第2章 part2



 休日。ユリは買い物をしに商店街を訪れた。今日は休みなので夕刊の発行もなく、一日のんびり出来る。朝の十時過ぎ、店のドアはどんどん開いていき、客たちが待ちかねたように入っていく。ユリもつられて、薬局へ入る。栄養剤の大安売りセールが昨日から開催されている。今回のセールでは福引券が無償で配られ、一等賞を当てれば一か月分の栄養剤十種類が無料でもらえる。
「ここの薬局の福引は当たりにくいのよね。景品はそれなりだけど」
 ユリは言いながらも買い物をする。三種類の栄養剤を一箱ずつと、握り拳大の石鹸を二つ。ごった返した店の中を移動するのは大変だったが、何とかレジにたどりつく事が出来た。会計を済ませ、レジでもらった福引券を出口で使ったが、結果はハズレ。残念賞として、ちり紙を一箱もらった。わら半紙をそのままちり紙にしただけなので固くて、事前にクシャクシャに丸めて柔らかくしないととても鼻をかめるようなシロモノではない。それでも貰えるものならとユリはそれを受け取って、社宅に戻った。
 社宅に戻った後、一週間ぶりに部屋の掃除と洗濯をする。ほうきで室内を掃いてホコリを窓から外へ追い出した後は洗濯機から洗濯物を取り出して、ベランダへ干す。今日はいい天気なのだ、夕方までには乾いてくれるはずだ。
「さ〜て、お昼ごはんにしなくちゃ……」

 ドォン!

 突然の爆音と軽い揺れ。
「な、何?!」
 ユリはとっさにベランダの柵にしがみつく。顔に熱い風が吹き付けたので思わず目を閉じる。目を開けると、人の悲鳴が聞こえ、続いて商店街から火の手が上がるのが見えた。
「火事!?」
 社宅のほかの部屋の窓が次々に開けられ、ベランダから人が出てくる。そのうち何人かは記者たちで、スクープをとるためにすぐに顔が引っ込み、数秒後にはもうカメラを持ったまま商店街へと走り出していた。そのころには他の家々のドアや窓が開かれて、人々が何事かと顔を出していた。
「まさか、滅亡主義者?」
 ユリの顔は青ざめた。風に乗ってヒトの焼ける嫌な臭いが漂ってくる。何分か経ってサイレンが鳴りひびき、消防隊が到着する。放水して消火作業を開始した消防隊員と、建物を覆う炎との戦いが始まる。ユリは身を震わせていた。ほんの数十分前まであの商店街で買い物をしていた。もし薬局を出てからすぐ帰宅せずに商店街でそのままぶらぶらしてしたら、あの爆発に巻き込まれたかもしれない。
 火災の起こった現場に野次馬が集まってきて、次には救急隊が到着する。建物の中から負傷者が運び出されていく。記者たちがカメラのフラッシュをたく。警官たちがきて、野次馬たちをなるべく現場から遠ざけようとする。その中に、野生動物保護官たちもいた。彼らは野次馬をさがらせ、負傷者たちが皆救急隊によって運ばれたのを確認してから、火の消えた現場を封鎖し、消防隊員と共に調査を開始した。
 その日の夕方の緊急速報紙と翌朝の朝刊には、この爆発事件の事がでかでかと一面で書きたてられた。死傷者が三十人以上。現場には、飛び散った爆発物の破片と思われる金属片がいくつも落ちていた。爆発物は滅亡主義者が客にまぎれて仕掛けていったものだろうと、警察は睨んでいる。しかし、誰が滅亡主義者なのかを特定できていない状態。《アース新聞》を初めとしてこの地域のあらゆる新聞社とラジオ局が派手に事件を報道した。新聞を読んだ者・ラジオを聞いた者・噂を聞いた者は全て、早く事件の犯人が逮捕されてくれないかと不安を胸に抱いていた。次の標的となるのは自分かもしれないのだから。
 社内では、記者たちがいつも以上にドタバタと駆け回り、警察署、病院、現場と様々な場所を行ったり来たり。やっと戻ってきたヘンリーは久しぶりのスクープの詳細を求めて記者たちを走り回らせ、記事を書かせる。今回のユリの仕事は資料整理の代わりに記事の編集の手伝いだった。朝刊も夕刊もこの爆発事件が一面を飾った。捜査の進展しだいでは、この記事だけで数日は新聞の一面二面を飾れそうだ。社内の電話はひっきりなしになり続けて記者たちが報告をするか購読者からの問い合わせがくる。目の回る忙しさだ。
 昼になり、やっと食堂へ行けたユリはほっと息をはいた。やっと仕事が一段落ついたのだ。栄養剤の載ったトレーを受け取って、空いている席に着く。記者たちがいないとはいえ、社内に残る事務員たちで食堂はだいぶにぎわっている。
「ねえ、やっぱりあの噂ほんとだったのね」
「そうそう、滅亡主義者が近くにいるってやつでしょ?」
「いるかもしれないって思ってたけど、まさかこんな近くで事件が起きるなんて思わなかった」
「やだよなー、最近野生動物保護官ですら犯罪に走るってのに」
「もしかするとさ、野生動物保護官の中にも滅亡主義者が……」
「やめなよ、そんなの! 警備隊だって被害にあってんのに」
「だからだよ、一般人立ち入り禁止の基地に入り込めるのは、野生動物保護官として潜り込んだ滅亡主義者しかいないって。それに警察と同じくらいの立ち入り権限持ってるから、ドサクサ紛れで事件を起こすことなんかたやすいって」
 ユリは別の方向から聞こえる噂に耳を傾けてみた。
「それでさ、こないだ郵便局に行ったらさ、休憩中の野生動物保護官たちに偶然出くわしたんだけどさ。フマンたらたらの顔で、上の連中がどーたらこーたらってグチこぼしてた」
「上の連中?」
「警備隊の隊長とかじゃない? 今までの年寄りたちから若い人に変わったみたいだけど。とにかく絡まれたら終わりって思ってさ、さっさと手続き済ませて帰ったよ。その野生動物保護官たち、局員の人にずっとこぼしててさ、局員の人たち気の毒だった」
「そーなの、災難だね、局員の人」
「最後なんか怒鳴り声みたいなのが聞こえたくらいだし、よっぽどストレスためてんだよ。若い上層部にコキつかわれてるとかさ」
「あっ、もうこんな時間! さっさともどろ! でないと編集長が怒るよ。スクープ扱ってるときの編集長が怖いの、知ってるでしょう」
「おう、そうだな」
 ここで話は終わり、事務員たちは食器を片付けて去った。
 ユリも自分の空っぽの食器を片付け、食堂を出た。これから記事の編集の手伝いをしなければならないから。記者たちが大事件の詳細を得るべく飛び回っている時は、昼休みは食事以外とれない。記事を作るのに大忙しだから。
 十二時半過ぎにヘンリーが戻ってきた。戻ってきた記者たちの持ってくる写真や記事を見てヘンリーは指示を次々に出す。嬉々とした顔で記者たちは夕刊用の記事を校正する。ユリもその手伝いをする。三時過ぎには記事が全部出来上がり、最後のチェックをヘンリーが行い、それも終わってから輪転機に記事を突っ込む。時間をかけて機械は新聞を刷り上げ、出来たものをアルバイトたちに配達してもらう。そのころにはもう夕方。主婦たちが薬局からの買い物帰りに郵便受けから新聞をとって読みながら家に入る。あるいは新聞を片手に近所のほかの主婦たちと話をする。
「まー、犯人のめぼしはまだついてないのね。警察も大変ね」
「でも、とっくに他の町に逃げちゃったのかもしれないわよ」
「それとも、この町にまだ潜んでいるかもしれない。基地の中とかさあ」
 町のあちらこちらで、近くに滅亡主義者が潜んでいるのでは、という噂がささやかれ始めた。わずかな時間で、町はさらに不穏な空気に包まれていった。

 噂が広がり始めた町の外れに建つ、野生動物保護警備隊の基地。隊員たちの間でも、別の噂が広がり始めていた。だが、それは町で広がり始めた噂とは別物だった。
「パトロールしてたら聞いたんだけど、あの爆破騒ぎ、おれらの仕業ってことにされてるぞ!」
「な、なんだって? そんな事ありえないぞ!」
「店の中にまで入れやしないのに! 隊の規則でそう決まってるのにどうして!」
「隊の中に、隊員に成りすました滅亡主義者がまぎれてるって事?」
「そ、そんな……! でも二年前も、基地に爆弾仕掛けられたしさ。おれ、まだ体にそのときの傷跡のこってるんだぞ。隊にまぎれてなくても、警備の目をくぐって隊の制服の予備を盗んだとか?」
「でも、なりすましてるんだったら、隊員が店に入ったって証言する目撃者だっているはずよ。隊の制服はかなり目立つわよ! 新聞にだって『犯人は野生動物保護官』なんて載ってないじゃない!」
 食堂、廊下、共同寝室、様々な場所でその噂が広まった。商店街の爆発事件が野生動物保護官になりすました滅亡主義者によって引き起こされた、と。だが不思議なことにその話は隊員の中でのみ広がっていき、警備隊隊長以上の階級の者は耳にすることすらなかった。隊員たちは彼らの前では口を完全に閉ざしてしまうから。
 上層部の面々はこの日、基地の専用エレベーターで上階へ行き、会議室にて話を始める。豪華な木製の会議机の上には、上等のワインが入った綺麗なグラスが並べられている。酒肴として木の実の盛り合わせやチーズなどが陶製の皿の上に乗せてある。……もちろんアルコール飲料も自然保護法で禁止されている。
「最近、隊員たちが不満タラタラの顔をこちらに向けてくるんだ」
 三十代の、ひげをきれいにそり落とした警備隊隊長のひとりが言った。今度は別の警備隊隊長がうなずいて、皿からチーズを一切れ取って口に放り込む。
「わたしらが羨ましいのよ、こんな素晴らしいものを味わえる特権階級なんだから」
 四十歳に届くか否かの女は、空のグラスに赤いワインを秘書に注がせた。派手な化粧と金銀を使ったアクセサリーで、太り気味の身を飾り立てている。
「だが、あの下賎な連中は知らないよ、我々がこんな素晴らしいものを食べられるってことをな」
「そうだなあ。知ったら最後、連中は町のやつらを扇動して暴動を起こすだろうな。住居を隔てる大きな囲いをぶちこわして、我々の生活を完全に破壊してしまうかもな」
「そうね。それに、あのじいさん達の負の遺産が、残ってるからねえ」
 会議室の空気が重くなった。
「そしてあの、世界一の金持ちの男が、その負の遺産をいつでも解き放てる立場にいる」
 誰かがポツリと言った。
「年端も行かない新米隊員ごときに五年前の事件の真相を知られて、しかもその隊員ひとりを手に入れるために、じいさん達はさんざん振り回されてたな。で、とうとう引退して我々に後を継がせた。あれ以上あの男に振り回されて心臓が持たなくなったんだろうな。そのわりにピンピンしてるけど」
「で、その新米隊員はどうなった? まだあの男のところか」
「さあ、それは分からない。だが、あの男が我々を脅しても意味はない。あの男が脅せるのはあの老人たちだけで、あの事件に関係していない我々を脅すことは出来ない」
「そうだな」
 誰かの一言で、会議室の空気は少し軽くなった。
「あの事件と我々は関係ない。関係あるのは、引退した老人たちだけだ。我々を脅しても意味はない。我々は無関係、無関係なのだから!」
 少しぎこちない笑いがあふれた。
 数時間後、ワインで心地よく酔った面々は、会議室を後にした。心に一抹の不安を抱えたまま。

 ユリは記事の編集の手伝いが終わると、やっと小説の校正に取り掛かる事が出来た。牢獄内で、自分を陥れた相手についての情報を集めた主人公は、次にどうやって脱獄しようかと考えている。頑丈な鉄の格子、固められた土壁。何も道具を持っていないので、格子を削ることも出来ない。だが、毎度の食事でついてくる使い捨てのスプーンを思い出す。あれを使って何とかできないだろうかと考えた主人公は、折れやすい化学製品のプラスチックスプーンを使い、寝台の側の壁を少しずつ削り始めたのだった。
(結構執念深いというか、行動力があるっていうか……)
 ユリは校正しながら考えた。この主人公は、自分をこの異世界に連れてきた石を見つけ出すつもりでいる。そのために行動し続けている。主人公は正義感が強いわけではない。機会があれば遠慮なく利用しようと策をめぐらし、時には誰かを陥れてでも機会を掴もうとする。正邪あわせもった普通の人だと彼女は思った。だが、少し不気味でもあった。作中で幾度も繰り返される主人公の呟き。
「早く帰りたい」
「どうしたら帰れるんだ?」
「早くあの石を手に入れないと!」
「俺は無実なんだ!」
「何にもしてないんだ! 本当なんだ!」
 これらの言葉のどれかが必ず数ページおきに出てくるようになった。己を潔白と主張するひとりごとは投獄後から始まったのだが、それらの呟きを見るたびに、この作者が本当に無実の罪で牢獄にとらわれているのではないかと、ユリは思うのだった。だがヘンリーに聞いてみる勇気はなかった。
 この原稿を書いた作者は『どこにいた』のか、と。
 校正が終わってからヘンリーの元へいき、原稿を渡す。ヘンリーは原稿を一通り読み返してからうなずいた。
「ありがとう」
 それからヘンリーは、ユリに記事編集の手伝いを指示し、己は記者たちの相手をはじめた。

 一般市民とはかけ離れた豪華な暮らしをいとなむ、特権階級の屋敷の一つに、手紙が届いた。
「あっ、ヘンリーにいさんから?」
 背まで伸ばしたくすんだ銀髪、褐色の肌。年頃は十五歳ごろ。フリルのたくさんついたずいぶん子供っぽいデザインのドレスを着た、頬にそばかすのある少女。
 腰の曲がったひげもじゃの執事は、少女に手紙を渡した。
「さようでございます、ニッキーお嬢様」
 ニッキーは手紙を受け取るとさっそく封筒の封を乱暴にビリビリ破って、中のきれいな便箋を取り出した。そして目を通していく。
「えっ、ワタシに彼氏を紹介してくれるの?」
 ニッキーの目は輝いた。
「うんうん、年上で、綺麗な黒髪で、物腰の柔らかい人! ええ、もちろん会いたいわ!」
 ニッキーは大喜びで、執事を呼んだ。
「ヘンリーにいさんが帰ってきたら、伝えて。『もちろん会いたい』って」
「かしこまりました」
 執事は真っ白なひげの奥でもぐもぐと小さな声を出した。
 四日後の夕方、疲れた顔のヘンリーが帰宅したとき、執事はその言葉を伝えたのだった。
「そうか、きてくれるのか。ありがたいな」
 部屋で着替えながら、ヘンリーはほっと息をはいた。
「庶民あがりだからと他の連中に馬鹿にされて、ニッキーには彼氏も友達も出来なかったからな。これを機に仲が良くなってくれれば……」
 執事はおしだまって着替えを手伝った。それからヘンリーがスープとサンドイッチの簡単な食事を取っていると、ノックもなしにドアが乱暴に開けられ、桃色のガウンを着たニッキーが飛び込んできた。
「ヘンリーにいさん! おかえりなさい!」
「部屋に入るときはノックをしろと毎回言っているじゃないか」
 妹の突然の突入にも、ヘンリーは慌てなかった。
「おかえりなさい、ヘンリーにいさん。ところで、お父様は?」
「あと少ししたら帰ってくるよ」
「そうなの。ところで、ヘンリーにいさん。あの手紙のことなんだけど……ワタシもつれてってくれるんでしょ、あのお屋敷に」
「もちろんさ」
「ありがとー、ヘンリーにいさん! 手紙で紹介してくれた彼氏候補のひとに早くあいたいわ! 初めての彼氏なんだもん!」
 ニッキーは兄の首に抱きついた。
「もっと早くあのお屋敷にワタシも招待してほしかったなー。二年もあのお屋敷の娘さんとおつきあいしているんでしょ? だったらついでにワタシを紹介してくれたって……」
「そんなずうずうしいこと、出来ないよ。さ、出発は明日の朝だから、もう寝なさい。朝の五時に港を出るんだから。お前は早起きが苦手だろ?」
「はーい。明日のしたくはもう出来てるわ。おやすみなさーい」
 ニッキーは嬉しそうに部屋を出て行った。
 翌朝の四時、執事は苦労してニッキーを起こした。ヘンリーはさっさと起きて身支度をし、トーストとコーヒーで食事を済ませ、玄関先でニッキーを待つ。ニッキーはあくびしながら身支度を済ませ、何も食べずに玄関先へ向かう。
「おはよう。すんなり起きたようだね。いつもならあと一時間は寝ていると思ったけど」
「ふああああ」
 ニッキーは大あくびした。
 港までは歩いて五分ほど。眠そうな顔のニッキーは兄の肩にもたれかかるように歩いている。今にも倒れそうだ。ヘンリーは何とか支えてやりながら港へ歩く。もやのかかった海に、街灯で照らされた港が見える。船が穏やかな波に揺られている。豪華客船とまではいかないが、それなりに綺麗な中型の船だ。二人が船に乗ると、もやい綱は解かれ、錨が上げられ、船は港を出た。
「ヘンリィにいさーん、ねむい」
「ほらっ、部屋はそっちだから、寝てなさい。酔い止めの薬は棚の中に入っているから、それを飲むのを忘れちゃ駄目だよ」
「はあい」
 部屋の中の小さなベッドとサイドテーブル、壁の棚。壁に飾られた浮き輪。天井から垂れ下がるレースのカーテン。丸窓から見える薄暗い海と空。
「ふあああ」
 自分の部屋に入ったニッキーは、薬を飲むのも忘れてベッドにもぐりこむ。固い布団だが彼女はそんな事を気にしている暇などなかった。とにかく眠りたかったから。
 ヘンリーは自室に荷物を置くと、電池タイプのボイスレコーダーを取り出した。電池が最新のものであるか確かめ、自分の声を少し録音した。それを聞きなおして正常に動作するか確認してから、彼も妹同様、浅い眠りについた。
 地図に載らぬ島までの船旅が始まった。ニッキーは薬を飲んだにもかかわらず船酔いがなかなか治まらず、部屋に閉じこもってばかりいた。ヘンリーはラジオでニュースを聞きながら、ニュースの内容をメモする。帰社したときの、記者たちの記事攻撃に備えるためだ。そして、ほかの新聞社に先を越されてしまわないように……。
 旅の間、海は荒れることもなく、穏やかだった。島につくころには、初めての船旅であったニッキーは酔いのために完全にダウン。港の桟橋へ降りる体力すら残っていないといったところだ。それでも、桟橋へなんとか降り立った彼女は、まず明るい太陽に照らされた豪華な屋敷に目を見張った。
「すごい……!」
 それでも、使用人の後についていくヘンリーの背中を追って屋敷に入った。ニッキーは始終周りのものに目を奪われ、しょっちゅう兄とはぐれそうになった。長い廊下を歩き、通された部屋は、
「ヘンリー!」
 ドアを開けた途端に中から女性の声がした。衣擦れの音と共に、ヘンリーに何かが抱きつく。太陽のようにまばゆい金髪の、年頃はヘンリーと同じくらいの美女だった。上等の素材で作られたドレスを着て、しなやかな体には無駄な肉ひとつついていない。そのくせ出るところは出ている。ニッキーは思わず彼女の着ているものよりもそのしなやかな体に見とれてしまった。
 ヘンリーも、金髪美女を抱き返し、妹の前なのにも関わらず愛の言葉を優しくかける。本気で愛している事は分かるが、表現が大げさすぎる。聞いている側が恥ずかしくなる。
「ああ、そうだ、紹介します。僕の妹ニッキーです」
 やっとヘンリーは抱擁を止め、後ろにいるニッキーに目を向けた。美女も目を向けた。改めて顔を間近で見ると、その美しさにニッキーはぽかんと口を開けてしまった。
「あなたがニッキー? はじめまして、アタシはヨランダ。お会いできてとても嬉しいわ」
「は、は、はい。はじめまして」
 ニッキーは上ずった声で返事してしまった。だがヨランダはそれを咎める様子もなく、微笑んでいる。
 それからヨランダは少し身を引いて二人を通した。またしてもニッキーは室内の様子にぽかんと口を開けた。ヨランダの部屋はニッキーのそれより広く豪華で、調度品や家具の数や質の良さははるかにヨランダのが上だ。部屋の真ん中にティーセットが四人分準備され、長椅子に誰か座っている。
「お客さまですか?」
 不思議そうな顔で問うたその人物に、ヨランダは応えた。
「ええ、ヘンリーの妹さんのニッキーよ。あなたも挨拶して」
 言われて、誰かは立ち上がる。ニッキーはその人物をよく見た。歳は二十歳ごろだろう。綺麗なくせのない黒髪と黒い瞳を持ち、暗緑色の服とチョッキを着ている。
 その人物はニッキーの側まで歩んできて、言った。
「はじめまして、アレックスと申します」


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