第9章 part1
九月に入った途端に土砂降りが訪れた。アレックスから手紙をもらった後日、「やっぱり知りたい」と思ったユリは大雨の中、孤児院を訪れ、閉め切られた院長室にて、院長から話を聞いた。アレックスは今どこにいるのか……。
院長室。ユリは、自分の耳で聞いたことを信じられなかった。目を大きく見開き、首を何度も横に振り、ぶるぶる身を震わせていた。齢六十を超えた院長は、あごひげをなでながら目を伏せた。
雷が鳴った。閃光が室内を照らし、ガラガラと激しい雷鳴が辺りを揺るがせる。それでもユリは雷に驚く余裕などなかった。
アレックスは、二年前にハンターの内通者として指名手配され、「処刑」されていた。だが実際は、ある人物によって「安全な」場所にかくまわれているのである。院長は、子供たちがショックを受けないようにと、アレックスが指名手配されたという情報を隠蔽していた。だがいずれ子供たちは孤児院から出て行ってしまう、その時に真相を知ることになるのは間違いないのだ……。
「院長先生……」
ユリはやっと声を絞り出した。
「本当……なんですか……?」
院長は否定しなかった。ユリは体の硬直が解けないまま、口を半開きにして、黙ってしまった。しばらく時間が流れていった……。
院長がユリにアレックスからの手紙を渡すと、ユリはそれを読んだ。長い文章の末、「これから先、町で暴動が起きることでしょう。もしものときは《アース新聞》社にいるユリをお願いします。もう自分は二度と戻れないのです。三年お世話になったのに至らぬ教え子で申し訳ありません」としめくくられていた。院長は言った。
「手紙にも書いてある通り、アレックスは、もうわし達の手の届かないところへ行ってしまった。もう会えんのじゃ……」
「手の届かない所って、どこですか?!」
院長は首を横に振った。院長は、ファゼットの事は知っていたが、彼がどこに住んでいるかは、知らなかった。
「院長先生! 本当にご存じないんですか?!」
院長は首を横に振った。
「そんな……!」
ユリは思わず、叫んだ。
直接会って、話をしたかった。話を聞きたかった。でも……。
ユリは院長にしがみつき、泣きだした。院長は彼女を見守った。その目に涙を浮かべて。
孤児院から帰ったユリは、会社の書庫で過去の新聞をあさった。そう、ちょうど二年前の記事を探していたのだ。
「あった」
アレックスを指名手配する記事。そして数ヵ月後、彼が「処刑」された記事。
「ねえアレックス、あんたがハンターと内通してたなんて嘘でしょう? だって、あんた動物大好きだったしさ、孤児院を出る前だって、ハンターをこの手で捕まえてやるって意気込んでたじゃないの。そんなあんたが、ハンターと内通してるわけないじゃない!」
記事を握りしめ、しわだらけになった紙の上にユリの涙が落ちていった。
「ねえ、どこにいるの? 話を聞かせて、お願いだから……ハンターのスパイなんかじゃないって、言ってちょうだいよう……」
書庫に彼女のすすり泣く声が、響いた。
「不穏な空気だな、確かに」
『そうだよな。お前がフッカツしてすぐにこれだもんなあ』
「まあ、前々から議会への不満をあらわにし始めていたんだ、今頃になってこんな空気になるのは遅すぎると思うぞ。もっとも、その原因を作ったのは、あいつなんだがなあ」
ため息をひとつ。通信先の相手はそうだよなと苦々しげに笑って、通信を切った。
「この状態が悪化すれば、我々ハンターのいらなくなる時代が来るだろうな、近いうちに」
H・Sはひとりごち、操縦桿を握りなおした。依頼の数は減る一方。だがそれを補わせるかのように、ファゼットは《子供》たちに、ある命令を出していた。
H・Sが活動を担当する地域――アレックスが仕掛けている地域でもある――の、一般市民と特権階級の監視を行えというものである。盗聴器、小型カメラなどあらゆる小さな装置がひそかに仕掛けられ、《子供》たちの飛行艇に情報が常時送られてくる。Aランクハンターたちはこれまでの動物捕獲依頼の優先度を下げ、監視をメインの仕事に切り替えて、空中やK区のアジトから監視し、その様子をこまかくまとめて毎日ファゼットの元へ送っていた。もともとスパイとなるよう教育されてきたため、ハンターとしての仕事が減っても特に困ることはない。
(記録している限りだと、一般市民は団体をいくつも作り、それぞれにリーダーがいる。そいつらがひとまとまりになるかは、まだわからんな。ただの暴徒のカタマリかもしれないし。今のところ、連中の中で最も勢力が強いのは、野生動物保護官の遺族がリーダーをつとめるモノか……)
己の記録を読み返し、続いてモニターに目を向けるH・S。心の病から回復してすぐに命じられた仕事であるが、特に苦痛は感じていない。ファゼットに特別に教育されただけのことはあり、H・Sの頭の中では、手元の記録の紙束とモニターの映像と録音機から流れる音声だけから、雨後の筍のごとく現れる市民団体について正確な分析を行っている。監視を開始したのが八月二十七日。今は九月四日。日を追うごとに、市民団体の勢力は増していく。議会に不満をかかえている者だけでなく、たんに日ごろのストレスを晴らしたくて入団している者もいるだろう。上から圧力をかけられたらあっさり解散に応じるか、それとも反動で暴徒と化すか、それは連中次第と言ったところ。歴史上、血を流さず革命を成し遂げられたことは数えるほどしかない。
(そうだ、市民団体にはマスコミの連中も入っているんだったな)
議会から検閲を食らっている新聞社、雑誌社、ラジオ局。彼らも少数ながら団体に入っており、「我々は情報を検閲されている! これは言論弾圧である!」とわめいている。おちぶれかけの会社の社員たちだった。
「さて、この雨後のタケノコ連中は、一体どのくらいまで残るだろうな。消滅と吸収を繰り返せば最終的には一つになってしまうかも知れんが、そのころには勢力を大幅に拡大している事だろう。暴徒だらけになって……」
彼は報告書を作り始めながら、ぶつぶつつぶやいた。さて、彼のつぶやきがどれだけ正解するかは後々判明する……。
市民団体の演説や行進は続いた。特権階級の居住区への柵に上ろうとする者が何度も現れたが、警備兵たちに水をかけられるやら石を落されるやら、梯子から落下して怪我人が続出した。死人が出なかったのが不思議なくらいだ。だが、警備兵たちに追い払われても、市民団体はくじけなかった。禁止されればされるだけ、中を見たくなるものだ。
新聞、雑誌、ラジオの検閲はまだ続けられた。検閲が行われている事は既に知られており、新聞やラジオの記事は誰も信用していなかった。社員たちが紙面に掲載するはずだった情報を密かに色々な人に話しているからだと噂されていたせいだ。色々な情報が町に広まっていた。もっとも、その広まっているモノが、「情報」と呼べるものかどうかは疑わしいものだったが。
滅亡主義者の事件はもう起こらなくなった。主犯格の、特権階級の老人が死亡したからだ。滅亡主義者をひそかに集めて爆発事件を次々に起こさせていた。その老人は逮捕された後で、警視総監だった滅亡主義者の部下とともに獄死した。警察の中にいた、滅亡主義者に殺害されたのである。その滅亡主義者も後に死体となって発見された。これは特権階級が口封じしたのではないかとうわさが流れた。警察のとった取り調べの記録によると、老人が滅亡主義者を集めていたのは、老人自身がその滅亡主義者幹部の親族だったからだという。
この情報は一日だけあらゆるメディアが取り上げたものの、翌日にはどこも取り上げなくなった。明らかに外部から圧力がかけられたのだ。あらゆる場所やあらゆる読者から抗議電話がかかってきたが、会社側は受け付けられなかった。電話線を抜いてしまい、不通にした新聞社もあった。が、事件の完全な真相は、わずか一週間足らずで人々が知ることになった。町のあらゆる掲示板に、粗末な紙が貼り付けられていたのだ。あらゆる掲示物を覆った大きな紙には、こまごまと、事件の内容が書き連ねてあった。老人と警視総監の関係、事件を起こさせた理由、などなど。これを知った議会は、掲示板に張り紙をした者を逮捕しようと警察を総動員させて探し回らせたものの、犯人を見つけ出すことはできなかった。さらに、警察の中にも滅亡主義者がいたという時点で、市民から寄せられていた信頼はグラグラと土台から崩れてしまっていた。市民が警察を信用しなくなったのだ。
後、掲示板に新しい情報が貼りだされた。野生動物保護官の暴動後、議会の警備兵が突入した事件の詳細が書かれていた。この張り紙を見た市民団体の行動は過激化した。演説や行進だけでは足りないと見たか、最後には高い柵を破壊しようと何度も徒党を組んで、そのたびに警備兵に放水されて追い払われた。
議会のスパイたちは、町の住人たちが暴徒となる可能性が十分に高いことを知らせた。議会はただちに、市民の団体を解散させるためにスパイたちに噂を流させ、団体に入り込ませた。団体はまだ出来たばかりのものがおおく、ちょっとしたハナシを流すだけですぐに解散するものも多かった。だが、野生動物保護官の遺族たちが率いるそれは、逆に増えていく一方だった。暴走が始まったのだ。議会は、手を打つのが遅すぎたと実感した。
そして九月一五日。
暴動が起きた。夜明けとともに、市民団体は、一斉に、特権階級居住区を守り続けた、高い柵を破壊したのだった。
ヘンリーの恐れていたことがついに起こってしまった。市民が暴動を起こし、特権階級の居住区を守ってきた柵を破壊したのだ。市民たちは雪崩を打って柵の向こう側へ突撃し、その様子を現在さまざまな新聞社や雑誌社やラジオ局がひそかに追っていた。
雪崩を打って突撃した市民たちが見たもの。生い茂る草木、綺麗な小川、本でしか見たことのない、石や木で造られた家並み……。
そのすべてが、自然保護法に違反したものだった。市民に隠れて、特権階級の者たちは、残された自然を満喫して暮らしていたのだ。荒れた土地に住み、栄養剤だけを口にし、バクテリア分解の粗末な家に住んでいた市民たちの怒りは頂点に達した。だが、当然のことながら議会は黙っていなかった。市民が柵を破るや否や、集めておいた警備兵を突撃させたのだ。警備兵たちは、暴徒となった市民にむかって遠慮なく火器を用いた。今では製造停止の火薬を用いた武器。爆弾の爆発、機関銃から撃ちだされる無数の銃弾が市民を襲った。
メディアは派手にこの事件を書きたてた。市民団体があの高い柵を破壊したこと。議会が市民団体を、禁じられた武器で殺害したこと。柵の向こうにあったのは、自然保護法施行前の豊かな自然と、自然保護法に違反する素材で作られた建物だったこと。それを裏付けるかのように、柵の向こうからは火薬のにおいと、何かが焦げて焼ける悪臭が、風に乗って漂ってきた。また、メディアが派手に報道するまでもなく、悲鳴やパンパンという破裂音も絶え間なく聞こえてきていた。中で何が起こっているかは想像に難くなかった。警察は総出で柵の周りを囲み、市民が入れないようにしっかりと見張りをしていた。過激化していた市民団体の行動を快く思っていなかった一般人たちは、市民団体が破壊した柵の向こう側を見ようとして、柵の周りを取り囲んでいた。だが、警察の包囲網は隙間がなかった。誰も見ることはできなかった。
昼前、暴徒たちは完全に鎮圧された。
議会の面々は、警備兵が暴徒を銃撃している間に、逃走を図った。だが、それはかなわなかった。港にひそかに泊めさせていた船はすべて何者かの手によって沈められていたからだ。なお悪いことに、誰がそれを目撃していたのか知らないが、新聞は堂々と号外に掲載したのだ。
『上院議員、下院議員、海外への亡命かなわず』
それを最初に掲載したのは、《アース新聞》だった。
警備兵が銃撃で市民団体を薙ぎ払っている時、社長室で一人、ヘンリーは頭を抱えていた。仕事の書類にとりかかれる気分ではなかった。とうとう市民が暴動を起こし、議会と衝突したのだから。警備兵はおそらく市民団体を容赦なく皆殺しにするだろう。彼らもまた特権階級の人間、市民のことは完全に見下している。同じ人間と思ってすらいないだろう。ヘンリー一家のことも……。
(皆から見たら、僕はどちらに入るんだろうか……)
一般市民? 特権階級? 会社の資産のおかげで特権階級に家を作ることが出来たとはいえ、元々父は一般市民出身だ。母もおそらくはそうだったろう。血筋は一般市民そのもののはず。ならば自分は一般市民なのだ。市民の中では金持ちなので特権階級の地区に住むことを許されているだけの、一般市民なのだ。
(やはり僕は、形だけでも特権階級に属することを自慢したいだけなのだ)
ヘンリーはため息をついた。
社員がヘンリーをどう思っているか。その答えは、この暴動の後で明らかになることだろう。
昼ごろに鎮圧された市民団体の暴徒たち。大雨の降り始めた、特権階級の居住区には赤い水たまりがいくつもできていた。警備兵たちは、雨から火器を防御するために防水加工の布をかぶせ、そのまま、破壊された柵に向けて進む。貯めに貯めてきた弾薬はまだまだ残っている。破壊された箇所は警察が厳重に守っている。議会の命令だ。議会は警視総監よりもさらに上の立場、唯一、どんな無茶な命令も強制できる存在だ。警察は市民に憎まれており、警察も身をもって知ってしまっている。だが今更議会に刃を向けることは出来ないだろう。警備兵が銃口を突き付けている限り。野生動物保護官の暴動で、手持ちの銃弾を使いはたしてしまった警察は、完全な丸腰なのだ。
後は、一般市民が中に入ってこられないようにするだけ。警備兵の何人かは報告のためにいったん議事堂へ戻り、残りはそのまま、柵に向かっていた。人の声がどんどん大きくなってきた。人だかりが出来ているのだ。こんな雨なのに。柵の向こうがどうなっているか知りたいのだろう。だが警察の張り巡らせている間に合わせのバリケードによって、中を見ることはできないようだ。とはいっても、間に合わせのバリケードなのだ、市民が大勢つめかけてしまえば、人海戦術でいとも簡単に破れてしまうだろう。そうなれば――。
議会は、もうすでに海外の別荘行きの船に乗っていたはずだった。だが、皆、真っ蒼な顔をして港にいたのだった。目の前に広がる、雨雲からポタポタと雨の落ちていく海には無数の木切れが浮かび、その海の底には、かつての船の残骸が沈められていたのだ。一隻のこらず。
警備兵からの報告を受けた、年老いた議長はいちはやく立ち直った。
「だ、誰が船を沈めたかは知らん! じゃが、一般市民が入り込んだらもうおしまいじゃ! 急げ、バリケードの強化と――」
はるか遠くから、銃撃と悲鳴が聞こえてきた。バリケードが破られたのだ。
「あああああああ、もう来てしまう! 急げ! 跳ね橋を下ろすのじゃ!」
港に続く道には川が流れており、港と居住区は跳ね橋を使って渡っている。自然保護法が施行される前からこの土地はそうなっていたのだ。
命令通り、警備兵たちはすぐ跳ね橋を上げる。川の深さは二メートルを越え、幅は十メートルほど。泳ぎを知らない市民たちはすぐには追ってこられまい。
飛行場はもう使えないが、港にはまだヨットが残っていなかっただろうか。探しているうちに、人々の声が大きくなり、銃声が徐々に小さくなってくる。やっとの思いでヨットを見つけ出したが、それらは皆、脱出用の船と同じく、破壊された後だった。
一時間も経たないうちに、議員たちは、傷を負った市民に包囲され、逃げ場を完全に失っていた。
「革命には血が必要、か。とりあえず暴徒たちの気は済んだだろう。今後はあの残された自然の略奪が始まることだろう」
H・Sは肘杖をついてモニターを眺めながら、つぶやいた。目の前のモニターには、機関銃で薙ぎ払われた大勢の市民の死体と、それを運び出している市民の姿がうつされている。いずれも、最初は必ず残された自然の姿に目を奪われている。
「自然の姿を知り、特権階級が何を口にしていたかを知ったら、連中はさぞ怒り狂うだろうな」
報告書を作っている間、雨は激しく機体をたたき続けた。H・Sは報告書をファゼットの元へ送った後、大きく背伸びした。
昨夜は嫌な夢を見た。無数の獣に追いかけられ、蹄で踏まれ、角で跳ね飛ばされる夢。目覚めた途端、一気に眠気が飛んでしまった。嫌な夢だ。己の過去の悪夢に克ったことで、絞殺される夢を見なくなったが、それでもどんな夢を見るかまで操作できないのだから仕方ない。
「全く、最近は嫌なことばかりだ」
もう一度モニターに目をやると、特権階級の居住区中央の広場で、滅多打ちにされる老人たちの姿が目に入った。胸のむかつきを覚えながらも、彼はそのまま見る。老人たちは絶命し、血の海に倒れた。さすがにH・Sは目をそらし、何とか吐き気をこらえた。人が死ぬのを見るのは、気持ちのいいものではない。市民はモニターの向こうで喜びの声をあげている。市民の数はどんどん増えて行き、狭い特権階級の居住区はあっというまに人であふれかえってしまった。雷が空を引き裂き、豪雨が地面を激しく叩く。それでも、市民は帰宅しようとしなかった。
血の海は洗い流されていったが、H・Sの胸のむかつきと吐き気までは洗い流してくれなかった。
(これで議会は滅んだ。海外へ逃げた奴らは戻っては来られまい。帰ったら最期だからな。この後、無政府状態でしばらくこの土地は混乱、警察も機能をマヒして暴徒を鎮圧できなくなったし、それに乗じての治安の悪化は避けられまい。略奪も横行することだろう。己が支配者になろうとする連中も雨後のタケノコのごとく現れるに違いないしな)
H・Sの予想通りの事が起こった。暴動が起こってわずか半日、特権階級の家々から家具が運び出されはじめた。豪華な毛皮のコート、毛織物の絨毯、銀の食器、ほかにも色々。家具は売りに出されなかったが、不思議なことに、そのうちの何割かは表に出なかった。誰かがひそかに盗んだのだろう。
次々と吐きだされる新聞と雑誌には、特権階級がいかなる生活を送ってきたかがまとめられていた。高い柵で居住区をかこったのも、わずかに残された自然を市民から横取りしてぜいたくな生活を密かに続けるためであると書かれており、当然市民の怒りは頂点に達したのだった。
夕刊が配達される頃、ヘンリーは社内で頭を抱えていた。発行された新聞の記事は、どれもこれも特権階級の生活について大幅に誇張したものばかり。明らかに市民の怒りをあおるのを目的に書いている。感情的に書いてはならないとあれほど社員に言っていたのに……! 直接自分が記事を担当していないため、完成してからの新聞しか読めないのが、歯がゆくて仕方ない。しかも完成してしまった以上、書き直しを命じることもできない。
社長室のドアがノックされた。ヘンリーは返事をしたが、その声は裏返っていた。ドアが開いて、どこか驚いた顔の副社長が書類を持って入ってきた。ヘンリーがなぜそんな変な声を出したのか、わからなかったのだ。書類にハンコを押してから副社長は退室した。
「やっぱり気にしすぎているんだなあ」
ハンカチで汗を拭き、ヘンリーはつぶやいた。
夜が来た。ヘンリーは仮眠室に向かった。昼間の事件があったのだ、自宅に戻ることなどできない。執事が無事に逃げていてくれるといいのだが。社員たちは、少数を残して社宅へ帰っていた。ヘンリーは仮眠室の明かりを消し、上着を脱いで寝台に寝転ぶ。目がさえて眠れない。一時間でもいいから寝ておかないと仕事に差し支えるのに……。しばらく無理に目を閉じていると、静かにドアが開けられる音が聞こえてきた。きっと社員の誰かが寝にきたんだろうと思い、ヘンリーは目を開けなかった。仮眠室に入ってきた誰かは、部屋の中を横切ってきた。同時に、なにやら甘ったるいにおいが部屋の中にたちこめてきた。一体何のにおいだろうと思い、ヘンリーは目を開けようとしたが、まぶたは鉛のように重かった。あっというまにヘンリーは夢の世界へいざなわれた。
次に目覚めたのは、社員に体を揺さぶられてのことだった。頭がしびれ、なかなか起きられなかったが、ようやっと意識がはっきりしてきた。出社した社員の話を聞くと、なかなかヘンリーが社長室に姿を現さないので、手分けして社員たちで探していたのだと言う。
(始業時間過ぎまでぐっすり寝ていたのか? いや、あれは――)
ヘンリーはやっと体を動かした。動かした手足が自分のものではないような、妙な気分だ。社員に礼を言い、シャワーを浴びて身支度をした。栄養剤を腹に収め、社長室に向かおうとすると、社内から悲鳴が聞こえた。備品庫からだ。急いで行ってみると、社員の人だかりが出来ている。それをかきわけて最前列に出たヘンリーは、あっと声をあげた。床に倒れていたのは社員の一人だった。床を血に染めて、手には髭そり用の小さなカミソリの刃を握りしめていた。
この社員は、市民団体に密かに出入りしていた者だった。血まみれの衣類からは、特権階級を撲滅するスローガンの書かれたボロボロの紙が出てきた。市民団体の中でも過激派に属していたようだった。
(僕を殺そうとしたのか……?)
ヘンリーは青ざめた。まさか、昨夜のあの甘ったるいにおいは催眠ガス? そして眠っている間に殺そうと……?
自分の思考が空の彼方に飛んで行ってから、戻ってくるまで、どのくらいかかったか分からない。意識が戻ってくると、自分が激しく呼吸している事に気がついた。汗はダラダラ流れ、スーツをぬらしていく。だが、やがてヘンリーは落ち着いた。運ばれていった死体のあった場所には、血だまりが出来ているだけであった。
三日ほど経った後、ヘンリーは夕方、社員たちを会社のホールに集めた。小さな行事をやるときに使うホールに、社員たちが整列している。どこか緊張した顔の者、早く帰りたいと言わんばかりの不満顔をした者、眠そうな者、色々だ。ヘンリーは壇上に上がり、マイクのスイッチを入れてから軽く咳払いして、始めた。
「皆、疲れている中集まってくれてありがとう。集まってもらったのはほかでもない。どうしても聞いてもらいたいことがあるからだ」
一呼吸。
「先日、あのいたましい自殺事件が起こった。おそらく彼は僕を狙っていたのだろうが、なぜかそうすることなく自殺で終わらせてしまった。原因はどうあれ、社員の死は悼むべきことだ」
一呼吸。
「僕が特権階級に所属する身であることは、皆も知っている通りだ。父はこの会社で財産をつくりあげ、特別に、特権階級に住まうことを許された。僕は特権階級の居住区で生まれ、こんにちまで過ごしてきた。特権階級としての生活もしてきたし、こちらでは一般市民としての生活もしてきた。栄養剤を腹に収める一方で、自然界に残されたものを食べてきた。それでも特権階級の人々は僕ら家族を受け入れてはくれず、あくまで一般市民としてしか扱わなかった。だが、それが当然なんだ。あくまで僕らは、特権階級の一部に住まわせてもらっていたにすぎなかったのだから。昨日のあの暴動で、僕は改めて考えた。僕は、特権階級の居住区に住んでいただけの、一般人にすぎないのだと。だが君たちが僕を特権階級の一員として見ているなら、それでも構わない。君たちの誰が僕を殺したとしても君たちを恨むつもりはない。……甘んじてそれを受け入れるだけだ」
ヘンリーは締めくくった。
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