第3章 part1



 アレックスは、目の前でぽかんとした顔の少女を見た。ヘンリーと同じ銀髪と褐色の肌。フリルつきのドレスのデザインは子供っぽく、つけているアクセサリーも安物っぽく見え、ヨランダとは大違いだった。歳は十五歳ごろ、頬にそばかすがあり、目はくりっとしている。顔立ちは、まあまあ可愛いというくらいだろう。美人、とまではいかない。着ている服のせいもあり、よけいに子供っぽく見えてしまうのだ。
「あの……」
 アレックスがどう切り出そうか迷っていると、
「あ、あの! ニッキーって呼んでください!」
 顔を真っ赤にした少女は突然声を上げた。ヘンリーが「こら、失礼だぞ」と制しようとするも聞いていない様子。ニッキーにいきなり大声を出され、アレックスはそれにひるんでしまい、次の言葉を出せない。
「あの、えっと……」
 ニッキーは目をキラキラ光らせている。そしてアレックスに詰め寄り、
「アレックスさんね! 素敵なかたね!」
「は……」
 返答に迷ったアレックスに、ヘンリーは謝った。
「ああ、ごめんなさい! ニッキーは世間知らずといいますか、その……」
「あらヘンリー。いいじゃないの、元気な妹さんで」
 ヨランダは気にしていない。当然。彼女にとってのアレックスは愛でるための人形に過ぎないのだから、誰かがアレックスに対して無礼な行動をとっても彼女は気にしない。アレックスは一方で迷惑極まりないという顔だったが。
 ティータイムを過ごしているとき、ヨランダはいつもどおりヘンリーと楽しそうに話をしていたが、そのうちアレックスたちを残して動物園に行ってしまった。一方でアレックスはニッキーに引っ付かれていた。どうやらニッキーはアレックスに一目ぼれしたらしく彼の腕を握って放さない。その状態で耳元で一方的におしゃべりをするものだからうるさくて仕方が無い。アレックスは、特権階級のボンボンたちに結婚目当てに言い寄られるヨランダの気持ちが分かったような気がした。早く解放して仕事部屋に行かせてくれないだろうかとこの時ばかりは心底から願ったくらいだ。
「ねー、アレックスさん。あなたのお年はいくつです? ワタシより上なんでしょう?」
「はあ、この三月に二十歳になったばかりですけど……」
「五歳上なのね! でもあまり歳が離れてないみたいに見えます」
「そ、そうですか?」
「見たとき、ワタシと同い年だと思いました」
 背が低いからかな、とアレックスは思った。特権階級の者たちは普段から自然の恵みをふんだんに使った料理を食べている。これが本来ならば人間の口にすべきもので、栄養も豊富だ。だが一般人は栄養剤だけしか口に出来ない。必要最低限しかエネルギーのない栄養剤だけでは成長に必要な栄養を完全に摂取しきれないため、身体の発育にまで栄養が回りきらない。そのため身長が低い者が多い。十八歳だった時のアレックスの身長は百五十センチで、一般人の同い年の少年たちの中ではそんなに低いほうに入らない。現在は十センチ伸びていて、一般人の成人男性の中ではやや高いくらいになった。が、特権階級の者としては低いのだ。特権階級の成人男性の平均百七十センチよりも低い。そのため、ニッキーは彼を実際の年齢より若いと思ったのだ。現に、ニッキーと彼の身長差は四、五センチ程度しかない。
「アレックスさんは、お嬢様の弟さんなんですか?」
 お嬢様、とはヨランダを指すのだろう。アレックスは首を振った。
「違いますよ。あの方の……遊び相手、です」
「遊び相手? ということは、血はつながってないんですね」
「ええ、まあ」
「じゃあ、アレックスさんはどこの出身なんです? このお屋敷の人じゃないんですよね?」
 なぜ初対面でこんなことまで答えなければならないのだろうか。適当にはぐらかしてやろうかとアレックスは考え、答えた。
「あなたと同じですよ」
「えーっ、じゃあ、ワタシと同じく、親が一般市民出身なんですね!」
「ええ」
 ヘンリーの父・《アース新聞》の社長は元々一般市民だった。会社を興し、新聞の売り上げによって多額の資産を得る事が出来たため、特権階級の仲間入りを許されたのだ。現在の法律では、一定額以上の資産を持っていれば一般人でも特権階級として認められる。だが、特権階級の仲間入りをしたといっても、周囲からは庶民上がりとして馬鹿にされ、蔑まれている。そのせいか、ヘンリーもニッキーも特権階級内部での友人はいない。二人の母は社交界に顔を出すことは認められていたものの陰湿な周囲のいじめに耐えかねて、屋敷を飛び出してどこかへ消えてしまった。いまだ彼女の行方は知られていない。
「ワタシたちと同じご出身なら、あなたのお屋敷はどこなんです?」
「……ないんですよ、自宅は」
 アレックスは、うんざりした表情を隠しもせずに受け答えしていたが、ふと、ニッキーのドレスのポケットから何か小さなものが突き出ているのに気づいた。
(……なんだあれは。何かの機械?)
「えっ、お屋敷がないんですか?」
「ええ」
「ご両親は?」
「五年前に亡くなりました」
「病気で亡くなられたの?」
「……事故死です」
「まあ、お気の毒に」
 言葉の合間に、アレックスはニッキーのドレスのポケットから突き出ているそれを見つめていた。ニッキーがティーカップを取ろうと体を動かしたとき、その突き出たそれの正体が明らかになった。ボイスレコーダーだ。機体に刻まれたメーカー名に見覚えがある。赤く光るランプは電源が入っていることを示している。
(そうか、会話を録音しているんだな。でも、どうしてこんなもの持ってるんだ? ヘンリーの仕業か? それとも彼女の趣味か?)
 それからもニッキーは質問をぶつけてきた。好きな食べ物や好みのデザインの服など、色々と知りたがっている様子だ。警戒したアレックスは全部嘘で答えた。
「ねー、アレックスさん。ワタシ今までこの階級の人とろくに話した事がないんです。ハンターとはしたことあるんですけど」
「……」
「みんなワタシたちを庶民あがりって馬鹿にして、小さい子でも相手にしてくれないんです。だから、こんなふうにいっぱい話ができるのって初めてで、いっぱい質問しちゃってごめんなさい。でも、ワタシ嬉しいんです、話を聞いてくれる方がいて」
 ニッキーは突然アレックスに抱きついた。
「ねー、アレックスさん。ずうずうしいお願いだけど、聞いていただける?」
「何ですか?」
 ヨランダの抱きつき攻撃に慣れているアレックスは顔色一つ変えなかった。ニッキーは頬を染めながら、小さな声で言った。
「あの、ワタシの彼氏、いえ、まずはお友達になってもらえないですか?」
 しばしの沈黙。
 アレックスは、不安そうな顔のニッキーにやっと声をかける事が出来た。
「ええ、いいですよ」

 その夜、使用人に案内された二人部屋についてから、ヘンリーはニッキーからボイスレコーダーを渡してもらった。
「聞いて、ヘンリーにいさん! ワタシ、やっとお友達が出来たのよ!」
「そうか、よかったな」
「ところでヘンリーにいさん、そのボイスレコーダーをどうするつもりなの?」
「会社でちょっと使うのさ。テープおこしのアルバイトを雇おうと思ってるから、練習用にね」
「えー、恥ずかしいなあ」
「編集するから大丈夫だよ」
「それならいいけど……」
 そのままニッキーは嬉しそうに浴室へ向かった。ドアが閉まった後、ヘンリーはボイスレコーダーの内容を再生する。ヘンリーとヨランダが部屋を去ってからまた戻ってくるまでの、アレックスとニッキーのやり取りが録音されている。
(役に立ちそうな言葉はまだ無いな。だが本当に彼は僕らと同じ一般市民あがりなのか?)
 話はどんどん進んでいく。が、聞こえてくるアレックスの口調は、どうも、適当に答えているようにしか聞こえない。ニッキーがしつこく聞きすぎて、アレックスをうんざりさせてしまったようだった。
 再生が終わった後、ヘンリーはボイスレコーダーのスイッチを切った。
(もっと仲良くなってもらったほうがいいな。でないともっとたちいった事を聞けないし、今聞いたのも全部嘘かもしれないから……)
 浴室側からは、その設備と装飾の豪華さに驚き喜ぶニッキーの声が聞こえてきた。

 自然保護区のK区には、人工砂漠がある。砂漠地帯で生息する生き物たちをここで保護するためだ。その砂漠の一角に、ハンターたちの隠れ家がある。飛行艇も入る事が出来るほど入り口は広く作られている。内部は格納庫のほかに、小さな病院や食料品店、雑貨屋、酒場などの設備がそろっている。この秘密の隠れ家の存在を知っているのはBランク以上のハンターだけ。
 夜間。格納庫に留めてある飛行艇の自室にて、H・Sはため息をついていた。燃料のガソリンと水の補給も終わり、メンテナンスも完了した。後は寝るだけだというのに。
 寝台に腰掛けた彼は、青ざめた顔でうつむいている。
(……弱みを、握らせてしまった)
 アーネストに見せてしまった弱み。彼は何も言ってこないし、それ以上何もしてこない。だがそれは彼がいつでもH・Sを脅迫できる立場にいるということでもある。
(まさか、幼いときのアレが未だに身に染み付いていたとは……)
 H・Sは元々孤児だった。赤子のときから孤児院にいたが、ファゼットに引き取られるまで、職員たちから虐待されていた。何もしていないのに容赦なく頭を殴られたときの痛みと恐怖を体が覚えていて、知らないうちに、頭を殴られそうになると、腕をあげて頭をかばおうとするようになっていた。
 自分に弱みがある事は、誰にも知られたくなかった。いつも近くにいるアーネストには特に。だからこそ己の行動に注意を払ってきたのに……。
(どうしよう……どうしたらいいだろう……)
 アーネストは何の動きも見せていないが、密かに、強請ろうとして策を練っているのかもしれない。それなら、憎悪ゆえに殺されるほうがましだ。死んでしまえばそれきりなのだから。
(どうしたら……奴を止められる?)
 枕もとの時計は静かに時を刻んでいった。
 一方、アーネストも自室の寝台に寝転んでいた。すでに明かりの消した暗い部屋の中、格納庫の天井から降り注ぐ電気の光が窓から差込んで、室内を照らしている。
(あのときのあの反応は面白かったな。子供みたいにビビってたし)
 ためしに、頭を殴ろうとして腕を振り上げてみた。それに反応したH・Sはとっさに両腕を上げて頭をかばおうとした。その腕の向こうの顔は、明らかに、おびえていた。
(あいつは何も言ってこない。まあ俺に喋られたら困るもんな。代わりに、なんだか態度が急にかわっちまった。前より大人しくなったな)
 愚痴や命令の多いH・Sだが、ここ数日はそれもだいぶ減ってしまっている。最低限のことしか言わなくなってしまったのだ。アーネストの顔色をうかがっているというわけではなく、頑張って平静を装っているのだろう。ビクビクしながら常に相手の顔色をうかがって生きるほど、H・Sは卑屈な男ではないのだから。
(あれを知られたってのが相当の痛手だったって事はもう間違いない。となると、今すぐにでも脅して、言うこと聞かせてやりたいところだが、ここは我慢しないとな)
 H・Sの執念深さはアーネストがよく知っている。弱みを握ったからといって油断は出来ない。H・S自身はアーネストを基地へ突き出すこともできるのだから、まだ相手の立場のほうが上だ。仮に完全に立場が逆転してH・Sがアーネストに従わねばならないことになったとしても、油断は出来ない。虎視眈々と復讐の機会をうかがうに違いないからだ。
(イジメすぎると何するかわかんねえから、ちくちくやる程度にしとくか。あいつが威張り散らしていたぶん、今度はこっちがあいつを抑える番だ)

 世界中を飛び回るファゼットは、仕事場の一つにて、アレックスからの通信を受け取っていたところだった。特定の回線を使えばどこにいてもファゼットは通信を受け取れる。同じ回線を使っているアレックスも同じく。
 ファゼットは、寝る前に届いたその通信内容を読んで、首を少しかしげた。だが執事を呼んだ。
「この人物に関する事を全て調べて、四日以内に彼に送ってやってくれ」
 執事に手渡されたその紙には、人物調査を依頼したいと記されており、その人物は二人いた。
 四日目の早朝、アレックスはファゼットから通信を受け取った。紙束が山ほど機械から吐き出されている。紙束をひとまとめにし、まずはファゼットへ礼の通信文を送る。それからいつもの仕事に取り掛かった。昼食時になって初めて、彼は紙束に目を通す。その紙束の中には、その人物に関する情報が詰め込まれていた。家族関係、交友関係、社会的地位……。
 読み終えたアレックスは、セイレンに頼んで便箋と封筒を持ってきてもらい、それに手紙を書いた。
「これ、だしといてくれる? 今日中に届くと尚いいんだけど……」
「かしこまりました」
 メイドは封筒と一緒に、空の食器を持って、仕事部屋を出て行った。
 アレックスは背伸びを一つしてから、機械から次々吐き出される書類に目を通し始めた。活発化する滅亡主義者の活動。特定の地域に密集している。数日前に銀行強盗の情報があったので、その地域の滅亡主義者が銀行強盗によって資金を得たことで爆発物を大量に作り出す材料を買い込む事が出来たのだろう。別の地域では、旱魃の兆しが早くも見え始め、節水が呼びかけられている。さらに別の地域では……
 世界中にあふれる情報全てのうち、ファゼットはそのほんの一部分だけをアレックスに送っている。だがその量も膨大。全部に目を通す頃には夜中を過ぎている。そのためアレックスは全部に目を通してはいない。文章全部に目を通さなくても、世界中の新聞社やラジオ局で取り上げられそうな記事は書類の題名を見るだけですぐ分かるようになったからだ。送る記事が決まったら、世界各地の新聞社とラジオ局にいるファゼットの部下たち宛てに文章をまとめなおして簡単な記事を作る。記事を自分で作るのが一番手間がかかる。向こうがちゃんとした記事の形に直してくれるとはいえ……。また、月に一度の会議が近づくと、Aランクハンターたちから彼宛てに会議の資料用の情報が次々と送られてくる。会議の資料としてこれらをまとめるのもアレックスの役目だ。資料を読んでいると、ハンターたちの中でもH・Sは詳細な情報を集めているのがわかる。彼はハンターの中でも特に情報収集能力が高いのだが、毎度毎度、辞書を引かねばわからない専門用語を山ほど詰め込んでくる。意地悪をしているのだ。
 理由は単純。ファゼットがアレックスを後継者にふさわしい人材として認めていることを、幼い頃にファゼットに引き取られた《子供》たちことAランクハンターたちは快く思ってなどいないのだ。引き取られた後にスパイとなるべく教育されハンターとしての訓練を施された《子供》たちの中では、H・Sがファゼットの後を継ぐと考えられていた。ファゼットに特に可愛がられてきた彼は確かに後を継ぐにふさわしい能力の持ち主であるが、契約至上主義者であることと人間不信が強すぎることが欠点だった。アレックスはしかしながらファゼットが目をつけるほど高い潜在能力を持っていた。貪欲な知識欲と強い好奇心、情報収集力、理解力など、ファゼットの後継者に必要な、H・Sに匹敵する能力。だからこそファゼットはアレックスを後継ぎにしたいと考えており、今でもその考えは捨てていない。が、アレックスはファゼットの後を継ぐ気など、さらさら無かった。
 セイレンが戻ってきた。アレックスは、次々に吐き出される紙のうち一束をわしづかみにして、題名をサラサラ流し読みしているところだった。彼はサラサラと題名を読み、次の一束をわしづかみにして読む。記事にしてもよさそうなものがあればメモをとる。
 ふと、アレックスはセイレンに目を移した。
「ねえ、セイレン」
「はい」
「恋した女の子ってさ、その……相手の男の人に引っ付きたがるものなのかな」
 明らかにメイドを動揺させる質問であった。セイレンの頬は赤く染まった。セイレンはしばらく黙っていたので、さすがにアレックスもうろたえた。
「あの、オレ、何か変なこと聞いた、かな?」
「い、いえ。ですが」
 セイレンは落ち着きを取り戻した。
「恋をした女性の方というのは、積極的になるかたもいますし、消極的になるかたもいます。必ずしも男の方と一緒にいたがるというわけではございませんが、それでも四六時中その相手の方のことを考えずにはいられないものです」
「そういうものなのかな」
 両親は仲むつまじかったようだが、目の前でベタベタ引っ付いていた記憶は全く無かった。逆に、ヨランダとヘンリーは毎度毎度引っ付きあっている。夫婦と恋人では愛情表現が違うのだろうか。
(よくよく考えると、オレ、恋って呼べるもの経験したことないな。学校や孤児院の女の子に、なんだろ、ときめくっていうのかな、そんな感情抱いたこと無いや)
 首をかしげながら、アレックスはペンを紙に走らせた。それから書類を渡されるまで、セイレンの頬は赤く染まっていた。

 執事から封筒を受け取るなり、ニッキーは黄色い声を上げた。
「キャーッ、アレックスさんからだわ! ワタシあてに早速ラブレターくださるなんて!」
 ニッキーは黄色い声を上げ続けながら、封筒をピリピリ破った。そして中に入っている白いシンプルな便箋を取り出し、読み始めた。便箋は一枚しかないので、読み終わるまでに五分もいらない。だがニッキーは十分以上もじっくり時間をかけて読んだ。そして、読み終わると、頬を真っ赤に染めていた。
「また会いたい、ですって! 嬉しい! 早速返事書かなくちゃ」
 ニッキーは早速便箋に手紙を書き、新しい封筒に入れて執事に渡した。
「これ、お願いね」
「かしこまりました、お嬢様」
 それから三日後の朝、ニッキーから手紙の返事が届いた。アレックスは風呂上りにそれを読み、無表情のままマホガニー製の机に置かれた小さな書類箱の中に手紙をポイと放りこんで、何事もなかったかのようにぐっすり眠ったのだった。

 朝五時、アレックスはセイレンが起こしに来る前に飛び起きる。嫌な夢を見て目が覚めてしまったからだ。汗びっしょりになっていたので、浴室に入ってシャワーを浴びる。食生活の変化と二年の歳月が彼の体を成長させ、ひょろりとした細っこいカカシのような少年ではなく、小柄ではあるが普通の体格の青年へと変化させていた。そしてその体には、生涯かかっても消えない、大きな裂き傷がついている。バッファローたちに踏まれ、突き上げられたときの傷。悪夢を見た翌日には必ずこの傷が痛み出す。
 温かな湯で汗を流してさっぱりした後、体を拭いて髪を乾かし、苦労しながらカミソリと専用石鹸を使って顔を当たる。最初は顔を切ってばかりだったが、最近になってやっとマトモに髭がそれるようになった。顔を剃った後は服を着て、ベッドの柔らかな羽根布団をちゃんとたたみなおす。ため息をついてその上に寝転ぶ。ビロードのカーテンの隙間から見える外界は、夜明けを迎えようとしている。カタカタと窓が鳴り、ビュウビュウと風の吹きつける音が聞こえてきた。
 アレックスは考えていた。
(あの男はオレを使って何かを成し遂げたがってるような気がする。《子供》たちでは無理なこと、あるいはあの男が直接手を下してはマズイことがあるんだろう。でなけりゃ、これほど重大な役目や権力を与える理由が無い、一歩間違えば戦争を引き起こしかねないようなものだし。それとも、本当にオレが後継者にふさわしいか力量を試してるんだろうか。まあ大金を積まれても後を継ぐつもりなんかないけど)
 窓の外で、鳥の鳴き声が聞こえてきた。時計の針は六時を指す。部屋はだいぶ明るくなってきた。ドアのノック音が聞こえ、朝食を持ってきたセイレンがドアを開けて入室する。
「失礼します、アレックス様」
 ベッドに寝転んでいたアレックスは起き上がった。
「ああ、おはよう……」
 朝食をとってから仕事部屋に向かう。席に着くと、機械から吐き出される山のような紙束をひっつかみ、読み始める。
(この地域の新聞の傾向が徐々に変わり始めている。まあ、流してもらった噂に尾ひれがついてきたんだろうな。議会には手が伸ばせないが、個人宅のようなもっと小さなところになら、簡単に捜査の手が入り込める。これで、六月までにこの地域の世論を完全にひっくり返すことができれば、事は成就するだろう。少なくとも目的の一つがこれで達成できる)
 妙に冷たい笑みが、アレックスの口の端に浮かんだ。それから彼は、紙束を次々に掴んで情報を流し読みし、次々に机の上の紙に記事をまとめ始めた。
「セイレン、これお願い。六番と二十八番と五十五番。残りは一時間位したら渡すよ」
「かしこまりました」
 セイレンが部屋を出た後、アレックスはひたすら忙しくペンを動かし続けた。
「ああ、そうだ。忘れてたな」
 アレックスは手元の通信機の回線を開いて、ファゼットの元へ依頼書を送った。返答が届いたのが昼過ぎで、送られてきた紙を受け取ったアレックスは、昼食をとる手を休めてそれを読んだ。それから別紙で彼の必要とする情報が送られてきたのを確認した後、礼を伝えるために一枚書類を書いた。

 朝七時に起床したヨランダは、小間使いからヘンリーの手紙を受け取った。
 頬を赤く染めながら手紙を読む。内容は、やはりヨランダへの愛をつづったもの。綺麗な便箋に連ねられた、第三者から見れば読むのも恥ずかしくなりそうな内容。ヘンリー本人としてはいたって真面目なのかもしれないが……。
 ヨランダは便箋の最後に、追伸が書かれているのを見た。彼の妹ニッキーがアレックスと仲良くなったので、もし許しがいただけるなら次回のティータイムにも寂しがり屋のニッキーを連れて行きたい、と書いてある。
「そうねえ、アレックスの話し相手にもなりそうだし、アタシもあの明るい妹さんは嫌いじゃないし、まあいいわ」
 ヨランダは桃色の綺麗な便箋に返事をつづり、ほのかに甘い香りのする封筒に入れて小間使いに渡した。
「これ、出しておいてちょうだい」
 小間使いは一礼して部屋を出る。
「ヘンリー……結婚できたらいいのに」
 ヨランダはため息をついた。
「最終的にはお父様が結婚相手をお選びになるんでしょうけど。できれば、そんなことしてほしくないのよね……」
 ハア、と孤独なため息が部屋に響いた。
「お嬢様、お支度を」
 小間使いが戻ってきたので、ヨランダは椅子から立ち上がった。
「ええっと、今日のスケジュールは……」


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