第5章 part1



 五年前の《バッファロー事件》の真相。選挙を目前にしていた議員たちは、野生動物保護警備隊基地が一般人にも自然保護区を開放してイベントを開いたのを利用した。当時そのF区にいた議員がバッファローとも気軽に触れ合えることをアピールした結果、バッファローを怒らせて暴走させてしまったのだ。その後、基地は議会と結託して、当地で救助に当たった隊員たちやF区にいた怪我人を基地へ搬送し、毒殺してしまった。救助グループに入れたのにたった一人だけ戻ってこなかった隊員に暴走の濡れ衣を着せ、議会は各メディアに徹底的に圧力をかけて最低限の報道しかさせなかった。ジャーナリストたちはことごとく押さえつけられ、内容を詳しく探ろうとする者は容赦なく暗殺された。ヘンリーが新聞に自作の記事を載せられなかったように、圧力に屈したメディアはわずか数日事件を報道しただけでその後はプッツリと報道をやめてしまった。基地内部に対しても同様、暴走事件についての記事と当時の所属隊員のデータを全て抹消し、事件について探ろうとした者はことごとく消されてしまった。そのため、バッファロー暴走の原因は一人の隊員の職務怠慢によって引き起こされたものとされてきた。だがそれはあくまで表向きの発表でしかない。
 そして今、アレックスの目の前に、待ち望んだ相手がいる。バッファロー暴走のときF区にいたものの何とか難を逃れた元・議員。しわの深く寄った顔と、異様に痩せた細い体。にぶく光を反射するはげあがった頭。顔につけた片眼鏡は、顔の動きに合わせて神経質そうに震えている。
 アレックスはしげしげと老人を眺めた。
(念のためにこないだ身辺調査をしてもらったとはいえ、なんで会うのに二年も待たなくちゃならないんだよ)
 老人の震えている手がティーカップを取る。カップもプルプル震えている。中に入っている紅茶がこぼれそうなほど。
「お前さんは、誰かね」
 やや小さな声も震えているようだ。耳に神経を集中させないとしっかり聞き取れない。
 ファゼットがアレックスを紹介する。アレックスはカップを置き、軽く頭を下げた。
「あ、あの事件の……!」
 元・議員の顔はたちまち青くなった。どうやら、会う相手がどんな人物なのかは聞いていないようだった。
「何もそう怯えなくても良いではないか」
 ファゼットはおおらかに笑う。
「アレックスはただ単に知りたいのだよ、あんたの相方が五年前の当時F区で何をやらかしたのかをな。孫に昔話でも話すつもりで、話してやってはくれんかね」
 カップを持つ老人の手は、プルプル震え続けている。
「あ、あれは事故なんじゃ! 事故なんじゃ!」
 突如叫びだす。
「わしは悪くない! 止めたんじゃ! 止めたんじゃ! じゃのにあいつは……!」
 ぜえぜえと激しく呼吸し始める。
「あああああ、あやつがバッファローを冗談のつもりで、冗談のつもりで叩いたから……!」
 老人はティーカップを握り締めたまま、荒く呼吸している。
「叩き場所が悪くてあんな、あんなことに……! だがわしは悪くない、悪くない!」
 いきなり老人はシクシク泣き出した。カップの中に涙がボロボロ零れ落ちていく。あっけにとられたアレックスに、ファゼットは言った。
「君に会わせるまで二年ほど待ってもらった理由が分かったかね? 彼はあの《事件》について触れられるとこの通りなのだ。自分の無罪を己に言い聞かせ続け、そのせいか心身ともに病んでしまってな、あるていどの回復を待って君の元へ連れてきたのだ。知りたい事は、聞けたかね?」
「……ええまあ」
 アレックスの声は異様に冷たかった。
「もう、お帰りいただいて結構です」
 その答えを待っていたかのように、椅子から飛び上がった客人は震えながら足早に部屋を駆け出していった。年寄りとは思えぬほどの瞬発力だった。
 しばらく室内を沈黙が支配した。
 先に口を開いたのはファゼットだった。
「ところで、先日君は取引に失敗したようだね?」
 ああ、ヘンリーとのアレか。アレックスは紅茶を飲みながら思い出した。ヘンリーは結局記事を載せることを拒んだ。
「ええ。ですが、これも想定の範囲内です。打つ手は他にもありますから」
「おお、だんだん頼もしくなってきているではないか」
 ファゼットは笑った。アレックスは梨のパイを口に入れる前に問うた。
「ところで、貴方は何か手を打つ気がおありなのですか?」
「おや、どういう意味かね」
「自分が事を起こしてから、もしその取り返しがつかないほど影響力や被害が拡大した場合、貴方は何か手を打つ気がおありなのですか?」
「さあ、どうだろうねえ。君が起こしそうな事件の想像はついているが、わたしがそれについて何らかの手を打つかどうかは……まだわからんねえ」
 ファゼットは笑みを浮かべたが、はっきりした答えを返してはくれない。手の内をあくまで見せない。
 答えを引き出せそうにないと思ったアレックスはパイを口に入れた。H・S以上に、ファゼットは何を考えているのか全く分からない男だ。が、
「そうですか。では、全てが終わった後、貴方は自分をどうするおつもりですか?」
「意外なことを聞くのだね」
 紅茶を新しく注いで、ファゼットはまた笑った。だが、その笑いは先ほどの笑いと比べて冷たく感じられた。嘲笑とも冷笑とも受け取れる。
「そうだね。今後君がわたしの役に立ってくれるかどうかで、君の残りの人生が決まる。この意味は分かるかね」
「ええ」
 あの暴走事件で彼は瀕死の重傷を負い、一時は生死の境をさまよった。一度死んだのと同じだ。家族も親類もいない彼には、失うものなど何もない。
「もし自分を『消す』時には、苦痛のない方法でお願いしたいものですね。ひづめや角は痛みしか与えてくれなかったので」
「おお、そうかね! わかっているじゃないか」
 ファゼットは大笑いした。今度は本当に、可笑しがっている笑いだった。だがアレックスは笑わなかった。利用価値のなくなったアレックスなどファゼットから見ればゴミに等しい存在、ポイと捨てられてしまうだけのむなしいものに過ぎないのだから。それがわかっているからこそ……。
 アレックスはカップを受け皿に置いて、ファゼットに言った。
「ところで、次の噂を町に流していただきたいのです、それも今すぐに。ただし、この噂話は基地の上層部や議会など、特権階級の者にだけしか知られてはいけないものです」
「おお、そうかね。では早速手配させよう」
 ファゼットはからからと笑った。

 ファゼットはその夜おそくに、医務室を訪れた。
 専用の個室には、手術の終わったH・Sがやわらかな寝台の上で眠っている。
「どんな具合かね」
 医者に問うた。医者は眼鏡の汚れを拭い、
「胃袋をまるごと摘出しました……。胃潰瘍で胃袋が使い物にならないほどやられていましたから。代わりに新しい人工胃を取り付けておきました」
「そうか。早く回復してくれんものかな。わたしの一番の自慢の《子供》なのに、活動できなくなるのは惜しい」
「彼は昔からストレスには弱かったので、今回の胃潰瘍もそれが原因かと思われます。手術のあとです、活動を再開するには数週間はかかりますね。縫合したばかりですし、ちょっとダメージの気になる器官もいくつかありますから……」
「ううむ。情報収集が出来なくなるのはつらいな。他の《子供》たちよりもはるかにその能力に秀でているのに……」
「しかし、いい機会です。じっくり休ませてやってはいかがでしょうか?」
「ううむ……」
 ファゼットは、《子供》の顔を眺めながらうなった。
「この《子》の目が覚めたら呼んでもらいたい」
「かしこまりました」
 医者がそうするまでもなかった。H・Sが目覚めたからだ。しばらくファゼットと話をした。結局ベッドから動けるようになるまで時間がかかってしまうため、その間は活動を休止しなければならないという結論に達した。ほかのAランクハンターたちは屋敷を出る前に彼の見舞いに訪れた。H・Sが昔からストレスを溜め込みやすいことは皆知っていたが、まさか胃袋をまるごと取り替えねばならぬほど溜めてしまっていたことについては、皆そろって驚いた。
「まあ、君も忙しい日々を送ってきたのだ、今回はこれを機にゆっくり養生しなさい」
 ファゼットは笑いながら言った。H・Sはフウとため息をつき、義父に言った。
「義父さん……あいつは何処ですか?」
「心配はいらんよ。彼ならわたしの目の届くところにいるから。ここは我が屋敷なのだよ」
「……そうですか」
 とはいえH・Sは安心していないようだった。
「なぜ必要以上に気にするのかね。何か理由があるのかね」
「はい……」
 理由を話した後、そのままH・Sはまた眠りに落ちた。ファゼットが部屋を出ようとすると、ファゼットの後ろで足音がした。彼が振り向くと、十歩ほど後ろに、今来たばかりらしきアーネストがいた。ファゼットがここにいるせいか、驚いたような顔をしている。
「おや、ずいぶん久しぶりだね。三年ぶりかな、ずいぶん逞しくなった」
 ファゼットは言葉をかけた。が、アーネストは目を見開いたまま硬直している。
「彼のことかね? 先ほど手術が終わってね、今は眠っている。それと」
 彼は大またでアーネストのすぐ側へ歩み寄った。背丈は四、五センチ程度しか違わないがアーネストのほうが低かった。ファゼットは彼の肩をやさしく掴み、
「君にはここにいてもらわねばならん」
 優しい言葉をかけたにもかかわらず、アーネストは汗びっしょりになってファゼットの顔を凝視していた。

 五月にはいった。日中汗ばむ陽気となる。アレックスは上着を脱いで仕事をし始める。さすがに上着を着たままだと暑いから。セイレンの注いでくれるコーヒーはアイスティーに変わった。
 アレックスはいつもの新聞記事の中に、週刊誌向けの記事を一つ作りそれを混ぜる。これは《バッファロー暴走事件》の真実について少しだけ触れたものだ。ファゼットの部下の中には大手雑誌社にもぐりこんでいる者もいるので、その部下あてに記事とちょっとしたメモを添えて送る。新聞と比べて週刊誌はゴシップ記事のスッパ抜きが非常に多い。ヘンリーやアレックスの目からするとつまらない記事であっても、週刊誌の記者たちは特ダネとして喰らいつく。女優の浮気、議員の新しい愛人などなど。裏が取れていなくても記事として載せる週刊誌もある。新聞と比べてゴシップ記事が多いぶん反感や恨みを買いやすい。だからこそアレックスは雑誌社に五年前の暴走事件についての小さな記事を送ることにきめたのだ。ヘンリーは記事の掲載を渋った。おそらく他の新聞社もヘンリーと同じ反応をしめすだろう、議会からの圧力を恐れて。だが週刊誌はどうだろうか。まだ試した事はなかった。……週刊誌へ記事を送った事はない。
(新聞ばかりがメディアじゃないもんな。オレの視野もまだ狭かった。それに、あの老人の交友関係はなかなか面白いな。これもネタにしてやろう)
 それからニッキーへの手紙を書き、それと一緒に、セイレンに記事の送信を頼んだ。彼の知っている限りの週刊誌の会社へ、記事を送ったのである。


 休日。ユリは、書棚に並びたての週刊誌を一冊とってレジへ並んだ。ファッションからゴシップまで載っている女性誌で、時どきユリはこの雑誌を買っている。今回、雑誌の表紙は有名女優の写真がでかでかと載っている。
 帰宅後、ユリは雑誌を読み始めた。女優の離婚、議員の新しい愛人。何の変哲もない記事が続く。読みたかったファッションの記事に目を通す。最新流行の服と色が掲載され、次には普通のニュース記事に変わる。
 ユリは目を見張った。
『五年前の暴走事件。その真犯人は誰か?!』
 五年前の《バッファロー暴走事件》についての記事。新聞社ではタブーとなっているのに、週刊誌では堂々と載せているのが驚きだった。記事は一ページしかなかったが、彼女の目をひきつけるに十分な内容だった。五年前の暴走事件を起こしたのは、隊員の怠慢などではなく、バッファローと触れ合っていた議員か客だったというのだ。
 この記事が載っていたのはユリの買った女性誌だけではなかった。他の雑誌にも同じ記事が載っていたのだ。もちろん文章は書き手によって異なるが、内容は同じ。バッファローの暴走を起こしたのがその場にいた議員か客のどちらかによるもの、という内容。
 雑誌の購入者たちはすぐにその記事の内容を噂しあい、買わぬ者までもがその週刊誌の記事を読み始める始末。町中にあっという間に広がったその噂、事件当時の客たちの生き残りももちろん聞きつけた。触れられたくないことではあったが、中には当時の状況をわずかに口にする者もいた。F区にいた者は全て死んでしまい、本当にバッファローが暴走した原因を見た者はいないといってもいい。だが、噂には尾ひれがついてしまうものだ、語り手の語った話はあっというまに四割の憶測が加えられることになった。
 この話は、パトロールをしていた隊員たちの耳にも飛び込んだ。
「何だって? あの事件は隊員の仕業じゃなかったのか!」
 喜びとも驚きともつかぬ声が、隊員の間で飛ぶ。特に、五年以上基地にいる隊員は喜びのほうが大きかった。自分たちの怠慢のせいだという陰口を叩かれずに済むのだから。
 喜ぶ隊員がいる一方、
「じゃあ、あのときの事件は、隊員に罪をなすりつけた奴がいるって事か?!」
 憤慨する隊員も現れた。当然だ。これまで隊員の怠慢だとされてきた事件が、実は全くの別人によって起こされたものだとしたら……。
 当時、あちこちの見回りをしていた隊員が記憶していた限りでは、F区にいたのは大勢の客と議員数人だった。もし客が事件を起こしたなら、客が起こしたものとして報道されるだろう。議員が起こしたならそれも報道されてしかるべきだが、報道されなかった。それどころか事件が隊員の怠慢のせいで起きてしまったことを数日報道しただけで新聞も雑誌もラジオも扱うのをやめてしまった。つまりこれは当時どこかから圧力がかかっていたのではないだろうか。一般人がマスコミに圧力をかけるのは難しいことだが、議会はどうだろうか。議会ならば、その権力から、簡単にマスコミに圧力をかけられる。同時に議会は警察の権限を全て握り締めている。警察に捜査をさせないように働きかけることすらもできるのだ。
「やっぱりあれは、議員がやったことなんじゃないか?!」
「そうだ、そうに違いない!」
「議会は我々に濡れ衣を着せたんだ! 上層部はそれに加担したに違いない!」
 議員が犯人だという事実を隠すために議会と基地が結託して、一人の野生動物保護官に罪を着せた。その話は、急速に隊員の間に広まっていった。だが不思議なことに、上層部の耳にはこれっぽっちも噂話は入ってこなかったのだった。
 その代わりに、
「前代の老人たちが次々に老衰と病気で死亡ねえ」
 現在の上層部たちは、口々に話をする。
「まあ、あの歳だからな。もう死んでてもおかしくないさ。議会の連中もそうだろ、交代が激しすぎて誰が誰だかもう忘れてきた」
「他の地域でも、老衰や病死が流行りみたいだし」
「むしろそれだけ生きていれば大往生ってやつだ。悔いることなく死んだろうよ」
「さて、我々をこの地位につけたあのかたがたは亡くなられたわけだが、今度は議会へ頼まなくちゃならんな。あの下層階級のマスコミどものやかましいこと。基地の周りを朝から晩まで取り巻いて、隙あらばマイクやテープレコーダーを突き出してこようとする。議会に頼んで、一言命令してもらえば、あんな奴らあっという間にいなくなるのに」
「マスコミにある程度自由にさせておかないと、一般市民は納得しないのよ。押さえつけすぎると、かえって反動が大きいもんよ」
「反動が大きくてもかまわんさ。こちらには議会の力がある。それに、一般市民が暴動を起こしたとしても、攻撃の手が伸びる前に我々は資産を持って海外へ逃げ出せばいい。別大陸の連中は皆そうしてるよ、海外から一般市民を支配しているのさ、ハハハ」
 好き勝手に喋った後、すぐに流行のワインの味について話を始めた。話の内容は軽いものだったが、その雰囲気はどこか憂いを含んでいた。

 町や隊員たちの間でささやかれる噂は、町にもぐりこんだスパイの耳にも入ってくる。スパイはそれを特権階級の連中に報告する。ちょうど議会は年に一度の選挙の準備段階に入ろうとしていたところで、候補者たちは票を集めるために何をすべきかを考えている。滅亡主義者の起こす連続爆破事件によって町の住人からの信頼を徐々に失いつつある今、治安の回復と同時に獲得票の増加を達成しなければならない。一度議員に選ばれれば半永久的にその地位について議会自体を動かせる。老いてしまった者たちの九割は引退してしまうので、議員の数が多すぎるということはない。そのため候補者たちは議員になろうと躍起になるのだった。元々、議員になるためには、候補者たちはそれぞれ議会に貢物をして気に入られなければならない暗黙の決まりがある。気に入られれば選挙票がどれだけ少なくとも議員になれる。だが、治安の悪化に伴って一般市民から議会に向けて嫌な噂が立てられ始めたのと、民間側の警備の強化でハンターたちの活動も難しくなり報酬の金額が倍以上に跳ね上がることも当たり前になってきて貢物を納める金銭的余裕がなくなりつつあることから、選挙がまた重要視され始めたのだった。だが、特に金持ちの候補者は今も高価な細工物や菓子類などを議会に出している。金銭的余裕のなくなってきたおちぶれかけの候補者は、一般市民の票をできるだけたくさん獲得しようと町中を帆走するのである。
 その日の議会の議題は、町で広がる噂について。町の住人たちの間で「五年前の《バッファロー暴走事件》の真犯人は当時の議員か客人」という噂が流れているという。当時の事件を知る議員たちは未だに数多い。選挙活動中の黒歴史として葬り去られようとしている事件だからこそ、その話が議題にのぼるなり、皆顔面蒼白になったくらいだ。
 ざわざわした議事堂に、木製の槌の音が響いた。今年九十をむかえる議長はぜえぜえと荒く息をつき、手にした小さな木槌を元の場所へおいた。
「静粛に!」
 ピタリとざわめきは止んだ。今年で任期二十五年目の議長は、老齢にもかかわらず声だけはよく響いていた。
「この噂、確かに町中で流れておるものじゃ。新聞社とラジオ局を除いたあらゆる雑誌が、あの忌まわしい事件についての記事を掲載しておる。さらにこの先選挙を控えておる者たちには、これらの記事がこれ以上市民の間に広がっては都合が悪い!」
 そこで一旦息を切らして話を止める。
「だが、あの五年前の事件について我々が上から圧力をかけた事が一般人に気づかれてかけておるから、すぐさま圧力をかけるのは良くない。むしろ、我々にとって都合の悪い事を隠そうとしたとして一般市民からの反感を余計に増やしてしまう」
「ならばどうしろと!? このままにしておいたら、選挙どころか一般市民が我々にクーデターを起こそうと企むかもしれない!」
 誰かの叫びが響く。皆それに賛同するかのようにうなずいた。そろって五年前の事件とは関係の無い議員や候補者が集まっている。かかわりのあった議員はすでに引退して屋敷に引きこもっている。だが、全ての特権階級の者たちがそろってマスコミへ圧力をかけて事件の隠蔽を図ろうとしたのは事実。事件の真実が明らかになれば、下手をすれば一般市民が特権階級の者たちに対して暴動を起こすかもしれないからだ。
「わかっておる。もしかしたらあの男がやったことかもしれないしのう」
 ひそひそと小さな話し声。ファゼットが世界中のあらゆる情報を握り、必要に応じて世論を動かせるだけの力と人材を持っていることを、皆知っているからだ。
「焦っては禁物じゃ。あの男が何か意図してそれをやったならば奴には何らかの目的があるはず。あるいは、あの男は何も関わっておらんかもしれん。とにかく記事の出所を探るのが先じゃ!」
 ぜえぜえと議長は荒く息をついて椅子に座りなおした。
 議会は不穏な空気につつまれた状態で解散した。そのころには選挙のことなど頭から消えうせた者もいた。選挙で勝つよりも、嫌な噂で一般市民たちが暴動をたくらみはしないかとそのことばかり考え始めていたのだから。
 スパイたちが雑誌社を全て調査するのに一週間もかからなかった。記事の出所は、一人の老人からであった。
 当時F区にいた、今は心身ともに病んだ元議員の老人。


 ヨランダはため息をついた。
「とうとう、来てしまったのね……」
 彼女の部屋の机の上に載った、いくつものファイル。それぞれの薄い桃色のファイルには男の顔写真と経歴が書かれた書類が入っている。
「いつか来るものだとは思ってたけど……」
 ファゼットから届けられた、結婚相手のファイルだった。十人ぶんの情報が詰まっている。目を通してみたものの、どれもティータイムでヨランダに擦り寄ってくる男の一人に過ぎなかった。こんな連中よりヘンリーのほうがよほどマシだ。だが、ヘンリーと結婚したとしても、ヘンリー自身がファゼットの地位とその重圧に耐え切れるとは思えない。
 今夜戻るから、と手紙も添えてあった。直接娘と話をしたいのだろう。時間は容赦なく過ぎていった。夜七時過ぎにファゼットは屋敷に戻り、ヨランダを部屋に呼び寄せた。
「送った経歴書には目を通してくれたかね?」
「ええ」
 ヨランダは元気のない顔で言った。
「おや、元気がないじゃないか」
「だって、そうですもの」
 ヨランダは浮かない顔で椅子に腰を下ろす。
「送られてきた経歴書の相手は、皆、アタシに擦り寄ってくることしかしない連中ばかりだもの。連中の頭の中にあるのは、アタシじゃなくてお父様の地位とお金、そればかり」
「確かにお前に擦り寄る男は数多い。いずれもがわたしの財産と地位を狙っている。そして必ずしもわたしの跡継ぎとなる必要はない。わたしの仕事の跡継ぎとしてふさわしい資格を備えた人物は、わたしの知っている限りでは二人しかいないのだからな。それに、裏世界を情報で支配することと、結婚して子孫を残すことはまったく別のこと」
 ファゼットは言葉を切る。
「わたしの仕事のあとを継ぐ資格のある二人だけではない、お前が二年ほど前から付き合いだしたあの若者も同じく、結婚相手とするには彼はあまりにも『力不足』だ。娘の夫となることでどれほどのプレッシャーがかかるか、そしてそれに耐えられるか。彼らではとても無理だよ。まあ、すぐに決めるわけでは――」
「お父様」
 ヨランダは話を制した。
「……お母様は、どんな経緯でお父様と結婚したの?」
「突然なんだね?」
「いいから、教えていただきたいの。アタシ、お母様のことほとんど知らないから……」
 思いつめたような娘の顔を見つめ、ファゼットは観念したように話し始めた。
「そうだな。今まで話してこなかったわたしも悪かった」
「……」
「妻のイライザは、元々わたしの母方の遠縁。彼女の一家はある事業を営んでいたが、不景気で事業は破綻し、多額の借金を抱えながら彼女の両親は病死した。残されたイライザはわたしの父を頼って、船でこの島へと渡った。ちょうどその頃わたしは見合いの相手を探していてな、父からイライザを紹介されたのだ。父は、イライザの抱える多額の借金を返済する代わりに、わたしと結婚するよう彼女に条件をつきつけた。イライザもわたしも戸惑った。それはよく覚えているよ、三十年前の春だった」
 遠くを見るような目で、ファゼットはヨランダを見ている。
「互いに、会ったのは二度目だった。最初に会ったのはまだわたしが十にも満たぬ子供のとき。時が経つにつれイライザのことはすっかり忘れてしまった。それはむこうも同じだった。幸い昔の写真は残っていたのですぐ思い出せたがね。とにかく、イライザは借金を返済しなければならない身の上だった。しばらく悩んだ末に結婚を決意した。わたしのほうは彼女の数倍悩んだよ。イライザとは会った事があるとはいえ、愛しているわけではない。彼女はお金目当てで結婚を申し込んできたのだから尚更だ。だが最後には結婚したよ。彼女への同情がそうさせたのかもしれんし、早く結婚しろという父の古い考えに従わざるを得なかったのかもしれぬ」
 紅茶で喉を潤した。
「結婚後、父はイライザの借金を代わりに返済した。まあ父から見ればはした金にすぎなかった金額だから、本当はわたしとの結婚を条件にしなくても良かったのだがね。とにかく、何もかも終わった後、借金返済の礼もかねてなのか、彼女はわたしに忠実な妻となったのだ。だが、彼女からは感謝こそ感じられても愛情は微塵も感じられなかった。わたしは彼女のことは嫌いではなかったが、わたしも彼女も互いに愛し合ってなどいなかったのだ。政略結婚や見合い婚とは普通そういうもの」
 遠くを見る目はすぐ娘に焦点を結ぶ。
「お父様、お母様は幸せだった?」
「……わからん。わたしは父の補佐役として世界各地を飛び回っていたから、ろくにイライザのことを見る事は出来なかったのだ。帰るたびにイライザは出迎えてくれたが、心から帰還を喜んだというより義務感でそうしているようにしか見えなかった。わたしの知っている限りでは彼女は幸せとは言い切れなかった。だが、ヨランダが生まれてからは、彼女は母としての幸せを見出したと思う。わたしには見せない生き生きした笑顔が、いつも彼女の顔にあったからなあ。病に伏せったイライザが天に召されるときも、わたしではなくお前のことばかり口にしていたよ……」
 ファゼットは寂しそうに微笑んだ。
「夫としても父としても失格のわたしが言うのも何だが、イライザは、妻としては幸せではなかったかもしれんが母としては幸せだった。わたしにわかるのは、それだけだよ」
「……」
「わたしが結婚を勧めるのは、お前にもう寂しい思いをさせたくないからだよ。わたしは引退してからも世界のどこかを飛び回らねばならん。だからわたしの代わりにお前の側にいてくれる者がいれば、お前も寂しくはないだろう。それに――」
 ファゼットは言葉を切った。
「よ、ヨランダ、どうしたのだ?!」
 思わず彼は椅子から立ち上がった。娘の目に、涙が浮かんでいた。
「あ、ごめんなさい、お父様……」
 ヨランダは涙を拭った。
「確かに、アタシはずっと寂しかったわ。使用人は大勢いるけど誰一人として遊び相手になってくれなかったもの。いつも礼儀作法の勉強やピアノやダンスのレッスンばかり。だから、月に一度か二度、お父様がお帰りになるのがとても楽しみだった……」
 そこでヨランダは改めて父の目を見た。
「お父様がアタシのことを考えてくださっているのはわかるの。でも、アタシはもう一人ではないから寂しくないわ。それに、どうしても結婚しなければならないの?」
「できることなら、してほしいのだ。仕事自体は他の者でもできるが、この家を継ぐ事はお前にしか出来ないことだからね。わたしとしても、おまえには幸せになって欲しいと思っているよ。もちろん今お前が付き合っている若者と引き離すような事はしない、会いたいだけ会えるように取り計らうつもりだよ。だから安心しなさい」
 だがヨランダの顔は晴れないままだった。
「五月の会議のときに、候補選びを行う予定だよ」

 その夜。やっと退院できると聞かされたH・Sは安堵のため息を漏らした。ずっとベッドで本を読んで過ごしていたのだが、やはり退屈なものだ。医者は、胃袋を人工胃に換えただけでなく他の内蔵もやられかけていたので念のため取り替えたという。だから回復に長くかかったのだ。さらに点滴生活ゆえにすっかり体重も落ちてしまった。体もなまっているはずだ。
(そうだ、あいつは……?)
 アーネストはどこにいるのだろう。この島から外には出ていないはずだ。それはファゼットが保証してくれた。だが、屋敷の敷地のどこにいるのだろう。与えられた部屋? 動物園? 格納庫?
 H・Sの疑問はすぐに解決した。
 アーネストは部屋にいた。ベッドでいつもどおり眠っている。カーテンの隙間から差し込む月の光が彼の寝顔を照らしている。お世辞にも安らいでいるとはいえない寝顔だった。H・Sは安堵の表情でホッと息をはいた。
(大人しくしていたみたいだな。義父さんのおかげか。とはいえ、まだ安心は出来ないな。もう少し強く抑えつける手立てを考えておかなくては……)
 H・Sはベッドには入らず、そのまま医務室へ戻って最後の検査を受け、医務室のベッドで眠った。同じ部屋で寝たいとは思わなかった。

 陽気な五月だが、町に垂れ込める空気は重苦しく、とても陽気とはいえないものだった。もうすぐ町を挙げての祭りだというのに。水質汚染の度が徹底的に低下して、やっと水がきちんと飲めるようになったことを祝う祭り。年に一度の大きな祭りだというのに、今年はその祭りすらも開催が危ぶまれている。理由は一つだけ。大勢の祭りの客にまぎれている滅亡主義者が何か事件を起こすかもしれないからだ。頻繁に起こる滅亡主義者の事件。以前、彼らは銀行強盗で多額の金を得た。資金で火薬や薬物を密かに購入し、各地で事件を起こしている。町の警戒心はかなり高くなり、互いの友人ですらも疑い始めるようになったほど。世界各地で事件を起こす滅亡主義者だが、この地域では特に彼らの活動は活発だった。しかも誰が滅亡主義者なのかわからない以上、人々は互いに警戒しあう。空気は自然に張り詰め、ギスギスし、ピリピリしてくる。
「お祭り楽しみにしてたのに……」
 ユリはため息をついた。そろそろ町が祭りの準備を始める頃なのだが、社宅のベランダから見える町は、異様なほどピリピリした空気につつまれ、お祭りどころではない。むしろ互いに殺し合いをしかねないほど張り詰めた空気だ。
「さあて、洗濯物入れなくちゃ」
 乾いた洗濯物をたたみながら、ユリはラジオを聴いていた。流行の曲、アンケート、コマーシャルなど聞いていて飽きなかった。夕方のニュースの時間になると、彼女はラジオを切った。どうせ内容はまた滅亡主義者の事件のことだろう。逮捕された滅亡主義者の一人が、長く指名手配されていた幹部の一人だった。他の滅亡主義者たちが警察に脅迫状を送りつけ、また町を騒がせ始めている。平和な町の空気はどんどん重苦しくなるばかりだ。
「どうしたらいいのかしら。会社もどこかフンイキが暗いし……」
 町の空気が変わったのは滅亡主義者の破壊活動だけが原因ではない。町に、滅亡主義者と特権階級が裏でつながっているのではないかという噂が流れている。二年前の選挙のとき、裏で滅亡主義者の幹部に資金を渡して爆破事件を次々に起こさせ、一方で、票の獲得のために治安回復と滅亡主義者撲滅を公約として叫んだ議員候補者がいたのだ。その出来事が明るみになり、当然候補者は逮捕された。その事件がまだ市民の頭の中に残っているのだ。だからこそ、爆破事件が銀行強盗による資金調達以外にも特権階級からの裏金と資材提供によって起こされているのではと疑い始めている。
 選挙活動が少し速めに開始されることになった。町の掲示板に候補者のポスターが次々に貼られ、演説の日程等が記される。ポスターに書かれる公約は毎度毎度似たり寄ったり。減税、警備強化、公共施設増加、などなど。
 ユリは夕食の買い物に出たついでに、広場の掲示板に貼られたポスターを眺める。
(もう選挙の時期なの? ちょっと早すぎるような気がするけど……この時勢だから仕方ないのかしら)
 その側を、中年の主婦たちが群れを成して本屋へ走っていく。
「ちょっとちょっと、早くしないと売り切れちゃうよ! 今週の新刊! 特集が載ってるんだから!」
 見ると、本屋の前には人だかりが出来ている。今はとてもはいれそうにない。
「あ、そうか。今日は雑誌の発売日ね」
 ユリは先に薬局に入り、栄養剤を買う。店の外へ出ると本屋の人垣はかなり薄くなっており、店から出てくる人のほうがずっと多くなった。ユリは本屋に五分待ちで入り、目当ての女性誌をさがす。幸い最後の一冊があったので、誰かに掴まれる前にと素早く手を伸ばして取った。そのまま会計を済ませて社宅へ戻り、雑誌を開く。今回の特集は梅雨の季節に向けてのファッション。レインコートやかさをオシャレに使いこなすための必須アイテムを特集している。
「雨は苦手なのよねえ、あら?」
 紫のおさげをいじっていた手が、止まる。
 ページをめくった手が止まり、目がそのページに吸い寄せられた。そのページには、顔写真つきで記事が掲載されていたのだ。
『バッファロー事件の犯人を知る唯一の証人!』
 痩せて、明らかに病を患っている老人が一人、写真の中で縮こまっている。説明文には、当時F区にいた議員とある。当時、バッファローたちのいた区はF区だった。つまりこの老人は事件当時F区で事件をこの眼で見ていたということになる。記事のほうに目を移して記事を読んでいく。この老人は確かにF区にいた。そして、見たのだ、彼の同僚であり議員の候補者がバッファローとふれあおうとして失敗し、バッファローを怒り狂わせ暴走を起こしてしまったのだった。
 記事は、《バッファロー暴走事件》の真相のみで終わっていた。
 ユリが雑誌を読んでいる頃、ちょうど、高い塀で囲まれた特権階級の間では、一般市民とは別の驚きが広まっていた。この地域の中の有力者が盛大なダンスパーティーを開いた夜、ちょうどその噂がパーティー会場でもちきりとなった。
「聞きました? ほら、あの議会の――」
「あの噂でしょう? もちろん聞きましたわよ、あの噂。二年前と同じ事をまたやっているそうですわね! ワタクシには関係ありませんけど」
「懲りもしないで、またやらかしたのかね。権力欲にはあきれたものだ」
「あんな連中とはいい加減に手を切ればよろしいのに。この噂が柵の向こうにまで広がってごらんなさい、一般市民がわたくしたちの生活を脅かすようなことをするかもしれませんわ」
 特権階級の間で急速に広まっているこの噂。今回の選挙で出馬する議員候補者がそろって滅亡主義者と手を組んだというのだ。滅亡主義者は特権階級も狙う事があるが、紛れ込みやすさから一般市民を主な標的にしている。最近は一般市民ばかりが狙われているので、もしかしたら特権階級が滅亡主義者に金を握らせて一般市民をたわむれに殺させているのではないかという噂が市民に広まっているのでは、と危惧する者がいる。元々、滅亡主義者も現在の特権階級もひとつの環境団体に属していた。だが滅亡主義者は過激派となって、逆にテロリストとして議会から指名手配されたのである。一般市民もそれを知っているので、特権階級の者たちが疑いの目を向けられる可能性は大いにある。滅亡主義者と特権階級の結託。ありえない話ではない。
 優雅な舞踏曲の中を不穏なざわめきが支配し始める。何事もなかったかのように、深夜前にパーティーは終わったが、無人のホールには少し重い空気が漂っていた。

 ニッキーは、路上を移動する乗り物のきれいな光に眼もくれず、安物の木製の机に便箋をたくさん広げていた。いつもなら、舞踏会の会場へ向かう乗り物の光を見ながらそれをうらやむものだが、今の彼女は、一般市民出身という理由で招待されたことのない舞踏会などどうでもよかった。アレックス宛の手紙を書くのに夢中だったのだから。当然、周りで広まっている噂についても、彼女は何にも聞いていない。外へ出る事もないのだから。
「ああ、お返事が楽しみだわあ!」
 毎回アレックスは返事を一枚しか寄越さない。だがニッキーにとっては返信してもらえるだけでも嬉しいものだった。今回も彼女は十枚以上もの便箋に細かい字で色々なことをつづる。日常生活の色々な出来事。庭の小さな花が咲いた、天気のいい日が続く、また次に会える日を心から待っている、などなど。日記帳に記せば一ページで終わりそうな内容だが、彼女はこれらの内容を長々と便箋に書き連ね、封筒にしまいこむ。分厚くなった封筒を執事にわたしてから、彼女は有頂天のままベッドに潜り込んだ。
(今まで誰とも付き合いはなかったけど、アレックスさんと出会えてホントによかった〜)
 外の世界で渦巻く不穏な空気に気づくことなく、ニッキーは眠りについた。

 飛行艇の操縦室。H・Sは、同じAランクハンターの一人と通信をしていた。目的地につくまでまだ時間があるので、情報交換を兼ねての雑談だ。
『最近、取引先からの依頼が減ってきたな』
「そうだな。こちらとしてはまあありがたい」
『そりゃお前病み上がりだもんな。無理するなよ。お前昔から無理するタイプだったからな』
「それは治りそうにないな。もって生まれたものは仕方ない」
『まー、そりゃそうだなハハハ。ところで、いつもお前の隣に座ってたあいつは? 休んでるのか?』
「ああ。最近は奴に全部やらせているからな、疲れたんだろ。そのぶん、今回の会議の資料は薄くなってしまうだろうな」
 モニターの向こうの相手は大笑いした。
 雑談のあと、H・Sは通信をきった。それから、操縦席の背もたれを後ろに倒して体を預ける。手術の跡がまだちくちくする。
(奴が大人しくなったな。義父さんが何かあいつに言ったのかもしれない。だがなあ、義父さんの目が届かないと――)
 どうしても疑心暗鬼からは逃れられない。孤児院にいたときのあの出来事が未だに尾を引いているのだ。うっかり食器を割ってしまったときに、かばってやると言った職員に裏切られ、院長から頭が割れるほどこっぴどく殴られた。後でその職員は言った、「そんな事約束していない」と。それが何度か続いて、職員を誰も信じなくなった。ファゼットに引き取られた後、長い時間をかけて義父とほかの《子供》たちには信頼を置くようになった。《彼ら》とは立場を同じくする者同士、義父は彼を無条件に信頼し愛情を注いでくれた。そのおかげで、皆には心を開くことはできた。だがそれ以外の人間には、未だに心を開けない。裏切られるのが、怖いのだ。未だに。だからこそアーネストがいつ契約にそむいて裏切るかと、彼は未だに恐れている。
(気に病みすぎている……あまり自分を追い詰めるな。またあんな馬鹿なことをしでかすぞ!)
 H・Sは頭を振って、目の前の操作に取り掛かった。
 一方、自室に戻って眠っているアーネストは、うなされていたが眠りから覚めた。寝台から滑り降り、ため息をついた。時計を見ると、交代の時間まであと三十分たらず。
「ああ、もうこんな時間か……」
 ユニットバスに入り、冷水を浴びる。その体には、五年前に付けられた傷のほかにとても新しい縫い傷があった。


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