第1章 part2
野生動物保護警備隊。通称自然保護警備隊。自然保護法が施行されてからすぐに設立された隊。本来ならば、動物や植物を狩るハンターを取り締まるだけだったのだが、治安の悪化した現在は警察と同じく犯罪者を取り締まる権限を与えられている。動物たちを保護している自然保護区を見回るだけだったのが、今では警察と一緒になって町も見回るようになった。
野生動物保護警備隊の基地は、世界中どこにでも建っている。長方形のシンプルな建物で、煙突のように長い塔の上部にはひし形のマークが取り付けられている。それが野生動物保護警備隊を表しているらしいが、確かな事は分からない。
基地の隊員たちをまとめる隊長階級およびその上層部の者たちは、一年前にすっかり変わった。これまで六十歳を過ぎていた老人たちばかりだったのだが、今は打って変わって二十代半ばから三十代半ばの若者たちがその地位についている。だがいずれも隊員から昇格したのではなかった。老人たちと同じ特権階級の者たちであり、一般市民出身の隊員たちをはなから小ばかにしていた。一方で隊員たちも彼らに対する不満がつのりつつあった。隊員たちは、威張り散らすだけの隊長たちに表立って悪口を言うことは無かったが、裏側では何とか彼らを辞めさせることはできないだろうかと密かに機会を待っているのであった。
また、別の方向からも隊員たちは不満を募らせていた。二年ほど前から急激に治安が悪化し、警察だけでは手に負えないからと、野生動物保護警備隊に犯罪者を逮捕できる権限が与えられ、警察と同じように町をパトロールすることを義務付けられた。だが、自然保護区をパトロールする隊員が減ったことでハンターたちの活動がより活発になり、盗まれる動物たちの数は倍以上に増えてしまった。新聞やラジオはこの件を取り上げて基地や隊員を叩き、それによってストレスをためすぎた隊員の除隊が増えてきた。年に一度入隊試験を課して町から人を集めて合格させても、除隊する人数のほうが上回っている。入隊試験自体が難しいのと、マスコミの叩きによって受験者が激減したのが原因だ。隊員が減れば、必然的にパトロールに割く人数が少なくなるだけでなく、少ない人数で見回る範囲が大幅に増えてしまう。現在、隊員の全てが一日をパトロールして過ごしている。町と自然保護区の両方を見回らねばならない。自然保護区も広いが、町はその数十倍も広い。なかなか治安が元通りに回復しきらないために警察もストレスをためているが、より広範囲を歩き回る隊員たちのほうが更にストレスをためている。ひったくりなどの小さな事件があっても出動し、それが解決できなければマスコミが一斉に「見回るだけの役立たず」のレッテル貼りをするからだ。そのうち除隊だけでなく基地内での自殺者も現れたが、変わらずマスコミは冷ややかな記事を載せるばかりで、基地の隊長や上層部は誰一人として記者会見を開かず隊員たちをかばおうともしなかった。
そして夏の始まりに新聞に掲載された記事によって、野生動物保護官たちが一斉に動き始めるのである。
「……まあ、これでいいだろう。この記事を六番の地区にわたしておいてくれる?」
「かしこまりました」
両側を高い書類棚に挟まれた狭い部屋。天井から綺麗な光が降り注いで部屋の中を照らしている。デスクの上に山ほど上等の紙を散らかした状態で、彼は傍のメイドに紙を何枚か手渡した。桃色の髪をしたメイドは紙を受け取ると、一礼して急ぎ足で部屋を出て行った。
「ふあーあ。今日の分はこれで終わり、のはず」
綺麗なクッションの椅子に座っているアレックスは、大あくびをして背伸びした。
この三月に二十歳の誕生日を迎えたばかり。短く切った綺麗な黒髪と同じく黒い瞳を持つ、ごく普通の青年だ。見たことのない素材で作られた黒っぽい上着とズボン、綺麗にアイロンのかけられた白いシャツ、上着と同じく黒い靴を履いている。背はこの年代の成人男性にしては高めの百六十センチ、体つきはひょろりとしておらず肉付きはいいが、決して太っていない。
アレックスが背伸びを終えると、部屋のドアが開けられて、先ほどのメイドが入ってきた。
「記事の件、完了いたしました」
「ありがとう、セイレン」
そこまで言ったアレックスの腹が、ぐうと大きな音を立てて鳴った。彼は思わず赤面して腹を押さえたが、メイドの表情は変わらないまま。
「お食事の準備が整っております。どうぞお部屋へ」
メイドの後について部屋を出て、廊下を進む。豪華な赤いじゅうたんが敷かれ、廊下の壁には綺麗な照明がいくつも等間隔で設置されている。綺麗なオレンジの光が廊下を照らしている。
彼の部屋は廊下の突き当たりにあった。こじんまりとした部屋だが、特権階級の者しか見ることの出来ないような上等の素材をふんだんに使った家具が置かれている。天蓋つきのベッド、木製の机と洋服タンス、床に敷かれた綺麗なじゅうたん、柱時計。木材をふんだんに使用した柱時計の大きな針は、午後九時半を指している。
アレックスがトイレに行っている間に、彼専属のメイドのセイレンは木製の机の上にてきぱきと食事を並べていく。食事の皿の内容は栄養剤ではない。ホカホカと湯気を立てているそれは、自然保護法で禁止された、穀物や野菜や魚を使ったものだ。これらは自然保護法施行前にはそれぞれ「スープ」「サラダ」「ムニエル」と呼ばれていた。
用を足したアレックスは席に着き、「いただきます」と両手を合わせて祈るようなしぐさをしてから、目の前に並べられたものに手をつけた。
食後、風呂に入る。よく磨かれた綺麗なバスタブは一般市民の家にはない。特権階級の者もこれほど見事なバスタブは持っていない。体と頭髪をいい香りの石鹸やシャンプーで洗い、湯船に浸かって疲れを取る。のぼせる前にバスタブから出て、綺麗なバスタオルで体を拭く。寝間着に着替えてそのままベッドの柔らかな布団に潜って目を閉じる。部屋の明かりは自動的に消え、室内は闇と静寂に閉ざされた。
翌朝六時に彼は起こされ、着替えた後、新鮮な野菜を使った朝食をたっぷり胃袋に詰め込み、仕事部屋に向かう。欠伸交じりに、デスクの上に山積み状態の書類をざっと取りあげ、ざっと目を通していく。その間も絶え間なく傍の機械は紙を吐き出し続けている。数十分ほど無言で紙に次々目を通していき、やがて彼は白紙を目の前に置き、ペンをとった。紙にそのままサラサラ書き続ける間も、機械は絶え間なく紙を吐き出す。時々彼は機械の排紙トレイから紙を掴み、文章を読む。読み終わってから、先ほどまでペンを走らせていた紙のうち何枚かに斜線を引いてボツにし、また書き直す。それの繰り返し。昼になると昼食をとりながらも紙を見ている。紙は際限なく吐き出され、読み終えられたものが専用の棚の中に放り込まれてもまだ休むことなく吐き出し続ける。
昼食後、セイレンは食器を綺麗に片付けて仕事部屋を出た。アレックスは椅子から立ち上がって背伸びをし、また座って作業を再開した。
三時ごろ、アレックスはセイレンの後について部屋を出た。数少ない休みの時間、ティータイム。「紅茶」を飲んで甘い「菓子」を食べて一休み。このときだけはアレックスは仕事から解放されるのでホッとしている。自室に戻るとすでに準備が整えられている。そしてそこには、ヨランダがいた。
「あ〜ら、やっと来てくれたのねえ、アタシの可愛い子」
大胆なV字型の切り込みがあるドレスの胸元から豊かな双子の丘がチラリと見えて、赤面したアレックスは思わず目をそらした。
長椅子に座ったアレックスの傍に寄ってきた彼女は、彼の綺麗な黒髪にそのしなやかな指を滑り込ませた。
「いい手触りねえ、いつ触っても」
その手が髪から頬に移動し、撫でる。アレックスはされるがままで、拒絶しない。もう慣れてしまっているのだ。この《屋敷》では、彼はヨランダの《お人形》、好きなように遊ばれるおもちゃでしかない。アレックスは、やたら髪や頬を触られたりピエロのような奇妙な服を着せられたりと、ティータイムのたびに色々な目に合わされている。
甘い香りの紅茶をティーカップに注ぎ、アレックスはそれに角砂糖とミルクをたっぷり入れる。飲み始めて二年も経つのに、未だに甘くしないと飲めない。焼き菓子スコーンに果物のジャムとこってりしたクリームをたっぷりつけるのも習慣になってしまっている。甘くできるものはとことん甘くして食べたいのだ。栄養剤の苦さと辛さしか知らなかった彼にとって砂糖の甘さは衝撃的だったから。
「ところでアレックス」
ヨランダは自分のカップを片手に持ったまま、アレックスの頭を撫でる。子供が人形を愛でるような撫で方。
「最近はちゃんと顔を見せてくれて嬉しいわあ。いつも仕事ばかりなんだから、退屈させないでちょうだいな」
「そう言われましても……」
アレックスは口ごもる。丸一日椅子に座っていなければ終わることすら難しい量の仕事だ。寝るときと食事のときくらいしか仕事部屋の外に出る事はない。ヨランダはヨランダで彼女自身のスケジュールがあるのだが、彼ほど忙しくはない。
「そうそう、明日、お父様がお帰りになるそうよ」
「……会議にはまだ早いはずですが」
「たぶん、貴方にお話があるんじゃないかしら?」
ヨランダはささやきかけながら、アレックスのこめかみを撫でた。
「最近、お父様はご機嫌だそうだけど、貴方の仕事ぶりが素晴らしいんでしょうね。そのぶんアタシの相手もして欲しいところだけど」
それからヨランダの話が延々と続く。最近植物園で綺麗な花が咲き乱れたとか結婚の申込みが未だに絶えないのが嫌だとか、アレックスが口を挟む間もないほど彼女は長々と話す。アレックスは適当に相槌を打ちながら茶菓子を口に入れて紅茶を飲む。話は半分ほどしか聞いていない。全部真面目に聞いていたら焼きたての菓子と熱い紅茶が冷めてしまうから。
ティータイムが終わると再び仕事部屋に戻って作業開始。ティータイムの合間も吐き出され続ける紙の束にざっと目を通して、デスクの上の書類に猛スピードで書き込みを開始する。どこからかセイレンが姿を現し、彼の「辞書取ってくれる?」「この記事を八番と十九番に送っておいてくれる?」の頼みに応えるべく待機する。それが九時過ぎまで続いた後は夕食ならぬ夜食を取る。腹を満たした後は風呂に入ってさっさと寝て疲れを取る。
この夜も、布団に潜ったアレックスはすぐに眠りに落ちた。
この《屋敷》で暮らし始めてから二年目になろうとしていることを、思い出しながら。
ユリの住む町から外れたところにそびえる、野生動物保護警備隊の基地。自然保護法が世界中で実行された後で作られた野生動物保護警備隊の基地では、未だに隊長クラスとその上層部を年寄り連中だけが占めている。だがこの地域だけは、若者しかいない。かつての年寄り連中は、事実上「引退」している。ただし今基地を支配している者たちは、この年寄り連中の息が強くかかった者たちばかりだ。何かあれば若者たちはこの年寄りたちに連絡をし、指示を仰ぐことになっている。それ以外は自由にしてよいと言われているので、皆そろって「自由に」している。「自由に」私用で隊員たちをこき使うのはもはや日常茶飯事であった。相手が特権階級のために逆らうことも出来ず、隊員たちの間には不満が急速につのっていった。
今日もユリは連載小説の校正作業に取り掛かった。
(本当に、一体誰なのかしら。編集長がこの作者さんの正体を明かさないってことは、表に出たらマズイ人ってことよね。例えば犯罪者とか! でも編集長がそんな人をスカウトするかしら?)
小説の中で、投獄された主人公は、脱獄すべく様々な行動を開始する。隣の牢屋の囚人の独り言、看守たちのおしゃべり、窓の外から聞こえてくる噂話、それらを聞いて情報を集めている。主人公は考えている。自分をここに投獄した連中は絶大な権力を振りかざせる者ばかりであり、無力な自分が何を言っても通じない。上から押しつぶされてしまうだけだ。正面から立ち向かっても意味がない。だが今は脱獄するのが先だ。
(やっぱりリアルに書かれててちょっと怖いわね)
ユリは赤インクをペンに入れながら思った。この章の描写は本当にリアルだ。本当にその立場に立たされた事があるかのような書き方。連載する分の原稿用紙にペンを入れ終えた後、もう一度読み返して確認し、ヘンリーに提出した。
「ご苦労様。ところで」
ヘンリーはユリから受け取った原稿用紙を束ねながら、言った。
「このリストの資料を見つけて欲しいんだ。一時間以内に頼むよ。特集を組む予定だからね」
「わかりました」
ユリはリストを受け取って、いつもどおりに書庫に入った。そのすぐ後、記者の何人かが書き上げたばかりの記事をヘンリーに手渡した。記事の幾つかを書き直させた後、ヘンリーは記者の一人に問うた。
「そろそろ特集用の記事がいくつか送られてきているはずなんだが」
「はい、たった今記事が着きました!」
機械から吐き出された紙束を、記者はうやうやしくヘンリーに渡す。ヘンリーは紙束に目を通して軽くうなずき、記者に紙束の編集をするよう依頼した。
「この記事を一面に載せるんだから、手を抜かずにしっかり編集と校正をしてくれよ」
記者はうやうやしく自分の席へ戻った。その直後にユリがほこりだらけの資料をヘンリーに手渡した。
ユリは資料を手渡した後、次の資料を探しに書庫へ戻った。
「本当に資料の山ねえ。五年前の記事ってだけでもこれだけあるなんて知らなかったわ。一年の間に、事件てたくさん起こるものなのね」
棚から取り出した資料のほこりを払い落として、ユリは資料の仕分けを開始した。流行ったダイエット、季節の行事のほか、基地の主催するいくつかのイベントが記事につづられている。
「あら?」
ユリは一枚の記事を取り上げた。それは八月に起こった、《バッファロー暴走事件》の記事だった。
「そういえば」
ユリは紫のおさげをいじりながら思い出す。この事件で、アレックスは両親を失ったのだ。そして彼が野生動物保護官になるために猛勉強を始めたのも、この事件を二度と起こしたくないという強い思いがあったからだった。
記事には、一人の野生動物保護官の職務怠慢によってバッファローたちが暴走したと記されている。他の隊員たちはバッファローに跳ね飛ばされて皆死亡したが、この野生動物保護官は逃亡して消息不明となっている。事件翌日の新聞を見てみると、この野生動物保護官を指名手配した記事が一面を飾っている。
「そういえば、まだ捕まってないのよね、この犯人」
五年も経っているのだ、さすがに手配書リストからはすでに写真が消えている。だがこの野生動物保護官が未だに追われる立場なのは間違いない。バッファロー暴走を引き起こしてしまった張本人なのだから。
五年前に起きた大事件とはいえ、ユリはあの事件を、バッファローの群れが暴走したものとしか記憶していない。当時ニュースにはあまり興味がなかったせいだろう。それから何ヶ月か経過してアレックスが孤児院に入ってきて初めて、孤児院の子供たちは皆、バッファローの暴走が大勢の人々を死なせた事件だったのだと改めて知った。
「あっ、思い出してるヒマはなかったわね。早く記事を持っていかないと」
ユリは急いで記事を探し始め、十五分ほどで全部の記事を集め終えた。それを書庫から出てヘンリーの元へ持っていったが、あいにくヘンリーは出かけた後だった。書類の散らかったデスクの上にわら半紙が置かれ、そこにはヘンリーの筆跡で「出張のため、帰社しません」と書かれている。
(あーあ、次の記事探ししたかったのになあ。しょうがないか。それにしても、最近よく出かけてるわねー、編集長って)
ユリはデスクの書類箱へ記事をいれ、自分のデスクに戻って次の作業に取り掛かった。並べられている記事の校正の手伝いだった。
今日は残業もなく、さっさと帰る事が出来た。明日は休日、やっとのんびり休める。そう思って社宅に向かうと、何人かの野生動物保護官たちがパトロールをしているのに出くわす。いずれも不満のたまっている、むっつりした不機嫌な顔だった。ユリは急いで社宅の入り口をくぐり、自室に飛び込んだ。あの隊員たちの様子では、話しかけるだけで怒鳴りつけられそうな気がする。
「そういえば、最近隊員たちの起こす事故や事件が増えてきているのよね。治安を守る側になったのに、どうして治安を乱す側に変わってきたのかしら。やっぱり滅亡主義者たちのせいかしら」
人間が存在する限り自然破壊は止まらないために人間たちを滅ぼすことを目標とする集団であり、各地でテロリストとして指名手配されている。二年ほど前、この町で滅亡主義者が活動を活発化させた事件があり、それ以来警察だけでは手が回りきらずに野生動物保護官たちに応援を要請し、議会もそれを命じて法律を作った。野生動物保護官たちが警察と共にパトロールをするのはそのためだ。だが野生動物保護官が町のパトロールに出る分、彼らが本来パトロールすべき自然保護区の警備は当然手薄になる。滅亡主義者の活動は弱まったが代わりにハンターの活動をより一層たやすいものにしてしまった。
「人間、ストレスがたまると何するか分からないもんね。孤児院にいたときもそうだったし。アレックスはどうしてるのかしら。やっぱり、パトロールばっかりやらされてて機嫌悪いのかな」
ユリはいつもどおり、シャワーを浴びて栄養剤を飲み、眠りに着いた。明日、商店街へ行こうと思いながら。
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