第7章 part1



 野生動物保護官たちが暴動を起こした夜。
 日付は変わって六月二日の深夜二時。消灯時間となり、深夜パトロールをする者以外はそれぞれの部屋で眠りにつく。隊長を初めとした特権階級の者は専用の部屋で眠る。だがこの夜、隊員たちは誰も眠りについてはいなかったし、誰ひとりとしてパトロールに出てはいなかった。ハンターたちが動物を盗んでいこうが、おかまいなしだ。今夜は、見回りなどしている暇はない。
 上層部の者たちは、目覚まし時計を朝四時にセットして眠りについている。隊員たちは、それぞれ足音を忍ばせて、専用エレベーターに近づいていた。ここ数日エレベーターには南京錠がつけられているので、当然今夜も付けられている――はずなのだが、南京錠は一つも付いていなかった。隊員たちはドアを通り、エレベーターに乗る。エレベーターにもカギはかけられていなかったので、普通に動いた。現在の隊員は二百人、全員を載せられるほどエレベーターは大きくもないし頑丈でもないので、グループに分かれて載る。音もなく滑るように登るエレベーターの中で、空気が張り詰めていく。隊員たちの顔には決意があらわれていた。
 エレベーターは目的の階に到着。隊員たちは足を忍ばせて降りる。絨毯がうまく足音を隠してくれる。エレベーターはすぐ降りて行き、次の隊員たちを乗せて、また戻ってくる。せいぜい三十秒。その間に、先に降りた隊員たちは素早く廊下を駆ける。廊下を進んでいくと、いくつものドアが見えてくる。豪華な装飾のあるそのドアは木製であり、明らかに自然保護法に違反している。
 外から、A区の猛獣の鳴き声が聞こえる。眠っていたところを起こされて不機嫌な様子。鳴き声はだんだん建物に近づいて、やがて建物の中から聞こえ始める。やがてエレベーターが開いて目的の階への到着を告げる。隊員たちはめいめいドアの前にいる。それぞれ、時計が時を告げる小さなチャイムに合わせ、きれいな金のドアノブを回す。鍵はかかっていない。油がさしてあるのか音もせずにノブが回り、すんなりドアはひらいた。
 獣の鳴き声が廊下を通る。隊員たちはドアを静かに部屋の奥まで開ける。ドアはそれぞれ部屋の内側へ向かって開く仕組みになっている。ドアの奥では、それぞれの部屋に取り付けられている小さなオレンジ色のルームライトがわずかな光を作りだしている。そのルームライトに照らされているのは豪華な羽根布団の中に寝ている、上官たちの姿だった。
 隊員の一人が、手に持った小さなバケツに入った液体を室内にそっと流す。誰でも知っている、嫌なにおいのするドロリとした液体。檻が運ばれてきて、中の獣が解き放たれた。人肉の味を覚えた獣たちは、まっすぐにベッドに飛びかかった。
 誰が知らせたのだろう、一時間ほど経つと、警察がサイレンを派手に鳴らしながら基地の周囲に駆けつけ、取り囲む。
「通報を受けた! 野生動物保護官一同を殺人罪および反逆罪で逮捕する!」
 それぞれの血だらけの部屋の中には、すでに胃袋を満たして満足した獣がまた檻の中にいる。その周りを、隊員たちが囲んでいる。彼らは窓から、外に見える明かりに目をやった。誰が知らせたのか、その疑問は頭の中には回らなかった。誰かほかの部屋の生き残りが助けを求めたのだろう、そう思ったのだ。隊員たちはすぐに獣の檻をエレベーターに乗せる。入口までつくと、警察が基地の入り口をぶちやぶったところだった。そこへ、隊員たちが、バケツに残った液体を警官たちにむかってぶちまけ、檻のカギを開けた。満腹の獣はともかく、食いっぱぐれた獣は迷わずまっすぐに飛びかかった。
 血の匂いのする警官たちに向かって。
 一夜明けた。基地の前には、血だらけの警官たち。中にはずたずたに引き裂かれ無残な姿になった者もいる。死体の山は半分以上獣たちが食べてしまった。残った警官たちは、まだ息のある者を何とか助けだし、病院へ搬送する。獣たちは、野生動物保護官の合図でいったん入り口付近に陣取る。満腹なので眠い獣たちは檻に戻り、今度は朝飯を食べたがっている獣が入り口に放たれる。毎度の訓練の中で、A区の猛獣を大人しくさせ合図で動かす術を身につけている野生動物保護官たちは建物内にたてこもり、入り口、裏口をそれぞれ獣たちで固めた。警官たちは古い猟銃を持ちだして獣を撃った。だが自然保護法が施行された後は、獣の命を奪う銃や弾薬の類の製造が禁止されていたため、火薬類の蓄えはわずかしかなかった。そのうえ長く手入れされていなかったので、使い物にならなくなっていた銃の方がはるかに多かった。攻撃は、ライオンと狼が死んだ程度で、かえって獣たちを興奮させるというマイナスの結果に終わった。

 野生動物保護官が暴動を起こしたこのニュースは、あっというまに町中に広がった。朝になってラジオや朝刊が事件について報道するまでもなかった。夜中のうちから広がっていたのだ。けたたましいサイレンの音が住人を起こし、好奇心旺盛な野次馬たちは何が起きたのかと急いで出かける。そして目にした光景は、野生動物保護官の基地の前で喰われる警官たち。この光景は、月の光に照らされる阿鼻叫喚の地獄絵図にも匹敵するものだった。
 町に広がったこの衝撃的な事件は、当然議会の耳にも飛び込んだ。だが不思議なことに、基地の上層部からは誰一人として連絡を入れていないのだった。新聞を通じて、議会はこの事件を知った。
「明日の朝の旅立ちでは遅すぎたか……」
「昨日のうちに急いで旅立たせるべきだったな」
 不穏な空気が渦巻き始める。基地の上層部が殺された。この事件をきっかけとして一般市民までもが暴動を起こしたら、その標的は特権階級となるのは間違いない。議会の立場ゆえにここを離れることができないのが、つらいところ。家族は避難済みだが、もし自分たちが今この場所を離れれば、議会がこれまでの事件の裏で糸を引いていたのではと勘繰られ、一般市民の暴動は激しいものとなるだろう。たとえ暴動が終わっても、特権階級の者たちは今まで通り贅沢に暮らすことはできなくなるだろうし、最悪の場合うっぷん晴らしのために殺されることも考えられる。
「こんなときに、あの男は何をしておる! なぜ我々を助けてくれん!? 我々がいなくなれば、困るのは奴ではないか! 法律を変えるのは我々、あの男は表世界には決して顔を出さぬ存在なのだ、我々なしにあの男が独力で法律を変えることなどできやしない!」
 初老の議員が新聞を握りつぶして、憤懣やるかたないと言った表情で机をたたいた。それに呼応するかのようにほかの議員からも不満の声が漏れ始めた。だが、若い彼らはファゼットの本当の姿を知らない。年老いた議員たちは、若手の不満声を聞くと、渋面を作って首を横に振ったのだった。

 町中に広がった事件は朝刊のトップをかざった。記者たちは基地周辺に向かい、血だらけの異臭のする現場に吐き気を覚えながらも、獣の作るバリケードを実際にその目で見ては写真を撮るのだった。一般市民出身の野生動物保護官たちが、特権階級出身の上層部に反旗を翻した。それだけでも衝撃的だった。だが同時に、新聞を読みラジオを聞いた市民は、心のどこかで拍手喝采していたのだった。
 あらゆる新聞社とラジオ局は、これまで以上の大忙し。事件についての問い合わせが殺到し、記者たちは取材であちこちをかけずり回る。基地の周りに築かれた獣のバリケードが緩む様子はなく、周りは血のにおいでむせかえりそうだ。そこから離れたところで警察が基地のぐるりにわらを積んでバリケードを作り、その傍で見はっているので、記者も野次馬もあまり近づけない。一人だけ警官の見張りをすり抜けて行った者がいたが、すぐに逃げかえってきた。腹を減らした狼が追ってきたのだ。すんでのところで、わらを積んだ簡易バリケードに飛び込めたものの、あと一歩で狼に食われるところだった。それを見てから、野次馬たちは誰一人としてわらのバリケードを越えようとはしなかった。
 六月二日の朝。
(とうとう暴動が起きたのか)
 ヘンリーは記事をさばきながら、心の中で考えていた。社員たちはいつもと変わりなく、忙しく働いている。トイレのために席を立つ時間すら惜しく感じられるほどに。それでも彼らの表情には驚きがまだ残されている。
(まあ、隊員たちの中にもかなり不満がたまっている事は、目で見ても取材しても明らかだったからいずれはやるだろうと思っていた。でも、こんな形で起こるなんて思わなかった)
 古参の隊員たちには、ひと吹きするだけで自在に動物たちを呼び集めることのできる指笛があるのだ。それを武器にして、隊員たちは上層部を襲った。獣たちはどんなに獰猛であってもその指笛の音色には従う。そのため、彼らは肉食動物たちを楽々檻に入れることに成功したのだ。もともと指笛はかつて密猟者のごくごく一部が動物を捕まえるのに使っていた、門外不出ともいえる技だった。だが今では、野生動物保護官がそれを受け継いでいた。
(これから彼らがどんな行動をとるか、ちょっと興味はある。だけど……)
 このニュースがあっというまに駆け巡ったせいもあり、行きかう人々は話をしている。野生動物保護官の起こした暴動に賛同する者、眉根をひそめる者、怯える者、反応はいろいろある。だがいずれも、「特権階級に逆らった」という話題だけが共通してささやかれている。それに対する反応は先に述べたとおり。その中でも圧倒的に多かったのが、暴動の賛同者。
 記者たちの私語を耳に入れながら、ヘンリーは思った。
(暴動の賛同者が町に広まれば、いつか暴動が起きる。当然、特権階級と議会が狙われるだろう。金持ち連中はあらかた逃げてしまったみたいだけど、議会のほうは、立場上、簡単には逃げられないはずだ。それにしても――)
 思わずため息が出る。もし暴動が起きた時、家族はどうしたらいいだろう。船がないのと、別荘を持っていないのとで、避難場所はない。郵便局が閉鎖してしまったので、ヨランダに手紙を出すこともできない。せめてニッキーだけでも安全な場所に避難させてやりたいが……。
「編集長?」
 記者たちに声をかけられ、ヘンリーは現実に引き戻された。そうだ、取材の結果報告を受けていたのだった。
「顔色、悪いですよ?」
「いや、大丈夫だよ」
 ヘンリーは無理に笑った。だが実際、記者たちに心配された通り、ヘンリーの顔は青ざめていた。
 ヘンリーの心配事に追い討ちをかけるかのように、ヘンリーの父・《アース新聞》の社長は、取引先からの帰り、夜中ごろ、何者かに襲われたのだった。頭を鈍器で殴られた上、財布といくつかの私物を入れたカバンを盗まれた。下手をすると命すら奪われていたかもしれない。ただの強盗かもしれないが、ひょっとすると特権階級を狙っていたのかもしれない……。それを示す証拠は何もないにもかかわらず、疑心暗鬼だけはどんどん膨れていってしまう。頭にひどいけがをした父を市街の病院で見舞った後、ヘンリーはため息をついて出社した。今日の取引にはキャンセルを入れるしかないだろう、出社したら片っ端から電話をかけなければ……。
 どんよりとした曇り空から、ポツポツと雨が降り出した。

 六月三日朝。
(アレックスも、あの暴動に加わったの?)
 ユリは、野生動物保護官の暴動事件を知ってからすぐに、アレックスの事を思い出した。ちょうど事件の朝、ユリは風邪で熱を出していた。体温計で測ると、熱は三十八度。昨日に引き続き会社を休むことにした。
 病院から帰った後、薬を飲み、ベッドに横になった。それから朝刊にもう一度目を通す。野生動物保護官たちが上層部を惨殺し、基地に立てこもった。トップを飾った記事を何度も読み直してみる。
(アレックスも野生動物保護官だし、加わっていてもおかしくないわ。でも、不満があるなら除隊すればいいじゃない! なにも暴動に加わる必要なんかないのに……)
 今アレックスが目の前にいたら、とユリは思った。本当に加わっていたのかどうか聞くことができるのに。ベッドに横たわったまま、ユリは布団の端を握っていた。
(ねえアレックス、うそだと言ってちょうだい。そんな暴動に加わってないって言ってちょうだい……)
 雨が降り始め、彼女はため息をついた。

 六月四日朝十一時。
「お支度はできましたかな、お嬢様」
 執事の声を聞き、ニッキーは、出来てると返事した。
「それより、お父さんは大丈夫?」
「はい。今はお眠りになってらっしゃるそうです」
「よかった」
 ニッキーはそれから一つため息をつく。
「出かける支度はできてるのに、行く場所がどこにもないなんて……」
 小さなトランクに詰めてあるのは、彼女の衣類と少額の小遣いのみ。いざというときの脱出用とはいえ、どこへも行くあてはない。別荘もないのだし……。ニッキーはため息をついて、今にも雨の降り出しそうな外を眺める。遠くでどんよりした雲がピカリと光っている。雷が鳴っている。おそらく雨も降っているだろう。犬たちは、落ち着きがない。ニッキーも同じく。部屋の中をうろうろし続けている。
「あーあ。こんな天気じゃあ、気分も滅入っちゃう。お父さんも怪我しちゃったし……」
 怪我をした父は、一般市民の住む市街地の病院にて入院中であった。ニッキーが暗い顔をしていると、執事は濃いめの紅茶を入れて出してくれた。ニッキーはそれにミルクと砂糖を入れて混ぜ、飲む。紅茶を飲むと気分が落ち着いた。だが別の心配事が頭をもたげてきた。
「アレックスさん……手紙には入院してるって書いてあったけど、大丈夫かしら。もしかして重い病気で今にも死にそうだとか、ひどい怪我して動くこともままならないとか……」
 落ち着きを取り戻したはずなのに、ニッキーはまたしても部屋の中をうろうろし始める。
「ああもう、お見舞いに行けないのがつらいわあ!」
 外で大粒の雨が降り出し、雷がとどろいた。

 六月五日の夕方五時半。あの野生動物保護官暴動事件から三日が経過した。
 屋敷に向かって飛行艇を操縦しながら、H・Sはつぶやいた。
「こんな頼まれごとは初めてだ」
 四日にセイレンが通信で頼んできた内容を思い出す。セイレンは、屋敷で話を聞いてほしいと頼んできた。この場で言えばいいと言ったのに、セイレンはどうしても屋敷でなければだめだと言い張った。通信を切ろうとしてもなお食い下がったので、とうとう根負けしてしまい、H・Sは彼女の頼みを聞き入れることにしたのだった。
 屋敷に到着したのは夜十時半。大雨でびしょぬれになった飛行艇を格納庫に収め、エンジンを切ってから外に出る。整備は明日やればいい。
「お待ちしておりました」
 やや上気した顔のセイレンが格納庫の外で待っていた。セイレンは彼をいつもの客室に通す。客室の準備は既に整えられている。この時期に反して寒い今日、部屋は暖められている。くたびれているH・Sは遠慮なく、柔らかなクッションの置かれた椅子にどっかと腰掛けた。セイレンは熱い紅茶を持ってきた。紅茶を飲んで一息ついた後、ハンターは切り出した。
「で、話は?」
「明日、お話しいたします。本日はごゆっくりお休みくださいませ」
「……急ぎの用じゃないのか?」
 セイレンは退室してしまった。彼は納得のいかぬまま一夜を過ごした。
 そして夜が明け、朝の八時。寝不足のまま、冷たいシャワーを浴びて眠気を払い、食事をとった。食器が下げられてしばらくするとセイレンが入室した。
「アレックス様がお呼びです」
「はあ?」

 六月六日の朝五時半過ぎ。
 雨のしとしと降る音で過去のスライドショーが終わった。目が覚めたアレックスは、寝台の中で悶々と考え込んでいた。彼の頭の中には一枚の大きな紙があり、鉛筆がひっきりなしに動いて何かを書きこんでいるのだ。間違えれば消しゴムがそれを消し、また鉛筆が紙面を走りだす。三十分も経たないうちに、その紙面には大きな一つのフローチャートが出来上がっていた。
 医師の診察の後、アレックスはセイレンに頼んだ。
「話したいことあるんだ。後でH・Sを連れてきてくれないかな」
 一時間半後、セイレンはあまり機嫌のよくないハンターを連れて医務室に戻ってきた。書類の束を片付けて、アレックスはセイレンに礼を言って退室してもらう。そしてアレックスはすぐ切り出した。
「朝早いところ悪いけど、ちょっとあんたと話をしたくて」
「人の都合なんぞ考えん、お前らしいやり方だ。半年会っていないのに全くかわりゃしない。大怪我して少しは大人しくなったかと思ったが……」
 心底から不機嫌な声だった。
「で、こんな時間に私を呼んだ理由は何だ。ご愁傷様の一言でもほしいのか?」
「いらないよ、あんたの罵詈雑言なんか。それより」
 アレックスはH・Sの顔に改めて目を向ける。
「先日の頼み、引き受けてくれてうれしいよ」
「!?」
「オレじゃあんたは相手にしないだろうから、セイレンにあんたを呼んでもらったというわけ。もちろん、あんたが引き受けてくれなくても良かったけど」
「……この私を欺くとはな」
 ハンターは苦い表情になった。確かにアレックス相手なら即座に通信を切ったろう。痛いところを突いてきたものだ。
 アレックスは真面目な顔になる。
「あんたに聞きたいんだけど……取引相手に女の子がいた?」
「……ああ、一人いたな」
「その子にどんな動物を渡した?」
「……猟犬を何頭か」
「そう、で、その女の子の特徴は?」
「くすんだ銀髪と褐色の肌。それ以上は覚えとらん」
「それだけわかりゃ十分さ。あんたの記憶力にはいつも驚かされるよ」
「で、この一連の質問の意味は?」
「オレの知りたいことを知る、それだけ。質問ってそういうもんだろ」
 アレックスは何をいまさらと言いたそうな顔で言った。それから、
「ああ、そうそう。あんたの寝顔、なかなか可愛いよな」
「!?」
「子供みたいな声出して、しかも泣いて助けを求めてるんだから。普段のあんたとはとても思えないほどのかわいらしさだったよ」
 ハンターの顔に焦りと驚愕が表れた。明らかに動揺している。
「あんた、昔は虐待されてたんだって? だからいまだに昔の悪夢にとらわれっぱなしなんだろ。オレが孤児院にいた時、虐待されて孤児院に来た子が一人いたけど、寝ると頻繁に悪夢を見ていたよ。ちょうどあんたと同じように――」
 H・Sは電光石火の速さで寝台に近づき、アレックスの胸倉をひっつかんだ。
「なぜ知っている!」
「教えてもらったんだよ」
「誰に!」
「あの方と、アーネストに」
 体が固まった。アレックスはその反応を面白がるかのように言葉を続ける。
「二年前、あの方が直接オレに教えたんだよ、あんたたちハンターの過去を。で、アーネストが教えてくれたんだよ、オレの夢の中で」
「夢の中?」
「そ、夢の中」
 妙に意地の悪い笑み。その笑いで、H・Sの怒りは倍増した。
「ふざけるな!」
 力が腕にこめられ、枕にもたれていたアレックスの体が引っ張られた。
「貴様、私をからかうのもいいかげんに――」
「やめろ!」
 突然聞こえた声に、H・Sは手を離した。手が離れ、アレックスは枕の中へ倒れた。H・Sは、さっき聞こえた言葉に、自分の耳を疑った。アレックスは何とか枕の中から体を起こし、ハンターに目を向ける。
 H・Sの顔から血の気が引いてきた。
 夜ごと見るあの悪夢。アーネストに首を絞められ殺される夢。今、H・Sを見つめるその目は、夢の中と同じ……。
「……俺を殺す気か?」
 アレックスの声のはずだったが、H・Sには、アーネストの声に聞こえた。彼は青ざめた顔のまま、二、三歩後ろに下がった。
「や、やめろ……!」
 両手が己の首に当てられ、何かを確認するかのように首をなでまわす。アレックスは不審に思ったが口を開かないでおいた。H・Sは小声で何かつぶやいていたが、やがて青ざめた顔のまま医務室から出て行った。
「何だ、あいつ……? まあいい、聞きたいことは聞けたし、あいつ結構図太いところあるっぽいから、ほっておくか」
 アレックスは心配する様子をそれ以上見せず、さっさと仕事に取り掛かった。
 医務室から青ざめた顔で出てきたH・Sを、通路にいたセイレンが見つける。二言三言話しかけても反応が薄かったので、彼女は無言で部屋に案内した。
「夢が教えた? 一体どういうことなんだ……?」
 青ざめた顔のまま、H・Sは身震いしている。熱い紅茶を出したセイレンはしばらく黙っていたが説明した。アレックスにアーネストの臓器が移植された後、アレックスはアーネストの過去を夢で見るようになったのだと。
「臓器移植で過去を知った? そんな馬鹿な――」
 H・Sは熱い紅茶の入ったカップを片手に声を上げたが、ピタと口を閉じた。
(そうだ、義父さんなら知っているかもしれない!)

 昼過ぎ。
『義父さん! 一体どういうことですか!?』
 興奮のあまり裏返った声で、H・Sが通信を入れてきたとき、ファゼットは食事を終えたばかりだった。だが、ファゼットは特にあわてること無く、言った。
「どうしたのだね、突然」
『どうしたもこうしたも――』
 H・Sは、医務室でアレックスと交わした会話について話す。興奮した状態でしゃべっているので早口で多少まとまりがなかったが、ファゼットはなんとか聞きとった。
「彼に君たちのことを話した理由かね? それは、彼にはどうしても知ってもらわねばならなかったからだ。わたしの右腕としての地位を与える以上、彼には必要な知識も持っていてもらわねばならん。でなければ、わたしがどのようにして世界の裏側を動かしているか、わかってはくれなかったろうからね」
『それでも、私のことを教えるのは――』
「やりすぎ、かね」
『……はい』
 弱みを握られるのをことのほか嫌うH・S。弱みを握られ、それにつけこまれることを何よりも恐れている。彼が他人を信用しないのも、契約至上主義者なのも、その影響だ。
『……何も話してくださらなかったら、良かったのに。あいつに余計なことを吹きこんでしまうと、なにをしようとするか分からない……』
「心配はいらんよ。彼の発する情報はすべてわたしが監視しているのだから。君のことが外部に漏れることなどあり得ない。それより」
 ファゼットはもう一つの話について問うた。
「夢で教えたと言ったそうだが、どういう事なのかね」
『私にも分からないのです。あのメイドは、アーネストの心臓が移植されてからそんな夢を見始めた、と言っているのですが……』
 H・Sはため息をついた。
『たかが臓器の移植だけで過去の夢を見始めた、などと非科学的なことがあるとは思えないのです!』
 ファゼットはうなった。
「フーム」
 手元にある、届いたばかりのアレックスの観察記録を取り上げる。写真の中には、寝台で眠っているアレックスが写っているが、ただ寝ているようにしか見えない。会話記録を調べると、確かに彼はセイレンに夢の話をしている。
「そういえば、わたしの父の使用人にいたな。心臓移植を受けた後、他人の夢を見始めた者が」
『義父さんまで!』
「君をからかってなどおらんよ。本当にいたのだ、その使用人は。わたしもその話を聞いたことがある」
 H・Sは納得のいかない顔のまま。ファゼットはなだめるように言った。
「これ以上は気にしないでおきなさい。考えれば考えるほどマイナスの方向に物事をとらえて行ってしまうのは、君の悪い癖なのだから」
『……はい』
 そしてH・Sは通信を切ったが、その顔は晴れぬままだった。
「一度気にすると、己を追い詰めるまで考え込んでしまう事がある……。その悪癖さえ何とかなればいいのだがなあ」
 ファゼットはため息をついて、昼からの仕事に取り掛かった。通信機から取り出されたアレックスの依頼書がまず目に飛び込む。
「おやおや……」
 驚きは示したものの、それでもファゼットはベルを鳴らして執事を呼んだ。


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