第4章 part2



《デイリーペーパーズ》爆破事件から数日。どの新聞社も、野生動物保護官と労働者風の男たちの争いを記事にするのを止めてしまった。新聞社以外にも雑誌社が調査を続けたが、いずれも記者の死体を野ざらしにされるか会社が爆破されるかの末路をたどった。
(あの爆破事件は基地か労働者のどちらかからの圧力だろう。基地の評判はずいぶん下がっているし、町では滅亡主義者が潜んでいるという噂で持ちきりだし、こんな時にあの傷害事件がおきたんだから野生動物保護官も町の人も、双方がナーバスになっても仕方がない)
 ヘンリーはため息をついた。あの脅しに屈して傷害事件について取り上げるのをやめてしまったが、本当はもっと追求したかった。社長である父はさらに事件を追及するよう言ったが、実質上社員を預かる身の上である副社長のヘンリーは、社員の犠牲を出したくなかったと反発した。本当はもっと追求したい。だが社員を失うことを考えると――雇えば記者の補充が利くという考えをヘンリーは持っていない――会社にとって痛手となるだけでない、社員からの信頼も失いかねない。だから追求を止めた。記者たちは不満そうだったが、ヘンリーは時間をかけて彼らを説得した。次に狙われるのは自分たちかもしれないのだ、と半ば脅しをかけて。
 四月のティータイムに行けそうな日を決め、出社前にヨランダ宛に手紙を書いて執事に出させる。それから食事を取って支度をして出社。
(どうしたものかな……あの事件の詳細を知りたいが、僕はあの脅しに屈してしまった。それ以前にも、議会からの圧力で取材中止に追い込まれた事件だってあるし……)
 鍵を開け、社内に入る。カーテンを開けると、明るい太陽の光が入ってくる。が、ヘンリーのここの中にまでは差し込んでこなかった。
 八時半を過ぎると社員が出社してくる。九時に本格的に仕事を開始する。何の変哲もない日常が、また続く。町でささやかれる噂は少しずつ物騒なものになり、町の空気自体がどんどん重くとげとげしいものに変わっている。
(やっぱり滅亡主義者のしわざなのかしら)
 ユリは郵便局で手続きをしながら思った。領収書をもらい、会社に戻る途中、喉が渇いたので売店で液状栄養剤を買って飲んだ。売店の中には腰の曲がった老婆が二人いて世間話をしているほか、失業者と思われるぼろぼろの服を着た男たちが数名いて、栄養剤を飲んでいた。ユリはコップを流しに入れてからさっさとその店を出た。その数分後に男たちも出て行ったが、まるで訓練でもされているかのように、サッと散り散りに素早く別れたのだった。
 ユリは会社に戻ってから、書庫で五年前の事件の記事を探していた。
「確か編集長に頼まれたダイエット記事は……」
 突如爆音が遠くで聞こえ、部屋がわずかに揺れた。棚から、ファイルが一冊落ちる。
「なに?!」
 彼女は反射的に書庫を飛び出した。
「火事だ!」
 社員たちが窓に張り付いている。窓の向こうで、赤く燃え上がる炎とどす黒い煙。
「あの方角は……!?」
 ユリは、消防車のサイレンの音も記者たちが騒ぐ声も、ほとんど耳に入っていなかった。
 あの方角は、郵便局だったから。
 炎上したのは、郵便局から少し離れたところにある売店。ユリが休憩のために立ち寄った店だ。
 店に立ち寄ったと分かると、社内の記者たちはさっそく彼女を質問攻めにする。ユリは必死で思い出しながら、あの店にいたとき、老婆二人と数名の男たちがいたと話をした。室内が騒がしくなったので、ヘンリーは一旦記者たちをしずめ、
「とりあえず重要な目撃者だ。君は警察に話をしなさい。後から詳しいことを聞くよ」
 ヘンリーは警察に電話をかけ、直接警官に来てもらった。騒がしい中なのだ、ユリを一人で行かせるのは危なかった。警察は彼女の話を聞いた後、似顔絵を描き始める。男たちにはほとんど目をくれていなかったがユリは思い出せるだけ思い出し、出来上がった絵を見ては「なんか違う」「確かここはこうだった」とアレコレ注文をつけた。そうしている間にも記者たちは記事を書き始め、何人かは写真撮影のために現場に急行する。似顔絵が完成して警官が帰ったころ、記事も完成した。『売店の爆破事件。犯人の目的は?!』の見出しをつけて。ユリの見た老婆と男たちが必ずしも爆破事件の犯人とは限らないからだ。本当なら彼ら全てを犯人として報道したいのだが、ヘンリーはそれを許さない。裏をきちんと取っていないものは記事にはさせないのだ。
 数週間経って事件がやや下火になったころ、ヘンリーはニッキーを連れてヨランダの屋敷へ赴いた。最近色々と抱え込みすぎていて、ストレスを発散するのにもちょうどいいと思った。だが顔に出てしまっているようで、ヨランダに心配されてしまった。彼女は何とか元気付けようと植物園に連れて行ってくれた。色とりどりの様々な植物は目を楽しませてくれたが、心の底まで元気にはしてくれなかった。
(それより、今回ニッキーは上手くやってくれるだろうか)
 動物園へ連れて行ってもらったとはしゃぐニッキーだが、テープレコーダーからはテープが抜き取られていた。会話の録音は失敗したのだ。
 その後、部屋に通されてアレックスと話をした。アレックスはそんなにヘンリーを責める様子は見せなかったが、その顔に浮かぶ冷たい笑みは、ヘンリーの背筋をぞっとさせた。
 それだけではない。
「二年前に指名手配されて処刑された野生動物保護官《アレックス》。それは、自分のことです」
 アレックスの言葉を聴いたヘンリーは、稲妻に打たれたかのように固まっていた。
「……!」
 ヘンリーがちゃんと喋れるようになるまで時間がかかった。唾を飲み込んでやっと話ができるようになった。
「そうでしたか。やはり……」
「やはり? つまりおおよその見当はついていたと?」
「そうですね。ですが、確信はありませんでした。ただのそっくりさんということも考えられますから」
「でしょうね。だからこそ会話を録音して調べてみようとした、と」
 アレックスはこほんと咳払いした。
「ところで、貴方をお呼びした理由はもう一つあるんです」
「何です?」
「貴方の新聞にこの記事を載せていただきたいんです」
 アレックスが差し出したのは、一枚の新聞記事。ヘンリーはそれに目を通すなり、
「これ……五年前の!」
《バッファロー暴走事件》の記事だ。ヘンリーはその文面を見る。見覚えがある。バッファローたちが暴走した後、病院にいる医者や患者にインタビューしたものだ。当時どこにいて、どんなふうにバッファローたちに襲われたのかを聞いたもの。
「間違いない、これは僕が手がけた……!」
「そう、貴方が手がけた記事です。でも、当時の議会の圧力でこの記事はなかったことにされてしまった。貴方が消されなかったのは幸運ですね」
「その記事、なんで持ってるんです……」
「ちょっとコネがありましてね。あなたのこともちょっと調べさせていただきましたよ。新聞の売り上げが少々落ち気味だとか?」
「……」
 アレックスの目の中に、困惑した顔のヘンリーが映る。
「それより、この記事を載せてくださるんですか?」
 ヘンリーはアレックスの顔をやっと正面から見る事が出来た。
「……この記事を載せて、僕や社員の身に何も起こらないという確信を持っているんですか? もしあなたの言うことを聞いてこれを載せた途端、会社が爆破されるなんてことにはならないと、本当に言う事が出来るのですか?」
「もちろん、確信はあります。貴方が殺されるかもしれないという確信が」
「!」
「だからこそお願いしたいのです。ある方に協力していただけるよう既にお願いしました。その結果、貴方を初め記者の方・社員の方、全員をお守りすることになっています」
「……あなたは一体『誰』なんです? そんな、おおやけになっていない昔の個人の記事を引っ張り出せるほどのコネって――」
「自分には何も力はありません。あの方が全権を握っておいでです。自分など、あの方から見ればちっぽけなアリ同然。いつでも捨てることの出来るコマでしかありません」
 アレックスはどこか苦い表情になった。が、すぐ顔を戻す。
「で、もう一度お聞きしますが、この記事を載せてくださるんですか?」
「……断ると言ったらどうします? あなたの言葉が全部真実だとは限らない。本当に我々を守ってもらえるのですか? その記事を掲載して、わが社にどんな利益があるというのですか? あなたは我々に一体何を求めているのですか?」
 アレックスは立て続けの質問に、しばらく黙っていた。
「自分が貴方に求める事は、この記事を掲載してもらうこと、それだけです。この記事を掲載することであなたの新聞の売り上げが上がることは間違いありません。それだけじゃない、今後も自分は御社にだけ特別に新聞用の情報を提供いたします。そして、あなた方《アース新聞》社を必ず何に代えても守ります。……もちろん、記事掲載を承諾して下さらなくとも結構です」
 ヘンリーはため息をつき、納得しかねると言った。しばらく時が流れていく。時計の針がカチカチと十分以上時を刻んでもヘンリーは返事をしなかった。アレックスは目を少し細め、言った。
「今この場で答えを頂くつもりはありません。明日の朝、お返事をいただけますか?」
「わかりました……」
「ありがとうございます。今夜はゆっくりお休みください」
 メイドはヘンリーを客室まで案内した。ヘンリーが部屋に入ると、風呂上りのニッキーが食事中。
「ヘンリーにいさん、どこへ行っていたの? おなかすいてたまらなかったから、先に食べちゃったわよ」
「ああ、べつに構わないよ、そんな事」
 ヘンリーは椅子に座り、背にぐったりともたれかかった。
(ハア……)
 アレックスの、無茶とも言える要求。盗聴がばれてしまった以上ヘンリーに負い目があるのを知っての要求なのだろう。要求というよりは、脅しとも受け取れるが。
(アレックスの言う『あの方』って、あの人のことか?)
 ヨランダの父・ファゼット。ヘンリーはまだ直接会った事はない。特権階級の者ならば、ファゼットがこの世界で最高の地位を持つ人物として君臨することくらい知っている。そして、その地位を狙ってヨランダに求婚する連中がいることも。
(それなら納得がいく。会社を守るために兵隊でも派遣してくれるのかもしれないが、期待してもいいのだろうか)
 記事を載せることで売り上げが伸び、なおかつアレックスは《アース新聞》に特別に情報提供をするという。どこまで本当だろうか。もし本当なら、新聞の売り上げは確かに上がるだろう。五年前に起きたあの事件の傷を未だに引きずる者がいる一方、当時の議会に握りつぶされて取材を中断させられたために詳細を知りたくて仕方ない読者や記者も未だにいるだろうから、一長一短ではあるが。
(特別に情報を提供するといった。具体的にはどんなものを出すというんだ。そして信憑性はあるのか? 裏づけはカンペキなのか?)
 裏づけの取れた記事でなければ載せないヘンリーは、アレックスの言葉それ自体が疑わしかった。アレックスが嘘をついているのでなければ、ちゃんと裏づけの取れた情報を出せるはず。出したとしてもヘンリーがそれを信じるかどうかは別物。
(何故今頃あんな古い事件の記事を載せろというんだ? 何か理由があるはずだ。それがわからないことには……)
 何か目的があるはずなのだ。だがヘンリーにはそれが思いつけなかった。
 あまり眠れなかった翌日。朝食を済ませたヘンリーは、昨日の桃色の髪のメイドに案内され、昨日と同じ部屋に通される。アレックスはまた書類を山ほど散らかしていたが、ヘンリーが入室するとそれらをすぐに片付け、かわりに別の紙束を取り出した。
「おはようございます。よくお休みになれました?」
「いえ」
 ヘンリーはそれを隠しもしなかった。勧められるまま椅子に座り、寝不足の顔でアレックスに問うた。
「昨夜の件ですが、まず僕に教えてもらいたいのです。《アレックス》、貴方は一体何者なんですか?」
「ああ、そのことでしたら、こちらに資料をご用意しましたので」
 アレックスは紙束を渡した。ヘンリーは受け取ってそれを読む。
「こ、これはっ……!」
 アレックスの情報が掲載されているその紙束。ヘンリーが《アレックス》について調べたものと同じ。死亡届まである。確かに《アレックス》は地元の町出身。孤児院で三年間暮らし、十八歳で野生動物保護官として基地へ入隊し、その後八月にハンターのスパイとして処刑されている。
「調べたものと全部同じだ……!」
 思わずヘンリーは声を出す。
「でも、貴方は生きている……!」
「そうです、生きています。なぜなら」
 アレックスは言葉を切った。
「あの方が、自分を手元に置こうとお考えになったからです。そのためには自分に『死んで』もらったほうが好都合。死んでしまえば世間はそれ以上追及しなくなるから、公に『死亡した』と発表するよう基地と議会に圧力をかけた。あなた方マスコミは、発表された偽の情報を鵜呑みにしたのですよ。書類にハンコをおしてしまえば、後はマスコミにそれを渡すだけでいいのですからね」
「圧力……?」
「あの方が自分を手元に置きたがったのは、自分が、五年前の《バッファロー暴走事件》の生存者であるだけでなく、その事件の真相を知っているからです。自分を手元においている限り、議会や野生動物保護警備隊の基地に今後もこのネタで圧力をかける事が出来ますからね」
 ヘンリーは雷に打たれたかのようなショックを受けた。
「自分が、貴方に記事の掲載をお願いしたのはそのためです。事件のより詳細な内容については別の資料をお渡しします。それなら、貴方も納得していただけるでしょう。新聞の読者はこの記事に喰らい付くことでしょう、売り上げも上がります。議会が放つ刺客から御社を守ってもらえるよう取り計らってあります」
 ヘンリーはやっと書類から顔を上げる事が出来た。
「……この記事を載せることで、貴方は何を手に入れるのですか?」
「何も。既に『故人』となったのですから、自分の手には何も入ってきません。お金も、名誉も、何も……でも」
 黒いその瞳に、冷たい光が宿る。
「あえて手に入れられるなら、『達成感』でしょうねえ」
「達成感……?」
 アレックスはそれ以上言わず、
「では、お返事を聞かせて頂きましょう。《バッファロー暴走事件》についての貴方の記事を掲載してくださるかどうか。危険な橋を渡ることをご承知の上で承諾していただけるなら、必要な資料は全てお渡しします。承諾していただけないならば、この話は無かった事にさせていただきます。お帰りになった後も、平穏無事にお過ごしください」
 時計の針はコチコチと時を刻んだ。空気はなかなか動かない。
 書類を睨みつけていたヘンリーは、悩んだ。アレックスは辛抱強く待っている。
 五年前の記事の特集を現在組んでいるからといって、こんな危険な記事を掲載できるだろうか。あの暴走事件の記事を扱った雑誌社と新聞社は全て議会から圧力をかけられてしまった。今回も同じ事が起こるかもしれない。あの爆破事件のように社員を危険にさらすわけには……しかしこの記事を使えば一気に売り上げは上がるだろう。だが……。
 ……。
 ヘンリーはようやく、決断した。
「残念ですが……」

 ヘンリーが会社に戻った日、売店爆破事件の犯人は逮捕された。ユリの見た失業者風の男たちこそ犯人だったのだ。彼らは滅亡主義者だった。ユリは表彰されることになったが、彼女は辞退した。滅亡主義者たちに目をつけられたくなかったから。
 ヘンリーは記者たちに指示を出しながら思いだした。ユリも、アレックスと同じ孤児院の出身だということを。アレックスが実はあの屋敷にいる、と言っていいものだろうか。彼女はアレックスが公式では死亡している事をまだ知らない。ましてやかつてハンターの仲間として指名手配されたことも知らない。孤児院の院長が固く口を閉ざしていたからだ。教えたら彼女はショックを受けるだろう。アレックスが野生動物保護官の一人として基地にいるものと、彼女は思っているはずだ。だが二年前の、指名手配の記事を見つけてしまったら、彼女はショックを受け深く悲しむだろう。
(言わないほうがいいだろうか……)
 いつもどおり働くユリをちらりと見て、ヘンリーは思った。

 ユリは、いつもどおり書庫で資料探しをした。
「立て続けに事件が起きて、やだなあ」
 滅亡主義者の起こす事件が眼に見えて増えてきた。滅亡主義者が町の中にいるのはもう分かりきっていることだった。だが滅亡主義者が一体誰なのか、まではわからなかった。もしかしたら社内にいるかも知れないが、疑い出したらきりがない。
(もしかしたら近所にもいるかも……いけない、いけない。今はそんなこと考えてる場合じゃなかったわ)
 資料をヘンリーの元へ持っていき、小説の校正にとりかかる。だが、頭の中は、先日の爆破事件のことで一杯だった。
「あっ、いけない、いけない」
 ユリは頭を振って、校正に取り掛かった。
 小説の主人公は、脱獄に成功した。だが、彼を捕らえようとする兵士たちに追われ、森の中に身を潜めている。兵士たちはしつこく周りを探している。雨の中、主人公は茂みの中へ潜って兵士をやり過ごし、急いで逃げ出す。そして、山のふもとへくたくたになってたどりついたとき、主人公は石を見つけ出した。
「今回はここまでにしよう」
 ユリは校正を終えた。連載してきた小説も次回で終わりを迎えそうだ。そこそこ人気のある小説だったが、そろそろ次回の素人作家募集をしたほうがいいだろう。
(それにしても、本当にこの小説の作者は誰なのかしら? ここまでリアルに状況を描けるなんて、よっぽど想像力が豊かなのか、それとも経験した事があるのか……)
 ユリはヘンリーに校正後の原稿を出した。


 話は、四月の会議の日に遡る。会議の日の昼、ヘンリーとニッキーは船に乗って帰っていった。その一方で、Aランクハンターたちの操縦する飛行艇が次々と、屋敷の格納庫に到着した。
「うええ……」
 いつもの部屋に案内された後、トイレを占領して、H・Sは嘔吐し続けていた。胃袋が空になってもなお吐き気は止まらず、胃液だけを吐き続けていた。やっと全部おさまったのは三十分後。
 K区の小病院で目覚めさせられたあの日から、体調は優れないまま。吐き気や胸焼けが続き、水を飲むことすら困難に思えた。いつの間にか、食事代わりの錠剤すらも飲むのもやめてしまっていた。
 睡眠薬のイッキ飲み。馬鹿なことをした自覚はある。ヤケ酒をあおるのとは違う、一歩間違えば死んでいた。だが、ひょっとしたらそれを望んでいたのかもしれない。
(死んでしまえばそれで終わりだから……)
 部屋に戻ったが、食事を取る気分ではなかった。胃袋のあたりが異様に熱い。何も食べずに会議用の資料だけをまとめた。
(いや、こちらも、奴の裏切りに対する色々手立ては考えてある。なのになぜ薬を飲んだ……?)
 やはり、死んでしまえばそれ以上何もされないから、かもしれない。短絡的過ぎる。いつからこんなに愚かな考えに頭を支配されるようになったのだろう。頭を落ち着かせるために水を一杯飲もうと思ったが、それも喉をなかなか通らない。薬をイッキ飲みした副作用が未だに体に残っているのだろうか。会議の後で屋敷の医者の検査を受けておこうと思い、彼はそのまま部屋を出た。小病院よりもこの屋敷のほうが、医療設備がはるかに優れているからだ。
「うう、気分が……」
 彼が部屋を去ってから数十分後。時計の針が七時を指す頃、アーネストが格納庫から戻ってきた。やっと整備が終わったので、少し疲れている。
 テーブルの上に二人前の料理が乗っている。が、両方とも手をつけられていない。アーネストは不思議に思いながら自分のぶんの夕飯を済ませ、空の食器を廊下のワゴンに重ねた。それから浴室でシャワーを浴びる。胸の大きな傷にわずかに血がにじんでいる。時々この傷は痛み、出血する。まるで五年前のあの出来事を忘れるなといいたいかのようだ。
 浴室から出た後は、新しい服に着替えてベッドに飛び込む。飛行艇の寝台とは比べ物にならない柔らかさの布団。アーネストはすぐ目を閉じて眠りについた。明かりは自動的に消え、部屋は闇に閉ざされた。

 会議が終わった後、H・Sはフーッと息をはいた。張り詰めた緊張の糸が緩んだ。他のAランクハンターたちの緊張の糸も緩んだ。最近ある地域で急激に活発になった滅亡主義者の対策について、やっと議会側の協力を取り付ける事が出来た。野生動物保護警備隊基地の側は、隊員が傷害事件を起こしたとして町の住人から信頼されなくなってきたから嫌だと渋った。ハンターたちは説得にかかる、治安を回復できなければ警備が厳しくなりつづけて取引もしづらくなるだろうと、アレコレ。時間をかけて、何とか基地の連中を説得する事が出来た。取引が出来なくなるのは連中としても避けたいところなのだ。
 部屋に帰る前に、屋敷の一角にある医務室に入る。大きくはないが最新設備がそろったその医務室にいる屋敷専属の小太りの医者は、彼を出迎えた。
「検査を……気分が悪い……」
「おお、久しぶりですな。体調管理は大人として当然のこと! よろしい早速やりましょう!」
 どういうわけか検査の大好きな医者なので、検査と聞けば夜中だろうが早朝だろうが喜んでやってくれるのだった。とりあえずH・Sは全部の検査をやってもらうことにした。
 一時間過ぎて、検査は終了した。
「薬の副作用かもしれない体調不良ねえ、でも、こればかりは詳しく検査しないと分からんものでしてね」
「そうか……ありがとう」
 H・Sは足を引きずるようにして部屋に戻り、眠りについた。

 アレックスは、五ヶ月ぶりにアーネストにあえてたいそう喜んでいた。それもそのはず、互いに惹かれるからなのか、二人は月に一度の会議の日あたりに会って話をする。アーネストが動物園で犬の散歩をさせている間に、息抜きのために屋敷から出てきたアレックスと世間話をするのだが、ほぼ一方的にアレックスがしゃべり続けていてアーネストは相槌を打つという形になっている。今回も、仕事部屋で缶詰になっていたアレックスが一方的に喋っている。近況報告、最近の悩みなどなど。一体何処からそれだけ言葉が出てくるのかと、毎回アーネストは不思議に思いながらも相槌を打つ。
 話がまだ続いているにもかかわらず、セイレンが姿を現した。
「失礼いたします、アレックス様」
「なに? もうティータイム終わったの」
「いえ、旦那様がアレックス様とお話したいとのことでございます。お屋敷へお戻りください」
 話したりなさそうなアレックスはしょげたが、素直にメイドに従った。
「じゃね。また今度」
「ああ……」
 たまっていたと思われる鬱憤を山ほど吐き出したにも関わらず、アレックスは不満そうな顔だった。アーネストも鬱憤はたまっていたが、動物園の動物を可愛がることで解消する方法を身につけたのでアレックスほどストレスはためていないつもりだ。
(それにしても、半年くらい会ってなかった間に変わったな……)
 アレックスの背中を見つめながら、アーネストは思った。
(俺に吐き出した事以上にでっかい事を抱えてるような気がする。腹に一物ってのかな……何か考えてる顔つきだったし……。いや、ひょっとしたら、しばらく見てねえから、細かいところを忘れちまったのかもしれない)
 だがアーネストは心のどこかに、一抹の不安を抱えていた。アレックスは何かやらかすつもりだ、必ず。もしアレックスが何か取り返しのつかないことをやってしまったとしても――
(俺はあいつを助けられない……)
 不安と無力感だけが、後に残った。犬たちを指笛で呼び戻し、小屋に入れた後、アーネストは屋敷の客室へ戻った。
 ドアを開けた途端、アーネストは仰天した。
 豪華なカーペットの上に、赤いしみが広がっていたから。近づいて調べてみると、それは血液のようだった。だがアーネストは怪我をしていない。物音が聞こえたのでトイレのドアを乱暴に開ける。
「!」
 便器にもたれかかるようにしてH・Sがぐったりと横たわっている。狭い室内には異臭がたちこめ、吐き気を催すあのにおいが鼻をつく。アーネストはH・Sの襟首を引っつかんで仰向けにし、容態を見る。ゆすぶってみたが意識はなく、青ざめた顔はまるで死人のようだ。服にしみがついている。怪我でもしているのかと前を無理やりはだけると、痩せてきた体とあの無数の傷跡が姿を現した。だがその傷跡の何処からも出血していない。ならば服のしみは嘔吐のしみだろう。便器の中を覗くと、にごった茶色の何かと赤っぽい何かが交じり合って何ともいえない嫌な色を作り出している。
「……」
 ほっておくのも気が引けたので、H・Sを背負い、アーネストは急いで医務室に飛び込んだ。K区の小病院より、屋敷の医者のほうが信用できる。医務室に飛び込むと、医者はいきなり奥から書類を振り回しながら飛び出してきた。
「おお、ちょうどいいところに! 結果が出た――」
「それどころじゃねえ! 診てくれ!」
 寝台に横たえられたH・Sは医者と共に医務室の奥へ消えた。一時間以上過ぎてから医者だけが戻ってきた。
「……」
 その小太りの医者の顔色はあまりよくない。
「検査結果どおり」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ」
 医者はため息をついた。アーネストは、椅子代わりの寝台から降りて、医者の側に寄った。
「重度の胃潰瘍と、栄養失調だよ。よっぽどの無理を重ねてきたのだろうね」
「……治るのか?」
「胃袋を摘出せんとダメだね。胃袋が完全にやられててもう使い物にならんよ。とんでもなくストレスをためたか何かしないと、ここまではいかんよ。彼は元々ストレスに弱いのだが無理をする傾向が強かったからなあ……」
「……死ぬってほどじゃないのか?」
「あと数日以上経っていたら、彼は確実に死んでおったかもしれん。吐きすぎて食道がやられかけてたから、水すらも摂取できないからの。だが今なら、胃袋だけですむ。ベッドでの生活をしばらくは余儀なくされるがね。当分仕事は休みじゃな。では、すぐに手術に入るが、いいかね」
「ああ……」
 医者はさっさと医務室の奥へ引っ込んでしまった。その背中を見送りながら、安心したのか残念なのかアーネストは複雑だった。そして、自分は悪人にはなりきれないと思ったのだった。

「久しぶりだね」
 ファゼットは長いテーブルごしにアレックスに言った。二人の目の前には、ティーセットが並んでいる。アレックスの食器はいつもどおりの無地の陶器だが、ファゼットのそれは彼のとは比べ物にならないほど豪華で美しい装飾が施されていた。
「君の働きぶりはいつも書面で知っておるよ。最近の奮闘ぶりには、わたしも頭が下がる」
 おおらかに笑うファゼットの片手には、書類の束。その中には、アレックスの行動履歴と会話内容が全てつづられている。所々には写真も混じっている。
 アレックスは、自分が未だに見張られていることを知っている。なので、落ち着き払って言った。
「ありがとうございます」
「ところで、君の《予定》はその後順調かね?」
 いい香りの紅茶を一口飲んで喉をうるおし、ファゼットはいたずらめいた笑みを浮かべて問うた。アレックスは無表情のまま、答えた。
「はい。おかげさまで、七月には事を起こすことが出来そうです」
「そうか。それはよかった。そして君は、事を起こした後のプランはもう立てているのかね」
「まだです」
「早めに立てておいたほうがいいぞ。事を起こした後、混乱や無秩序が消えるまでにとても長い時間がかかるものだからな」
「そうですね」
 アレックスは紅茶にミルクと砂糖をたっぷり入れた。ファゼットは笑いながら、次の話に移る。
「おお、ぜひそうしなさい。では、本題に入らせてもらうよ」
 ファゼットから見て下座の席に、一人の老人が座っている。歳は八十を軽く越えている。その人物は、アレックスが以前身辺調査を依頼した人物だ。彼が身辺調査を依頼した人物は二人。一人はヘンリー、もう一人はこの人物だ。
「君が身辺調査を依頼した男。あの《バッファロー暴走事件》当時、現場F区にいた議員の一人だよ」


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