第8章 part1



 八月二十四日の夜七時半過ぎ。
 会議中のファゼットの言葉で、議会の席は騒然となった。ハンターたちは複雑な表情になり、一部の上層部の席からは物音ひとつ聞こえない。当然、出席者がみんなそろって動物の爪と牙で殺されてしまったのだから。身内の者はそろって海外の別荘へ逃げ出しており、彼らには出席の資格がないので迎えの飛行艇も船も出していない。
「な、なんじゃと……」
 入れ歯の飛び出しそうなほど荒く呼吸した老人は、椅子から立ち上がり、ぜえぜえと息を切らしながらも、ファゼットに向かって言う。
「やつが、奴が……お前さんの、代わりに、メディアを操作しておったと?!」
「さよう」
 ファゼットは落ち着き払っている。こうなることはもう予想済み。
「そしてこれは彼の頼みなのだ、この会議で、二年間自分がメディアを操作してきたことを伝えてくれとな」
 ざわざわしている会議室。
「静粛に!」
 ファゼットの一言で、室内はしんと静まり返った。だがすぐに静まったわけではなかった。
 ファゼットがメディアを裏から支配している事は、この会議に出席している者すべてが知っている。だが、二年前からメディアを操作しているのはアレックスだった。それを知っているのはAランクハンターだけ。ファゼットが《子供》たちに直接伝えたからだ。
「彼が何を考えているか、わたしにはわからん。だが、彼がわたしの陰に隠れるのをやめて、己の姿を日の元にさらそうと言うのだから、皆のやり玉に挙げられる覚悟が出来たのかもしれんな」
 ファゼットは一呼吸おいて、また騒がしくなりつつある会議室を静めた。
 会議はそのままつづけられたが、出席者たちはもう議題には集中できていない様子だった。衝撃的すぎてこれ以上は駄目だと思い、彼はいったん会議を中断し、明日に延ばすことにしたのだった。
 会議の終わった九時、ファゼットはアレックスを書斎に呼んだ。
「お伝えくださって、ありがとうございます」
 ファゼットが会議中の様子について話すと、アレックスは頭を下げた。
「予想通り、連中は騒いだよ、おかげで今日の会議は明日の朝に延ばすことになったのだ。君はこれで満足なのかね」
「はい」
「君の存在が知られたことで、これから連中は徹底的にメディアをしめつけようとするだろう。君の発信する情報を外に出さないようにするために。君にとって活動がしづらくなると思うのだが、その点はどうなのかね」
「いっこうにかまいません。彼らが何をしようとも、すでに手遅れなのです」
「ほお」
 ファゼットは眉根を少し釣り上げた。
「最後のひと押しがあれば、どんなにメディアを締め付けていても無駄なことです。このひと押しのために、野生動物保護警備隊の上層部には血を見てもらったのですから」
「そうかね」
 ファゼットは書類を片手にアレックスの顔をしばし見つめた。アレックスの黒い瞳は、狙った獲物に今にもとびかかろうとする猛獣の目とそっくりだった。
「ああ、そうだ。後で、自分の部屋に急いで届けていただきたい情報があります――」
 アレックスが退室した後、ファゼットは書斎の隣のドアを開けた。そこには、H・Sを初めとした、Aランクハンターたちが、会議机を囲んで座っていた。どこか沈鬱な表情を持つ皆の中でも特に、H・Sの顔は、やつれもあって、沈んだ表情が際立っていた。
 先ほどの会話はすべて、筒抜けだった。《子供》たちはそろって、話を聞いていたのだ。
「待たせたな」
 ファゼットは上座の席に着いた。
「先ほどの話、聞いていたと思うが――」
 ファゼットは切り出した。
「彼の狙いは、一般市民の暴動をあおって議会を転覆させることにあると考えられる。その先が新政権の樹立かそれともそのまま放っておくかは、まだ十分に分かってはいない。だが、わたしはもうしばらく彼の成さんとすることを見ておかねばならない」
「義父さん……」
 口を開いたのは、H・Sだった。
「そろそろ我々に教えていただけませんか、なぜ奴に、あなたの右腕同然の地位と力を与えてメディアを操らせたのか……」
 他の《子供》たちも賛成の言葉を口々に言った。この質問を二年前にもしたのだ。だがファゼットは答えてくれなかった。
「フム。そろそろ話してもいいかもしれんな」
 真剣な《子供》たちの表情を見て、ファゼットは顎をさすった。
「きわめて簡潔に話そう。わたしが彼に右腕同然の地位と力を与えたのは、彼の活動を通じてわたしの支配力を強化するため。だがわたしは表の世界の王になりたいとは望んでいない。わたしの望みはあくまで裏世界の完全な支配者としての地位を確立することにある。そしてアレックスはそのわたしの望みをちゃくちゃくとかなえてくれているのだよ」
 しばらくハンターたちの顔があっけにとられていた。
「しかし義父さん。もし、奴があなたの期待に添えるほどの力量を持っていなかったら――」
「それを図るために、二年前にレポートを書かせたのではないか。君たちの誰よりもすぐれた能力を秘めた彼は、わたしが力を与えたことによって、その実力を徐々に発揮している。もし彼が能力を何も持っていなくても、娘の遊び相手として過ごせばいいだけのことなのだ」
「しかし……」
「彼自身が復讐だけで終わってしまうか、それともその先まで考え抜いているか、それはこれからの彼の出方次第ではっきりとする」
「それで」
 H・Sはまた口を開いた。
「なぜ奴は己を表に出したのです? 隠れているほうが余程都合がいいのに……」
「それは、わたしもわからんのだよ……。だが隠れていると何も進展しないと言った。だから彼は出てきた。彼が表に出ることで、彼の活動はよりやりづらくなると思うのだが、彼にも思うところがあるのかもしれん」
 ファゼットはためいきをついた。
 十時半、部屋に引き取った後、H・Sはベッドに座って、今日の会議で使うはずだった資料をまた読み直した。明日の朝にまた会議なのだから。
 ドアのノック音。彼は起き上がり、ベッドから降りてすばやくドアの傍へ足音もなく歩み寄った。
「失礼いたします」
 ドアを開けて入ってきたのは、セイレンだった。H・Sの姿が部屋に見えないので周りを見回したが、すぐに、開いたドアの陰にいる相手を見つけた。最近、彼は屋敷にいてさえこんな警戒行動をとる。もう慣れてしまったので、セイレンは驚かない。彼女は手に銀の盆を持っており、磨かれた銀の盆には医師の調合した薬が入った袋を載せてある。
「お薬でございます」
 そうだ、カウンセリングの後で薬を届けてくれと医者に頼んでおいたのだった。まさかこんな時間に届けてくるとは思わなかった。とりあえず礼を言って薬を受け取った後、
「ああ、そうだ。ついでに、ひとつ頼まれてほしいんだが」

「このような時間にお呼びして、申し訳ありません」
 アレックスは、正面の椅子に座ったヘンリーに軽く頭をさげた。ヘンリーは遠慮せず、ずけずけ言った。
「それは構いませんが。こんな時間になぜ呼んだのか、手短にご説明をお願いしたいのですが」
 アレックスは、かるく咳払いした。
「まずこれをお読みください」
 紙を一枚渡す。ヘンリーは受け取って読み始める。読み終えるまでにたっぷり五分。それが終わったヘンリーの表情は複雑だった。悩んでいるような苦しんでいるような、両方を混ぜた顔だ。
「この書類は?」
「読んでいただいた通り、今後、御社に起こりうる最悪の事態を想定してまとめたものです」
「それで、この書類を僕に見せることに何の意味が――」
「少なくとも、あなたや御社の社員の皆さまを、ある程度の危険から遠ざけることが出来ます」
「その危険から確実に守ってはくれないのですか?」
「その書類にまとめたのは、あくまで想定の範囲内の事柄のみ。しかし、最善は尽くさせていただきますよ」
 ヘンリーは書類を机に置いた。アレックスはあの冷たい目でヘンリーを見ている。冷笑はない。あくまでむっつりしている。ヘンリーはちょっと言ってやろうと思い、
「あなたの言葉を信用していいものでしょうか。わが社には、あなたの知り合いの方がいるのですよ?」
 明らかにアレックスは驚いた。
「知り合い……?」
「そうです。あなたと同じ孤児院にいた、ユリです」
 その言葉がアレックスに強いゆさぶりをかけたのは間違いなかった。口は半開きになり、体は硬直し、目は大きく見開かれたのだ。ヘンリーはしめたと思い、さらにたたみかける。
「貴方が何をしようとしているのか、僕は知らない。けれどその行動によって泣きを見るのは貴方ですよ。万が一彼女が、危険なことに巻き込まれて死亡した場合は特にそうでしょう!」
 アレックスはしばらく口の中で何やらつぶやいていた。顔が若干青ざめてきた。だが一分も経たないうちに、アレックスは己を取り戻した。
「……自分があなたにして貰いたいこと、それを知らせる必要はありますまい。ですが」
 アレックスはデスクの上でこぶしをぐっと握った。
「貴方と御社を危険から守る。これだけは、誓約いたします!」

 朝が来た。霧の無い、晴れ渡った青空。ヘンリーは島の港から船に乗った。桟橋でニッキーとヨランダが見送った。
 ヘンリーは前日に、ヨランダにできるだけニッキーと一緒にいてほしいと頼んだ。スケジュールの許す限りならとヨランダは恋人の頼みを引き受けてくれた。また、ニッキーをしばらく屋敷に滞在させる事も許可してくれた。一方でヘンリーはニッキーに、あまりアレックスに近づくなと言った。ニッキーは不満そうにしたが、「それがお前のためだから」としか言えなかった。ニッキーは兄の言葉をどう受け取ったのだろう、ヘンリーはそれだけが心配だった。アレックスがニッキーを人質に何か要求してきやしないだろうかと、ヘンリーは気が気でならなかった。
 ヘンリーの頼み通り、ヨランダはスケジュールを組みなおさせて、可能な限りニッキーの相手をしてやった。今まで友達のいなかったニッキーは話し相手もでき、綺麗なドレスも仕立ててもらい、上等のアクセサリーもつけて、大喜び。美味しい料理や菓子も、彼女を喜ばせるのに一役買った。ヨランダ自身ニッキーの事は好いていたし、ニッキーはアレックスと違って、服をアレコレ着せかえても嬉しそうにするので、ヨランダは早くもニッキーをアレックスよりも「かわいらしい」と思い始めていた。マナーや教養はいまひとつだが、これから家庭教師をつけて教え込んでもいいだろう。アレックスのことはあくまで「お人形」であるが、ニッキーは「友達」になれるかもしれない。
「ねえニッキー」
「なんですか?」
「あなたは本当にかわいらしいわねえ」
「あ、ありがとうございます……!」
 ニッキーは頬を赤く染めた。
「そうだ、あなた専用の家庭教師をつけてみようと思ったんだけど、どうかしら?」
「かていきょうし?」
「そう。ダンスやピアノやマナー、色々とあなたに教えてくれるわよ。それとも、お勉強は嫌かしら?」
 ニッキーは目を輝かせた。ずっと学びたかったモノばかりだった。あこがれの上流階級、そこで教えられるモノを学べるのだ。
「そんなことありません! ぜひ、おねがいします! でもどうしてワタシに家庭教師を?」
「あなたは磨けば光りそうだもの。それに、その様子ならあなたは勉強を苦にはしなさそう。ちがって?」
「お勉強、しっかりやってみせます!」
「じゃあ、さっそく手配するわね」
 ヨランダは金のベルをリンリンと鳴らして、小間使いを呼んだ。
「大至急、アタシの家庭教師たちをここへ呼んでちょうだい」
 小間使いは一礼して大急ぎで出て行った。そして五分後には、ヨランダの家庭教師たち全員が彼女の部屋にそろったのだった。
「スケジュールを新しく立ててもらいたいの。この子ニッキーに、いちから色々な事を教えるためにね」
 目をキラキラ輝かせるニッキーを、ヨランダは家庭教師たちに紹介した。そして、ヨランダのスケジュールを削る代わりにニッキーのスケジュールを新しく組み込ませることにした。
「何もかも、一から教えて頂戴ね」
「かしこまりました、お嬢様」
 老いも若きも、家庭教師たちはヨランダに頭を下げた。

 八月二十五日。朝の会議終了後の十時半、
「おいおい、大丈夫か、H・S」
 歳の割に老け顔のハンターは、まだやつれの残る顔を見て、言った。
「それにしても、お前ホントにやつれたな……一体何があったんだ? 神経のずぶといお前がこんなに病人みたいになって……」
「神経が図太いだって? 人は見かけによらん。私は逆に神経質な方なんだ。それを現さないだけで、実は結構ため込む方なんだよ」
「で、今になってそのため込んだ分のツケがきた、というわけかい」
「そういうことだ」
「そうか……お前は昔から無理しすぎるんだ。それに、今は世界各地で依頼が減り始めている。お目の担当する地域で、ちっとばかし《騒動》がおこってるせいだな。おかげで情報収集はやりづらくなったけど、これを機会に少しは休んどけよ。お前に倒れられると、困るのは俺たちなんだから」
 別れた後、H・Sは部屋に戻った。また今日もカウンセリング。面倒だがちゃんとカウンセリングは受けておかないと。
 小さなメモ帳をパラパラとめくる。夢日記をつけろと医師に言われたので、その日からつけはじめたものだ。孤児院で虐待されていたころの夢とアーネストに絞殺される夢の二つが多く、ほかは目覚めと同時に忘れたらしく、「忘れた」としか書かれていない。虐待される夢は何も変わらない。意識を失うまで殴られたところで終わる。だがアーネストに絞殺される夢は日を追うごとに少しずつ変わっている。ただ殺されるだけだったのが、少しずつ相手の手を首からひきはがせるようになってきたのだ。
(少しはマシな夢になってくれたか)
 昨夜、セイレンに頼んで連れて行ってもらった、屋敷の裏の小さな墓地。墓地のどこに葬られているかはさすがにセイレンも知らなかった。だがH・Sは分かった。使用人たちの墓の列にひとつだけ、墓標の無いものがあった。墓場の隅っこに、アーネストは眠っていた。ひそかに埋められたのだろう、他の墓の周りは草が綺麗に刈り取られているのに、その場所だけ草がぼうぼうに生え放題。
(生きている私にちょっかいを出すな。貴様はもう死んだ、私のことなどさっさと忘れて眠れ!)
 メモ帳を閉じて、彼は足早に医務室へ向かった。今日のカウンセリングで、医師は彼のメモ帳を読み、夢の内容を確認した。それから、異様な苦さの水薬を飲ませた。しばらくすると、椅子に座っている患者の目つきがとろんとしてきて、体から力が抜けてきた。テープレコーダーのスイッチが入れられ、対話が開始された。
 一時間ほど経って薬の効き目が切れ、患者の意識は完全に戻った。そして、医師が今まで録音していたテープレコーダーの内容を聞いた。そして、医師は、秘蔵のビデオテープを見せた。そのテープを見た時のH・Sの顔は、驚愕に満ちていた。
「君はもう、己の恐怖に向きあえるほど成長できているのだ。夢の内容が変わってきたのがその証拠。あとは、君次第だよ」
 テープの再生が終わると、医師は静かに告げた。
「もし闘うのなら、あの方の元へ逃げてはいけないよ。君一人で、立ち向かわねばならんのだ。でなければ、君は一生そいつを引きずり続けることになるよ」
「……」

 朝十一時。
 アレックスは朝の会議の議事録を読んでいるところだった。いつもより議事録の内容が薄い。まあ、昨夜のショックをひきずっての会議なのだから、決まることも決まらないだろう。特権階級や基地の上層部が一般市民の暴動から身を守るための治安維持対策は、結局もめに揉めただけに終わっていた。さすがのファゼットも収集が付けられなかったようであった。アレックスが仕掛けている地域では、一般市民の悪感情が徐々に逆なでされている。その様子が海外にもニュースで伝わってきており、上層部や特権階級は早くも警戒を始めたのだ。
「我が身かわいさに、海外の別荘へ引っ越そうとしているわけか。考えることは皆同じ。が、それも無駄だと思い知る時が来る。地球上のどこへでも行く手段を、人間は持っているからな。それはこの屋敷も同じ。いつかは皆に発見され、肥沃なこの島をめぐる争いが起きるだろう。その時にオレが生きているかは疑問だけど」
 アレックスは議事録をわきへどけて、今度は次の書類を引き寄せた。昨夜、ファゼットに送ってくれるよう頼んだものだ。それも読み終わると、それを机の引き出しにしまい、いつもの仕事を開始した。
(あと少し、あと少しだ……!)
 アレックスは何やらつぶやきながら、紙面にペンを走らせ続けた。その顔に表情は全くなかったが、目だけは異様にギラギラと光っている。そのうち顔に表情が生まれた。今まで誰にも見せたことのない、冷酷な笑いだった。
 セイレンはそれを、書棚の陰から見守っていた。今のアレックスは、セイレンの知っているアレックスではなかった。
(あの方が生きておられたら、さぞご心配なさったでしょうに……)
 アーネストが生きていて、今のアレックスを見たら何と言うだろうか。無口で愛想のないハンターだったが、たぶんこう言うだろう。

「お前、自分が何をしようとしてるのか、わかってるのか……?」

 たぶん、アレックスはその質問に対して何のためらいもなく答えただろう。
「もちろん、わかっているよ」


 昼の十二時。
「アレックス様、お食事です」
 何度かためらった末にセイレンがやっと声をかけると、アレックスは手を止めて彼女を見た。その目と表情には、あの恐ろしい狂気じみた笑いも光も見当たらなかった。あくまで、『いつもの』アレックスだった。
「あれ、もうそんな時間か……」
 書きかけの記事をさっさと片付ける。セイレンは机の上に食事を並べる。食事をとっている時のアレックスは確かに『いつもの』アレックスだ。間違いない。
「ところで」
 スープのおかわりを頼みながら、アレックスは口を開いた。
「ニッキーはどうしている?」
「ニッキー様は、お嬢様とご一緒に、お食事を召し上がっています。本日、お嬢様はニッキー様とお過ごしになる予定でございます」
「そうか。ありがとう」
 彼はスープを飲み終えた。
(とはいえ、ティータイムで一緒になるのは、避けられないかもしれないなあ。やることいっぱいあるから、出来ればしばらく会いたくないんだが……)
 その心配は、ティータイムで実現してしまった。アレックスはヨランダの部屋に招かれたが、そこにはニッキーもいた。仕立てたばかりの綺麗な薄水色のドレスを着てご機嫌。ドレスに似合ったアクセサリーもつけ、あの子供っぽさと貧操な印象がほぼ完全になくなっている。これには、アレックスも目を見張った。女は着飾ると変わるもんなんだな。だが中身はいつものニッキーのまま、嬉しそうにヨランダと話をし、まれにアレックスにも話しかけてきた。アレックスは相槌を打ちながら紅茶を飲み、一口サイズのケーキをつまんだ。ニッキーの服装や、彼女に家庭教師をつけることなど、どうでもよかった。それに、ヨランダとニッキーは気が合いそうなので、アレックスが何かしてやる必要はなさそうだ。ニッキーにヨランダの家庭教師をつけると言うのだから、彼女はこれから上流階級のレディとしての教養やマナーを身につけていくのだろう。その間は、アレックスにかまっている暇などないはずだ。
(存分に勉強してくれ。オレはしばらく一人で仕事をしたいから、当分は邪魔しないでもらいたい)
 ニッキーはアレックスの事など眼中にないかのように、ヨランダと嬉しそうに話を続けた。
「あ、そうだアレックスさん」
「は……」
 アレックスはパイを口に押し込もうとしていたところで、ニッキーに突然話しかけられたため、口を開きかけたままの間抜けな返答となった。
「何です?」
「ワタシがんばってお勉強して、りっぱなレディになってみせます! ダンスだってやります! そのレッスンの時は、一緒に踊ってくださる?」
 やや間があった。アレックスは踊ったことなどない。
「残念ですが、自分はダンスが出来なくて、お相手できないんです」
「そんなあ。じゃあ一緒に踊って覚えましょ!」
「うっ……。暇が出来たら、ご一緒します」
「やったー!」
 ニッキーは思わずアレックスに抱きついた。その拍子に彼の手に持っていた果物のパイは、皿の上に落ちてひっくり返った。
「あらあら、仲のよろしいこと。うらやましいわあ」
 ヨランダは優雅にほほ笑んだ。
 ティータイムが終わった後、アレックスはくたびれていた。だが、仕事部屋に戻ってから、彼は手紙を書き始めた。
「セイレン、大急ぎで出してきて! 急を要するものだから」

 夜十一時半。H・Sは、再生の終わったテープレコーダーの電源を切った。医務室から戻ってから、このテープを何度も聞いた。薬で半ば意識がもうろうとした状態での対話。薬で意識が半分なかったせいか、自分の声は間延びして聞き取りづらいが、それでもあの夢をこれ以上見ないですむかもしれない打開策が見つかった。とはいえ、夢の中でその打開策が効果のあるものかは不明だ。なにしろ夢は自分でコントロールできるシロモノではないからだ。
 とにかく、眠らなければ。今夜はどんな夢を見るのだろう。
 夢の中は、相変わらず闇の中だった。次の瞬間、目の前に両手が出現した。その両手は、ぼんやり立っていたH・Sの首を、おそろしい握力で締め上げる。やがてその両手の主が姿を見せる。憎悪に満ちた目をした、アーネストだった。そう、いつも通りアーネストはH・Sをこのまま絞殺する。H・Sがどんなにあらがって相手の手を引きはがしても、また首を絞めてくるのだ。
 不思議なことに首を絞められているH・Sは落ち着いていた。両手を相手の手首にかけて少し力を込めると、不思議なことにあっけなくアーネストの手は首から離れた。自分が今までなぜアーネストに絞殺される夢を見たのか、はっきりわかったからだ。
 アーネストの姿をした「それ」に向かって、H・Sは言い放った。
「もうお前なんか怖くない!」
 アーネストの姿がゆがみ、次は別の姿に変わった。それは、血だらけの子供。その痩せた顔には傷やあざがいくつも付き、血がにじんでいる。だぶだぶな服の下にも痣が見え隠れしている。そしてその子供の面影を、H・Sは持っていた。
 思い出したのだ。孤児院にいた頃、孤児院の大人たちから常習的に虐待されていた。その理由が分からず、「イビルがいるから」と想像していた。職員の何人かは彼に話した。嫌われ者のおばけ・イビルは何にでも化けられるんだよ、だからお前をたべちゃうんだよ、イビルは悪い子が大好物なんだよ、お前は悪い子だからイビルがそのうち食べにくるよ、殺しにくるよ……。その話が怖くて、眠れなかった。
 だが、今はもう違う。子供の作った架空の存在など、怖くない。
「『お前』なんか、存在しない!」
 H・Sの目の前にいる、傷だらけの子供の姿もゆがみ、泣きながら消えて行った。アーネストに裏切られて殺されるのではないかという猜疑心と恐怖が生み出した「イビル」は、消えた。そして、その疑心暗鬼によって動かされてきたH・Sの両手は、己の首を絞めるのをやめた。
 朝が来ると、H・Sは目を開けた。
「終わったんだ、何もかも……」
 己自身の作りだした存在に、彼は克った。「イビル」は幼いころの彼が作り出したもの。猜疑心と恐怖を具現化した「それ」は、長く彼を苦しめ続けていた。おそらく「イビル」が最も力を増したのが、アーネストと契約を交わした後。使い物になるかもしれないと考えて取引を持ちかけた一方で、元気になったら裏切るのではないだろうかという猜疑心も芽生えていた。アーネストは役に立ったが、それでも猜疑心は消えなかった。それを表に出すまいと努めていた。疑いを見せればますますアーネストの裏切りを後押しすると考えたから。アーネストの死後になって、その恐怖と猜疑心は一気に解き放たれ、抑圧してきた分の反動が夢となって何度もH・Sを殺しに現れた。悪い子は「イビル」が殺しに来る。孤児院で聞いた話が夢の中で現実となった。死にゆくアーネストを助けもしなかった「悪い子」だから。だがもう、怖くなどない。他人と自分を契約で縛っていたように、自分で自分を恐怖と猜疑心で縛りつけ続けていた鎖はもう切れた。
「やっと終わった……」
 ひとり呟くH・Sの頬を、涙が一筋流れていった。


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