。でも、あなたは麻奈しか見なかった。だからあなたがとても憎かった。でも滅びの使者に食わせれば、さすがのあなたも、滅びの使者の中に眠る麻奈の魂に触れることが出来るでしょうから! これが私からのせめてもの思いやりよ!」
 女が、人とは思えぬほどの怪力でもって、男を押し返す。
(やめて!)
 啓二の体から青白い一筋の光が飛び出した。それは、あらそう二人の間を飛び回り、やがて人の形をなした。青白く光るその人の姿を見て、男は叫んだ。
「麻奈!」
 そして抱きしめようとする。
「麻奈、生き返ってくれたんだね!」
 すぐ抱きしめようとするが、その手は麻奈をすり抜けた。男はバランスを崩して倒れた。
(おとうさん、ごめんなさい。麻奈は、生き返ってないの)
 麻奈は言った。
(おとうさんは麻奈を好きだって言ってくれた。でも、それがすごく嫌だったの。おとうさん、麻奈を人形みたいに扱ってる気がしたから)
「な、何を言うんだね、麻奈。私は――」
「そうよ、あなたは娘を、めでる人形として、愛してきただけよ」
 女は言った。
「麻奈はもうあなたの傍にはいない。いいかげん現実を見て頂戴!」
「うるさい!」
 男は再び麻奈を抱きしめようとしたが、その手はやはり青白い体をすりぬけてしまった。何度も何度も試す。だがそのたびに麻奈は悲しげな顔をし、男の手は麻奈をつかむことはなかった。男はやがてくずおれ、泣きだした。

 眠った澄子を背中に乗せたブラックキャットは、店の二階にある彼女の部屋に、壁を通り抜けて入った。そして、澄子をベッドになんとか横たえてふとんをかけた。魂を目覚めさせた澄子の体力は大幅に消耗していたため、少々のことでは起きないほど深く眠っていた。
 啓二はブラックキャットが戻ってくると、レッドフェレットと良平が何やら言い争いをしているのをしり目に、ブラックキャットの背中に乗る。
「さあ、帰ろう」
 夢魔はすなおに飛び立った。
 良平とレッドフェレットはそれに気が付いて、追いかけた。
「どこ行くんだよ」
「家に帰るんです、もう疲れてしまって……」
 公園の大時計は夜中の三時を指していた。
「今日は済みませんでした、いろいろ巻き込んでしまって」
「いや、俺の方が――」
 啓二はあくびしていた。
「あ、すみません、眠くて……」
「そ、そうかよ。じゃあもう寝た方がいいよな」
「そうですね。じゃあ、さようなら」
 そっけない挨拶の後、ブラックキャットは飛んで行った。あとに残されたレッドフェレットと良平もまた、言い争いをやめて、寝床へ帰ることにしたのだった。
 今日は、疲れてしまった。

 祝日の次が土日、啓二はたっぷりと、土曜の昼過ぎまで眠り続けていた。深い眠りの中で、麻奈は力を回復したらしく、夢の中で啓二と一緒にたくさんの話をしたがった。疲れているはずなのに、夢の世界だからか、啓二は遠慮なく麻奈の長話に付き合った。
 月曜日、啓二は大学へ行った。
(澄子は大丈夫なんだろうか)
 ふっと澄子の顔が頭の中に浮かんできた。講義室に入り、階段状の席のひとつに座り、テキストとノートを取り出す。
「井沢君」
 恥ずかしそうな声が傍から聞こえ、啓二は横を向いた。そこには、澄子が頬をピンクに染めて立っていた。
「おはよ……」
「あ、うん……」
 澄子は啓二の隣に座る。だがテキストはださないまま。
「先週、ね。不思議な夢を見たの」
 澄子はぽつりと話し始めた。
「暗闇の中にいるんだけど、井沢君が助けに来てくれる夢。何度も夢に出てきた大きな黒い馬が襲ってくるんだけど、井沢君がそのたびに私を励ましてくれた。嬉しかった。で、目が覚めたら布団の中だったの。ちょっと残念だったなあ」
 澄子の声はだんだん小さくなる。啓二は話を聞きながら、あの滅びの使者の住処で起こったことを澄子がすべて夢だと思っているのだと考えた。
「でも、あの時の啓二君は、かっこよかった」
「え?」
 聞き返そうとすると、講義開始のチャイムが鳴った。講義が終わると、澄子は荷物を片づけながら言った。
「井沢君、今夜十時くらいに、うちに来てほしいの。あの大きな黒猫と一緒に」
「えっ」
 啓二が聞き返す間もなく、澄子は教室を出て行った。
(黒猫って、ブラックキャットのことだよな。だったら、澄子は夢魔の存在を知ってる……?)
 夢魔の滅びの使者を夢に見たくらいだ、ブラックキャットを見ることもできたかもしれない。
 啓二は夜十時、ブラックキャットの背中に乗って、澄子の自宅へ飛んだ。
「澄子にはブラックキャットが見えたみたいなんだ。でも澄子は夢魔使いじゃないんだろ?」
(ほろびのししゃガミエルンダモノ、ボクガミエテモ、オカシクナイトオモウヨ。たましいガキヨラカスギテむまガセッショクシナイダケデ、ジツハケッコウそしつヲモッテルンジャナイカナ)
 ブラックキャットは言った。そして澄子の家の二階に着くと、啓二は窓をノックした。冷たいガラスの向こうにはピンクのカーテン。そのカーテンが開いて、防寒着に身を包んだ澄子が顔を出した。窓を開けようとする澄子だが、首を振って啓二は止めさせる。ブラックキャットは壁をすり抜けて中に入った。澄子は思わず「きゃっ」と驚きの声をあげた。
「大丈夫だよ、壁をすり抜ける力だから」
 床に降りたブラックキャットはしげしげと澄子を見つめた。金色の真ん丸な目に、澄子も引き付けられたのか、見つめ返した。
「大丈夫だよ、澄子」
 啓二は澄子を自分の後ろに座らせる。人間を二人も乗せて、ブラックキャットは重そうだったが何とか飛び上がった。壁を抜けると外の冷たい風が顔に吹き付けてくる。
「ブラックキャット、ゆっくりと飛んでくれ」
 ブラックキャットは、よっこらしょと少しずつ上昇を始める。少しずつ町の景色が遠ざかり、辺りは月の光が照らしているだけとなってきた。寒さも増してくる。防寒着の上からじわじわと忍び寄ってくる。
 ふいに、澄子の腕が、啓二の体をぎゅっと抱きしめた。怖いのだろうか。
「……くん?」
「え? なに?」
 啓二は何か言われた気がして聞き返す。
「啓二君て言ったの!」
 澄子は叫ぶように言った。途端に、思わず振り返った啓二の体が熱くなった。
 ブラックキャットは少しずつ降下し始めた。もう寒いのだ。
 澄子は、真っ赤になった啓二の体をぎゅっと抱きしめて、しがみついていた。防寒着ごしなのに、彼女の体はとても暖かいものだった。
「啓二君て、あったかいね……」
「澄子だって、とてもあったかいよ……」
 二人の上から、こなゆきがしんしんと降り始めていた。

 夢魔の世界にいっときの平和が訪れた。滅びの使者はまた力を失い、ナイトメアたちの勢力も衰えている。いつかはまた滅びの使者が力を得るだろうが、それはまだ先の話だ。夢魔たちはいつもの生活に戻っていた。
「気が済むまでここにいるわ」
 女は言った。
「誰の気が済むまでなのだ?」
 男は、蛍光ピンクの草が生える草むらに横たわっていた。その顔はさらに老化が進み、八十近い老人の顔となっていた。女の顔も同じく。
「あなたの気が済むまで。もしかすると、永遠にここにいることになるかもしれないけど」
「……」
 男は、しょぼしょぼの目をまたたかせ、小さく言った。
「百合子……麻奈は、本当にもう戻らないのか?」
「ええ。それに、娘の魂は、彼の中にいることを選択した。あの子は自らの死をちゃんと受け入れている。親のあなたが未練を抱いてどうするの。あなたが麻奈を諦めるまで、私はここにいるわ」
 女は隣に腰かけた。
 男は、深くため息をついた。
「好きにするがいいさ。だが私の思いは変わらぬ。また滅びの使者が力を取り戻すその日まで、ここで待ち続けるとも」
「そのころには、もうあなたも私も死んでいるわね……ふふ。夫婦そろって仲良くこの夢魔の土地で果てるのも、なかなかロマンチックよねえ。あの頃のように……」
「……」
 男はため息をつき、目を閉じた。

 良平はいつも通り、くるくると働いていた。開店から数時間、ランチタイムになると大勢のサラリーマンがおしかけてくる。昼の二時頃になれば客はほとんどいなくなるのが救いだ。そこでやっとひといきつけるのだ。
 客がほとんどいなくなったころ、引き戸がガララと開いて、誰かが入ってきた。良平は急いで出迎える。
「はい、いらっしゃい――」
 入口に立っている二人を見て、良平はちょっとだけ言葉をとぎらせる。だがすぐ笑って、
「二名様ご案内いー」
 啓二と澄子は、手をつないだまま、店に入って行った。



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ご愛読ありがとうございました。
この小説は、とある掲示板にて連載させていただいたものを
このサイト向けに、もう一度書きなおしたものです。
あの時は設定が違っており、カーチェイスシーンもありましたが、
啓二の設定をやりなおすことによってそれはナシとなりました。
一次創作の長編小説をこちらで連載するのは初めてのことなので、
あのときは中途半端だったキャラ設定を完全に固めるのに時間をかけました。
つたないものでしたが、楽しんでいただけたならば幸いです。
連載期間:2010年1月〜2010年12月

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