第8章 part2
八月二十六日。朝八時半。
ファゼットは、アレックスから送られてきた依頼書を読んでいた。熱い紅茶をカップに注ぎ、
「おや、ずいぶん思い切ったことをするものだな」
一声あげた。
金のベルをリンリンと鳴らして執事を呼び、続いてのベルで屈強な黒服の男たちを呼んだ。用事を言いつけると、それぞれ命令に従って退室した。
「彼は導火線に点火した。それが爆弾までたどり着けるのは、九月だな。ハッハッハ……!」
ファゼットの笑いは、部屋の中にこだました。
「獲物を追い詰めた獣が牙をむくまで、そう時間はかかるまいて……!」
それからアレックスに一枚通信文を書き、送信した。
あの、飢えた獣のような黒い瞳が、ファゼットをとらえてはなさなかった。獲物を狙い、捕らえ、食いちぎる獣。
あの時のアレックスは、獣そのものだった。そしてファゼットはそれを望んでいた。
(暴走せずにこのまま事態を思いのままに進めていく力を持っていれば、彼はわたし以上に上手く情報社会を支配できるだろう。彼が望むなら、わたしが直々に彼を教育してやれるんだが、あいにく彼にはわたしの後を継ぐ気はない。「面倒事」は嫌いなのかもしれんな。うるさく言ってくる輩の多いこと。胃が痛まないのが不思議なくらいだ)
ドアがノックされ、執事が入ってきた。両手に持った銀の盆には大量の書類が載せられている。ファゼットはサイドテーブルに置かれたその盆から書類を取り上げ、目を通し始めた。
「フム。あの《子》はちゃんと回復したようだな。あのまま使い物にならない状態だったら、さすがのわたしもあの《子》を処分しようかと考えたかもしれんな。まだあの《子》は大丈夫だな」
昼十二時半。議会は、ざわざわしていた。帰ってきたばかりの若手たちはもう会議に出席している。老人たちは疲れが取れないので欠席。
「まさか奴がメディアを動かしていたとは……!」
「これから先も奴がメディアを操るだろうか? それともあの男が止めさせるだろうか」
「それよりも、あの五年前の《事故》について真相を暴露するかもしれんぞ! 今のうちにあらゆるメディアをおさえつけたほうがいいかもしれん!」
隣席の人の声もろくに聞き取れないほど騒がしくなった。
カン!
木槌の音だけが、室内にこだました。皆、口を閉じた。
「静粛に!」
言うまでもなく、木槌の音で会場は静寂に包まれた。
「あの男の言葉にウソ偽りはないはずじゃ」
木槌を持った、年老いた議長は、荒く息をつきながら言った。
「あの男は、今はメディアを牛耳ってはおらんそうじゃ。とはいえ、いつ己の手にその権限をとりもどすかはわからん。その間に、あの小僧がどんな記事を載せてしまうか分かったものではないぞ! そこで、メディアを今後どうするか話し合わねばならん! 我々の身の安全のためにも!」
半日にもわたる会議の末、結論がやっと一つ下された。だがそれは、己の身にも跳ね返ってくることがたやすく想像できるほど危険な、諸刃の剣だった。
ヘンリーはやっと会社に戻ってきた。明日からまた会社が始まる。長い休みも終わりだ。夕方になって戻ってきた主を、老いた執事は出迎えた。
「おかえりなさいませ」
執事はあれこれ世話を焼いた。ヘンリーはくたびれており、部屋に引き取った後、何も食べずにすぐ眠ってしまった。執事は主人の服をタンスにしまい、静かに部屋を出て行った。
アレックスとニッキーが屋敷の中で一緒に過ごす夢を見た。二人は仲よさそうだったが、いい夢とは思えなかった。
どしゃぶりの雨の中、ヘンリーは出社した。
郵便受けから郵便物を引き抜く。おもに議会や他の会社からの手紙だ。自分の机に手紙を広げて、それらに目を通す。最初は眠そうな顔だったが、議会からの通達を読んでいるうちに、やがてその目が大きく見開かれた。
「何だって!」
その通達には、このように書かれていた。
『今後、貴社の全記事を、議会に提出せよ。議会の承認なき記事を掲載することを禁ずる』
通達は、《アース新聞》以外の新聞社、ラジオ局、雑誌社にも届けられていた。出社した社員たちはこの通達の内容を知るなり仰天した。あらゆる記事を事前に議会へ提出し、その承認を得られなければ記事として載せることを許されないのである。これでは弾圧ではないか!
「一体どうして、急にこんな通達が届いたんだ?」
ヘンリーは頭を抱えた。ヘンリーだけではない、ほかのメディアの連中も揃って頭を抱えたのだ。突然の検閲。議会はいったい何を考えているのだろう。
(何で急に検閲なんか入ったのかしら)
校正したての連載小説を、議会の警備兵にわたしてから、ユリはためいきをついた。ほかの記者たちも、編集長にOKをもらったはずの記事を警備兵に渡す。全部の記事を集めた警備兵は、さっさと会社から出て行ってしまった。警備兵が去ると、いつもよりずっと静かだった社内が、いっきに騒がしくなった。皆そろってホッとため息をつき、それから喋り出したのだ。一体どうしてこんな馬鹿げたことを、議会はしているのだろうかと。
午後の新聞の締め切り数十分前になって、やっと記事たちが返ってきた。見ると、主要な所は全部削られ、文章としてはまっとうなのだが記事としては面白みのないものとなってしまっていた。それが気に入らない者は記事をまた書きなおした。急いで新聞を刷りあげ、アルバイトたちにわたす。アルバイトたちは急いで飛び出して行った。
翌日の朝刊を作るために記者たちの何人かは飛び出した。
(ひどいわあ。せっかく校正したのに、こんな修正加えるなんて)
ユリは、刷りあげた後の、自分のてがけた小説を読んで内心腹を立てた。せっかくのラブシーンが台無しだった。
その日の仕事が終わり、他の事務員と一緒にユリは会社を出た。
「検閲だなんてやーねー。一体どうしてこんなムチャな押し付けしてくるのかしら」
「何も悪いことしてないよね、うちら」
「でもさ、こないだのあれ、あの野生動物保護官のアレ! アレが原因かも――」
「ちょっとやめてよ!」
「だってさ、ほかに考えられないじゃん! 色々ケーサツにも聞いたけど何にも収穫なかったって社会部の連中言ってたしさ! 中に入った奴だっていんだよ! でも死体も何にもなかったって……やっぱりアレのせいだよ。しつこすぎちゃってさ! 議会の連中が口出ししてきたんだよ!」
通行人たちが聞き耳を立てているような気がする。ユリは話に加わらなかったが、周りの人を見ていると、そんな気がした。
その話を他の新聞社の社員が聞きつけた。同じ不満を持っていたと見え、意気投合。しばらく立ち話をした後、皆別れた。
家々の角に、人影がいくつか引っ込んだ。
「思っていた通りだ。露骨な検閲を開始したな。オレをおさえつけようって事かな」
アレックスは、ファゼットの元から届いた通信文を読んでつぶやいた。
「でも、人の口に戸は立てられないからな。せいぜいあがけばいいさ。全てのメディアを押さえつけたとしても、最後に残るのは人の噂話。こればかりは、どうしようもない。話すのを禁止しない限りは……」
アレックスは記事を作るためにペンを走らせる。この地域だけはいつもの倍以上送らなければだめだろう。それに、
(議会はおそらく町中にスパイを放っている。人の口にのぼる噂はすべて封じてしまうか、あるいはゆがんだ噂をバラまくかのどっちかだろう。己の保身に走るあまり検閲をさらに強化するかもしれない。だがおさえつければおさえつけるだけ、反動も大きくなる。やり方は簡単、町の人をちょっと焚きつけてしまえばいい)
会議の後でファゼットに送ってもらった情報。紙面に目を走らせる。そこには、議会の警備兵が野生動物保護警備隊の基地へ突入した後の、詳細がしるされている。隊員たちが警備兵突入後にどうなったのか、詳しく書かれている。
(この情報だけじゃない、ニッキーから聞いた取引の話もちょっと使えそうだしな。あとは導火線が断ちきられないように細心の注意を払い続けるだけ……)
書類を脇に置いて、考えている間も、アレックスの手は記事を作るべくペンを動かしていた。
ファゼットへ送ろうとして通信文を書いていたが、一旦、手が止まる。ペンを置いて、アレックスはため息をついた。
(ユリ……まさかあの会社に就職していたなんて)
社員リストなど見ていないので、ユリがいたことなど知らなかった。先ほど調べてやっと知ったのだ。
二年前の春。入隊前のアレックスは一八歳の誕生日を迎え、法律で決まっている通り、孤児院を出ることになった。その時、アレックスより一つ下で、子供たちの中では最年長だったユリは、門の前でずっと見送ってくれていた。泣いている子供たちに囲まれて、涙をこらえて。……幼い子供たちの面倒をよく見る少女だった。何か考え事をしていると紫のおさげをいじるくせがあった。今でもユリの容姿をはっきりと思い出せる。
こんな偶然、あるものだろうか。これから仕掛けようとする場所に、昔なじみがいるなんて。
(計画を少し変えなくては……)
アレックスは通信文を書きなおし、送った。情に流される、それはあってはならないことのはずだった。計画に大幅な狂いが生じる恐れがあるから。だがアレックスは計画の一部変更を行うことにした。たぶん、これによって、それまでに積み上げてきたものは崩れ去ってしまうかもしれない。だが彼はどうしても変えねばならなかった……。
(院長先生、万が一の時はユリを頼みます……。動き出した計画はもう止められないのです……)
新聞を初めとしたメディアのすべてに検閲が入るようになった。それは、メディアだけしか知らされてはならないはずだったのだが、なぜか一般市民も知っていた。いつのまにか広まっていたのだ。
検閲はその後も続けられた。九月に入ると、町中のいたるところからひそひそ声が聞こえてきた。誰かに聞かれるのを恐れているかのように、その噂はひそかに静かに広がっていた。
「聞いた? こないだあったじゃん、野生動物保護官の暴動! アレって議会の警備兵が隊員を皆殺しにして解決ってマジ?」
「ホントらしいぜ! だってさ、議会が全然情報出さないってことはさ、やっぱり始末しちまったんだよ! 警察だって知らないって言うしさ!」
「うん、それは正しい。だって基地の隊員たちはみんな死んだそうだよ。議会が何も言わないのが、何よりもそれを現している」
「でもどうして皆殺しになんかしたの?!」
「上層部の連中を殺したからだろ。動物たちを使って、さ」
町の中では、野生動物保護官の行方についての噂が絶えず飛び交っている。警備兵が突入後、血と火薬のにおいを残して一人残らず消えてしまった野生動物保護官たち。彼らの行方は、マスコミも警察も知らない。町ではしばらく噂が流れた。だが今になって突然町中がその真相を知ったのだ。
野生動物保護官たちは、一人残らず議会に殺されたのだ。
複数の個所で噂が広まればあっというまに町を覆いつくしてしまう。議会がそれを知った時にはすでに遅かった。止めようの無いところまでうわさが広がり、スパイたちが報告するころには市民団体が出来始めていた。議会を弾劾しようとする者が団体を作り上げる。弾劾行為に賛同する者がまず集まり、続いて、その団体に乗じて騒ぎたいだけの者も集まってきた。烏合の衆は、徐々に数を増やし始めていた。野生動物保護官たちが皆殺しにされた、それだけでも十分な理由だ。野生動物保護官の遺族がその団体の先頭に立っていた。
ヘンリーは、その団体の噂や記事を目にするにつれ、不安を募らせていった。彼らはいずれ暴力行為に訴えるかもしれない。会社の外から聞こえてくる演説や行進の音が、彼の不安を余計にかきたてた。彼らはどうするつもりだろう。特権階級の居住区をおそって議会へ突撃するだろう。そうなれば当然特権階級のこれまでの生活はメチャメチャになるだろうし、議会が襲撃されれば警備兵との戦いも避けられまい。
(僕はどうなってしまうのだろう……)
ヘンリー自身、複雑だった。父は一般市民の生まれ。《アース新聞》会社をたちあげて財産を作ったことによって特権階級の仲間入りを許された。だが、実際は特権階級の連中は誰一人として認めてはくれなかった。ヘンリーのものの考え方は一般市民に近いが、どこかで特権階級というプライドが見え隠れしている。一般市民と特権階級の中間というところだろう。このまま暴動が起きて特権階級の生活が破壊されれば、ヘンリーは一般市民としての生活を余儀なくされるだろう。もっとも、栄養剤の苦味や、バクテリアに食われながらの建築物に住むのには慣れているから、食事の点では何とかなるだろうけれど。
それでも、
(僕は……一体どうすればいいんだろう)
ヘンリーはどうしたらいいのかわからないままだった。このままでは、治安の悪化だけではすまないだろう。行きつく先は、暴動。そうなれば、議会と特権階級を襲うにきまっているのだ……。
ニッキーの顔が目の前に浮かんだ。
(ニッキー、頼むからここへ戻りたいなんて言わないでくれよ……何もかもが終わったら、迎えに行ってやるから)
議会は騒然としている。
「民衆が団体を作っているだと!」
「我々を襲うつもりか!」
「やはり早く海外の別荘へ逃げたほうが……」
「しかし、海外の連中も他の場所に逃げ始めていると言うし……」
「検閲は失敗に終わってしまったのだな。安全を図るどころか、かえって危険なことになってしまったぞ!」
議会はざわざわしていた。検閲を行うことでアレックスの活動を抑え込もうとしたのだが、検閲によって情報を与えられない市民たちの間に急速に不満が生まれつつあったのだ。しかも町のスパイたちがどんなに噂をただそうとして情報を意図的に流しても、すぐ別の噂がかき消してしまう。スパイの流す偽の噂より、町の人々が交わす噂話のほうが早く広く伝わってしまうのだ。
「静粛に!」
カンカンと木槌が乱暴に机をたたく。
「それ以上騒ぐでない! 警備兵の数を皆ただちに調査して報告せよ! そのうち奴らは我々に刃向かい、襲いかかってくるだろう! その時は警備兵で立ち向かうしかないわい! 愚か者には銃弾をくれてやるのだ! あの野生動物保護官どものようにな!」
議員たちは一斉に立ち上がり、議事堂を出た。急がねばならない。いざとなったら海外の別荘に逃げ出さねばならない。それまでは、警備兵にはせいぜい時間を稼いでもらわなくては。
しかし、野生動物保護官が一人残らず殺されたことを、市民はいったいどうやって知ったのだろうか。真相が流れないように厳重にスパイたちに見張らせていたのだが。「消されたのでは」という噂が流れるうちに「殺されたのだ」という確信に変わってしまったのかもしれない。人の口に扉を立てることはできない、噂話を止めることはできない。噂話まで禁止するわけにはいかないのだ。これ以上の弾圧をおこなえば、もっと激しい市民の抵抗を呼びかねないからだ。
数時間後、議事堂に議員が集まり、それぞれの家を守る警備兵の数と、備蓄している火薬や弾薬の数が報告された。議長はゼエゼエ言いながら秘書に記録をつけさせ、
「市民の暴動に備え、各自の警備兵の装備を万全なものにし、さらに荷造りをしておくように!」
一喝すると、議員たちはそろってまた議事堂を出て行った。荷造り自体は出来ている。あとは、市民の暴動が起きないことを祈るだけだ。
休日。ユリはひさしぶりに、彼女のいた孤児院から手紙を受け取った。院長が大きな封筒を送ってよこすのは初めてだ。たくさん手紙が入っているのだろうと思いながら、そっと封を開ける。
「あら?」
中には、もうひとつ小さな封筒と便箋が入っている。粗末な便箋には、こう書かれている。
『これはユリに宛てて送られてきたものです。 院長より』
「わたし宛て?」
小さな封筒をそっと開封して便箋を取り出す。見たことの無い良質の白便箋。その折りたたまれた便箋を開いて目を通した途端、ユリの両目が驚愕で見開かれた。
手紙は、アレックスからだった。筆跡も間違いなく彼のものだった。
「よかった……」
驚きが覚めてくると、ユリはうれし涙を流して手紙を抱きしめた。そして、改めて手紙を読みなおした。アレックスはごく簡潔にしか記していない。手紙を書くのが苦手だったアレックスらしい文だ。ユリの健康を気遣う文と、先日の野生動物保護官の暴動には加わっていないことだけが記されている。ユリとしては色々知りたいことがあるのだが、アレックスはそれだけしか書いてくれなかった。アレックスは野生動物保護官の暴動には加わっていない、ということは、アレックスは、今も隊に所属しているのだろうか。それとも、たまたま出張を命令されて他の基地にいるのだろうか。少なくともアレックスが無事であったことはわかったので、ユリは安堵していた。
ユリは知らなかったのだ。孤児院の院長や職員が必死で隠しとおしてきたのだ、二年前に、アレックスがハンターの内通者として指名手配され、その後『処刑』されていた事を。だから、戸籍の上では『死亡している』アレックスが、野生動物保護官の暴動に加われるわけがないのだ。
ユリは、封筒を念入りに見たが、差出人の住所はどこにも書かれていなかった。切手も貼っていない。宛先は彼女の住んでいた孤児院となっている。
「アレックス……一体どこにいるのかしら」
なぜ現在地の住所を書かずに送ったのだろう。うっかり忘れたのだろうか。もし書いてくれていたら、返信を出せたのに……。切手も貼っていないところからして、郵便局には行っていないようだ。自分の手で投函したのだろうか。いや、それなら封筒に孤児院の住所を書く必要などない。誰かに投函を頼んだのだろうか。
(でも、生きているとわかっただけでも十分だわ……)
ユリはその手紙を孤児院からの手紙と一緒に大事にしまいこんだ。
一方、孤児院にもアレックスからの手紙は届いている。アレックスはユリの住所を調べるのを忘れたので、孤児院に送ったのだ。手紙は十枚以上にもわたって書かれており、最後に、手紙を長く出さなかったことと己が至らぬ教え子であることを詫びる言葉で締めくくられていた。老いた院長は読み終えると、フウとため息をついて手紙を机の中にしまいこんだ。月が部屋の中を照らし、さびしげな光を院長の顔に投げかけている。
「アレックス……」
もう一つため息をついて、頭を横に振った。
「君はもうわしの手の届かん所へ行ってしまったんじゃよ……」
基地の上層部を通じて多少は情報が届く院長は、アレックスがファゼットの元にいることは知っている。さらに、ファゼットは直接院長に手紙を出し、アレックスを保護する代わりに孤児院に直接多額の援助をすることを知らせてきたのだ。孤児院の運営は楽になったものの、院長はずっとアレックスの身を案じていた。他の子供たちには知られないように、職員たちにもよく言い聞かせ、アレックスが指名手配されたことを極力隠していた。だがユリは孤児院を出て行った。新聞社に就職しているのだ、おそらくもうアレックスが指名手配されて「処刑」された事を知ってしまったかもしれない。アレックスはユリあてに手紙を送ってきている。これを読んだユリはどう反応するだろうか。送るまいか迷いに迷ったが、結局送ってしまった。
またひとつ、ため息が出てきてしまった。
翌日、院長と職員は一人の客人を迎えることになった。
「あの、院長先生……」
大雨の中歩いてきたユリは、レインコートを脱いで静かに言った。
「お話を聞かせてください」
ニッキーはヨランダと一緒にティータイムを過ごしていた。ニッキーは、家庭教師に朝から晩まで徹底的にしごかれているにも関わらず、疲れの一つも見せていない。
「やっぱりピアノって難しいですね」
「でも、難しい曲を弾けるようになれば、上達したと感じられるわよ? アタシも昔はそうだったわ」
「そうですね!」
しばらく色々な話を交わした後、ふと、ヨランダは言った。
「ニッキー。明日、アタシは婚約者と会わなければいけないの。明日は一緒にお茶を飲めないわ」
「こんやくしゃ? ヘンリーにいさんのことですか」
「違うの。全く別の人」
ヨランダはふうとため息をついた。
「アタシはこの家を継がなければいけないから、結婚しないといけないの。カケオチなんかとてもできやしないわ」
「ヨランダさん、ヘンリーにいさんとカケオチしないんですか? どうして? ワタシは応援しちゃうけどなー」
「お父様の力がとても強いからよ。世界中にその力を行使できるし、アタシがどこへ行ってもすぐにその情報は手に入るの。それに、お父様にとってアタシはたった一人の後継ぎなの。家を継げて、そのさらなる後継ぎをもうけられるのも、アタシだけしかいないのよ……」
「ヨランダさんて結婚がお嫌なんですか?」
「出来れば、したくないの。本で見たようなロマンチックなものだとか、そういったものならとてもうれしいんだけど……」
「結婚相手のひとって、どんな方なんです?」
ヨランダの見せたファイルを、ニッキーは見た。見たことのない地味な男だ。
「その人は、家族を亡くしているそうなの。お父様はアタシとの結婚条件として、結婚したらその夫の一族郎党すべてを皆殺しにするとまでおっしゃったの」
「えええっ」
「躊躇していた候補者たちに交じって、その人が挙手したの。で、結婚相手はその人に決まったのよ。本当は、アタシの選んだ人と結婚したいんだけど、現実はそうもいかないのよね」
ニッキーは何も言わずファイルを閉じた。あらためてヨランダの立場を知ったのだ。優雅な姫君の暮らしは、決して甘いものではなかったのだ。
「ヨランダさん……」
「ヘンリーとは結婚しないわ。あくまで恋人のままでいたいの。それについてはヘンリーと何度も話をしたから、もう決着がついている。だから、カケオチはしないわ。それにお父様の反対を押し切って結婚したとしても、ヘンリーはお父様の地位の重圧には耐えられないわ……」
ヨランダはニッキーを見た。
「あなたは、幸せな結婚が出来るといいわねえ」
ニッキーはポッと頬を赤く染めた。
(そうだ、きっとアレックスさんと結婚するかも。でもアレックスさんとはまだお友達だし、特権階級のほかの人は、ワタシを馬鹿にして話しかけもしないし。ワタシが一人前のレディになったら、アレックスさんも口説きに来てくれるかも?!)
ひとり勝手な想像をふくらませながら、ニッキーはティータイムを過ごした。
(一人前のレディになるまで、がんばらなくちゃ!)
九月十五日。ヘンリーの恐れていたことがついに起きた。
数百人を超える市民が暴動を起こしたのだった。
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