第4章 part1



 朝七時半。
「奴らが動き出したみたいだな」
 アレックスは、セイレンに頼んで持ってきてもらった《アース新聞》の朝刊を読みながら呟いた。一面には《デイリーペーパーズ》の突然の火災についての記事が載っている。
「ちょっと町で噂を流すだけでこの有様か。よっぽど連中はつつかれるのが嫌なんだな。傷害事件で逮捕された警備隊の人はちょっと気の毒だったけど……ストレスたまるの、わかるなあ」
 セイレンはデスクの上のカップに温かなミルクを注いだ。
「ありがとう」
 アレックスはカップを受け取った。
「ねえ。たぶん、オレの勘違いだと思うんだけど」
 一旦言葉を切る。
「セイレン、やせた?」
 暫時の沈黙。
「はい」
 セイレンは小さな声でやっと答えた。アレックスは、自分が聞いてはいけないことに踏み込んでしまったかと思わず、
「あっ、ごめん。別に変な考えがあるんじゃなくて、その、ほんとに痩せたって思ったから聞いてみただけで……」
 弁解の言葉は徐々に小さくなっていった。その顔は見る見る真っ赤に染まっていく。
「わ、私ですから、問題ございません。ですが、淑女の方にはお尋ねにならないほうがよろしいかと」
 セイレンは何とか自制したようだった。アレックスの顔の赤さも引いた。
「そ、そうだね……」
 アレックスは仕事を始めることにした。
 仕事を再開して一時間後、セイレンはアレックスの元に封筒を一つ、銀の盆に載せて持ってきた。差出人はニッキーだった。封筒を開けて中身を読んだが、「また会いたい」の羅列。簡単に「こちらも会いたい」と返事を書き、セイレンに頼んで手紙を出してもらった。別に会いたいとはこれっぽちも思っていないのだが。
 次々と機械の吐き出す紙の中身を読んでいく。
「ああそうか、この地域はそろって新聞社が二日間休みを取るんだっけ。緊急スクープは現地に任せておけばいいかな」
 次の紙束を読んだ。
「ふうん、なるほどねえ。基地内部では目に見えて不満が募っている。上層部が何もしないんだからしょうがない。起爆剤があればドカンと行きそうだな。町じゃあ基地への批判と不満。時間削って見回っているのに滅亡主義者の事件を起こしたんだからしょうがない。こっちも起爆剤の使い方次第では沈静の難しい暴動を起こしてしまいかねない。が、共通する敵に不満と憎悪を向けてやれば、もしかするといい結果をだせるかもしれないな。後始末については別に考えておくとしよう」
 それからアレックスはセイレンにいくつか記事を渡して、目的の地区へ発送するよう頼む。セイレンは一礼して部屋を出て行った。
 部屋を出たセイレンの頬はぽっと赤くなった。
(ダイエットに気づいてくださったなんて……)

 ティータイム。
 ヨランダはまたしても、大勢の求婚者に挟まれて、退屈なティータイムを過ごしていた。彼女との結婚を望む大勢の特権階級のボンボンたちは、なんとか彼女のハートを射止めようと必死。ヘンリーしか眼中にない彼女にとって、他の男は邪魔者以外の何者でもないし(アレックスのことはただの人形としてしか見ていない)、あきらかにファゼットの持つ富を目当てにしている連中の妻になどなる気はさらさらない。
(早くこの退屈なティータイムを終わらせたいわあ。この人たちの話、聞いてるだけでもうんざりしちゃう。ヘンリーとお茶を飲めるなら大歓迎なんだけど……)
 せめてアレックスの綺麗な黒髪を撫でたいものだ。ここにアレックスがいないのが悔やまれる。
 周りのボンボンたちは何とか彼女の気を引こうとして色々な話をしてくる。だが彼女の気を引くには至らなかった。それでも時間はのろのろ過ぎていき、彼女はやっと客から解放された。客たちは彼女の気を引けなかったのを露骨に残念がった。力ずくで彼女をものにすることなどできない。そんなことをすれば、ファゼットの力でその家は完全に取り潰しとなり、一族郎党そろって路頭に迷うことになるかもしれない。最悪、全員の命をとられるかもしれない。……ファゼットの地位と権力におそれる故に、彼らはそれを手に入れたいと願っている。いざ結婚してしまえば、今まで以上の贅沢三昧ができるだけではない、あらゆる者をひざまずかせる絶大な地位と権力を手にする事が出来る。これを欲しない者があろうか。
 客たちが客室にそれぞれ引き取った後、ヨランダはほっとため息をついた。
「いつまであんな人たちと一緒にお茶を飲まなくちゃいけないのかしら。つまらなすぎて、せっかくのお茶菓子が全然喉を通らないわ」
 アレックスはティータイムと食事以外は仕事部屋にこもっている上に、仕事中は彼に構わないようにと父から言い渡されている。ヘンリーは別の大陸にいて、船で来るのに数日かかる。
「あーあ。お父様も酷い方ね、いろいろと……」
 あの連中の中から結婚相手を選べといわれても、ヨランダは誰一人として選ぶつもりはなかった。
「お父様が、アタシに早く結婚して欲しいと考えてらっしゃるのはわかるし、アタシも幸せな結婚生活を送りたいと思ってる。でも、あの下心丸出しの連中だけは嫌なのよね……」
 できることならヘンリーと結婚したい。だが彼女は心のどこかでは、ヘンリーは自分の恋人以上の存在ではないとも考えていた。恋人という条件は満たせているが、結婚相手としては何か不足しているのだ。熱い恋仲にある今だからこそヘンリーと結ばれたいという気持ちは強い。だが、夫婦の愛と恋人の愛とは別物と、彼女は心のどこかで割り切っていた。この二年のつきあいを通して、彼女は今の恋を客観的に考える余裕ができていたのだ。
(お母様はどうだったのかしら)
 彼女が物心着く前に病死した母。そういえば、母がどういう経緯で父と結婚したのか、知らなかった。
(お母様は、お父様と結婚して、幸せだったのかしら……?)

 夜九時。
「先に休め。後は私がやる」
 海を越えねば会えない取引相手の元へ行く途中。H・Sはアーネストを先に休ませ、自分は操縦を続ける。自然保護区のK区に隠された秘密のアジトで宿泊する暇がないほど遠くに依頼主がいるときは、夜間は交代で操縦をする。基本的には機械に任せて自動操縦だが、取引相手との通信や、近くを見回る警備隊に見つかった場合は自分で操縦しなければならないので、二人のうちどちらかが必ず操縦桿を握るのである。
 進行方向を定めて自動操縦に切り替えた後、H・Sはため息をついた。時差ぼけや取引失敗の心配をしているわけではない。
(奴はまだ何も言ってこない。だが、確実に私にプレッシャーを与えることには成功しているな)
 目の前のスクリーンには綺麗な夜空が映っている。
(幸い、K区の薬局でいいものが手に入ったからな)
 暗い顔でズボンのポケットから出したそれは、液体の入った薬びん。
(今すぐにでも使いたいところだが、それでは自ら契約違反を犯したことになる。奴はまだ何もしていないからな)
 契約至上主義者ゆえに、相手が契約を破っていなければ己自身もその契約内容には従う。アーネストが彼に逆らわずにハンター活動を続ける限り、彼はアーネストを基地や議会から隠し、守るのだ。
(今までは多少殴られても、そう大したことじゃなかった。せいぜいストレス解消のサンドバッグ代わりに過ぎなかったからな。だが今回は違う。奴は見つけてしまったんだ)
 未だに、頭を殴られるのを恐れている。今までは顔面やみぞおち止まりだったが、あのときのアーネストは明らかに頭を狙ってきた。頭くらいで、と笑われるかもしれないが、孤児院にいたころは、素手だけではなく、時には木の定規やフライパンでも殴られていた。その時の恐怖心が未だに消えていない。だからこそ付け入る隙がないように振舞ってきたのに――
(弱みを利用できる機会を待っているはずだ。何らかの形で――)
 考えれば考えるほどネガティブな表情に変わっていき、頭が重くなってきた。
 一方、自室へ休みに行ったアーネストは、固い寝台に寝転がって目を閉じていた。休めるときには休んでおく。それがハンターの鉄則だから。
 夢を見ていた。真っ暗闇の中、無数の獣に追われる夢。逃げても逃げても、しつこく追ってくる獣たち。やがて追いつかれ、踏み潰され、突き上げられ、激痛の中意識を失う。
「っ……!」
 悪夢にうなされたアーネストは飛び起きた。全身が汗だくになり、呼吸も荒い。……未だに五年前の出来事を引きずっているのは分かっている。でなければこんな夢は見ない。何度も見続けてきた悪夢なのだから、いい加減慣れてもいいのに。
 悪夢を振り払うかのように頭を振って、ユニットバスへ入る。ダークグレーの上着を脱いだその下からは、ハンター活動によって鍛えられた筋骨隆々とした肉体と、その体に走る大きな傷跡。その傷跡は、アレックスの胸の傷と似ている。
 冷たい水を浴びて眠気を払い、服を着る。時計を見ると、夜中の三時。
「おかしいな。まだアラームが鳴ってない……」
 いつもこの時間になると鳴るアラームが鳴らない。時差の関係で起きている取引相手と通信でもしているのだろうか。
 部屋を出て操縦室へ向かう。明かりが自動ドアの隙間から漏れている。シューと静かな音を立ててドアが開く。中の照明がまぶしく、思わず目を閉じる。これだけはどうしても慣れない。目が慣れるまで少しかかる。そして目が慣れてくるとやっと操縦室を見渡せる。
 アーネストは操縦席を見るなり、仰天した。
「おい!」
 真っ青な顔をしたH・Sが操作パネルの上に突っ伏していた。


 四月にはいると、小鳥たちの喜びの声はより一層大きくなる。芽吹いた草は更に濃い緑色になってきて、気温も上がる。空は澄み渡り、雲ひとつない日が続く。
 室内にこもりっぱなしのアレックスには、澄み渡る空の美しさなどどうでもいいことだったが、四月特有の暖かさが眠気を誘ってくるので、それに打ち克つために苦手なコーヒーを飲んで仕事に励んでいるのだった。
「ああもう! こんなに山ほど情報送ってくるなんて!」
 だが今日は、コーヒーが要らない。なぜって、今日は《子供》たちが会議用の情報を送りつけてくる日だから。アレックスは新聞やラジオ局へ送る記事を大急ぎで仕上げ、三十分ほど前から《子供》たちの送ってくる情報に目を通しているところだった。次々に通信機から紙が飛び出してくる。誰が誰の情報なのかすらわからなくなりそうだ。それも、朝も早くからこのありさま。
 昼頃に一段落ついたアレックスはほっとしながら、次の情報を読む。議会の動き、警備情報の変更など、《子供》たちの活動する主なエリアごとに情報はみごとにバラバラ。だがそれが面白かった。各地の情勢を別の角度で見る事が出来るのだから。法律の表側で活動する新聞記者としての一面と、法律の裏側に潜むハンターとしての一面。同じ情報のはずなのに、見方を変えると全く違うものに思えてくるから不思議だ。
「やっぱ遅いな、あいつの情報」
 夕方頃、やっと資料作成の八割を終えたアレックスは呟いた。H・Sは必ず最後に情報を送ってくるが、その内容はどの《子供》たちよりも詳しいものである。そのため、資料作成用の情報は、H・Sの送ってくるものだけで事足りているといっても過言ではない。ただ、わざと専門用語を山ほど詰め込んでくるので、辞書がないと読むことすら困難。
「それにしても遅いな」
 この言葉が出たのは夜八時を回ったところ。各地の朝刊および夕刊用の記事を作成中。これさえ終われば今日は眠れる――はずなのだ。
「送ってこないと資料作れないじゃん。何やってんだよ、あいつ」
 アレックスはセイレンに記事を送ってもらった後、背伸びした。カップに残っていたミルクを飲み干し、
「どうしたものかなあ。寝るわけにも行かないし」
 仕事部屋の隣室にあるトイレで用を足してから戻ってくると、通信機から紙が吐き出されているのが目に入る。
「やっと送ってきたのか――」
 アレックスはほっとした表情で紙を取り、ざっと目を通す。ちょうどセイレンが戻ってきたので、さっそくアレックスは資料作成に取り掛かった。
「また今回も徹夜かなあ。ハンパじゃないよ、この量……」
 アレックスはセイレンに頼んで、必要な辞書を全部デスクに積み上げてもらった。
「どうせ今日は徹夜になるからオレはこっから動けないよ、先に休んでて」
「……かしこまりました」
 セイレンは一礼し、部屋を出て行った。が、三十分も経つと、また戻ってきた。大皿に山盛りのサンドイッチと、コーヒー入りの大きなポット。
「お夜食でございます。ご無理をなさらないよう」
「いつもありがとう」
 頬を赤く染めたセイレンは一礼して部屋を出た。アレックスはさっさと資料作成に取り掛かることにし、鶏肉とレタスをはさんだサンドイッチを一つ頬張ってから、ペンを動かし始めた。
 資料が完成したのはセイレンがいつもアレックスを起こしに来る時間だった。アレックスは資料をファゼットの元へ送信し、やっと終わった安堵感で、デスクに突っ伏して眠り始めた。

 ニッキーは、アレックスからの返信が届くと黄色い声を上げて喜んだ。
「キャー、お返事が来たわー!」
 便箋はやっぱり一枚だけ。読むのに数分もかからないが、ニッキーは五分以上時間をかけてじっくりと読み、何度も何度も読み返す。
「会いたいって言ってくれたわー!」
 ニッキーは頬を赤く染めた。天にも昇る気持ちで胸がいっぱいになり、手紙をしっかり抱きしめて部屋の中をくるくると踊りまわった。くすんだ銀の髪は太陽の光を受けて少しだけ明るく輝いた。
「ああんもう、次に会うときが待ちきれないわ。早く会いたいわ! 何を着て行こうかな? 今のうちに選んでおかなくちゃ。繕って洗濯してアイロンかけて、アクセサリーだって、一番いいのをつけていこう! ああ、早く会いたいわあ!」
 さっそく彼女はタンスを開け、服を選び始める。その頬はリンゴのように赤かった。
 執事はその様子を、微笑みながらも眺めていた。

 取引が終わったアーネストはK区の小病院へとH・Sを担ぎ込んだ。眠り続けて目覚めないままなので、アーネストはそのままいくつかの取引を済ませ、時間を作って病院へ赴いた。
「三日以上ずっと眠りっぱなしなわけじゃよ」
 寝台に寝かされたH・Sを診察した後、金歯を口の中からキラキラと光らせ、背中の曲がった小病院の医者はにやにや笑う。周囲の、仕切りで区切られた奥からは怪我人のうめき声が聞こえてくる。
「で、こいつが寝てる理由は何だよ、じいさん」
「簡単なこと、こやつは、薬を飲んだんじゃよ」
「薬?!」
「睡眠薬じゃよ。このにおいからすると、ここの薬局で売っているそこそこ上等のもんじゃ」
「それで、起こせるのか?」
「起こせるが、一日入院が必要じゃ。三日以上も目覚めないということは、こいつは致死量ギリギリの薬をいっぺんに飲んだと思う。まあ一番カンタンな方法としては、各器官を洗浄後、解毒剤を調合してやるしかないわい。まあとにかく、明日また来なさい」
「……」
 アーネストは医者に全部を任せることにして、自分は飛行艇に戻った。エンジンの整備をし、タンクの水を取り替え、燃料タンクを満タンにしてから、水と燃料の代金を払う。数時間後、アーネストはくたびれきって自室に入った。操縦室には依頼の紙が何枚も着ているだろうが、行く気はもうしない。今夜くらい休ませろ。
(睡眠薬を飲んだって言ってたが、なぜ薬を致死量まで飲んだ? 自殺でもしたかったのか? それとも単に寝不足で、何日もまとめて眠りたかったのか?)
 食事代わりの錠剤を口に放り込み、水で飲み下す。そして彼は上着を脱いで冷たいシャワーを浴びて汗を流し、体を拭いて寝台に寝転がる。
(あのときから、あいつの言動が急に大人しくなった。あいつにとって致命的ともいえる弱点を俺が握ったからだろうな。となると、あいつはそれにつけ込まれるのが嫌で、薬をイッキ飲みして自殺を計った……?)
 それが一番しっくり来る理由であるはずなのだが、どうしてもアーネストは納得できない。H・Sの執念深さや報復の際の用意周到さから考えても、自殺のために薬を飲み干したとは思えない。最悪の手段をとる前に他の方法が取れないか考えるから。だが、自殺のためでないとしたら一体どんな理由があって薬を飲んだのだろう。起きたとしても、相手は教えてくれないだろうが……。
(あいつの秘密主義者っぷりには腹が立って仕方ねえや! もう疲れたし、さっさと寝よう)
 目を閉じると、すぐ彼は闇の中へといざなわれた。
 翌日の昼頃に目を覚ました彼は、眠い頭のままで小病院へ向かった。背の曲がった、金歯だらけの医者は彼を見るなり、ニヤニヤと不気味に笑った。
「思ったより回復が早かったわい。一晩で目を覚ましおった。だが、薬の副作用がキツくてな、頭痛が酷くてたまらんそうな。だから痛み止めを打っておいたんじゃが、そろそろ効き目が切れるころじゃいな。薬をうつ序でじゃ、お前さんも来い。相方が心配じゃろ、ふぇふぇふぇふぇ」
「心配じゃねえって。あんな奴百回切り刻まれても死にゃしねえよ」
「心配なら、ここに連れ込まずに放置して死なせてしまえばよかったじゃろ。ひっひっひ」
「……」
 医者に連れられて、アーネストは奥へ進む。簡単な仕切りで区切られた小さな病室に入ると、そこには病人用のベッドが置いてある。
 ベッドには、額を押さえてうめき声を上げるH・Sが横たわっている。痛み止めが切れたのだろう、歯をぎりぎり食いしばっているのと、額に浮かぶ脂汗から見て、相当頭痛は酷いものだと思われる。いつもの紺の服ではなく入院着を着ているが、はだけた胸元から見えるその体を見るなり、アーネストはぎょっとした。
(な、なんだありゃ……)
 体には大小さまざまな傷が走っている。裂き傷、火傷、縫合跡……アーネストとは比べ物にならない数だ。
「おやおや、もう効き目が切れよったか」
 医者は電光石火の速さでH・Sの二の腕に注射する。H・Sはしばらくうめいていたが、数分ほど経つと、腕をおろした。今度は息が荒くなっている。頭痛に必死で耐え続けて、疲れたのだろう。そのまま目を閉じてしまった。
「また目を閉じたのお。だが今度は、単に疲れているからじゃて」
「わかってらい」
「今日中に退院できるからの、夕方頃、また来るんじゃぞ」
 医者は次の患者の様子を見るために、先に出て行った。アーネストはすぐには出て行かず、目を閉じたH・Sの顔を見つめた。先ほどまでの荒い呼吸はだいぶ静かになっている。
 H・Sの片目が開き、アーネストを見た。赤く充血した青い瞳が、まっすぐに見つめてくる。アーネストは怯まずに睨み返した。
「なぜ薬を飲んだ?」
 アーネストは問うた。が、相手は何も返答しない。しばらく無言のにらみ合いが続き、やっと折れた。が、
「……お前なんか、大嫌いだ」
「っ!」
 首を絞めてやりたくなる衝動をアーネストは必死でこらえた。
(こいつ、この期に及んで……!)
 相手の首を本当に絞めかねないところまで湧き上がった怒りをやっとこらえ、アーネストは部屋を出て行った。
 H・Sはその背中を見送り、目を閉じた。
「……信じるものか」


 四月の会議の前日。
「ヘンリーどうしたの。何だか顔色が悪いわ」
 ヨランダは心配そうな顔をヘンリーに向けた。ヘンリーの顔には憂いがあり、少し暗かった。
「あ、いえその、ちょっと最近仕事上の悩み事があって。でもいいんです、ここにいる間は忘れることにしますよ」
「それならいいけど……せめて、目一杯楽しんでちょうだいね」
「もちろん!」
 ヘンリーに笑顔が戻ったが、それは作り笑いにしか見えないものだった。ヨランダにもそれがわかっていた。
 ニッキーは兄とは対照的に、アレックスにべったりひっついている。アレックスは困り顔を隠しもしないで紅茶を飲んでいる。彼女は自分の持てる限りのアクセサリーと最高のドレスでめかしこんでいるが、常に最高級の素材を使い専属のデザイナーに仕立てさせているドレスを着ているヨランダを見慣れているアレックスには貧相に見えた。彼女が精一杯おしゃれしていることはわかっているのだが……。
 ヨランダはヘンリーを何とか楽しませようと、植物園への散歩に誘う。ヘンリーは快く承諾した。ニッキーはそれを聞いて、
「ね、アレックスさん。ワタシたちも行きましょ、植物園」
「……そうですね。でも無粋なまねはしないほうがいいでしょう。動物園にしませんか。動物が好きだってお手紙にもありましたし」
「まあ、ワタシのお手紙覚えていてくださったの!? 嬉しい!」
 ニッキーは頬を赤く染めてアレックスの首に抱きついたので、危うく彼は飲みかけの紅茶をこぼすところだった。
「じゃあ、行きましょうか」
 十分後、ヨランダとヘンリーは植物園へ、アレックスとニッキーは動物園へ向かっていた。それぞれ別れた後、アレックスはニッキーに引っ付かれてしばらく歩く。馬を使った昔の乗り物・馬車がある。あまり好きではないが、乗ると、馬を御する者がいないのに、馬車は勝手に進む。なぜかというと、この馬車、レールに乗って進む金属の乗り物。馬は馬車を引っ張る必要がない。馬自体も金属製だから。動物を見るために馬車を止めたいときは、天井から下がっている紐を引っ張ればいい。
 はしゃぐニッキーの言葉に適当に受け答えしながら、アレックスはニッキーのドレスを見る。前回彼女はドレスのポケットにテープレコーダーを入れていた。今回も、もしかしたら入れているかもしれない。
(!)
 ニッキーのドレスの後ろ側のポケットに、それは入っていた。まだ録音はされていない。ニッキーは、もぐもぐと餌を食べているライオンを見ていてアレックスに何にも注意を払っていない。アレックスは手をそっと伸ばし――
「キャーッ」
 いきなりニッキーが彼に抱きついてきた。雄ライオンが吼えたのに驚いたのだ。
「だ、大丈夫ですよ、襲ってはきませんって!」
 ライオンを初めとする動物たちは、下方の広々とした檻に入れられている。だから檻を破って坂を上ってこない限りは大丈夫。だがニッキーを怯えさせるには十分だったようだ。アレックスは素早く彼女のドレスのポケットに手を伸ばし、録音機を取った。ニッキーはそれに気づいていない。ライオンに目が釘付けとなっているからだ。アレックスは電光石火の早業でテープレコーダーのフタをスライドさせてテープを親指で押して外し、座席のクッションに落としてから再びフタをスライドさせて閉じる。
「は、初めて見たけど、ライオンて怖い……」
 ニッキーが起き上がる直前に、アレックスは彼女のドレスのポケットにテープレコーダーを再び滑り込ませ、手を自分の体の側に戻すのにあわせて、クッションの上のテープを素早く手で隠しつつ掴む。ニッキーは気づいていない様子。
「じゃ、次に行きましょうか」
「え、ええ……」
 上着のポケットにテープを隠したアレックスは天井の紐を引っ張って、馬車を前進させた。
 動物園を一回りした後、二人はセイレンに案内されて、ヨランダの部屋に戻ってきた。まだヨランダとヘンリーは戻ってきていない。ニッキーは椅子に座りなおし、
「アー、楽しかった! あんなにたくさんの動物たちを見たの、生まれて初めてです! いつもハンターに持ってきてもらった犬たちしか触ったことないし……」
 紅茶を一口飲んで喉を潤す。
「アレックスさんはどんな動物が好きなんです?」
「虎ですかね」
「どうして?」
「そうですね――」
 まだ座っていないアレックスはニッキーを見下ろした。
「虎視眈々と獲物を狙う、あの目が、好きなんですよ」
「へえ、そうなんですか〜」
 ニッキーは笑いながら答えた。
 分かっていないようだった。

 その夜。ニッキーから渡されたテープレコーダーのフタを開けたヘンリーは、目を見開いた。
「テープがない……!」
 慌ててニッキーに問う。
「テープが入ってないぞ!」
 ニッキーの目が丸くなった。
「えっ。どこかに落としたのかな? 動物園に行ったときとか……」
「フタはそう簡単に外れないんだよ、手を使わない限りは。……まあいい、会社の備品じゃないから自分のポケットマネーで新しいのを調達するよ」
 泣きそうな顔のニッキーにヘンリーは言った。
「もういいよ、ニッキー。それよりお風呂に入っておいで。疲れたろ」
「うん……」
 ニッキーが浴室へ行った後、ヘンリーの褐色の顔が少し青ざめた。
(まさか、取られた?!)
 コンコンとドアがノックされ、入ってきたのは、桃色の髪のメイド。
「失礼いたします。ヘンリー様、アレックス様がお会いしたいとのことです……」
 アレックスが呼んでいる? ヘンリーは首を傾げたが、すぐに思い当たった。
(そうか、テープレコーダーのことで……!)
 行くべきかどうか迷った。だが、行くしかなさそうだった。
 メイドに案内されたのは、小ぢんまりとした小部屋。ベッドやタンスがあるところから見て、誰かの部屋のようだ。部屋の中央にあるマホガニー製のデスクに、なじみの人物がいる。
「ありがとうセイレン。そこにいて」
 書類をデスクに散らかしているアレックスが立ち上がった。ヘンリーは思わず一歩下がる。メイドは一礼してドアを閉めた。アレックスはデスクの上の紙をさっと脇にどかしてスペースを作ると、言った。
「お疲れのところお呼び立てして申し訳ありません。どうぞおかけください」
 ヘンリーは勧められるままに椅子に座る。アレックスも座る。
「さて、自分が貴方をお呼び立てした理由、もうお分かりのことと思いますが?」
「ええ……」
 ヘンリーの声は小さくなった。やはりばれていた。
 アレックスは上着のポケットに手を入れ、黒くて小さな四角いものを出す。間違いなく、テープレコーダーに入れておいたテープだった。
「自分は、別に貴方について憤りを感じている訳ではありません。が、貴方の妹さんが盗聴を趣味としていらっしゃるとなると――」
「ち、違います!」
 ヘンリーは身を乗り出した。
「妹の趣味などではありません! 僕のせいです。妹は関係ない……」
「……そうですか」
 アレックスは冷ややかに言った。
「では貴方から理由を説明していただきましょうか?」
 ヘンリーは理由を話した。二年前に扱った記事の、ハンターと内通していた野生動物保護官《アレックス》と今目の前にいるアレックスが同一人物なのかどうかを知りたかったため、会話を記録していたのである。
 聞き終えたアレックスの声は、先ほど同様冷ややかだった。
「貴方も盗聴がお好きなようですね。取材のためなら身内も使う、と。さすがは記者の魂」
「……」
 アレックスはテープをデスクに置く。
「貴方にお返しします。もうこれからはテープなんか必要ありませんからね」
「えっ? それはどういう――」
 驚くヘンリーの眼の中に、アレックスの冷ややかな笑みが映る。
「決まっているでしょう。貴方のお望みの情報を差し上げるんです」
 アレックスは言った。
「二年前に指名手配されて処刑された野生動物保護官《アレックス》。それは、自分のことです」


part2へ行く書斎へもどる