第6章 part1



 世界各地に散らばる野生動物保護警備隊の隊長および上層部の役目は、隊員の統率、議会や警察との連携による自然保護区の動物保護。必要ならば記者たちの前に出ての記者会見も行う。老人たちは、この地位に就任した。下は隊長、上は議会連携者。それからずっと老人たちによる基地の統治が続く。隊員と上層部の間に波風を立てないようにあらゆる手をつくした。バッファロー暴走事件が起こったときは、議会と共にマスコミに圧力をかけて事件の報道を最低限のものにさせ、事件の際に負傷した隊員たちを医務室で手遅れに見せかけて薬殺させた。だが、ただ一人だけ見つからない隊員がいた。消息不明の隊員は生きているのか死んでいるのかすら分からない。すぐに見つけ出すべくバッファロー暴走の原因としてその隊員を指名手配した。それからは、基地の資料室に監視カメラをとりつけ、意図的であれ偶然であれバッファロー暴走事件の年の資料を探した隊員をことごとく、除隊の名目で殺害していった。もちろん、死体が残らないように、冷凍室で凍死させ猛獣に食わせていた。
 時は過ぎて老人たちは引退しなければならなくなった。老いて体力は落ち、月に一度の会議への出席にも差しさわりがでるようになったのだ。老人の息のかかった若い者たちが代わりに後を引き継ぎ、基地の上層部として隊員たちを治めることになった。
 この時期から、隊員たちの間に不満が出始めた。隊長は私用で隊員を使うようになった。部屋の改装や掃除など業者の仕事であったのを隊員たちにやらせ始めたのだ、業者に支払う金が惜しいからと。町と自然保護区のパトロールのほかに報告や訓練をこなさねばならない隊員たちは、こんな業者にやらせるべき仕事を全て押し付けられる羽目になった。パトロールの時間になっても掃除のために出かける事が出来ない。出かけさせてくれと頼んでも、容赦なく最後までやらせ、結果が気に入らなければ何度でもやり直しをさせた。それだけでなく、気に入らない隊員をひそかに冷凍室送りにして猛獣に餌として食わせるところは、前の上層部のやり方をそのまま引き継いでいた。
 隊長クラスの連中の横暴ぶりとその上層部のやり方に、隊員たちはあっという間に不満を抱きストレスをかかえた。除隊は隊長のゆるしがなくともできるようになったので、耐えられなくなった隊員はどんどん除隊した。だが、除隊した隊員は一人残らず猛獣の腹の中へと旅立ってしまったのだ。一般市民たちに基地の内部のことを口外させないために。残っている隊員たちは、相手が特権階級であるために辞表を書けと詰め寄ることも出来ない状態なので、くすぶっている不満は徐々に表に現れ始めた。行事の際に隊長たちが彼らに何か演説をしなければならないとき、隊員たちは皆そろって不満や恨みの視線だけを向けるようになった。そして顔にも露骨にそれが出るようになった。
 基地の外部にいても、隊員たちはストレスを抱くようになった。町のパトロールの時、どうしても自然保護区のパトロールに割く時間を減らさねばならないので、ハンターたちに今まで以上に動物を盗まれやすくなった。それに、警察も一緒に見回りをしているとはいえ犯罪は減らない。滅亡主義者の起こす爆破事件からひったくりに至るまで、あらゆる犯罪に動員される。そしてマスコミは口をそろえてがなりたてるのだ、「見ているだけの役立たず」と。犯罪発生率のグラフを作って、こんなことなら警察だけで見回りをしても何にもかわらない、という中傷記事を載せた新聞社もあった。町の住人は隊員たちにあまりいい顔をしなくなった。見回るだけで何もしてくれない、という考えが、そうさせていた。
 隊員の起こす犯罪が発生し始めたのは、最近。暴行事件、傷害事件のみであったが、それでも、滅亡主義者に匹敵する新しい犯罪者として住人たちの不信感は一気に増した。警察と同じ権限を持った隊員たちが、滅亡主義者と同じ犯罪者になってしまったのだから。もちろん全ての隊員が犯罪に走るわけではないが、頻発する滅亡主義者の爆破事件も重なって、町の人々は隊員たちに、より深い不信感を抱かせることとなった。
 隊長や上層部は謝罪のための記者会見を開こうともせず、隊員たちをねぎらうこともしなかった。一般市民出身の連中の機嫌をとる必要などないと考えていたのだから。彼らの背後には議会の力があり、隊員たちは簡単には彼らに逆らえない。そのため、上層部は隊員たちを好き放題こきつかっているのだった。

 五月下旬の臨時ニュース。警視総監が実は滅亡主義者の幹部だったというニュースが町を駆け巡り、号外が町中に配られた。パトロールしていた隊員たちは号外を持ち帰り、このニュースを新聞と共に基地内に広めた。当然、狭い基地内部で三十分も経たない内にあっというまにそのニュースが広まった。
「何だって! 警視総監が滅亡主義者の手先?!」
「しかもその滅亡主義者の手下を集めて世話してたのが、特権階級?!」
 五十名の逮捕者。号外のトップは逮捕者の顔写真で埋め尽くされている。その中で一回り大きな写真が貼り付けられているが、それは特権階級所属の、元・議員の老人だった。古株の隊員の中にはこの議員の顔を知っているものがいた。自然保護法の成立に尽力した、当時の環境団体幹部のひとりだ。だがこの写真の顔は、心身を病んだただのしなびた老人以外の何者でもなかった。目だけが、狂気でらんらんと輝いているのを除けば……。
 この老人の取調べはまだだったが、わざわざ滅亡主義者をひそかに集めて町で爆破事件を起こさせ続けていたことに対しては、町でも基地内部でも様々な憶測が飛び交った。廊下、食堂、自然保護区、倉庫、様々な場所で噂が流れた。ひとところに滅亡主義者を集めて逮捕させたかった、実はあの老人は滅亡主義者の真のボスだった、手下たちはあの老人の子供たちだったと色々ありもしないことばかりが飛び交った。だが、一つだけ、町でも基地でも共通した噂が流れた。
「一般市民を遊びで殺したかったんじゃないか?」
 この噂は、議会にも基地の上層部にも伝わった。
 五月の会議でハンターたちがゴリ押しした要請。元・議員の老人と屋敷に隠れている下っ端の逮捕、警視総監宅の強制捜査および逮捕。捜査と逮捕によって、頻発していた爆破事件は終わりを告げたものの、市民は安堵こそすれ、感謝はしていなかった。逆に、特権階級に対する不安と不信感を植えつけただけに終わった。市民だけではない、野生動物保護官も上層部に対する不信感をよりいっそうふくらませた。
 そして五月の半ばに入ると、隊員たちはひそかに集まって話を始めた。

 たぶん、これが初めてだったろう。《アース新聞》の号外が売り切れたのは。それほど今回の事件は衝撃的だったのだ。何といっても、特権階級の一人が滅亡主義者たちをかくまい、警視総監である幹部から町の情報をもらって各地に爆破事件を起こさせていたのだから。
 記者たちは取材のために町や警視庁や基地周辺をかけずりまわる。ヘンリーは記者たちからの記事を受け取り、ある記事は掲載許可を出し、ある記事は書き直しを命じる。休日だというのに急きょ出社させられた社員たちだが、皆せっせと働いた。ボーナスが二割増しになると聞いて。
 いつもなら記事作成を手伝うユリだが、今回は小説の校正作業。連載小説の素人作家募集をかけて、その結果選ばれたのが、大学を出たばかりの新米OLだ。純粋な恋愛小説。世代を選びそうだが、若い人には人気が出そうだし、ユリもこの話は好きだ。それでもユリは、前回担当していたあの異世界物のSF小説のほうが今取り組んでいる小説よりも人気があるのではないかと思っている。あれだけリアルに訴えかけてくる小説は、いまだに読んだことがないのだから。まるで小説の主人公が本当にその状況に置かれていたかのような、きわめてリアルな描写。不気味だがそれが魅力でもあった。
 小説の校正を終えると、ヘンリーに提出する。ヘンリーは多忙を極めており、彼女の持ってきた原稿用紙に目を通す暇などなさそうだ。その場合は彼の机の上に置かれた小さな箱に書類を入れることになっている。ユリは原稿用紙を箱に入れてから自分の席へ戻ったが、記者たちから記事の手伝いを依頼され、すぐに席を立った。逮捕記事、警視庁での記者会見まとめ、すべきことはいろいろあった。
 ユリの仕事が一段落すると、ヘンリーは彼女を呼び、買い物を頼んだ。メモと金を渡され、ユリは急いで外へ出た。でないと次の記事校正を頼まれてしまうから。
(いやな空気ねえ)
 街に出ると、ユリは足早に商店街の薬局へ入った。道路は人で満ち溢れ、ヒソヒソとささやき合っている。滅亡主義者の一斉逮捕で町は安堵の空気に包まれたものの、次には警察に対する不信感がつのりはじめているようだった。無理もない、警視総監が滅亡主義者の幹部だったのだから、滅亡主義者と警察がグルになっていたと噂されてもおかしくはないのだ。ユリ自身、警察を束ねる警視総監が滅亡主義者だったという事実を信じることができないくらいだ。町の治安を守るべき存在の警察がまさか犯罪者だったとは……。
 栄養剤を山ほど買いこみ、ユリは大きな紙袋を持って外へ出た。本当は休日なのに、臨時ニュースで社宅から皆駆り出されている。ヘンリーのおごりでちょっと高価な栄養剤を食べられるとはいえ、ユリはため息をついた。あーあ、今日は部屋の掃除をする予定だったのに。会社に向かって歩いていると、野生動物保護官のパトロールにでくわす。彼らはそろいもそろって、なんだか緊張した面持ちで、周りの様子をうかがいながら歩いている。流れている噂話をすべて聞き取ろうとしているかのようにも見える。
(そういえば、アレックスはどうしているかしら)
 ふっと、ユリは思い出した。アレックスは野生動物保護官となったのだから、町のパトロールに出ていてもおかしくはない。だが彼女は一度もアレックスの姿を見たことがない。運が悪くて出会えないのかもしれない。まあパトロールしているなら、いつか出会うだろうと思いながら、彼女は会社に戻った。
(アレックスのことだもの、元気にやってるわよね、きっと)
 会社に戻ったユリはヘンリーに買い物袋と釣銭を渡す。ヘンリーは書類の山からやっと顔をあげて彼女に礼を言い、ついでに原稿に目を通しておいたことも伝えた。ユリは原稿を受け取って、新聞のコーナーにそれを載せるべく新しく書き直す作業に取り掛かった。
 一日経って、取り調べの結果が各社の新聞を飾った。あの老人の親類に滅亡主義者がおり、その滅亡主義者に頼みこまれて手下たちを集めてかくまっていたのだ。老人はそれ以上のことは何もしておらず、爆破事件を指示し続けていたのはその滅亡主義者・警視総監だった。普段から、ハンターとの取引があったと通報がある以外に警察の手が入らない特権階級の住まいは、かっこうの隠れ場所となったのである。
 新聞だけでなく週刊誌もラジオもそろってこの取り調べ内容を騒ぎ立てた。今まで圧力を掛けられてきた仕返しと言わんばかりに議会を容赦なく批判する週刊誌は、あることないこと書きたてて購読者を増やした。購読者は雑誌をむさぼるように読み、その記事の内容を町中で話してさらに広める。広められた内容には尾ひれがつき、どこまでが真実なのか分からなくなってきたほど噂の内容は変わっていく。そのころには、町全体に広がった「元・議員の老人が警視総監に頼まれて滅亡主義者を集めていた」という噂は、「警察と議会が滅亡主義者のスポンサーだった」という内容に変化していた。だが内容の正確さなどはどうでもいいことだった。町中を包み込んだ安堵の空気は、不安と不審にとってかわり、一般市民たちは警察すらも信用できなくなってきた。パトロールを続ける野生動物保護官たちの評判はそれ以上下がりようがなかったが、警察の評判は一気にガタ落ち。滅亡主義者と手を組んでいるものが警察にまだいるのではないかと疑いの目が向けられ始めた。

「老人は頼まれただけ、か。真っ赤なウソさ、そんなもん」
 夜十時半。星と満月が空を飾る夜空を、飛行艇は飛んでいく。H・Sは新聞を座席の後ろへ放り投げた。胸のポケットから取り出した、盗聴用のテープレコーダーを再生すると、あの元・議員の老人と取調官とのやりとりが再生される。老人は興奮ぎみだったが、話は筋の通ったものだった。老人は自ら、頼まれたのではなく、自分から警視総監に連絡をして滅亡主義者を集めさせて爆破事件を起こさせたのだと語った。だが、動機だけは話さなかった。それ以上話をしようとすると老人はさらに興奮してしまい、わけのわからない言葉を喚き散らし、最後にはバタンと倒れて失神(したようだ)。
(もっとも、これからウラを取らねばならんがな。このじじいの言葉もどこまで本当やら)
 テープの再生が終わると、それをまたポケットへしまう。ハンター活動の傍ら、情報収集もしなければならないので、Aランクハンターは常に多忙だ。
 通信回線が開かれる。そこには、ちょっとしょげた顔のヨランダが。オスのきれいなクジャクを一羽ほしいと簡潔に言ったあと、彼女はそれ以上何も言わずに回線を切った。
「珍しいな、あのワガママぶりが嘘のようだ……」
 それから、
「どうした」
 モニターの電源を切ったH・Sは、隣席に座っているアーネストを横目で見る。青ざめた顔のアーネストは息苦しそうにあえいでいる。
「疲れがたまっているんだな、今日はさっさと休め」
 言われなくとも、とアーネストはやっと立ち上がり、フラフラとした足取りで操縦室を出て行った。自室に向かったアーネストは、自室のドアが開くや否や、こみあげる強い吐き気に負け、床にぶちまけてしまった。胃液が金属の床の上に広がり、酸っぱいにおいを漂わせる。そのまましばらく嘔吐した後、ユニットバスからタオルを持ってきて掃除した。
(急に体調が悪くなった……。移植された後の臓器に何か仕込まれたのか? それとも、毒でも飲まされてるのか?)
 換気扇を回し、悪臭を外へ追い払う。アーネストはわずかな吐き気と闘いながら、寝台に寝転んだ。いつもならすぐ眠れるはずなのに、眠れない。
(駄目だ、気分が……)
 強まる吐き気。すぐ起き上がり、ユニットバスへよろよろと入って行った。嘔吐は続き、喉は胃液でやられて痛んでくる。そのうち胃液も出なくなったが、アーネストの顔は青ざめた。胃液の中に、赤いしみがいくつか浮かんでいたから。これではまるで――

 マスコミは滅亡主義者逮捕事件を派手に報道した。議会は警察のトップでもあったので、警察に市民の矛先が向けられれば自然と議会にも向けられる。市民が警察に不信感を抱けば、議会に対して不信感を抱くのといっしょ。事実上警察をまとめ上げている立場の議会は、マスコミを押さえつけるのではなく、内部の汚職や反乱分子を白日の下にさらせたことを良きこととして、記者会見を開いて伝える。へたにマスコミに圧力をかければ、一般市民たちの疑いはますます強まると思ったのだ。記者たちは記者会見を記録したとはいえ、心の中ではこれを良きこととは思っていなかった。滅亡主義者の幹部が警視総監であり、なおかつ逮捕された老人の親類とあっては……。特権階級と滅亡主義者がつながっているという疑惑は確信に変わってしまった。
(警察もこのありさま。これからこの町はどうなるのかしら)
 記事の修正を手伝いながら、ユリは思った。警察までもが滅亡主義者。この町の治安はこれから誰によって守られることになるのだろうか。
 後日、逮捕された老人と警視総監は牢の中で死亡した。死因は心臓マヒ。だがそれを引き起こしたのは薬物。警察内部がさらに調べられたが、殺害に使ったと思われる薬瓶すら見つかることはなかった。また記者たちは華々しく記事を書きたてて新聞に飾り付けた。「逮捕された二名の死亡・自殺か、他殺か?」とタイトルをつけて。巷ではあっというまにその話が広がった。警察内部で死亡しただけに、警察の中にまだ滅亡主義者が潜んでいるのではないかという噂が瞬く間にささやかれた。中でも「実は議会が口封じのために殺させたのでは」という噂が特に早く広まった。そして後日、二名を毒殺した犯人の男が、川から死体で見つかった。この事件が噂の広まりと議会への不信感に拍車をかけた。議会は警視総監よりさらに上、実質上警察を束ねあげている存在。議会が命令したのだと考えられてもおかしくはない。議会はまたしても記者会見を開いて、自分たちは暗殺命令を出していないと必死で否定した。だが、一度疑惑の火がおきると、そう簡単にそれを消すことはできないのだった。数日間で、小さな火は大きな炎へと成長し、議会がどんなに記者会見を開いて疑惑を否定しようとも、報道陣が薪を次々と放り込む限り、炎は小さくなることはなかった。
 議会は、今度はマスコミへ圧力をかけなければならなかったが、そうするには遅すぎたといってもよかった。報道陣が記事を扱うのをやめるか小さな記事に変えた途端に、「今度は議会が圧力をかけてきたんだ」と町中がうわさをし始める。町中に放たれている議会のスパイたちは噂をもみけそうとしたが、どんなに頑張っても、議会への不信感を取り除くことはできなかった。

 五月二十九日の夜十時過ぎ、ヘンリーはやっと自宅に戻ってきた。疲れ切ったヘンリーを執事がなんだかんだと世話を焼く。社長たる父は三十分ほど前に帰ってきて、疲れのためにもう熟睡している。役員会議が思った以上に長くかかったのだ。
「お手紙が届いております」
 執事は、シャワーを浴びてきたヘンリーに桃色の封筒を渡す。いい香りの封筒。ヨランダからの手紙だ。ヘンリーはそれを見ると疲れも吹き飛び、嬉々として封筒を開けて中の手紙を読み始めた。だが、ヘンリーの表情はだんだん暗くなっていった。
『結婚相手が決まりました』
 便箋には、それだけしか書かれていなかった。紙面はでこぼこしており、水を数滴こぼしたかのような跡がある。書き手の心情を反映してか、字は細く頼りなく、インクがところどころ滲んでいる。ヘンリーは手紙を持ったまま、沈んだ顔でベッドに腰を下ろした。
(とうとう来てしまったのか……)
 本当は祝福すべきなのに、ため息ばかりが出てきた。ヨランダとはこの二年間の間に何度も話をした。結婚したいと一時考えた二人。しかしファゼット自身が結婚を許しはしないだろうし、反対を振り切って結婚したところで、ヘンリーがファゼットの地位の重圧に耐えきれるとは思えない。実際、支配者の地位に就くには、ヘンリーは力不足なのだ。結婚については何度も話をして、彼女とは恋人以上の関係にはならないと決めている。結婚すればたがいを不幸にするだけだから。それでも、結婚相手が決まったという報告は、悲しいものだ。
 ヘンリーが返事を書こうと便箋を取り出したところで、執事がドアをノックして入ってきた。なにやらおどおどした顔で。
「お、お客様でございます……」
「客人? 誰?」
 執事の後ろから入ってきた人物を見るなり、ヘンリーは椅子からはじかれたように立ち上がった。
「ヘンリー……」
 ヨランダはヘンリーに抱きついた。ひとしきり泣いた後、ヨランダはヘンリーと話を始めた。何時間も話をし、ヨランダはどこかふっきれたような、それでも悲しさを残した表情でヘンリーの屋敷を後にした。そのころには東の空から太陽が昇り始めていた。

 六月一日の朝。議会は、基地の連中を議事堂に呼び集めた。下は隊長、上は上層部。基地にいる特権階級の連中は議事堂の彼ら用の席に着く。九十もの歳になる老いた議長は木槌を弱弱しくデスクにたたきつけた。
「資産は既に海外の別荘へ移し終えているかね? こんなことを聞く理由はだな、町の住人の間によからぬ噂が流れているからだ。我ら議会に対する反乱がいつ起きるかわからぬ。それに、お前たちの統治する野生動物保護官どもがお前たちに刃向かわないとは限らぬからな……」
 ぜえぜえ言って一旦話を切る。
「隊員たちの間に不満がたまっているのではないかね? 逆らえないからとバカにしていると、連中はどんな形で不満を爆発させるかわからん。明日にでも、お前たちは別荘へ向かったほうがよかろうて」
 基地の者たちは互いに顔を見合わせた。彼らもうすうす気がついてはいる。いや、気づいていても知らぬふりをしてきたのだ。野生動物保護官たちが彼らに不満を抱いていることに。そしてそれが明らかにわかるほど、彼らの周りにはピリピリした空気が絶えず張りつめていることに。
「今日は、港が混んでおる。明日の朝一番に旅立つがよい。だが今日は一日、基地にいたほうがいいじゃろう。逃げ出すところを見られたら、隊員たちがどんな行動をとるかわからんからな。パトロールは深夜もやっているからな」
 皆、深刻な顔で席を立った。
 基地に戻ってから、皆そろって、家族に連絡を入れる。急いで荷物をまとめて港へむかえ、と。航空機を使うための空港は一年前の滅亡主義者の事件以来閉鎖となってしまったため、手をつけられていない港を使うしかない。電話で連絡を受けた家族たちは、最低限の身の回りの物をまとめた後、ほかの特権階級の連中に交じって港へ向かった。あとは自分たちが明日の朝一番にこの基地を捨てて避難するだけ。明け方だけは、パトロールが中断されているのだから、見つかる心配はない。荷物を改めてまとめなおし、部屋の中にそれぞれ隠す。専用エレベーターのカギを閉めて南京錠をいくつもかけ、エレベーターと南京錠のカギをそれぞれ、秘書に隠させる。そうして隊員たちのルートをふさいでしまえば、たとえ隊員たちが襲ってきても時間稼ぎが可能。隊員がカギを壊そうとやっきになっている間に、非常口から外に出てしまえば大丈夫なのだ。隊員たちは船を使えない。だから海外へ逃げてしまえば、勝ちなのだ……!

 六月一日の昼過ぎ。隊員たちの間で、上層部が明日の早朝逃げ出すという情報がかけめぐった。一方、町にパトロールに出ていた隊員たちは町で耳にした噂を持ち帰り、その上層部の情報を耳にする代わりに、町で流れる警察の噂を基地に広げる。先日死んだ老人と警視総監の暗殺者も滅亡主義者のひとりであり、その男は川から水死体となって発見されたが、議会が口封じのためにその男も殺したのではないだろうか。この噂を聞いた隊員たちの間では、上層部が逃げようとしているのも議会が手引きをしているのではないかと憶測が飛び交った。特権階級同士なのだから手を貸すのは当たり前だろう。予定では、長官や隊長、上層部全員が安全な場所に逃げ出しているはず。議会が手を貸しているならば脱出ルートも確保できていることだろう。だが、隊員たちが半月ほどかけてひそかに練ってきたものはこの程度では覆らなかった。この日のために、彼らは耐えて耐えて耐え抜いてきたのだから。

 六月二日の深夜一時半。野生動物保護警備隊によって、基地内は血に染まった。


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