第2章 part1



 よく晴れたその日、アレックスは自室でひとりティータイムを過ごしていた。今日は、ヨランダは客人とティータイムを過ごしており、ここにはいない。彼としては一人のほうが良かった。ぬいぐるみか人形のように頭を撫でられ変な色の衣装を着せられるのが、今でも嫌なのだから。
 熱い紅茶をカップに注ぎ、ミルクと砂糖をたっぷり入れる。ほとんど白色に近くてとても甘い紅茶をフウフウ吹いて少し冷まして飲む。飲みながら、窓の外を眺める。若葉が芽吹き、新しい緑色の芝が伸びてきている。空は澄み渡り、雲ひとつ無い。とても綺麗な景色だ。しかし彼は景色を見てなどいない。
(ここに来て、二年になるのか……)
 甘い果物のパイや、野菜をはさんだサンドイッチを機械的に口に入れながら、思い出していく。
 二年前の五月。当時のアレックスは、三月に入隊したばかりの新米野生動物保護官だった。新米ならば誰でも担当する草食動物のいる自然保護区のC区をパトロールしている最中、AランクハンターのH・Sに捕らえられ、この屋敷につれてこられた。ハンターと契約しているヨランダの依頼によるものだった。彼女は以前、お忍びで外に出ていた。その時基地で防災訓練を行っていたのだが、木陰から訓練を見ていた彼女は、アレックスを見つけてすぐに彼を欲しいと思った。そこで彼女は屋敷に戻ってからH・Sに依頼を出し、アレックスをつれてこさせたのだった。屋敷の小さな離れに専用の住まいを作らせるだけでなく綺麗な服や上等の料理や専属の召使セイレンなど、彼女はアレックスに色々与えたが、この屋敷からは決して外へは出さなかった。彼女は彼をあくまで己の玩具としてしか見ていなかった。彼を誘拐させたのも、彼女の傍において愛でるためだった。それ以来、彼は屋敷に軟禁され、生きた玩具として飼われ続けている。それだけではない、屋敷の者は彼の部屋に自由に出入りできるのだが、彼自身が部屋の外へ出ても通路は壁でふさがれている。セイレンが来た時でなければ、彼は何処にも行けないのだった。
 だが、彼自身にも、外の世界へ出られない理由があった。
(まあ、出られない代わりに、色々と面倒みてもらってるわけだけど……)
 おやつを食べ終わった後の食器を重ねて片付けていると、ノックが聞こえた。セイレンが入室し、
「旦那様がお帰りになりました。アレックス様にお会いしたいとの事です」
「うん、わかった」
 アレックスは彼女の後について部屋を出た。
(そうか。今日は会議の日だったな)
 天井から床まである巨大な窓の外。青空を横切って飛行艇たちがいくつも通り過ぎていった。

 屋敷に戻ってきたファゼットは、豪華な書斎でアレックスと向かい合って座っている。ヨランダの父にして、屋敷の主。齢は五十を越えていると思われる。娘と同じ太陽のような――さすがに歳のせいか白髪が混じっているが――金髪をきれいに油でなでつけ、アレックスが着ているそれよりもはるかに上等の布地で作られたスーツを着ている。背は高く、百八十センチはあるだろう。
 世界各地を飛び回るこの男は、同時にアレックスがこの屋敷にとどまり続けている原因を作った張本人でもある。世界各地の情報をその手に握る裏世界の頂点に立つ男であり、同時に情報操作にも長けている。手持ちの情報を世界各地の新聞社やラジオ局にばらまき、その土地に住む部下たちにそれらをさらに広めさせて世論を操ることも出来る。いやそれがこの男の本業と言ってもいいだろう。
「君の送ってくれた資料は受け取ったよ。なかなかいい出来だ」
「ありがとうございます」
 笑っているファゼットに対して、アレックスはにこりともしないで応えた。ファゼットは気にもせず、アレックスに問いを投げかける。
「ところで、君の《今後の予定》は上手く行きそうかね」
「……仰ることの意味が分かりかねます」
 眉根だけがピクリと動いたが、アレックスは依然として仏頂面のまま答えた。ファゼットは片手に書類の束を持ったまま、意味ありげに笑いながら言った。
「まあ、うまく行っているならそれでいいのだがね。君にわたしの右腕としての地位を与えているのだから、十分に活用してもらいたいものだよ」
「十分、活用させていただいています」
「おお、そうかね。ああそうだ、これから準備をせねばならんからな。今夜会議が終わった後で、また話をしよう」
「わかりました」
 アレックスが退室した後、ファゼットは書類を眺めながら、一人ごちた。
「彼の《今後の予定》は確かに順調に進んでいるようだな。だが、これ以上進展していないという事は、もしかするとチャンスを待っているのかもしれんな」
 書類の中には、ここ二年間のアレックスの行動履歴が全て掲載されていた。
「二年も経ったのだ、仕事にも十分慣れてきているだろうし、世界各地で起こる出来事をある程度把握できているはずだ。それなら、とても狭い一つの町の日常生活を引っ掻き回すことくらい容易いだろう。いずれは世界中へ波紋を広げるほどに、彼の能力は高められていくだろうな」
 デスクの上に書類を置いて、ファゼットは不気味な笑みを浮かべた。
「最後には、もしかすると何らかの形でわたしの命を狙ってくるかもしれんなあ? だがそれも、ありえるだろう。彼はわたしを恨んでいるのだからな!」
 その笑い声は明るい書斎に不気味に響いた。
 一方、セイレンの後について仕事部屋に戻ったアレックスは、機械から吐き出されている書類を何枚か手に取ったまま、宙を見つめていた。
(あの男と話してると、頭の中を読まれている気がしてならないんだよなあ。あらゆる情報を手にし尚且つ使いこなしている立場にあるわけだから、人の心を読み取るのも造作ないのかも。いやいや、そんなわけないか)
 目が、書類を見つめる。が、文面を見つめてはいない。
(オレのやろうとしていることは、向こうには想像がついているんだろう。そう、今のところオレのやりたいことはそれしかないからな)
 片手に持った鉛筆が折れるほど、アレックスはそれをきつく握り締めた。
(二年前にオレをハンターの内通者として指名手配した当時の議会と基地を、まるごと潰してやること。そしてもう一つ……)
 彼は奥歯をギリギリ噛み締めた。

 ファゼットの屋敷の格納庫。大型の航空機をいくつも収納できるほど広く作られている。そして今現在、その中に収納されている中型の飛行艇は、皆、Aランクハンターのものだった。なぜここにハンターたちがいるのかというと、本日開かれる会議に出席するためだ。
 この会議はファゼットが月に一度開いているもので、出席者は、世界各地の上院議員代表および下院議員代表、世界各地の野生動物保護警備隊基地の上層部、Aランクハンターたちである。
 出席者たちのために屋敷内には専用の部屋が用意されており、上等の家具と美味い料理と良い景色を楽しめる。旅で疲れた体を癒したら、夜に始まる会議に出席する。
「今年度三回目の会議を始める」
 上等の会議机に座った者たちを見渡し、ファゼットは会議の始まりを宣言した。
 会議室の空気が一瞬にして緊張に包まれた。

 夜七時過ぎ。飛行艇の操縦室で、アーネストはため息をついた。船体の整備は三十分も前に終わり、最後のチェックも全部終わっている。だが彼は屋敷の部屋には行かずに、自分の席に座ったままだった。
(もう五年になるのか……)
 五年前のことを思い出すと、嫌でも憂鬱な気分になる。己の人生を全て変えてしまった、五年前。
(俺は、あいつらから逃げまわることしかできないのか……)
 頭を振って、その考えを消し去ろうとする。だが、それは無駄なことだった。何度も何度もその考えだけが頭の中をめぐり続けていた。
(俺は、あいつらに刃向かえないのか……)
 気がめいってきた。整備も終わったし、部屋に戻ろう。そう思って、彼は飛行艇を後にし、屋敷に入った。屋敷の綺麗なじゅうたんの上を歩いているとき、ほかのAランクハンターの手下たちに出くわしでもすれば、彼は遠慮なくストレス発散のために喧嘩を売っただろう。そのくらい、今の彼はいらいらしており、気がめいっていた。
 部屋のドアを乱暴に開けて中に入る。天井から下がっている綺麗なシャンデリアから、美しいオレンジの光が降り注いでいる。天蓋つきベッドが二つあり、しわ一つなく整えられている。磨かれた窓は指紋ひとつなく、ビロードの重厚なカーテンにはほこりひとつついていない。
 綺麗に磨かれたテーブルの上に食事が一人前乗っている。自然の素材を贅沢に使った豪華な料理だ。食欲はあまりなかったが、食べないともたないので、とりあえず胃袋にいれる。食器を廊下のワゴンに載せる。後は屋敷の使用人が勝手に片付けてくれる。
(くそっ、イライラして仕方ねえ!)
 アーネストはテーブルに勢いよく両のこぶしを叩きつけた。木製のテーブルは一瞬だけ抗議の声を上げた。
 五年前に起きたあの事が、最近夢の中にまで現れ始めたのだ。
 五年前の当時、彼は新米の野生動物保護官だった。入隊当時に先輩隊員から教えてもらった、どんな動物でも呼び寄せられる音を出す指笛を、自然保護区のパトロールのたびに試して動物を集めていたものだ。あの頃は楽しかった。本でしか見られないたくさんの動物たちと毎日触れ合えたのだから。
 八月の自然保護区開放イベントがあったあの日、彼は客たちを出口へ誘導していた。だがその時に事件は起こった。突然F区のバッファローの群れが暴走したのだ。怒り狂ったバッファローの群れは、逃げ惑う客や怒りを静めようとする野生動物保護官たちを次々に跳ね飛ばし或は踏みつけて、あちこちを走り回った。急遽部隊が編成され、生き残っている客たちの応急手当が開始される。彼はその時、深手を負ったがかろうじて生きていた少年の傷を手当した。少年を引きずりながら少し離れた木陰へ避難させているとき、バッファローの群れが再び襲い掛かってきた。彼はバッファローの蹄にかけられて跳ね飛ばされ、F区の小さな坂まで吹っ飛ばされた。一度固い地面に叩きつけられた衝撃であばらを骨折し、蹄で重傷を負ったために、自身を手当てすることもままならなかった。
 意識がなくなりかけたとき、誰かが姿を現した。その誰かに助けを求めたところ、相手は、ハンターだった。相手は取引を持ち出してきた。治療してやる代わりにハンターの手伝いをしろというのだ。彼は、死にたくなかった。だから相手の取引に応じた。
「そうか、分かった。契約は成立だな」
 それがH・Sだった。
 H・Sは、彼をちゃんと助けてくれた。可能な限りの応急処置をしてから、砂漠地帯のK区に隠されているハンターたちの隠れ家にある小病院に入院させたのだ。怪我が完治するまで半年かかったが、その間にバッファロー暴走事件についてラジオを通じて知る事が出来た。
 暴走が起こったのは、当日F区にいた隊員の職務怠慢であること、その隊員は現在逃亡して行方知れずになっていること。そして、その隊員の名前は、《アーネスト》だった。
(基地の連中は未だに俺を追いかけている。あの時現場にいた隊員が皆死んで、残るのは俺一人だけだからな。生死不明だからこそ、俺を捕まえたいんだろう。俺が死んでいれば奴らには好都合、生きていれば即刻処刑だ。あの事件が、ホントは議員のひとりがうっかり起こしちまったもんだと、触れ回られたくないんだからな)
 アーネストは、歯をギリギリ噛み締めた。
(俺は無実なんだ! けど、俺はもう戻れないとこまで来てる。しかもその道を自分で選んじまったんだからな。あんな取引をもちかけてきたあいつに今更文句言うわけにもいかない。命惜しさに、嫌だっていう選択肢を自分で捨てちまったんだから)
 仮にあの日に戻れて、彼がH・Sの取引を拒絶したとしても、重傷を負った彼はそのまま放置されて死亡あるいは救護班に見つけられて基地へ運ばれるも他の傷を負った隊員同様に口封じのために殺されるだけだろう。そしてバッファロー暴走の原因は、客か隊員の誰かとなり、真相は闇の中。放置されて死ぬかハンターとして生きるか、どちらの選択肢を選んでもいい結末にはならないのだ。
「くそっ!」
 アーネストは壁にこぶしをバンと乱暴に叩きつけた。

 会議終了後、皆はほっとした。ギスギスした空気が一気にほぐれた。解散後はそれぞれの部屋に戻って眠り、翌日に出発する。
「ふーっ、今回の会議は疲れたな。老いてもなお富と利権を追い求める古だぬきを説得するのはなかなか難しい。奴らのおかした不祥事はある程度こちらが尻拭いをしてやらんと、最近敏感な一般市民が暴動を起こしかねないというのにな」
 H・Sは部屋までの道を歩く。他のハンターたちは既に部屋に戻っており、彼は最後に会議室を出てきたのだ。部屋の前にたどりつき、ドアをそっと開ける。
 部屋の明かりは消えている。が、廊下の光で室内を覗いても、誰かが部屋にいる気配はない。物音も聞こえてこない。
「いないのか?」
 用心しながら部屋に入る。やはり気配はない。
(本当にいないのか? 隠れているのか?)
 闇に慣れてきた目で部屋の隅々を見渡すが、やはり誰もいないようだった。
(……いない。こんな時間まで整備をやってるのか? それとも散歩か?)
 そう思いつつも、彼は周囲の気配を探りつつ、部屋の明かりをつけた。やはり誰もいない。彼は警戒心を全く解かず、浴室でざっとシャワーを浴び、消灯して柔らかなベッドにもぐりこんだ。
 最近、アーネストの言動がおかしい。時どき沈んだ顔でため息をついている。仕事のときはちゃんとしているが、それ以外では、人の話すら聞いていないように見える。酷いときには操縦桿を握らせたら最期飛行艇の操縦を誤って地面に突っ込んでしまいかねないと思われるほどだ。あの様子からして何か考えているのは間違いないのだが、本当に考えているのか悩んでいるのか企んでいるのか、さっぱり見当がつかない。
(やはり、何かを企んでいるのか?)
 人を信じることの出来ないこのハンター、どうしても相手の言動をマイナスの方向に受け取りがちである。
(……裏切りを企んでいるにしろ、私から離れる事は奴自身の死を意味することなど、奴には身にしみて分かっているはずだ。それに、仮に私を殺すような事があったとしても、奴にとって得する事は何もない。虚偽の情報によって指名手配されただけではない、ハンターとして活動したこの五年間は、奴に一生涯付きまとう。一般人の暮らしには二度と戻れやしないのさ)
 時計の針が夜中を指すころ、部屋のドアが音もなく開けられ、アーネストが入ってきた。H・Sが眠っているのを確認した後、疲れた顔のまま、空いているベッドに倒れこむ。飛行艇の固い寝台と違って、体が完全に沈んでしまいそうなほど柔らかな布団だ。そのまま寝ようと目を閉じるが、向かいのベッドから聞こえてきたうめき声によって睡眠が妨げられた。
「……やめて、やめて……」
 苦しげな声とすすり泣くような声が入り混じった、奇妙な声。アーネストは目を開け、向かいのベッドを見た。ちょうど、ビロードの厚いカーテンの隙間から月光が差し込み、アーネストの向かいにあるベッドを照らし出す。
「なにもしてない、なにもしてない……! やだ、やだ……」
 頭をかばうように布団の中から腕を伸ばしたH・Sは、苦しそうに顔をゆがめ、涙すら流していた。
 翌日。H・Sはヨランダに呼ばれて彼女の部屋に行っていた。その間、アーネストは、彼女の屋敷が所有する、様々な動物を集めた巨大施設動物園にて、犬たちの散歩をさせていた。高い柵があるので、犬たちは簡単に飛び越えられない。呼び戻したければ指笛を吹けばいいので、犬たちを放した後はしばらく自由に駆け回らせることにしている。
 十頭以上もの犬たちは嬉しそうに吼えながら駆け回り始めた。アーネストは、楽しそうに犬たちが走り回るのを見もせず、昨夜寝る前に見たものを思い出していた。
(あいつのあの顔は何度か見たな。寝てる間しか見たことないが、ちっさな子供が怖がって殴られないようにしてるみたいな、そんな感じしたな)
 最初に見たのは二年前。月に一度の会議で屋敷に来ると必ず二人用の部屋を用意されているので、嫌でも一緒に寝なければならない。今まではアーネストが先に寝ていて、会議に出席するH・Sが後で寝るため、相手の寝顔を見たことはなかった。だが、夜中に目が覚めて序でに用を足した後、アーネストはH・Sの寝顔を初めて見た。悪夢にうなされたハンターの寝顔は恐怖と苦痛でゆがみ、まるで暴力におびえる幼い子供にすら見えたのだった。
(最初は、あんなツラがあるんだな位にしか思ってなかったけど……ちと、試してみるか)
 十分後に指笛を吹いて犬たちを呼び戻し、専用の小屋へそれぞれ戻してから、彼は屋敷へ戻った。
 部屋のドアを開けると、先に戻ってきたばかりと思われるH・Sの背中にぶつかった。H・Sは振り向いて怒鳴りつけようと口をあけるが、アーネストはそれより早く、こぶしを振り上げた。みぞおちではなく、頭をめがけて。
「っ!」
 H・Sは反射的に両腕を挙げた。腕で頭をかばえる位置まで。だがアーネストは相手の頭を殴打せず、直前でこぶしをピタと止めた。
 両者に流れるしばしの沈黙。先に空気を動かしたのはアーネストだった。彼はこぶしを下ろし、相手を見る。
「へーえ」
 相手にはその一言だけで十分伝わった。
「……!」
 おそるおそる下ろされた両腕。身をわずかに震わせ顔を青くしたH・Sの両目には、衝撃と恐怖が宿っていた。

 昼食時。仕事部屋にて、肉と野菜をはさんだサンドイッチを紅茶で胃袋へ流し込みながら、アレックスは昨夜のファゼットとの対談を思い出していた。
 ……
 会議が終わった後の十一時、アレックスは書斎でファゼットと向かい合っていた。三時間にわたる会議が終わったばかりではあったが、ファゼットは疲れた様子も見せていない。
「では、会議も終わったことだし、昼間の続きといこうかね」
「わかりました」
 相変わらずアレックスは仏頂面のままだが、ファゼットはにこにこしたままだ。
「君には二年前から世界各地の新聞社とラジオ局への記事送りを任せているわけだが、どうだね、慣れたかね」
「ええ、二年も経てば」
「そうかね。膨大な量の情報に溺れずにすんでいるとは、さすがわたしが後継者として見込んだだけの事はあるよ、アレックス。さらに君がわたしの後を本気で継いでくれる意思があるならば、尚良いのだがね」
「……」
 アレックスは返答せず、奥歯を噛み締めた。アレックスが屋敷にとどまっている原因は、彼がある薬物の中毒者だからだ。ファゼットはアレックスを屋敷にとどめるために、その薬の効かない特殊体質の持ち主たるヨランダの香水に薬を仕込み、アレックスにその不思議な薬の香りを何度も何度もかがせていた。薬を嗅ぐと頭が半分眠っている状態に陥り、その状態で何かの命令を繰り返し聞き続けるといずれその命令に逆らう事が出来なくなる。彼は「屋敷から出てはいけない」と繰り返し命令され続け、薬の中毒者になる頃にはその命令に逆らえなくなっていた。「出てはならない」という自己暗示がアレックスに見えない枷をはめてしまったのだ。
 ファゼットが彼を手元におきたい理由は二つある。ひとつは、《バッファロー暴走事件》の真相を大衆に知られては困る者たちに対し、その真相を知っているアレックスを手元に置き続けて彼らへ圧力をかけるカードにするためだ。ふたつめは、ファゼットがアレックスを己の後継者にしてもよいと考えており、実際に己の右腕の地位も与えているからだ。アレックスは情報収集能力および分析力が高いだけでなく、好奇心も非常に旺盛なために貪欲なまでの知識欲を持つ。それに目をつけたファゼットは彼を後継者にしようとしたのだった。それをファゼットの口から語られたときのアレックスの受けたショックは並大抵のものではなかった。
「君が記事をいじっている事は、基地や議会には知らせておらん。知らせる必要もあるまい。連中に余計な騒ぎを起こされたくはないからなあ」
 どこかわざとらしくファゼットはアレックスに笑いかけてくる。アレックスは相手の目を見つめたまま、体をこわばらせている。
「そうですか。でも」
 いったん言葉を切る。
「こちらとしては、もう少ししたら連中が騒いでくれるほうがありがたくなりますね」
「ほう、なぜかね」
「今は説明できません。ですが、そのためにはまず、あの町に住んでいるあなたの部下たちの力を貸してもらいたいのです」
「容易いことだ、で、部下たちは何をすればいいのかね」
「簡単なことです。一週間以内に、ある噂を町中に広めてもらいたいのです」
「そうか。それだけでいいのかね?」
「次に、あの町の野生動物保護警備隊の基地に別の噂を広めてください。しかし、その噂を上層部に知られないように厳重に注意を払っていただきたいのです。隊員たちだけがその噂を知っていなければならないのです」
「そうか。それだけでいいのかね?」
「今は、それだけで結構です」
 ……
 アレックスは最後のサンドイッチを胃袋に入れて食事を終えた。セイレンが食器を片付けて仕事部屋を出て行った。
(そう、今はそれだけでいい)
 背伸びを一つしたアレックスは、さっさと仕事に取り掛かった。
(後は、あいつらが勝手に噂の裏づけをしてくれるからな)

 ヘンリーは月に一度、ヨランダの屋敷に呼ばれティータイムを一緒に過ごし、一晩泊まる。それができるように社内での日程を調整してヨランダに手紙を出している。特権階級のみが、あの地図に載らぬ島へ手紙を出す事が出来るのだ。ヨランダはヘンリーからの手紙と見れば喜び、歓迎してくれる。ヘンリーは二年前のパーティーで一緒に踊ったときから彼女をひたすら純粋に愛し続け、一方ヨランダも彼を深く強く愛している。ヨランダとの結婚を望む者は数多く、その連中から様々な圧力がかかってきたが、全てヨランダが一言言うだけでストップしてしまった。ヘンリーとヨランダは互いに結婚しても良いと考えていたが、互いに互い、その立場上結婚は難しいものであった。それでも彼らは恋人であり続けている。
 ヘンリーが屋敷を訪れるために使うのは船だ。船で何日か波に揺られていると大きな島が見える。豊かな自然の中にそびえる大きな屋敷と小さな離れ。小さな港に船を止めると、屋敷から使用人たちが姿を現してヘンリーを案内する。屋敷の中に入り、きれいな赤いじゅうたんの上を歩いていく。普通ならば応接室へ通されるが、彼だけは特別にヨランダの部屋に直接通してもらう。
「ヘンリー! 会いたかった!」
 そしてドアを開けた途端にヨランダの抱擁を受けるのであった。
「僕もです、あなたに会えない生活なんて考えられない!」
 ヘンリーもヨランダを抱き返す。
 同じ部屋の中にいるアレックスは、顔を赤く染めながら目をそらす。ヘンリーが知っている限り、彼はヨランダと時どき一緒にティータイムを過ごしている。が、ヨランダはアレックスを友人とは言わず「遊び相手」としか言わない。見た限りでは頭を撫でている事が多いので、友人というよりは人形のような存在に見える。ティータイムで二人が熱い会話を交わす間も、アレックスは完全に蚊帳の外。思い出したようにヨランダが彼を構ってあげる時以外、黙々と紅茶を飲み、茶菓子を機械的に口に入れている。話を振られる事が滅多にないので、本当に人形のように押し黙っている。頬を赤く染めているところからして、会話を聞いてはいるようだが。
 ヘンリーは、二年前にハンターと内通していたスパイとして指名手配されて処刑された野生動物保護官の記事を扱った事がある。処刑された野生動物保護官の名前は、アレックス。そして各地の新聞社や掲示板で使われた写真も、この部屋で一緒に茶を飲んでいるアレックスとそっくりだった。最初にヨランダに紹介されたとき、顔は笑っていたが内心は驚いていた。指名手配されて処刑されたはずの野生動物保護官がこんな立派な屋敷にいるのだから。だが、ヨランダに聞いてみても、彼は指名手配者などではないという。
「あの子は可愛い遊び相手なの。ずっと前からこの屋敷に住まわせてるの。素直でいい子よ、アタシの言うことを何でも聞いてくれるし、機械仕掛けのお人形よりずっと可愛らしいわよ」
 他人の空似なのだろうと思い、それ以上気にかけなかった。ヨランダと初のデートを楽しみたかったから、彼のことなどすぐ忘れてしまった。
 二度目に呼ばれたときのこと。ヨランダが部屋を出て、ヘンリーと二人きりになるとやっとアレックスは口を開いて話を始める。ヘンリーが新聞社の副社長兼編集長だと改めて自己紹介すると、彼はさらに細かいことを知りたがった。好奇心の強い性格らしく、ヘンリーに根掘り葉掘り尋ねてきた。一方でアレックスは自分のことも少しだけ話した。読書と執筆が好きなこと。そこでヘンリーは思い出した。新聞に掲載する連載小説用の素人作家を募集しようとしていたことを。出来がよければ選考の手間が省けると思い、アレックスにその話を持ちかけてみたところ、あっさり首を縦に振ってくれた。そして小説は既に書きあがった後だという。帰る前に紙束をもらった。船の中でそれを読んだところ、素人にしてはなかなか面白い内容だった。期待はずれだったらどうしようかと思っていたが、これなら掲載してもよさそうだ。
 しかし……。
 会社に戻ってから、《アレックス》について一から調べてみた。各地の学校や孤児院に手紙を送り、彼の所属していた基地にも手紙を送った。《アレックス》は《アース新聞》本社のあるこの町に住んでいた。孤児院に入ったのが《バッファロー暴走事件》の後。野生動物保護官の入隊試験に合格し、十八歳の誕生日を迎えた後で孤児院を出て三月に入隊した。そして五月に突如姿を消した。それと時を同じくして基地の内部で保管されていた書類が幾つか紛失し、基地の上層部は《アレックス》をハンターと内通していたスパイとして指名手配した。それから八月二日に、《アレックス》は基地に捕らえられて処刑された。手に入った戸籍関連の書類は全て『死亡』の項目に印鑑が押されており、同時に処刑済みリストの中にその名前が書き加えられて、《アレックス》が『死亡した』ことを表していた。そう、確かに《アレックス》は死んだのだ。では、ヨランダの屋敷にいたあの《アレックス》は一体何者なのだろうか。ヨランダは彼のことをまったく話してくれない。彼女が《アレックス》をかくまっているのだろうか。それとも本当に他人の空似に過ぎないのだろうか。この疑問を、《アレックス》本人に聞いて確かめたいとは思っているのだが、未だに聞く勇気がない。
 今でさえ……。
「……直接本人に聞くのはよくないな。警戒させてしまうかもしれない。誰かに頼んでみるか」
 新聞社の編集長としての好奇心につきうごかされたヘンリーは、社内の便箋を使って手紙を書き始めた。
 自分の妹宛に。


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