第5章 part2



 五月半ばの深夜二時、ヘンリーは社内でひとり仕事をしていた。他の社員は全て社宅で眠っている。書類の整理がある程度終わると、ため息をついた。区切りがついたので仮眠しようと席を立つ。施錠を確認してから消灯し、のろのろと足を引きずるように歩いて仮眠室に入り、上着を脱いでから寝台に寝転がった。ふとんをかけるまもなく、彼は眠りについた。疲れがたまっていたからだ。今回ばかりは、記者が電話をかけてきても取れそうにないほどに。
 朝七時、ヘンリーは疲れの取れない状態で目を覚ました。体に残る疲労感は日増しにひどくなっている。明日は休日、あさっては祝日だ、今日はさっさと仕事を終わらせて社員たちもさっさと帰らせてしまおう、そう思いながらシャワーを浴びて服を着替えた。
「さて、今日も一日……」
 栄養剤を腹に収めていつものデスクについたところで、電話が鳴った。が、それはファックスの受信音だった。記者からのファックス用紙に目を通していく。頼んでいた調査が徐々に進行している。最後のファックスを確認後、書類の整理の続きを始めた。社員が出社する前に何とか八割は終わらせておきたかった。
「今月は、お茶を飲みに行けないし、行く暇もない……」
 ヨランダから手紙が来たのを思い出す。薄い桃色の便箋には、今月はどうしても時間を作れない、とつづってあった。だがヘンリーのほうも今月はどうしても無理だったので、それを知らせるために手紙を出したのだった。あと何日かすれば役員会議、副社長たるヘンリーも出席しなければならない。資料作りといつもの仕事に追われて、どうしても今月は時間を作れない。
 社員がぼちぼち出社してきたので、ヘンリーは書類の処理を急いだ。残りは事務に回してしまえばいい、とにかく急がなくては。
 質の悪い紙の上でペンを動かしていると、社員の小声での噂話が耳に入ってきた。
「聞いた?」
「聞いた聞いた! 特権階級がさ、アレでしょ、大金で滅亡主義者を雇ってるって噂でしょ」
「うんうん。最近特権階級からもスパイで逮捕者が出てるしさ、ヤバくない?」
 ヘンリーは思わず聞き耳を立てた。特権階級が滅亡主義者を雇った?
「だいたいさ、特権階級なんて昔の環境保護団体の幹部たちが勝手に作っただけじゃん。自分たちへの報酬ってかたちでさ。それに滅亡主義者だって元々は同じ環境保護団体から出た連中でしょ。つながりがあったっておかしくないよ、絶対」
「それどころじゃないって! 雑誌にもあったじゃん、五年前のあの大事件の記事! あれも隠蔽したんでしょ、信じられない! 基地の人たち可哀想」
 もっと聞きたかったが、記者たちがデスクに押し寄せたのでヘンリーはしぶしぶ記事に目を通した。それから何事もなく一日が終わり、ヘンリーは社員たちをさっさと帰らせることにした。朝刊を刷り上げたのを確認し、全てアルバイトたちに渡して、夜九時に会社を出る。会社から出て東に少し進むと巨大な柵(もはや壁と言っていい高さ)があり、その柵の門番に身分証明書を見せて門を開けてもらう。入ると、そこから先は特権階級だけが済むことを許される場所。わずかな自然の残る別世界だ。ヘンリーの屋敷はこの土地の外れにあり、一番日当たりの悪い、狭い場所に立っていた。ちょうど門の近くにあり、出入りするのには便利だ。屋敷の扉を開けてはいると、ニッキーがハンターに依頼してつれてこさせた犬たちが嬉しそうに尻尾を振って出迎えてくれる。年老いた執事が少し遅れて顔を出した。社長である父はもう少し遅くなるからと執事に伝え、部屋に入る。着替えていると執事がドアを開け、食事を運んでくる。ヨランダの屋敷で食べるものに比べるまでもなくかなり質素なもの。サラダとスープのみ。どうせすぐ寝てしまうので、これだけでも十分だ。食事を終えてシャワーを浴びてから、二週間ぶりのベッドに寝転ぶ。執事におやすみを言って部屋の明かりを消し、ヘンリーは目を閉じた。明日は休み、ぐっすり寝よう。だがすぐには眠れなかった。会社で聞いた、社員たちの噂話が頭の中を駆け巡っていたからだった。特権階級が金で滅亡主義者を雇っている……。そんなこと本当にありえるのか? 票ほしさに滅亡主義者の幹部に金を渡して事件を起こさせていた議員候補者がいたことは覚えている。あれは例外ではないだろうか。……普段から自宅と会社の中しか往復しないので、外の世界の噂には疎くなっている。最新のニュースを扱う新聞社の編集長だというのに、噂話ひとつ知らないとは……。
 ニッキーは噂を知っているだろうかと思ったが、ヘンリーはその考えを打ち消した。一般市民あがりと馬鹿にしている周囲は相手にもしてくれないのだから、ニッキーは普段から外には出ない。だから噂を耳にしているとは思えない。
 あれこれ考えているうちに、ヘンリーはそのまま眠りについた。
 静まり返った外を、誰かが群れを成して走っていった。

 五月下旬の会議の日。アレックスは欠伸交じりで仕事をしていた。昨夜はまたしても徹夜だったからだ。一時間ほど仮眠を取ってから身だしなみを整え、本日の仕事を開始する。窓の外を、Aランクハンターたちの乗っている飛行艇が次々と横切ってくるのが見える。しかし彼はそれにたいして注意を払わず、紙に目を通していた。
「市民と特権階級。互いに互いを疑ってきたな。基地の隊員たちは上層部に対して明らかな不満を抱いた。あともう一押しだ。けど……」
 アレックスの《予定》は順調に進んでいる。彼の書いたシナリオの通りに。だが詰めが甘いのだ、どう考えても。最後の一押しをどうするか、彼は未だに決めかねている。一歩間違えば彼の思惑から大きく外れてしまう結果となる。爆弾と導火線を用意することはできたが、どうやって導火線に火をつけたらいいか、未だに悩んでいた。
 夜七時。五月の会議が始まる。今回の会議はいつも以上に空気が重かった。H・Sの主な活動地域にある町(アレックスの生まれ育ったところであるが)の上院議員および下院議員たちと野生動物保護警備隊基地の上層部の面々が、その重い空気を作り出していた。H・Sは数週間活動が出来なかったものの、彼らがなぜこんなに暗い顔をしているのか、その原因を探り出す事は出来ていた。立て続けに起きる滅亡主義者による爆破事件によって市民は議会に不信感を抱き、私用でこきつかわれる隊員は上層部に不満を抱いている。町に流れる噂、隊員の間の険悪な空気、最後に行き着く先はたった一つしかない。すなわち、下層の人間による暴動。
 ファゼットが会議の開始を宣言する。そして、
「今回の議題は、A地区で頻発する滅亡主義者による爆破事件について。今回はこれのみで会議を進行する」
 空気が更に重くなった。世界各地で、滅亡主義者の事件は頻繁に起こっている。しかしこの町で起こっている爆破事件はあまりにも回数が多すぎた。銀行強盗による資金調達だけではない、資金のほかにも物資を提供する相手が存在するからこそ、この連続爆破事件は起きているのだ。他の地域でそんなに頻繁に発生しないのは、警備体制の変更とAランクハンターたちの匿名の通報によってあらかた捕まっているからだ。しかし、警備体制を変更したにもかかわらず爆破事件が頻繁におき続けるこの町は、H・Sが匿名の通報をしても追いつけないほど滅亡主義者が急速に集まってきている。それというのも滅亡主義者たちの独自の通信網で、資金と物資を提供してくれるスポンサーが現れたことが伝わったからだ。衣食住もひそかに世話をしてくれるというそのスポンサーの下へ、金と住居と火薬目当ての滅亡主義者が集まり、結果として事件が増えてしまったのだ。
 ハンターたちはまず資料を元に、スポンサーの存在を明らかにする。議会側の顔が青ざめてくる。基地の上層部たちはそろって顔を見合わせ、ひそひそとささやく。スポンサーたる人物は今この会議には出席していないが、特権階級の中にいるのは確実なのだ。
「近頃ちまたで流れる噂では、特権階級の者が密かに滅亡主義者を雇って爆破事件を起こさせているという。しかし、これはただの噂ではない、それを裏付けるだけの十分な証拠がある!」
 黒髪に白髪の混じったごましお髪のハンターが半ば興奮気味に身を乗り出す。会議用の長いテーブルの資料には、一人の老人の顔写真が載っている。
「元・議員にて《バッファロー暴走事件》のときF区にいたという、唯一の事件の目撃者。この老人の交友関係は幅広いが、その中に、滅亡主義者の幹部が一人いる。まあ、そいつはごく最近幹部に昇格したからほとんど名前も顔も知られていないが、そいつは一般市民出身だ」
 議員側と上層部側をざわめきが支配する。ハンターたちは顔色一つ変えていない。彼らはこの会議のために連携して綿密な調査を行っているからだ。
「しかもそいつは、特権階級と一般市民の住まいとを自由に行き来できる資格を持つ存在でもある。町中をうろついても怪しまれることはなく、むしろいざというときに必要とされ、命令一つで一般市民の住居にも特権階級の住居にもあがりこめる……」
 乱暴に書類が放り出される。
「つまり、警察だ!」
 議会側の顔は驚愕に満ちた。あとを続ける赤毛のハンターは、自分の資料をペチペチ叩きながら、
「滅亡主義者の幹部を雇ったのはこの老人だが、実際に爆破事件を起こさせる手伝いをしていたのはこの警察所属の幹部。動機は現在不明だが、この二名がここ最近の連続爆破事件を起こさせている中心人物とみて間違いない」
「しかも、面白いことにこの警察の遠縁が、この老人というわけだ。過去の経歴を調べたところ、わけあって特権階級には入れなかったそうな」
 最後をつとめたのはH・Sであった。
「なぜかというと、その遠縁の警察が滅亡主義者だからだ。老人はその遠縁に連絡を取ってじきじきに雇い、町や各地に散らばる手下どもを少しずつ集めさせた。この町で起きている爆破事件が他の地域に比べてはるかに多いのも、手下の数が増え、なおかつ町の警備手薄な場所や人の多く集まる場所についての情報が提供されているからだな。さらに衣食住もついてくるとなれば、手下たちは喜んで集まってくるだろう。爆破事件のあった箇所は資料の地図に全て記してあるが、いずれも人の多く集まる日や場所が狙われている。今のところは一般市民の町だけだが、そのうち特権階級の場所にも手を伸ばすかもしれんな?」
 周りは一斉に青ざめた。ややあって周囲はざわめきに再び支配される。ハンターたちは何も言わずただひたすら静まるのを待つ。やがて議会代表の一人が青ざめた顔で立ち上がり、長々と、言い訳に近い反論を並べ立て始めた。特権階級がそんな馬鹿なことをするはずが無い、その資料の交友関係自体の信憑性が薄い、などなど。
 この爺どもを味方に付けるまで会議は終わりそうに無いな、H・Sは思った。

 夜九時を回った頃、アーネストはやっと飛行艇の整備を終えて、部屋に帰ってきた。ざっとシャワーをあびて汗を流し、ベッドに寝転ぶ。服の上から、下腹部の傷を探る。まだ少し痛みがある。この傷は、臓器を摘出されたときのもの。摘出はされたが代わりの臓器は入れてもらったのだろうか。医者は何も言わないので、わからない。かといって自分の腹をかっさばくわけにもいかない。ファゼットの脅しに屈して差し出してしまった自分の臓器、いまごろはH・Sの体内で元気に活動していることだろう。あれだけH・Sがピンピンしているのだから。
(次はこれだけじゃすまさねえって事なんだろうな……)
 医務室で麻酔が覚めた後のことを思い出す。医務室のどこか遠くから医者とファゼットの会話が聞こえていた。血液型検査や臓器の拒否など、医学の専門用語が山ほど入っていた事を話していたように思う。だが、覚えている限りの話の断片をつなぎ合わせると、アーネストを誰かの臓器スペアおよび輸血の道具として生かしておくつもりのようだった。あの話が本当なら、最悪の場合、彼は解体されてしまうかもしれない。使える臓器は全て抜き取られ、血液は一滴残らず搾り取られ、残った肉は猛獣のエサにでもされるのだろう。
(俺の代わりは、探せば掃いて捨てるほどいるだろう。けど、あいつはひとりしかいない)
 あの男の過去についてはアレックスが少し教えてくれた。かつては孤児院で虐待され続けた幼子、今はAランクハンターの中でも特に優れた情報収集能力および分析力を持つスパイ。ハンターとしてもスパイとしても有能なこの男を死なせたいとは思わない。だからファゼットは、手塩にかけて育て上げたこの《子供》を助けたのだろう。
(このままだと俺はいずれ殺されるだろう。それが嫌なら大人しくしておけってことか)
 縫い傷の奥から感じられる鈍痛は、少しずつ強くなっていく。彼は、もらっていた痛み止めを飲み、そのまま眠りについた。

 夜十時半。客室にて、正装に着替えたヨランダは沈んだ顔のまま椅子に座っていた。客をもてなすための上品なクロスを敷いた長いテーブルには十人の男たちが席についている。いずれもファゼットが慎重に選び出した、ヨランダの結婚相手候補。
「夜分おそくまでお待たせした」
 ヨランダの隣に座るファゼットは、男たちに言った。結婚適齢期の男たちは、目をらんらんと輝かせている。いずれもヨランダの婿の座を射止めるためにここにいるのだから当然のこと。
「さてここに集まっていただいたのは他でもない、わたしの娘ヨランダの結婚相手を決めるためである」
 言うまでもない。男たちの表情はあくまでにこやかだが、ヨランダに向けられた目は獲物を狙う目そのものだ。ここに集められた候補者たちはファゼットが十分に身辺調査をしてから彼らを選び出したのだが、欲の前では人間は簡単に変貌してしまうものだ。温厚な人間が、ある日突然残忍な殺人鬼に豹変してしまうのと同じように。めいめい男たちは自己紹介をしたが、ヨランダはろくに聞いていなかった。誰も彼も、ティーパーティーやダンスパーティーで彼女に擦り寄ってくる連中の一握り程度にしか見えなかった。どのみち彼女の夫としての地位欲しさに、なんとしてでも選んでもらおうとここでは猫を被っているつもりだろう。そして結婚したら本性をさらけ出すに違いない。
 ファゼットは軽く咳払いした。
「まず、わたしの娘の夫となるという事は、わたしの家を継ぐことにもつながる。ここに集まっていただいた皆は、そろってわたしの娘の夫となるべく己を磨き上げてきただろうと思われる。だが、結婚相手を選ぶ前に、まずわたしから結婚後についての条件を付けさせてもらいたい」
 男たちの体に緊張が走る。
「ヨランダと結婚した後は、その夫の一族郎党を一人残らず《処分》し、その夫を生涯我が屋敷の監視下に置くこととする」
 思わずヨランダは父を見た。男の一人が椅子をけるようにして乱暴に立ち上がり、
「な、なぜそんな厳しい条件を付けるんです! 一族郎党そろって《処分》、それに監視……ありえない、そんなのむちゃくちゃだ!」
「結婚後に一族郎党でこの屋敷に引越し、財産を食いつぶすような真似はしてもらいたくないのでね。さらに、わたしの地位を悪用して不要な法改正を迫るような真似もしてもらいたくない。わたしの地位につけば何でも出来ると考えるような愚か者と結婚すれば、娘が不幸になるだけだからな。わたしの娘と結婚するからにはそれ相応の覚悟をしてもらいたい」
 一呼吸置いて、ファゼットは皆に言った。
「では、五分時間を置く。そのあいだに、じっくりと考えて答えを出していただこう」
 男たちは体を固くして、青ざめていた。部屋の中の時計は静かに時を刻んでいく。ヨランダは男たちの顔を一通り眺めた。皆汗だくになり、青ざめている。身を震わせている者もいる。ファゼットのつきつけた条件があまりにも過酷だったからだろう。なにしろ結婚後に一族郎党皆殺し尚且つ監視されると言うのだから。ヨランダは、全員のリタイアを願っていた。
 五分経過した。ファゼットは言った。
「では、答えを聞かせてもらいたい。一族全てを失い、死ぬまで監視下に置かれても尚、ヨランダの夫となることを望む者は挙手を」
 しばらくの間、青ざめた男たちは身動き一つしなかった。

 夜十一時。H・Sは、整備の終わった飛行艇に入り、依頼書の整理をしていた。長い話し合いの末にやっと議会側に警察内部の腐敗調査を承諾させることに成功した。話しつかれて、彼はくたびれていた。書類の整理を終えてから格納庫を出る。
 部屋に戻ろうと廊下を歩きながら、H・Sは頭の中で考える。アレックスの顔が頭の中に浮かんできた。
(義父さんはいまだにあいつに右腕としての地位を与えている。ここ一ヶ月の新聞の内容が変化したことを考えれば、あいつが何か企んでいる事は間違いないのに。爆破事件の増加で市民の恐怖を煽るような記事が増えてきた。まあ事件が増えればそれを扱う記事が新聞を飾るのは当然なんだが……。おまけにあの暴走事件の真相が週刊誌に載り始めたところからすると、あいつは週刊誌にもちょっと手を伸ばしたんだろうな。まあむしろそれを今までしてこなかったあいつが単なる間抜けだったとも言えるんだがな。新聞よりももっと自由に記事を載せられる週刊誌も、人目にも触れやすい媒体の一つだから、制約の多い新聞よりも載せやすいと思ったんだろうな。それよりも)
 部屋の前で立ち止まった。
(奴は一体何を企んでいる? 己を指名手配させた基地への復讐か? 実力を試している義父さんへのあてつけか? それとも他に何が?)
 ドアをそっと開けて中に入る。相変わらず闇が内部を支配している。寝息は変わらず聞こえてくる。H・Sはほっと息を吐き、上着を脱いでベッドに潜り込んだ。今度はすぐに眠れたが、孤児院にいたときの悪夢にうなされ、朝の五時に、うるさいとアーネストにたたき起こされることになったのだった。

 朝八時。ファゼットは朝食を取りながら、沈んだ顔のヨランダに言った。
「……まだ受け入れられないのかい?」
「ええ……」
 ヨランダはフォークを皿の上に下ろした。昨夜の出来事を思い出すと、さらに気分が沈んでしまう。ファゼットの出した条件が、結婚後に一族郎党皆殺し尚且つ生涯監視下に置かれるという過酷なものだったにも関わらず、一人が名乗りを上げたのだ。この無茶な条件をつきつけられれば十人全員がリタイアするものと考えていたヨランダはがっかりした。周りの驚愕の視線を浴びたその人物は未婚であったが二十歳前に両親と兄弟を事故で亡くし、独り身であった。そのため、一族郎党皆殺しという過酷な条件をつきつけられても、名乗りを上げる事が出来たのだ。
「彼は本来温厚な人物だよ。お前を虐げる事はないだろう」
「……猫を被っているだけかもしれないわ。それにいくら温厚であっても、いつでもそうとは限らないでしょう。監視されていても、ある日突然暴君のように振舞うかもしれないし……」
 ヨランダは、食べ終えた後の皿に落としていた目をやっと上げた。
「お父様、アタシが結婚したら、お父様は幸せだとお感じになる?」
「お前にとっての幸せと、わたしにとっての幸せは違うよ。わたしの幸せはお前が結婚して家庭を持ってくれることだ」
「でもアタシの幸せは違うわ。アタシをずっと包み込んでくれる人がいてくれるだけで、アタシはそれで満足なの。今でも十分幸せを噛み締めているわ」
「だが毎日会えるわけではないだろう?」
「ええ、でもそう決めたのよ、ヘンリーと何度も話し合って。ヘンリーとは、恋人以上の関係にはならないと決めた。夫婦にはなれないとヘンリーもアタシも思っているの。恋人と夫婦は全く別物でしょう、お父様」
「……」
「アタシが飽きっぽいの、お父様はよくご存知でしょう? 夫婦になったら毎日会うことになるし、そうなるとヘンリーの言ってくれる愛の言葉も重みがなくなってしまうもの。それに、ヘンリー自身はアタシの夫という地位に耐えきれるだけの強さを持っていないわ。その点はヘンリーも認めているの。何度も話し合ってやっと結論を出したの、恋人以上の関係にはならないって。だから今、アタシは幸せなのよ」
「だが、わたしは幸せとはいえないよ。イライザ亡き後、娘を長い間一人にし、月に一度か二度しか会ってやれなかった。お前のあの嬉しそうな笑顔を見るたびに、わたしは嬉しくもなったが辛くもなった。ずっと寂しい思いをさせてしまったのだ、側にいてやれないわたしの代わりに誰かがずっといればお前は孤独ではなくなるだろう、そう思っているのだ。だからわたしにとっての幸せは、お前が家庭を持ってくれることなんだよ」
 ヨランダは再び皿に目を落とした。そしてしばらく皿を見つめてから、立ち上がった。
「お時間をいただける? 気持ちの整理をしたいの」
「そうしなさい……」
 部屋を去っていくヨランダの背中を見送り、ファゼットは寂しそうな目を向けた。
「わたしとて、本当はお前を結婚させたいとは思っていないのだ。だが、家が絶えてしまうことだけは避けたいのだ。愚かな父を許しておくれ……」
 部屋に戻ったヨランダは、ヘンリーに手紙を書くことにした。いつもの桃色の便箋にペンを走らせていく。だが、その手はどうしても途中で止まってしまう。「結婚相手が決まりました」という言葉が、どうしても書けなかった。やがて便箋の上に涙が落ちていき、インクをにじませていった。

 昼三時。今日は雨。アレックスは自分の部屋でひとりティータイムを過ごしていた。熱い紅茶をカップに注いでミルクと砂糖をたっぷり入れる。
(結局昨夜は、仕事が終わったのに、手紙の返信書いてて徹夜してしまったなあ。……手紙の文例集でも探しておこうかな)
 昨夜の会議の議事録を脇にどけて、アレックスは紅茶を飲んだ。ニッキーの手紙はまたしても「会いたい」の羅列。「会いたい」から始まり、暑くなってきて衣替えを考えている、犬たちが大好き、とどうでもいいことを書き、最後に「会いたい」の羅列で締めくくっている。女の子は皆こんなものを書くのがすきなのか、とアレックスは疑問に思う。紅茶と茶菓子を腹に詰め、アレックスは食器を片付けてワゴンの上においてから、靴を脱いでベッドに寝転んだ。腹が膨れると眠くなる。セイレンが迎えに来るまで少し寝ようと思ったときには、もう目は閉じられていた。
 が、すぐに目を開けてベッドの上に飛び起きた。
「そうか!」
 アレックスは、ニッキーの手紙の返信用にセイレンに持ってきてもらっていた便箋を一枚取り、ペンを素早く走らせた。書きあがり封筒にあて先を書いて便箋を入れたところでセイレンが入室したので、アレックスはそれを渡して送るように頼んだ。
「ニッキー様には既にお送りしましたが……」
「これは追伸だよ」
「かしこまりました」
 メイドは言葉とは裏腹に、驚き戸惑っているようであった。
 が、今度はアレックスが驚き戸惑う番だった。なぜなら、夜九時半に仕事を片付けて食事を済ませ、さあ風呂に入ろうというところで、ヨランダの部屋に呼ばれたからだ。疲れているのに一体何の用なのかと思いながらアレックスが入室すると、とたんにヨランダは飛びついてきた。泣きながら。突然の急襲にアレックスは面食らったが、すぐ落ち着きを取り戻す。彼女が泣き終わるまで待ってから問うと、泣き腫らした目のまま、彼女はか細く答えた。
「結婚しなければ、ならなくなったの……」
 暫時の沈黙。
 アレックスは言葉が見つからなかった。ヨランダが結婚する。誰と? いや、相手はどうせヘンリーだろう。それよりおめでとうと言うべきなのか? それともお気の毒と言うべきなのか? なぜ泣いているんだ? 頭の中で疑問がいくつか浮かび上がってしまった。
 ヨランダは椅子に座る。
「お父様のお言いつけなの。いつか来ることだとは、わかっていたけど……」
 この様子からして、結婚相手はヘンリーではなさそうだ。アレックスはそう思いながら彼女から少し離れたところに腰を下ろし、聞いた。
「では、どなたと結婚を?」
 ヨランダの指差した先にある、ファイル。アレックスはそれを取って中を見る。一人の男の情報がぎっしり。家族関係、交友関係、地位、財産など、様々な個人情報が載っている。ヘンリーと同い年だが地味な顔立ちのこの男は特権階級の中ではあまり高い地位ではない。何年か前に事故で家族を亡くしている。先代の賭博によって多額の借金を抱えたので、必死で資金繰りをして借金を一ヶ月前に全部返済した。温厚な性格で、自己主張をしたがらない。交友関係は広くは無い。最低限の付き合いしかしない。
「お父様は昨夜、アタシとの結婚相手の候補十人を集め、結婚についてとても過酷な条件を出したの。アタシと結婚した後、その人の一族郎党は一人残らず《処分》され、アタシの夫となったその人は屋敷で一生監視下に置かれることになる」
 アレックスは仰天した。
「そ、そんな無茶な……!」
「お父様は、目の前の欲にくらむような男とアタシを結婚させるつもりは無かったのね。だから無茶な条件を突きつけて様子を見たの。アタシは、皆がリタイアするものとばかり思ったわ。あなたはどうかしら?」
「オレだったら、その、やっぱり止めますよ。皆殺される上に一生監視されるなんて! そこまでして夫になるメリットなんて無い! むちゃくちゃにも程がありますよ」
 現に監視下に置かれているアレックスが言うのも何だが……。
「お父様もたぶんそうお考えになってあんな条件を付けたんでしょうね。でも、一人だけクリアしてしまったのよ。それが、その人」
 大きくため息をついた。アレックスはファイルとヨランダを交互に見た。ヨランダは明らかに結婚を嫌がっている。
「……結婚が嫌なら、そう言えばいいじゃないですか」
「それが出来たら、どんなにいいかしら」
 両膝の上で、彼女は両手をぎゅっと握り締めた。
「アタシはいずれこの家を継がなければならないの。その後は、アタシの子供が継ぐの。お父様の子供は、アタシだけしかいないから、他の誰にも任せられないのよ。お仕事のほうは他の誰かに任せることが出来ても、これだけはどうにもならないの」
「養子をもらうわけには行かないんですか? そうしたらあなたの代わりに――」
「それはありえないわ。お父様が結婚を推し進める以上、養子を取るおつもりではないわ。だからアタシがどうしても継がなければならないの。家を絶やさないために」
「あの、家を継ぐのが嫌なんですか、それとも結婚が嫌なんですか?」
「結婚が嫌なのよ。家を継ぐこと自体はもう決まっているから、アタシも諦めがつくわ。でも結婚だけは……」
 彼女はアレックスに抱きついた。その細腕が彼の体をぎゅっと強く締め付けた。
「お父様のお決めになったことには、逆らえない。でも、怖いの。いろんな事が怖くて、仕方ないのよ……」
 杞憂に過ぎませんよ、と言いたかったが、彼は口を開けなかった。ヨランダは泣きながら彼を抱きしめていた。
 部屋に戻ってベッドに潜ってもまだ、アレックスはヨランダの話を頭の中で何度も繰り返していた。結婚。ファゼットの命令なら、ヨランダも逆らえない。ヘンリーとは結婚できず、知りもしない(いや、ダンスパーティーやティーパーティーで会っているかも知れないが)男と結婚させられる。昔読んだおとぎ話や童話には、勇者や王子がその国の王女と結婚したという結末が多い。お姫様と結婚できるなんてすごいなあと思っていたものだ。だが、現実にそれを目の当たりにすると……。ヨランダとの結婚目当てに集まってくる特権階級のボンボンたち。まさに彼らは童話の中の連中だ。結婚したくて姫の元に押し寄せるも姫から無理難題を突きつけられて次々と脱落していく。だが最後にその無理難題をクリアした者がいて、王女はその挑戦者と結婚する。そういえば、結婚について王女が嫌だという場面は数えるほどしかない。だが最終的には皆結婚していた。
(結婚かあ。お姫様も苦労してるんだな。相手がいなけりゃ子孫は残せないから最終的には結婚しなくちゃいけないだろうけど……)
 自分に関係ないとは言え、少しだけヨランダが気の毒になった。


 朝早く、朝食を済ませたばかりのニッキーはまたしても黄色い声を上げた。なぜってアレックスから返信が来たのだ。それも二通もだ。いつも一枚しか便箋が入っていないが、今回は五枚も入っていた。もう一通の封筒には一枚しか入っていないが、これは追伸用の封筒だった。部屋に入ったニッキーは手紙に目を通す。時候の挨拶に始まり、最近の天気や動物たちのことなどいろいろ書かれ、最後には「またお会いしたいと思います」で締めくくっている。手紙というより報告書にしか見えないが、ニッキーにとっては素敵な手紙だった。誰とも手紙のやり取りをしたことがない彼女にとって、アレックスが最初の文通相手だったから。内容が報告書のようなものでも嬉しかった。三十分もかけて読み終わり、また読み返す。ニッキーの頬は桃色に染まっていた。
「また会いたいですって〜、嬉しいわあ」
 もう一通の追伸用封筒を開ける。これには一枚しか入っていない。ニッキーは満面の笑みで便箋を読んでいったが、次第にその表情に驚きと困惑が浮かんできた。慌てて彼女は執事を呼ぶ。
「ねえ、今外が危ないってほんとなの?」
「あ、危ないと仰いますと?」
「あの滅亡主義者がここらへんをうろうろしてるって……!」
 追伸用の手紙には、特権階級の住む区画に滅亡主義者が入り込んでいるから気をつけて、と書かれているのだ。老執事は鼻眼鏡が宙に飛び上がるほど驚いた。
「さ、さ、さようでございますか! わ、わたくしめは一度もそのような、う、うわさを――」
 興奮のあまりぜいぜいと荒い息をつきながら、身を震わせた。
「に、兄さんは? お父さんは?」
「だ、旦那様は出張のために一週間お留守です。ヘンリー様は、まだお休みでございますが、起こしてまいりましょう!」
 今日は休日だった。疲れがたまっていたのでぐっすりと眠っていたヘンリーは、執事にたたき起こされる羽目になった。寝ぼけ眼をこすりながら愚痴をこぼしたヘンリーだったが、執事がニッキーの手紙を見せると、途端に眠気は全て吹っ飛んだ。すぐ行くからと執事を下がらせ、自分は電光石火の早業で身支度をして部屋を出る。食堂兼リビングに入ると、ニッキーが部屋の中をおろおろと落ち着かぬ様子で歩き回っているのが、目に入った。
「あっ、ヘンリーにいさん!」
 青ざめた顔のニッキーはヘンリーを見るなり飛びついた。何やら早口でしゃべってくるので、ヘンリーはそれを制した。
「落ち着け、とにかく手紙の内容は読んだから」
 執事がヘンリーの朝食を持ってきた。主が起きたら食事を運ぶこの習慣、何年もかけて身に染み付いたので、こんな緊急事態でも破られることはない。ヘンリーはコーヒーを飲み、トーストを一切れ食べてから、改めて便箋を見る。シンプルな白の便箋につづられた短い文章。字はまあまあ綺麗だが今はそんな事などどうでもいい。
「これはほんとなの、ヘンリー兄さん」
「……一般市民側では、確かにたくさんの滅亡主義者が潜んで事件を起こしている。だがこの辺りではどうなんだろう。それがわからないんだ。近所と話すことも無いし、そもそも向こうはこっちを馬鹿にして話しかけてこないからね」
 執事に目を向けるが、首を横に振るばかり。この執事も、噂話は全く聞いていないのだ。時々外へ出ていくものの、向かう先は無人の郵便局と小さな食料品店のみで、噂話自体を聞かない。裕福ではない特権階級のために作られた食料品店で食糧を山ほど買い込むが、そこでも噂は聞かない。その食料品店には、会計兼ガードマンのロボットが置いてあるだけだから。そもそも、特権階級の連中は普段から屋内にいて、パーティーやお茶会があったときくらいしか屋敷を出ないのだ。しかもヘンリーもニッキーも招待された事が一度もないので、会話を交わしたことすらなかった。
 執事に食器を下げさせ、ヘンリーは便箋を見つめた。
(アレックスがこれを送ってきたとニッキーは言ったが、これは本当のことなのか? それとも単に僕らをからかっているだけなのか?)
 ちょうどその時、窓の外を警官の群れが駆けていった。ヘンリーはその理由を一時間後に知った。元・議員であった老人が、一般市民居住区の爆破事件の首謀者として、滅亡主義者の手下もろとも逮捕されたのだ。総勢五十名、歴代で最も数多い逮捕者数であった。アレックスの送った便箋内容の正しさが、これで証明された。だがさらに驚くべき事が起こった。警察内部が徹底的に調査され、滅亡主義者に町の情報を渡していた、警視総監こと滅亡主義者幹部が逮捕されたのだった。
 特ダネをこの目で見てすぐに大慌てで会社に向かうヘンリーの背中を見送り、ニッキーはアレックスの便箋を抱きしめていた。
 滅亡主義者の一斉逮捕という臨時ニュースは、休日の町をさらに騒がしくさせた。祭りは中止になったが、このニュースが駆け巡って一時間も経たないうちに人々が表に出て噂を始めた。一気に辺りは騒がしくなった。商店街のまだ開かないうちから、「号外、号外」と《アース新聞》のアルバイトたちが配っている。その数時間後に他の新聞社も号外を配り始めた。
「休みだってのにとんでもない事件が舞い込んだなあ」
 ヘンリーは急遽出社して電話でホテルや社宅の記者たちに指示を飛ばしたのだった。


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