第6章 part2
五月二十九日。梅雨が近づき、空気は少し蒸してくる。H・Sの飛行艇はファゼットの屋敷についた。格納庫に機体を入れ、やってきた使用人たちに見事なクジャクを渡す。それからH・Sは機内へ戻り、アーネストを見た。アーネストは、今にも倒れそうなほどやつれている。顔色は悪く、操縦席の背もたれにぐったりともたれかかり、荒く息を吐いている。H・Sは、アーネストの体調が急激に悪化したことに対して、
(今更この単純バカが飛行機酔い、とは言えないか。何年も乗っているんだ、酔いならもう克服できているはず。ならば一体何が原因でここまで……。いや、待てよ、確か義父さんが……)
医務室からの退院前に、ファゼットが医師を通じて彼に伝えてきた言葉。「彼のことで気に病む必要はない」だったはず。あの時はただの励ましの言葉だと受け取ったのだが、今のアーネストの状態を見ると、ファゼットのあの言葉には裏があるような気がしてきた。
(まあ義父さんは昔からそんな人だったから、こいつに何か細工したのかもしれんな。口だけの脅しじゃない、本格的な何かをしたに違いない……)
ファゼットがアーネストに何をしたかはH・Sの知るところではなかったが、不思議なことに、アーネストに対する同情心は全く生まれてこなかった。
アーネストはよろよろと立ちあがり、屋敷の医務室へ向って歩き出した。
ティータイム。アレックスはセイレンに連れられて、動物園にいた。ヨランダから用を言いつけられているので、後でお迎えにまいりますと言って、セイレンは屋敷に戻って行った。アレックスは乗り物に乗って移動し、牛馬の地区で降りる。広がる草原の奥に林が見える。牛や馬が放牧されているが、食用ではない。鉄製の柵に体を預け、アレックスは牛馬を眺める。五年前の事件以来、牛系の動物が苦手になったとはいえ、遠くから眺めるだけなら平気だ。馬たちはのんびりと草を食み、牛はのろのろと歩きまわっている。こうして見ていると、あの牛馬が、一度激怒しただけで人を殺すほど暴走するような動物だとはとても思えない。
空が灰色の厚い雲で覆われ、雨が少し降り始めた。遠くからゴロゴロと雷の音がする。しめっぽい風が体をなでる。ひどくなる前に帰ろうと思い、アレックスは乗り物に向かって歩き始めた。だが彼の足は、乗り物に到達することはなかった。
十分後、アレックスは医務室に担ぎ込まれた。稲妻の音に驚いた馬たちが走り回り、そのうちの一頭が柵を飛び越えて、仰天して硬直した彼を踏みつけたのだった。立派な体格の馬に踏まれた彼は数か所の内臓破裂と複雑骨折、折れた肋骨が心臓に刺さった状態であった。何時間にも及ぶ手術の後、アレックスは命を取り留めた。
不思議な夢を見ていた。
闇の中で、アレックスはアーネストと向かい合って立っていた。うつろな瞳のアーネストはさびしそうに微笑み、片手を差し出してくる。まるで握手を求めるかのような動作。アレックスは何も考えずに自分の右手を差し出した。手を握ると、何やら温かなうねりが手を通して自分の体に流れ込んでくる、不思議な感覚が体を支配した。まるで力を分け与えられたかのような感じがする。
「ねえ……」
アレックスは顔をあげたが、さっきまで目の前に立っていたアーネストの姿はどこにもなかった。目の前にはただ闇だけが広がっていた。
「アーネスト!」
アレックスは飛び起きた。途端に全身の激痛によって思わず声をあげた。五年前と同じ痛みが全身を襲った。痛みによって初めて、自分の重傷に気づく。夜なのかカーテンを閉めてあるのか周りは真っ暗だったが、薬のにおいから自分が医務室にいることはわかった。なぜ医務室にいるのかとしばらく記憶をたどる。確かヨランダと一緒に海に行ってたんだっけ? 駄目だ、包帯を巻かれた頭が痛くてうまく記憶をたどれない。
ふと部屋の中が明るくなり、アレックスは天井からの光に目がくらむ。足音がして寝台の傍にだれかが立った。慣れてきた目を動かすと、医務室の医師がいた。
「目が覚めたかね」
医師はアレックスを覗き込んできた。そしてアレックスが自分のほうを向いているのを確かめると、フウと残念そうにため息をついて顔を曇らせる。
「何が、あったんですか?」
アレックスの声は思った以上にかすれていた。
「君はね、暴走した馬に踏まれたのだよ。複雑骨折、内臓破裂、数え上げたら君の心臓がホントに止まってしまいかねないほどの重傷だよ。だが手術で命だけは取り留めたよ」
ああ、そうか。動物園に行っていたんだっけ。
「それと、君にはつらい話かもしれんが……」
医者は咳払いして、話をした。アレックスの片足に後遺症が残るかもしれないこと。そして、アレックスの手術の際に、大量の輸血といくつか内臓移植をしたこと。
「そ、そんな……!」
アレックスの顔から、血の気が引いた。体が小刻みに震える。輸血には、血液型の一致したアーネストを使った。その後、彼の臓器はアレックスに移植され、アレックスは命を取り留めた。だが、致死量を上回った輸血によってアーネストは死亡したのだった。
一方で、アーネストが死亡したことは、医師を通じてH・Sも知った。
「ふん、やっと厄介払いができたな」
医師から聞かされたことだが、以前胃袋を摘出した後、アーネストの胃袋を取り換えたのだ、摘出後のただれた胃袋と。多少の薬で胃壁を治してあったものの胃潰瘍を患った胃袋はそのまま使われ続けるうち、さらに使い物にならなくなった。度重なる吐き気で栄養剤の摂取もできなくなり、アーネストはやつれて体調を崩していった。そしてとうとう栄養失調で倒れる寸前まで追い込まれた。餓死するのは時間の問題だったが、それをさらに早めたのが、アレックスの事故だった。アレックスと血液型の一致するアーネストは、ちょうど医務室に来たところであったため、急きょ輸血をすることになった。が、それが彼の最期だった。
(これで私の心臓をひやひやさせる奴はいなくなった。あの爺どもの相手もしなくてすむようになった。一人で仕事をするのには慣れているし、あれがいなくてもどうということはあるまい。はからってくれた義父さんに感謝しなくては)
H・Sはあくびしながら格納庫へ向かった。
(もともと奴とかわした契約は、奴の消息を追い求める基地の連中からかくまってやる代わりに私の活動を手伝わせるというもの。己の体調についての契約は何も交わしていない……。奴はもう死んだ、契約は終わりだ。さっさと忘れることにしよう)
事故から二日。さんざん泣いたアレックスは落ち着きを取り戻してきた。医師とセイレンに看護されながら、医務室に書類の束を持ってきてもらっていつもの仕事を続けた。怪我をした体でも、じっとしているよりは、仕事をするほうが気を紛らわすのにちょうどよかったから。幸い左腕をひねった程度なので、仕事にはそれほど差し障りはない。派手に動くと体や脚の傷口が開きかねないので、リハビリはもう少し先だが。セイレンが運び込んできた書類の束は、次々とサイドテーブルに乗せられていく。アレックスは書類の束に目を通す。すべては自分の筋書き通りに順調に進んでいる。あともうひと押しだ。
(オレの目的の一つはまだ達成が先だけど……でも、もう一つのほうは……)
アレックスが果たそうとしている目的の一つは、アーネストの指名手配を解くことだった。彼がバッファローの暴走を起こした犯人ではないと世間に知らせたかった。週刊誌を使ってそれは達成できたものの、指名手配を解くには至っていない。もっとも、指名手配がとかれるころには――
(たとえ目的を果たしたとしても感想なんて聞けないよな……。オレ、あんたに借りを作ってばっかりで、返したことなんてなかった。だからせめて議会に着せられた濡れ衣をはらおうと思って着手したのに……二度と返せないじゃん、この借りは……)
夢の中で別れの握手を求めてきたアーネストの表情がいまだに頭の中に焼き付いている。それを思い出すだけで、胸が痛んだ。セイレンが書類の束を抱えて戻ってきたときには、アレックスはしくしく泣いていた。セイレンは書類をサイドテーブルにそっと載せると、寝台から少し離れてアレックスが落ち着くまで見守った。やがてアレックスは泣きやみ、今度はファゼットへの依頼書を書き始めた。不思議なことに、セイレンは、目の前の寝台にいるアレックスが全くの別人に変わったような気がしていた。確かに目の前にいるのはアレックスなのだが、違和感がある。
「ねえセイレン」
アレックスが呼びかけてきた。
「はい、ア――」
一瞬、セイレンの言葉は止まった。が、すぐに言いなおした。
「アレックス様。いかがなさいましたか」
「うん、ちょっと」
アレックスはペンを置いて、フウと息を吐いた。
「誰かの記憶を夢に見ることってあるものなのかな」
「夢でございますか」
「眠るたびに、夢を見るんだ。いや、夢と言うかスライドショーみたいな感じ。過去の出来事がどんどん目の前に映って消えていくけど、それはオレの過去じゃない。別の人の過去なんだ。そのうちスライドショーも終わって周りが真っ白になって、目が覚める。その繰り返しなんだ」
「……どなたの過去なのですか?」
「……たぶん、アーネストの過去だと思う」
眠るたびに見る、記憶のスライドショー。見覚えのないものばかりが映り、そのうち見覚えのあるものや懐かしい景色が映る。やがて、野生動物保護警備隊の基地が現れ、その門をくぐり、赤茶色の制服に腕を通す。五年前の入隊者は赤茶色の制服が支給されていたのだ。
「オレもあのスライドショーの中に出てきた。たぶんあれは全部アーネストの視点からだと思う。オレ自身を見ているはずなのに、赤の他人を見ているような、変な気分だったな」
バッファロー暴走後の、瀕死のアレックス。重傷の自分はこんな状態だったのかと夢の中で思った。倒れたアレックスは応急手当てされ、バッファローの群れの届かぬ所へ引きずられる。だが直後にバッファローに跳ね飛ばされて事件の記憶は一瞬途切れるが、次は仰向け状態で草の上に放り出されるところから始まる。だが地面にたたきつけられても痛みは感じなかった。あくまでアレックスは見ているだけだった。
「あの夢の中で、オレはアーネストだったみたいなんだ。でもオレは自分の意志では何一つしていない。ただ見ていただけだった……。信じられる? こんな変な夢」
「予知夢のようなものでしょうか」
セイレンは違和感の正体がわかった気がした。
「私の祖母もアレックス様と同じく心臓移植を受けておりました。すでに亡くなりましたが、たびたび誰かの過去を夢で見ていたそうです」
「へえ、どんな夢?」
「私が物心つくころに祖母は他界しましたので、夢の内容は教えてもらえませんでした」
「残念……」
アレックスは枕の中に体を預けた。胸の縫合痕がちくちくしてきた。アーネストからは血液だけでなく、心臓を初めとした幾つかの内臓を移植された。それが原因で、こんな奇妙な夢を見ているのだろうか。
アレックスはあくびを一つした。もう疲れてきた。
「あ、そうだ。これ出しておいてくれる? 今日はこれでおしまいだから」
「かしこまりました、ア――アレックス様」
セイレンは依頼書を受け取って医務室を出て行った。
「今、アーネストと言おうとしてたみたいだな」
アレックスは布団にもぐりこんだ。
「オレはアレックスなのに……」
アレックスはそのまま夢の世界へ旅立った。今日はどんな過去を見ることになるのだろうかと思いながら。
アレックスからの依頼書を受け取ったファゼットはその内容に目を通すと、うすら笑いを浮かべてつぶやいた。
「これほどまでに大胆な行動に出られるとは、彼も思い切った決断ができるようになった。確実に成長しているようだな」
依頼書には、逮捕された老人と警視総監の暗殺依頼が書かれていた。だが、その依頼には「滅亡主義者たちをかくまった理由を、手段を問わず聞き出した上で、警察内に紛れている滅亡主義者に必ず手を下させること。もし滅亡主義者が事前に身をくらました場合、その情報を大幅に誇張して町中に流すこと」という条件が、下線で強調されている。
「確かに、あの警視庁には滅亡主義者がまだ一人か二人いる。仲間の脱獄の機会を待っているはずだな。ならば少したきつけてやればいいだろう」
金のベルを鳴らして執事を呼び、通信回線を開かせた。
六月二日の深夜一時半。アレックスの待ち望んでいたことが、ついに起きた。ひそかに、上層部の会議情報を基地内に流させ続けた結果が表れた。あの町の野生動物保護官たちが暴動を起こしたのだ。事件の内容をファゼットから送られてきた紙面で確認しながら、アレックスは首を振った。まだだ、これはまだ導火線に火がついただけの状態。ここからさらに火を爆弾まで導き続けねばならない。導火線が断たれてはならないのだ。まだ足りない。アレックスの復讐心は少しだけ満たされたけれど……。
(町全体を包み込まなければ意味がない。でも、むやみにあおっては意味がない。ここからは町の出かたしだいで、手を変えなくては)
議会の動きはある程度推測できるが、その数百倍もいる町の住人達の動きはつぶさに観察しなければならない。敵意を特権階級と議会へ向けた人々がどんな行動をとるか……。住人の出方次第で、アレックスは対応を変える必要があるのだ。さもなければ無秩序状態が延々と続くだけの荒れ果てた町に変わってしまうから。
(事態を収束に向かわせるには時間がかかる。長ければ半年以上はかかるかもしれない。オレの怪我が完治するのとどっちが早いかな)
疲れたので、セイレンに記事の送信を頼んだ後、アレックスは書類をサイドテーブルへ置き、ランプの明かりを消して柔らかな枕の中に体を横たえた。身を動かした際、骨の折れている右足に強い痛みが走った。後遺症が残るかもしれないと医師は言った。左足は捻挫で済んだが、右足は骨折と裂傷。捻挫と骨折は治っても歩行には支障が出てしまうのだろう。まあいい、普段からそんなに歩かないんだ、命が助かっただけでも十分だよ、うん……。
アレックスは夢の世界へ旅立っていった。今日の夢は、アーネストがハンターになってからの出来事だろうなと思いながら。
K区の格納庫にいれてある飛行艇。その自室で、H・Sは汗びっしょりになって寝台の上に起き上がって息を吐いた。
ここのところ毎晩見続けている。二年前にも見た、アーネストに首を絞められ殺される夢。赤い瞳の中に渦巻く激しい憎悪。首を絞める両手には渾身の力がこめられ、どんなに抗ってもびくともしない。やがて意識が薄れて視界が闇に覆われていく。夢はそこで覚める。夢だとは分かっているが、喉に手が伸びる。首の骨が折れていないことを確認して初めて、安堵のため息が漏れる。だがすぐに、縫合痕に鈍い痛みが走る。
(夢に毎晩出てくるとは、それほどまでに私を殺したかったのか……)
時計は明け方の五時半を指している。二度寝する気にはなれず、着替えて錠剤を飲み、操縦室へ向かう。自動ドアが開くと、彼は首を左へ動かし、口を開いて――そこで止めてしまった。
(いつものクセが――)
自分の席に座って依頼書を読む。この地域にすむ特権階級の連中は少しずつ海外の別荘へ脱出し始めている。そのため、依頼はかなり少なくなっている。彼は依頼書を脇へどけて飛行艇のエンジンをかけた。今日は三件、すぐ終わる。その後で依頼が来なければ情報まとめをして過ごそうと思いながら、彼は飛行艇を格納庫から飛び立たせた。二日前に起きたあの野生動物保護官たちの暴動以来、自然保護区の警備は大幅に手薄になった。彼らは今も基地内に立てこもり、警官隊の突入を獣たちと一緒に防いでいる。Cランクのハンターでさえ口笛を吹きながら真昼間に堂々と侵入しても見つからないほど、自然保護区は無防備な状態。野生動物保護官はパトロールどころではないのだ。数時間も経たないうちにH・Sは目当ての動物たちを皆捕まえ、依頼者の元へ届けるべく飛行艇へ戻った。
操縦室に入ると口を開いて何かを言いかけ――口を閉じた。自分の席に座り、エンジンをかける。上昇を始めた飛行艇はカメレオン・バリアに包まれて姿を消し、空へ飛びあがると進路を定めて進み始めた。自動操縦に切り替えてから、彼は報告書用のメモを作り始めた。どんよりとした雲が前方から迫ってきて、雨を降らせ始める。もう六月、この地域は梅雨入りだ。目的地に到着して鹿と子牛と兎を渡した後の雨はすでに土砂降りとなり、前を見ることすら困難。K区に向かうのは面倒なので海上のS区にある海鳥用の小島に着陸することにした。中型飛行艇が三機停められる程度の広さがあるので、ジェット噴射によって海鳥の巣を吹き飛ばすことも、着陸時に巣をつぶしてしまうこともない。
砂浜から少し奥に飛行艇を着陸させる。とりあえず雨が弱まるまでここで待つことにした。メモを作成し終わると、少し休憩しようと操縦席を後ろに深く倒す。シートベルトをはずして背もたれに体を預け、フウと息を吐く。久しぶりに一人で仕事をしているが、疲れがたまるのが早い。
頭の中にアレックスの顔が浮かぶ。
(馬にはねられて重傷とはいえ、輸血や手術の甲斐なく命を落としてくれればよかったのに。義父さんはまだあいつに力を貸しているし……あの時、なぜあいつにあれだけの力を与えたかは後々わかると言っていたけれど、その理由を話した時はもう「手遅れ」じゃないんだろうか?)
ファゼットは二年前、《子供たち》に言った。アレックスに己の右腕としての地位を与えたその理由は、そのうちおのずとわかるから、今は話せない。アレックスを使って何かを成し遂げたがっているのは間違いないのだが……。先日の野生動物保護官の暴動。あれだけでアレックスが満足しているはずがないのだ。新聞の傾向からみても、現在集めている情報や噂話から考えても、町の住人をあおり、特権階級を不安の渦に陥れようとしていることはもう間違いない。逝きつく先は暴動あるいは圧力による議会の転覆。そうなれば一時的にあの町は無秩序状態となるだろう。混乱が収束に向かうには時間がかかる。その状態で新しい臨時政府でも立ち上げてみる気なのだろうか。
頭を振って考えを振り落とした。その時、通信が入る。操縦席を起こして回線を開くと、相手の顔がモニターに映る。どうせいつもの老人たちだろうと思ったハンターの目は、驚愕で大きく見開かれた。
『あの……お願いがございます』
遠慮がちに、セイレンは話をした。
「元気そうねえ〜、アタシの可愛い子」
ヨランダは、休憩中のアレックスの頭をなでた。肋骨の骨折ゆえに抱きしめることだけは避けているようだが。
「今までお見舞いにいけなくてごめんなさいねえ。ヘンリーのところへ行っていたものだから。帰るまであなたが事故にあったと知らなかったのよ……」
彼女の目が真っ赤になっている。さんざん泣いたのか、徹夜をしたのか。
「いや、いいんです」
アレックスは枕の中に身を横たえ首を横に振った。彼にとっては、ヨランダが見舞いに来てくれなかったことよりも、アーネストを失ったことのほうがはるかにショックだったから。
「それより」
ヨランダは、アレックスの顔を正面から見つめた。
「やっと心に決めたの。式を挙げるわ。どのみち避けられないことなんだもの」
寂しそうに微笑んで、彼女はアレックスの黒髪にそのしなやかな細い指を滑り込ませた。アレックスはしばらく口を半開きにして彼女の顔を見ていたが、
「おめでとうございます……」
ほかに言うべきことはあったはずなのに、それだけしか言えなかった。ヨランダは寂しそうに微笑んだまま、アレックスの髪から手を引いた。
「じゃあ、お父様に報告しなくちゃいけないから……」
ヨランダは彼に背を向け、小走りで医務室を出て行った。しばらくアレックスは呆然として背中を見送った。
(あっちはあっちで大変なんだなあ)
アレックスは枕の中から身を起こし、わきにどけた書類を引き寄せた。ヨランダが誰と結婚しようがアレックスの知ったことではないのだから。
部屋に戻ったヨランダは、父に宛てて手紙を書いた。小間使いに封筒を渡した後、日の暮れていく西空を窓から眺めた。赤い太陽が西の空へ落ちていく。それに続いて、周りの赤い空も少しずつ暗い赤に変わっていく。そのうち赤い光も消えて辺りは夜の帳に覆われる。
(結婚……)
ヘンリーの自宅に駆け込んだ夜。ヘンリーと長く話をした。ヨランダは、抱えているものを全部ヘンリーにぶちまけた。ヘンリーはひたすら聞き続け、話の邪魔は一切しなかった。それでも彼は、いつか来るものとわかっていたとはいえ、結婚の話にはショックを隠せなかった。まさかこんなに早く結婚話が持ち出されるとは思わなかった。だがヘンリーにもヨランダにも、結婚を覆せるほどの力は備わっていなかった。ファゼットの命令を甘んじて受け入れるしかないのだ。それは二人ともわかっている。
「ヘンリー、アタシがどんなひとと結婚しても、ずっとアタシを元気づけてくれる?」
「もちろんです! 非力な僕にできるのはそれくらいです。もっと貴女のお傍にいる事ができたら尚いいのですが……。約束は守らなくては」
「ええ……」
朝日が昇り、彼女が帰る前、二人は熱い抱擁を交わす。そして、唇を重ねたのだった。
(ヘンリー、結婚してもアタシはずっとあなたを愛し続けるわ。たとえあなたと一生会うことができなくなっても……)
唇には、ヘンリーと唇を重ねた時の感触が残っている。初めてのキスだった。
ヨランダは頬を朱色に染めながら、窓から身を離した。
深夜、ファゼットはヨランダからの手紙を受け取った。手紙には、結婚式を挙げることを決めたという文だけがつづられていた。
「そうか、ついに決心してくれたか」
その表情は暗かった。
「わたしとて、地位や金だけを目当てにお前の元にやってくる男へ、お前を嫁がせる気などない。だが、家をこの代で絶やしたくはないのだ。少なくともお前の結婚相手は、素行や性格に問題のない男なのだ、これだけがせめてもの救いだよ……」
手紙を脇に置く。それから金のベルを鳴らし、現れた執事に一言。
「係の者を」
執事が部屋から出て数分後、数名の黒服男たちが音もなく部屋に入ってきた。一人の手に分厚い封筒が抱えられている。
「観察結果を」
封筒の中には、ヨランダの結婚相手となった男の写真や観察記録がひと束入っていた。ファゼットは書類と写真それぞれに目を通す。気になる行動は特にない。結婚を前にしてか、鏡で自分をチェックしている回数が増えているのを除けば。そして次に、
「早くも周りからのいやがらせが始まったようだな。結婚させじとやっきになっている。大人げないのを通り越した、欲の塊ども」
ヘンリーがそうだったように、この婚約者も周囲から嫌がらせをされ始めたのだ。今はまだ家の周囲に牛馬の糞尿をまかれる程度だが、そのうちエスカレートしてくるだろう。ヨランダはヘンリーを助けたが、ファゼットはこの婚約者を助けるつもりはまだなかった。
「まずは様子見だ。彼がどこまで耐えられるか……」
ファゼットは、男たちを下がらせた。男たちが素早く退室した後、彼はサイドテーブルの書類束を取り上げる。それはアレックスの観察記録と写真の束。
「もう少し経てば左足の捻挫が治る。それから少しずつリハビリが始まる予定か。ふむ。右足の怪我は、悪ければ歩行不可能、良ければ歩行に多少の支障あり。縫い傷は順調に治ってきているが抜糸はまだ先なのだな。量は減ったとはいえ、仕事はちゃんとこなしてくれている。彼を突き動かす原動力は憎悪かそれとも復讐心か……」
ファゼットは、写真にどんどん目を走らせていく。医務室に担ぎ込まれた、血まみれで骨や臓器が傷口から飛び出した状態のアレックス。その写真を見ると、ファゼットの顔にわずかな笑みが浮かんだ。
「さいわい命は取り留めることができた。代わりに、自慢の《子供》の平安をおびやかしていた者にはこの世から去ってもらった。アレックスの生命をつなぎとめる大事な役目をつとめることができて、さぞ幸福だったろう……」
衰弱したアーネストに拒否権は与えられなかった。たまたま彼が医務室へ来たところで瀕死のアレックスが担ぎ込まれた。輸血と臓器移植が必要と判断した医師は、居合わせていたアーネストを手術室へ引っ張り込み、有無を言わさず輸血させたのだった。血を抜かれ続けている間、彼は嫌な顔一つせず、恨み言一つこぼさなかった。己の死が近いことを知っていたのか、衰弱で抗う気力が失われていたのか、その理由はわからない。失血死してもなお、その表情は安らかだったから。死後、H・Sの傷つきかけた臓器と交換したもの以外の移植可能な臓器はすべて取り出され、いくつかはアレックスに移植、残りは冷凍保存となった。残った肉体は屋敷裏の小さな墓地に埋葬され、墓標無き墓が一つ作られた。
「それにしても、重傷を負ったのに予定より進捗が遅れなかったのは驚きに値する。アレックスをそこまで突き動かすその動機は本当に何なのだろうな。好奇心だけじゃない、ほかにもいろいろと考えているのだろう。そしていつか彼がすべてを成し遂げた暁には、わたしの出番となる。もう少し彼が協力的ならば、より早くわたしの出番が来るのだが……」
書類を束ねて脇に置き、ファゼットはヨランダに宛てて手紙を書き始めた。結婚を決意してくれたことへの感謝、結婚式の予定日など、ありきたりの事をつづっていったが、その表情はとても暗かった。
「ええっ、アレックスさんが入院だなんて!」
自分の部屋の入り口で、ニッキーは手紙を読んだ途端に大声をあげた。プルプルと震える彼女の手の中に握られた手紙は、やや頼りない走り書きで一行、「今、入院中です」と書いてあるだけ。だがその一文がニッキーに大ショックを与えるには十分すぎるほど。
「ど、どうしよう! 大怪我したのかな、病気になったのかな!? お見舞い行かなくちゃ、ああでも!」
パニックで右往左往する妹に、ヘンリーが声をかけた。
「今は無理だよ、船はもう当分港には戻ってこない……」
「えっ、どうして?」
「……あらゆる船は、ほかの大陸や島へ向かって出てしまったんだよ。当分戻っては来ないだろう」
「どうして船が出て行ったの?!」
「一般市民がこの地区を襲うという噂が、流れてきているからだよ。だからみんなそろって脱出し始めているんだ。船を持っている人は家族全員で海外の別荘へ行った。船を持っていなければどこへも逃げられないからここに残っているしかない」
ニッキーは仰天した。
「ええっ、ここが襲われるってホントなの?!」
「その噂の裏は取れていない」
ヘンリーはため息をついた。野生動物保護官の起こしたあの暴動以来、新聞社にいる間も、社員たちの間で飛び交う噂に注意深く耳を傾けて聞いている。近々市民の間で暴動がおこるんじゃないかという嫌な噂。だが本当に起こるかは分からない。ただの噂かそれとも本当のことなのか。もし本当だとしたら、ここも襲われるかもしれない。社員たちはヘンリーのことをどう思っているのだろうか。一般市民として見ているのか、特権階級として見ているのか。あの不吉な噂がただの噂であってくれたらと、ヘンリーは心底から願っている。
「もしホントだったら、どうするの、ヘンリーにいさん」
怯えたニッキーの問いかけに、ヘンリーは返事ができなかった。
柵で囲まれた特権階級の居住区は、日を追うごとに住人のいない家が増えていった。閑散とした居住区に反比例して、渦巻く空気は重苦しいものとなっていた。
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