第7章 part2



 六月十五日、町の一角で寂しい葬儀が行われた。小雨がパラパラと、荒れた墓地をぬらす。
「おとうさん……」
 ニッキーは地味な喪服の上に涙を落した。ヘンリーは妹の肩に手を置き、ため息をついた。一般市民居住区の墓地にて、身内だけの葬儀が終わった後、ヘンリーは会社や社外の記者たちに片っ端から電話をかけた。父の死をいつまでも悲しんでいる暇はない、これからの会社をヘンリーが引っ張っていかなければならないのだ。後日、悲しみも癒えぬうちから役所に出かけていろいろ書類を提出し――特権階級の居住区には役所がなかった――父の後を継いで社長となった。編集長の仕事までは手が回らないので、彼の出張中に代わりを務めていたベテランを編集長として、もうひとりを副社長として任命したのだった。これまで以上に多忙な日々が始まった。
 ニッキーは犬たちに慰められる形で少しずつ元気を取り戻した。そしてヒマワリが咲き乱れる八月、彼女を見舞うかのように手紙が一通届いた。郵便局はすでにサービス停止となっており、新聞すら届かないのだが……。封筒を見て、ニッキーは黄色い声を上げる。差出人はアレックスだったから。封筒をピリピリと裂いて中身を取り出し、読む。時候の挨拶から始まり、退院が近いからぜひとも会いに来てほしいと書かれている。
「キャー、会いたいって!」
 ニッキーの頬が真っ赤になった。手紙を思わずぎゅっと抱きしめて小躍りしたのち、ハッと気がついた。
「でも、どうしたらいいのかしら。船なんかないし……そもそも郵便局がサービス停止なんだし、お返事も出せないわ」
 そのころ、ヘンリーは社長室で大量の書類と格闘しながら、ふと思った。
(そういえば、創立記念日は来週か。創立記念日と祝日と休日を合わせると五日の休み……)
 ヨランダの顔がふっと頭の中に浮かんだ。元気に過ごしているだろうか。船があれば行きたいのだが、社長という立場上、印刷会社やほかの新聞社の社長から電話がかかってくるかもしれない。
(やはり無理か……)
 これまでは父に任せていればよかったが、社長となった今では、そんなに自由に遊ぶことはできない。それに、今は物騒になってきた。社長室への移動によって社員の噂を聞きとれなくなったので、いつ特権階級の居住区が襲われないとも限らない。せめてニッキーだけでも安全なところへ移動させたいものだが……。
 その夜遅くに帰ってきたヘンリーを、ニッキーは出迎えた。フリルつきのピンクの寝間着を着たままで。
「おかえりなさい、ヘンリーにいさん!」
「ただいま。でももう深夜を過ぎてるぞ」
「だって、ホラ」
 ニッキーの見せた手紙を見て、ヘンリーは目を丸くした。ニッキーを屋敷に招待したい、というのだ。
「アレックスさんが招待してくださったの! お迎えも用意してくださるんですって! ねえ、行ってもいい?」
 ニッキーははしゃいでいる。父の死以来見ることのなかった笑顔を向けてくれるのはうれしいことだが、なぜ急に? だがこれは好都合。ニッキーをあの屋敷に送り出す事が出来る。かくまってもらえさえすれば、もし暴動が起こっても、あの屋敷にいればニッキーは安全だから。とはいえ、できればニッキーをアレックスと会わせたくなかった。妹を人質に、ヘンリーに無理難題を突き付けてくるかもしれないから。でも……。
「うん、行った方がいいかもしれない」
 ヘンリーはしばらく考えた末、そう返事した。はしゃぎまわるニッキーとは対照的に、難しい顔のままで。
「ねえ、どうしたの、ヘンリーにいさん」
「えっ、ああ何でもないよ……」
 八月二十日の夜、迎えが来た。誰もいないはずのひっそりした港に、船が来ていたのだ。ヘンリーはニッキーに荷物を持たせて船に乗せる。自分も乗り込む前に、かけるべきところに全部電話をかけたことをもう一度メモで確認しなおした。それから船に乗り込んだ。出港後、船はいつも通りノロノロとは進まず、エンジン全開で海面を突き進んでいった。まるで彼らを急いで屋敷へ運ぼうとするかのように。ニッキーはうきうきして船室から海を眺め、ヘンリーは浮かない顔で寝台に座っていた。
 数日かかる旅は、およそ一日半で終わった。二十二日の夕方、今度も疲れているニッキーを、ヘンリーは何とか支えながら、屋敷の使用人の案内に従って歩いていった。
 客室に到着し、二人は荷物を置く。軽い食事をとり、風呂に入って旅の疲れを湯で洗い落し、九時にならないうちに二人は柔らかなベッドにもぐりこんで眠りに就いたのだった。

 八月二十一日は会社の創立記念日。今年は祝日と休日を合わせて五日の連続休みとなる。社長となったヘンリーは本社および支社の社員やアルバイトたちに、仕事が終わりしだい早く帰宅して休むようにと言い、皆それに喜んで従った。翌日の朝刊を作った後は、定時で皆あがった。
 本当に、最近は早めに帰らねば物騒になってきたのだ。たびたび町の不良が暴徒化して警察を襲うようになってきているのだ。それが頻繁になってきたので、夜間の一人歩き自体が禁止されようとしている。議会は警察に命令を出して不良たちを徹底的に取り締まったが、逮捕者が減るどころか、増えてきた。暴徒化した不良以外にも、警察と特権階級に対して反感を抱く輩が出現したのだ。最近は派手な取り締まりによって活動をやや控え気味であるが、それでも、滅亡主義者に負けぬほど、治安は悪化した。一週間前は、特権階級の居住区周りを囲む高い柵を乗り越えようとロープを用意していたという。議会はただちに警察に命令を出し、暴徒を捕まえさせたのだった。
 ユリは会社を出た後、同僚に付き合って薬局へ行った。暑い毎日を乗り切るために、保冷剤がわりの氷を買いに行くのだ。氷は暑さで溶けてしまうが、残った水はそのまま飲める。
「今年の休みは長いよねー、四日ももらえるんだもの。最後だけは朝刊づくりしなくちゃいけないけどさ」
「それにしても社長も大変だよねー、仕方ないけどさ。編集長だったころより痩せちゃった気がしない? イケメンが台無しだよ」
「でも、今回の連休で顔色戻ってくれたら嬉しいよねー!」
 ヘンリーの社内でのモテぶりは相変わらず。
 冷たい袋を抱えて薬局を出てから、話の内容は変わる。
「あの暴徒って特権階級の居住区まで入ろうとしたみたいだよね。入りたいならさ、門の見張り番を倒せばいいのに」
「そんな勇気がないから、わざわざ登ってるんじゃない? 議会が上から押さえつけてくるから、見つからないようにしてるとか」
「でも、あの柵の向こうにどんな建物があるんだろ。わたしらみたいなバクテリア分解可能な家がいっぱいなのかしら」
「きっとそうかもね。でも、そうしたらわざわざ柵で囲う意味が分かんない。見てみたいわね、一度っ」
「社長も、親の代からあそこに住んでるのよね。でも、元々は、一般市民出身だったはず。社長は自分のことどう思ってるのかしら? 特権階級かしら、一般人かしら」
「親子そろっていい人なんだし、一般人だと思ってるかもよ」
 社宅の前でも話はしばらく続く。それから皆は別れてそれぞれの部屋に戻った。
「あー、疲れた。明日は寝坊しちゃおう」
 ユリは冷たい氷を部屋の隅のクーラーボックスに入れる。これから少しずつ氷を出して使っていくのだ。
「本当に物騒になったわねえ」
 冷たいシャワーで汗を流し、栄養剤を喉に流し込む。冷たく冷えた栄養剤は喉の通りこそいいが、苦味だけは喉に張り付いている。蒸し暑い夜、何事も起きなければいいとユリは思った。西窓を見ると、破壊された基地の寂しげな輪郭が月の光に照らされて闇に浮かびあがっている。
 七月の半ば、議会は己らの警備兵すら動員し、警官たちとともに、野生動物保護警備隊の基地のバリケードを突破した。警備兵たちは新品の銃を持っており、飛びかかってくる獣たちはことごとく射殺された。野生動物保護官たちの作った家具のバリケードも銃や爆弾で難なく破壊され、隊員たちはことごとくとらえられたという。
(そういえば隊員たちはどうなったのかしら。警察に連れて行かれた話は聞いてないわ)
 記者たちが待ち構えていたにもかかわらず、隊員たちと警備兵たちの姿はなかった。警官たちだけが戻ってきて、動物たちの死体を運びだしながら、「後は警備兵が何とかしてくれる」とそれだけ言って、去った。翌日、勇気ある記者の一人が基地にこっそり忍び込んだが、隊員の姿どころか死体すらなかった。血と火薬のにおいだけがいまだに残っていたけれど……。
(隊員の消息を誰一人知らないんだものね。どっかに連れて行かれちゃったのかしら。議会も警察も何も言わないから、なんにもわからないわ)
 アレックスのことが頭の中に浮かんでくる。
(アレックスもどこかへ行っちゃったのかしら……。それとも、とっくに除隊して町のどこかに引っ越したのかしら。もし除隊していたらいいんだけど……)
 不満を爆発させて暴動を起こし、上層部を皆殺しにした隊員たち。アレックスはその中にいただろうか、それともすでに除隊して引っ越してしまっただろうか。どうか除隊していてほしいとユリは願っていた。どんな形であれアレックスの存在を確認したかった。
 晴れていた夜空は少しずつ曇り始めて行った。

 八月二十三日の夕方。明日は月に一度の会議の日。
『どうしたんだよH・S、疲れきった顔で。あ、お前もう屋敷の中にいるんだ?』
 部屋の通信機でほかのAランクハンターと会話する。その時、相手から発せられた声がこれ。
「疲れが全然とれんから、ちょっと屋敷で休んでいるんだ……」
 H・Sは椅子の背もたれにぐったりともたれかかった。ごましお頭のハンターは心配そうな表情になった。
『どうしたんだよ』
「睡眠不足……」
『はあ? 依頼が減ったならぐっすり眠れるんじゃないのか?』
 H・Sは首を振った。
「悪夢ばかり見て……眠りたくないんだ。睡眠薬も試したんだが、それでもまだ――」
 アーネストに首を絞められ殺される夢。今も続いているが、毎晩ではなくなってきた。それだけが唯一の救いだった。
「少し前から屋敷でカウンセリングしてもらっているんだ。当分活動は休止だな。まあ、依頼が減っているのは嬉しいんだが本来の仕事は捗らん」
『それだけお前がまずいことになってるってことだろ。いい機会だから、じっくり休んでおけよな。お前に倒れられると、困るのはおれらなんだから。お前先月はさすがに会議に出席できなかったよな……あの真っ蒼な顔じゃ仕方ないか』
「わかってるさ」
 礼を言って通信を切った後、H・Sは深くため息をついた。一週間おきに、医務室の隣でカウンセリングを受けている。医務室に入りたいとは微塵も思っていない。二か月も続けばさすがに往復は面倒になるが、それでも、自分が壊れてしまうよりはずっといいと彼は思っていた。悪夢を見る回数が徐々に減ってきているのは嬉しかった。さらに、不思議なことに夢の内容が変わってきた。以前は、抗ってもそのままくびり殺されるだけだったのが、少しずつアーネストの両手を首からひきはがせるようになってきた。とはいっても、最期にはやはり力負けしてしまうのだが。
 医師の言葉が引っ掛かった。
「君は昔から人を信じられなかった。それというのも、君は恐れているからだよ。自覚はあるだろう、君があの方や他の《子供》たちに対して、長い時間をかけた後に心を開けたのは、彼らが裏切らないからだ」
 そう、自覚している。ファゼットも《子供》たちも、誰も彼を裏切らなかった。職員たちと違って……。
 あの夢を見続ける理由は何だろうか。孤児院にいた時のあの夢は、忘れようにも忘れられない記憶。だが、アーネストに絞殺されるあの夢は……。
(いつかあの夢を見なくなる日が、来るんだろうか……)
 H・Sはつぶやいて、窓の外に目をやった。血のように赤い夕陽が、西の大地へ沈んでいくところだった。

 八月二十四日の朝九時。
「だいぶ怪我は治ってきたね」
 医師はアレックスを診察しながら言った。アレックスは昨夜ひさしぶりに散髪してもらい、風呂にも入ったので、スッキリした姿をしている。
「しかしこれほどまでに治るのが早いとはね。あと一ヶ月以上はかかると思っていたが……」
 リハビリは終わり、最後まで胸を締め付けていた胸部のギプスは外れ、松葉杖なしでも歩けるようになった。とはいえ、右足の後遺症のため、右足を少し引きずりながら歩くのが精いっぱい。早歩き程度はできるが、走ることはできなくなった。
 礼を言ってアレックスは医務室を出た。久しぶりに自室に戻れる。セイレンが通路で待機している。
「ご退院おめでとうございます」
「ありがとう」
 ぽっとメイドの頬が赤くなった。
 アレックスが歩くのに合わせて、セイレンの歩調もゆっくりになる。たびたび休憩をはさんで歩き、やっとアレックスは自室にたどりつけた。セイレンがドアを開けると、
「アレックスさあああああん!」
 途端に室内から飛び出してきた何か。アレックスはそれをよけることもできずにそのまま通路に倒れこんだ。
「あああっ、アレックスさんごめんなさい!」
 ニッキーはアレックスにまたがったまま謝った。入院生活で体力の落ちたアレックスは突然の攻撃に面食らって倒れたままだったが、やがて上半身をやっと起こした。
「……いえ、大丈夫」
 そうだ、思い出した。ニッキーとヘンリーが到着したら、客室に通される。だがニッキーだけは、退院の日になったらアレックスの部屋に通しておいてほしいと、セイレンに頼んでおいたのだった。
「やっと退院できたんですね、よかったですう!」
 アレックスがやっと立ち上がると、ニッキーはアレックスに抱きつく。容赦ない抱きつき攻撃。治りたての肋骨がミシミシと小さな音を立てた……。
 ニッキーのおしゃべりを聞きながら軽い朝食を済ませた後、アレックスはセイレンにティーセットをもってきてもらい、ニッキーのおしゃべりにひたすら耳を傾けることにした。別にニッキーに気があるわけではなく、彼女の話を聞いて、彼女の周囲で起きている事を詳しく知りたかったからだ。ニッキーはアレックスと久しぶりに話せたのが余程嬉しかったのか、紅茶や茶菓子の存在に気付いてないのかと思われるほど長く喋った。アレックスは相槌を打ち、たまに質問をはさみながら、話を聞いた。
(すでに金持ちの特権階級はあらかた海外の別荘へ逃げたか。だが議会は簡単には動けない。議会まで逃げてしまったらそれこそ暴動に発展してしまいかねないからな。特権階級の逃亡が市民に知れ渡ったらその時点でドカンだ。それはオレとしては望ましくない)
 ニッキーがやっと一息ついて、紅茶とクッキーに夢中になると、アレックスは質問した。
「ところで、ニッキーさんのお兄さまは、今どちらに?」
「もぐもぐ、ヘンリーにいさんなら、ヨランダお嬢様のところだと思いますよー、もぐもぐ」
 クッキーを紅茶で飲み下して、ニッキーはまた話を始めた。アレックスは自分のカップに新しく紅茶を注ぎ、クッキーを一つ食べて、ニッキーの話に注意深く耳を傾けた。

 午前十一時半。
 ファゼットは客間にヘンリーを招いた。ヨランダは自室でピアノのけいこ中。
「おお、君が娘の……ヘンリー君と言ったかね、会えて光栄だよ」
 ファゼットは朗らかに笑い、ヘンリーに言った。ヘンリーはガチガチに緊張している。
「は、はい……こ、こちらこそお目にかかれて、光栄でございます……」
 やっと挨拶を返せた。緊張がまだ解けない。
「君のことを話してくれる時、娘の顔は活き活きと輝いていてねえ。娘を大切にしてくれて何より嬉しい。わたしは仕事で多忙だったせいで娘に何年も寂しい思いをさせてきてしまったから、正直君のことはうらやましいよ。娘があの活き活きした笑顔をわたしに向けてきたことなど、めったになかったのだからね」
 ファゼットはヘンリーの緊張を解くために色々と話をした。そのうちヘンリーの緊張はある程度解けてきたが、まだ両者の間に立てている壁は厚かった。
「ところで、娘が手紙で知らせたと思うが」
 ファゼットの表情が真面目なものに代わる。
「今年の冬、娘は結婚するんだよ」
 ヘンリーは小声で「はい」と小さく返事した。ヨランダが結婚することは知っている。
「残念ながら結婚の相手は君ではないのだが――娘もよく決意してくれたと、わたしは思っているよ」
「はい、存じております」
「結婚の話は娘にとっても君にとってもショックかもしれんが、それでも、陰ながら娘の支えになってやってはくれんかね。わたしが娘にしてやれることは、生涯の伴侶を見つけてやることだけ。だが、君ならば娘の心の支えになってやれる。あの娘は、君を真剣に愛しているのだから」
 ヘンリーは少し口を開けたまま、硬直していた。硬直した顔には困惑と驚きがしばらく表れていた。だがファゼットの言葉をやっと呑み込んで、膝の上の両手をぐっと握りしめた。
「……はい!」
「頼んだよ」
 ファゼットが会議の準備のために自室に引き取った後、ヨランダはすぐ別のドアから客間に姿を現し、ヘンリーを見つけた。
「ヘンリー、お父様に何か言われた?」
 心配そうなヨランダに、ヘンリーは微笑んで答えた。
「いえ、あなたの支えになるようにと、あの方はおっしゃいました」
「まあ……」
 ヨランダは頬を染め、続いてヘンリーに抱きついた。ヘンリーも彼女を抱き返した。

 午後一時。窓の外を、Aランクハンターたちの飛行艇がいくつも横切っていく。
「久しぶりだね」
 ファゼットは、右足を引きずりながら書斎に入ってきたアレックスに、にこやかに声をかけた。
「まずは退院おめでとう。怪我はほぼ完治したそうだね」
「ええ、ありがとうございます」
 アレックスはにこりともせず、勧められるまま椅子に座った。
「さて、今回、君が頼みたいこととは?」
「お願いしたいことは二つあります。一つは、どんな手段を使っても結構ですので、ヘンリーを警護していただきたいのです」
「おや、なぜかね。彼がこれから先ここに泊めてくれと言いだすかもしれんのに」
「彼は帰らなくてはならないんです。彼の立場が、ここにとどまることを許しませんから。それに」
 アレックスは一旦言葉を切った。
「彼には、生きていてもらわなくてはならないのです、どんな事があろうとも」
「ほお」
 ファゼットは眉根を釣り上げた。だがそれ以上は問おうとしなかった。
「わかった。誰にも見られぬように、細心の注意を払ってヘンリーを警護するとしよう。そして、次の頼みは何かね?」
「議会の連中に、今日の会議で伝えていただきたいのです。この二年間、メディアの記事をいじってきたのは貴方ではなく自分だということを」
 アレックスの言葉を聞いて、明らかにファゼットは驚きを見せた。だがそれも一瞬であり、すぐに平静を取り戻した。
「なぜ自分から正体を明らかにするのかね。わたしの陰に隠れていた方が好都合では? 君の存在を議会が知ったら、世間に広めて回るかも知れんぞ」
「いえ、もう貴方の陰から出て行かなくてはなりません。議会を動かすには、自分が出るしかないのです。これ以上自分が引っ込んだままでは何も進展しないのです」
 ファゼットはしばらく顎をさすって考えていた。アレックスの意外な頼み……。こんな頼みが飛び出るとは、ファゼットも予想できなかった。今までファゼットがアレックスを匿ってきたことは議会も知っている。だが今になって、突然、メディアを操ってきた正体が自分であることを知らせてくれとアレックスは頼んできたのだ。一体全体、アレックスが何を考えているのか、ファゼットはさっぱりわからなくなった。だが、頼んできたからには必ず何か意味があるはずだ。
「危険だが、承知した。今夜の会議で知らせよう」
「ありがとうございます」
 アレックスは頭を下げた。
 足を引きずりながら書斎を出て行ったアレックスを、ファゼットは複雑な表情で見送った。
 その十分後、彼は《子供》の元へ行った。H・Sはちょうど部屋で資料まとめをしていたところだったが、突然入ってきた義父に驚いた。
「義父さん……」
 二人はしばらく話をした。ファゼットが部屋を出て行った後、H・Sはまだキツネにつままれたような顔のまま、しばらく硬直していたのだった。

「なあニッキー」
 ヘンリーは妹に言った。ニッキーはクッキーを色々選んでいるところだったが、兄に呼ばれて顔をあげた。
「僕は明日先に帰るけど、もうしばらくこの屋敷に泊まってくれないか?」
 ニッキーは驚いた。
「最近、人がどんどん海外へ逃げて行っているだろ。僕らは別荘も何も持っていないから、逃げも隠れもできない。だからせめて、お前だけはここにいてほしいんだ……」
「どうして?」
「父さんが襲われたのは偶然かもしれないが、それでも、心配なんだよ。お前まで暴漢に襲われて命を落としてしまったら、きっと父さんは悲しむ。だからもうしばらくこの屋敷にいてほしいんだ。ここなら安全だから……」
「やだ! ワタシだけ残るなんて!」
「でも……」
「ニッキー! 言うことを聞きなさい!」
 ヘンリーは妹の両肩に手を乱暴に置き、強く言った。
「僕はお前を失いたくないんだ! 母さんも父さんもいなくなってしまったんだ、その上お前まで失うなんて、耐えられない! もうこれ以上何も失いたくないんだ!」
 ニッキーの頬を、涙が滑り落ちて行った。

 午後三時半。ヨランダの部屋にて。
「やっと退院できたのね〜、アタシの可愛い子」
 ヨランダはアレックスの頭をなでながら微笑んだ。
「あなたがヘンリーを呼んでくれたのね、ありがとう。アタシを元気づけてくれて」
 否。ヨランダのことはどうでもいい。
「ええ、まあ。ずっとさびしそうでしたから」
「ありがとう!」
 ヨランダはアレックスを抱きしめた。いつもの抱擁よりもずっと力が弱い。その細い両腕がわずかに震えている。顔は見えないが、たぶん泣いているのかも。
「アレックス、本当にいい子ねえ……」
 ヨランダはアレックスの頭をなで、左頬にキスをした。予想しなかった行為にアレックスの顔はリンゴのように真っ赤になった。抱きつきには慣れているが、キスには慣れていなかったから。
「あら可愛いわねえ、リンゴみたいに真っ赤になっちゃって。でも、それが可愛いのよね、アタシの可愛いお人形だものねえ」
 愛撫を繰り返し、微笑んだその顔には、寂しさが浮かんでいた。だがアレックスはそれには特別に注意を払わない。払う必要はなかった。アレックスには、ヨランダの結婚話は関係の無いことだったから。
 アレックスが部屋から出て行ったあと、ヨランダは窓の外を眺めた。きれいな青空が、彼女の一筋の涙の中に映し出された。

 仕事にかかろうとしたアレックスだったが、ニッキーのおしゃべりにつきあわねばならなくなった。一緒にいてくれと泣いて聞かないものだから。長話に付き合うためにセイレンにティーセットを持ってきてもらった後は、自室で長いことニッキーに泣きつかれていた。泣いている間に聞き取れた話を要約すると、安全のためにニッキーにはこの屋敷に残っていてほしいとヘンリーが言ったのだと言う。いつ一般市民が暴動を起こすか分からない現在、せめて妹だけでも安全な場所に避難させておきたいと考えてのことなのだろう。
「あなたの事を思ってのことでしょう。いいお兄さんじゃないですか」
「でもアレックスさあん」
 ニッキーはまだべそをかいている。
「ワタシひとり、おいてくなんて……」
「それだけあなたを大切に思ってるってことですよ」
「でも……」
「お兄さんの言葉に従った方がいいですよ。あなたが亡くなったらお兄さんは本当に悲しみますよ。あなたしか家族はもういないんですから。お兄さんは大丈夫、必ず迎えに来てくれますから」
「ほんとに、ヘンリーにいさんはだいじょぶなんですか……?」
「大丈夫ですよ。お兄さんを信じてあげてください」
 アレックスは微笑んで見せた。それがニッキーを少し元気づけたのか、ニッキーも涙ながらに微笑み返した。
「はい……」
 そう、オレにとって重要なのはヘンリーの命。彼が生き延びてくれないと困る。
「だから、もう泣かないでくださいね」
「ええ」
 ニッキーは涙を拭いた。
「アレックスさん、動物園行きましょ!」
 ニッキーに手をひかれ、アレックスは椅子から立ち上がった。


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