第9章 part2
暴動から一週間が過ぎた。町の人々は連日特権階級の居住区へと足を運んだ。毎日何かが持ち出されていく。家具だろうが家の壁の一部だろうが、おかまいなし。中には、小さな植木や木々をまるごと持ち帰る猛者すらもいた。持ち帰られた植物は荒野に植えられていったが、土が痩せているせいもあって根つきが悪かった。特権階級の口にしていた食料も、食料品店の備品庫から次々に運び出されては町にばらまかれ、人々の口に入ることになった。にがさと渋さだけの栄養剤とは全く違う味覚に、人々は驚いた。食料となる野菜、肉、穀物は特権階級の一角ですべて生産されており、はやくもその土地の新しい所有者をめぐって争いがおきた。
メディアは連日連夜、大量の新聞を刷りあげた。紙面はすべて、特権階級が滅んだ後の経過を記事にしたものだ。暴動が落ち着いた後、町の治安は一気に悪化した。町中を暴徒がかけずり回り、特権階級の生き残りが隠れているのではないかと荒らし回り、暴行と略奪を繰り返したからだ。警察は暴徒たちの襲撃によって完全に機能を失い、激化する暴徒の行動を黙って見ていられなくなった市民たちがひとつの巨大な団体を作り上げ、今度は暴徒たちを追い詰めて殺害あるいは追放した。それが終わると、今度は市民たちが特権階級の居住区へ押し寄せ、略奪を開始した。残された肥沃な大地の次の持ち主をだれにするかで、争いが始まった。市長、町長など、それなりの権力のあるものもその争いに加わっていた。
十月、やっとその争いに終止符がうたれた。特権階級の居住区の管理は市議会が行い、そのかわり柵をすべて破壊して、町の者ならばだれでも訪れることが出来るようにした。食料生産区も管理下に置かれた。それでも、争いの終止符が打たれるまでに多くの食料が略奪にあい、動物の子供と苗床が残るだけとなっていたのだが……。荒れた土地を回復させる運動は自然保護法施行後から続いているが、全く進展しなかったので、残された草や木の生えた土を少しずつ持ち出して外の土と混ぜ合わせ、倉庫の中に入れられている肥料をさらに混ぜて土壌の回復を図ることにした。打ち捨てられていた野生動物保護警備隊の基地は完全に解体され、飢えていた自然保護区の動物たちは餌をもらい、そのまま暮らすことになった。
騒動が収まり、新しい警察機構が作られることになり、治安はひとまず回復に向かうかもしれない。人々は安堵した。
屋敷。
会議の前日。
ファゼットの元へ、《子供》たちから報告書が次々に集まってくる。例によって報告の遅いH・Sは、最後に送ってきたが、その報告書の分厚さはほかの《子供》たちの倍以上。ファゼットは《子供》たちの報告書に目を通し、熱い紅茶を飲んだ。それから金のベルを鳴らすと、執事が姿を見せた。ファゼットが一言命令するとすぐに執事は部屋を出た。彼がまたベルを鳴らすと、今度は黒服に身を包んだ男たちが入ってきた。
「調査結果を」
男たちが書類を恭しく渡す。ファゼットはそれから、一言命令する。男たちはすぐに部屋を出て行った。調査結果の書類には、ヨランダの婚約者となった青年の観察記録がつけられていた。
「結婚を前にして大人しくしているようだな。先月の顔合わせでも、娘に無礼の無いようにおそろしく気を使っていたようだし、早く結婚したくて仕方ないのかもしれんな」
書類に目を通してから、ファゼットは別の書類を取り上げ、目を通した。それはアレックスの監視記録だった。
「彼もずいぶん色々とやったのだし、混乱期にある今回は、会議どころではないだろうな。《子供》たちもそう考えていることだろう。徹底的に情報を統制したところで、嫌な噂はどこからか漏れてしまうものだからな」
書類をしまいこんでから、ファゼットは紅茶を飲んだ。
(アレックスは彼なりによくやってくれている。わたしの地位を固めるどころか、崩れそうな方法をとっているな。だがそれでいいのだ、わたしは彼に、わたしの地位を固めることを期待などしていない。わたしの真の目的は、《子供》たちに話したこととは全く別なのだからな)
アレックスは翌日の会議の資料を作りながら、ため息をついた。セイレンはカップにレモンティーを注ぎながら問うた。最近アレックスは仕事や食事でもため息をつくことが多くなってきたのだ。
「どうかなさいましたか?」
返事の代わりに、また一つため息が出てきた。アレックスの目からして、心ここにあらずと言った感じ。セイレンの事は眼中にないようだ。セイレンはそれ以上問わず、黙ってティーポットをサイドテーブルへ置いて、アレックスを後ろから見つめる。日が経つうちに、アレックスからアーネストの面影が次第に消えていき、間違えることはなくなった。だが同時に少し寂しくなった。アレックスの手はペンを机に置き、熱いレモンティーを入れたばかりのカップを持ち上げ、口元へ持っていく。ぐいっと飲んでその熱さに初めて気がついたのか、アレックスは危うくレモンティーを吹きだしそうになってしまった。が、無理に飲み込み、せき込んだ。せき込みがやっとおさまってから、
「え、あ、いや、いいんだよ、ありがとう」
おろおろするセイレンに一言いってから、アレックスは仕事に取り掛かった。
町で暴動が起こってから一ヶ月。一時はどうなる事かと気をもんでいた。だが、ユリや孤児院が無事なのが唯一の救いだった。暴動が収まり、少しずつ治安は回復してきた。自分の望む方向へどんどんと進んでいるのは間違いない。だが、アレックスはため息しか出ない。なぜなのだろう。ファゼットの送ってくる報告書を読む限りでは、何もかもうまく進み、軌道に乗っている事は間違いないのに……。
(ユリに手紙を出したのは、良かったのか悪かったのか……。院長先生に手紙を出したのも、あれが最初で最後になるだろうと思ってのことだったし)
またため息をついた。暴動に巻き込まれるかもしれないと、いざというときは孤児院の院長にユリをかくまってもらえるよう手紙を出した。そしてユリには、アレックスが野生動物保護官の暴動に加わっていないことを書いた手紙を出した。自分の無事を知らせてよかったのだろうかと、アレックスは未だに思い続けている。悩んでも仕方がないとわかってはいるのに。
(それでも、知ってほしかった……オレは無実だってことを……)
ペンを机に投げ出し、アレックスはため息をひとつついた。その頬を、涙が一つ伝わった。
夕食の後で仕事を再開したが、あまり身が入らない。徹夜するかもしれないからとセイレンに夜食を頼んで、アレックスは、書き上げたばかりの書類を読みなおした。抜けとモレが山ほど見つかり、また書きなおした。仕事に身が入っていないのがわかる。
(ねえ、アーネスト。あんた今のオレを見たら、笑う? 怒る? ひとつの目的のために大勢の人間を血の海に沈めたオレを、どう思う?)
心臓がわずかに痛んだ気がした。
会議の資料を作り終えたのが夜中の三時。アレックスは書類を全部確認し、ファゼットへの依頼書を一枚書いてから大きく背伸びして、飲み残しのミルクを全部飲んでしまうと、ソファに寝転がって眠りについた。明かりは勝手に消えた。疲れた体で眠りについて、見た夢はいつもの悪夢。無数の獣に追いかけられて跳ね飛ばされる夢。六時半にセイレンに起こされる。起きるといつも、五年前の傷跡が痛む。部屋に帰ってから風呂に入り、身支度をして朝食をとる。トーストをかじりながら窓の外に目をやると、空を横切っていくつも飛行艇が屋敷に向かって飛んでくるのが見える。そうだ、今日は会議の日だ。ハンターたちがやってくる。今回の会議はどうなるだろうか。海外にまであの町の暴動が報道されたとなると、出席者は激減するかもしれない。まあ、そんなことはどうだっていいのだが、アレックスとしては会議の議事録よりも《子供》たちの集める情報の報告書が読みたかった。
アレックスが仕事を始めるころ、Aランクハンターたちは屋敷に到着した。今夜の会議に備えて、部屋で疲れをいやすより先に、資料に目を通して会議のための話し合いをしなければならない。今回の会議は大荒れとなりそうだから。さらに、九月半ばの暴動の件が、他の町や大陸に逃げ出した特権階級の者たちを通じて伝わっているため、その土地の支配者たちが早くもうろたえはじめた。逃げ出す準備を始めた者もいる。H・Sだけでなく他のAランクハンターたちへの依頼が半分に減ってしまったのもそのためだと思われる。
《子供》たちは昼を過ぎてから一室に集まる。資料を片手に話をし、情報交換をしあう。それから夕食をとり、会議に臨んだ。
会議の出席者は前回よりもさらに数が少なくなっていた。Aランクハンターを除く出席者たち――野生動物保護警備隊の上層部、上院議員、下院議員――はすべて青ざめた顔をしている。どうやら、あの町の暴動の件が海外にしっかり伝わってしまっているようだ。今日は会議どころではないかもしれない。保身のため、あるいは家族の身の安全のため、この島に逗留させてくれと望む者がいるかもしれない。ファゼットはそれを全部はねつけるかもしれないが。
(ちと荒れそうだな、今回も)
会議室の椅子に座っている面々を見渡し、H・Sは思った。そしてその予想は三十分後に当たった。彼らはすべて、ファゼットに懇願した。この島に逗留させてくれ、と。だがファゼットはその願いをひとつ残らずはねつけてしまった。会議どころではなくなってしまったので、ファゼットが中止を言い渡すと、Aランクハンターを除く出席者たちは呪いの言葉すら口にしながら、会議室を出て行ってしまった。
「あの連中にはいい薬だろう」
ごましお頭のハンターは冷たく笑った。
「義父さんに頼めば何とかなると思っているんだからな」
「奴らは己の地位を高く買い被っているんだろうよ、D・K。奴らは、己らがいなければ法律の改正もままならんと思い込んでいる連中だ。だが、奴らの代わりなんぞいくらでもいるというのが現状。奴らは特権階級としての地位を失いたくないだけさ」
そういうH・Sの笑いはもっと冷たかった。
「それにしても、あの町で暴動が起こってから、他の場所にもそいつが伝わったようだな。義父さんにあれだけ食い下がったんだ、奴らなりに危機感を持ってるんだな〜」
「持ってるでしょ、さすがにさ。あたしらへの依頼が減ったのが、そのアカシだね。依頼どころじゃないってわけだ。あんたもそう思ってるでしょ、H・S」
「もちろん」
それからH・Sは、ファゼットから事前に受けていた指示を、その場にいる二人に伝えた。
「頼むぞ、S・J、C・I」
二人は了解して、会議室を去った。それから三十分ほどして、二人は書類を手に持って戻ってきた。H・Sは礼を言って書類を受け取った。それは、今日の会議の出席者が持ってきていた極秘の書類だった。もともとファゼットに預けるつもりで持ってきていたものである。
夜十一時を過ぎ、ハンターたちはそれぞれの部屋に引き取った。H・Sは部屋に戻ってから書類に目を通した後に、眠りについた。だが、またしても、無数の獣に追われ、跳ね飛ばされて踏まれる悪夢を見たのだった。
「あー、疲れたあ」
夜十時半。ニッキーは浴室から出てきて、ベッドに寝転がった。指は連日のピアノ練習で痛くなり、マメが出来たのではないかと思われるほど。ヒールのある靴を履いた状態で立ち方や歩き方なども練習するので、足が痛くなって仕方ない。幸い靴ズレはない。
(毎日毎日くたびれちゃうなあ。でも、すてきなレディになるためだもん!)
あこがれの淑女。そのためにはどんな辛い勉強もこなしてみせる! ニッキーの決意は固かった。そしてそれは今もぐらついていない。
寝間着に着換えて布団にもぐりこむ。柔らかな羽根布団。明かりを消す前、ニッキーは思った。
(ヨランダお嬢様、結婚相手のことお好きじゃないみたい。もちろんワタシもだけどっ)
ヨランダが婚約者と顔を合わせているのは知っている。ニッキーは一度だけ招待してもらったことがある。その婚約者は地味な男で、どこかおどおどしており、極度に緊張しているようでもあった。ニッキーのことは知っているらしく、侮蔑の視線を露骨に投げてきて、彼女に対しては口をきこうともしなかった。が、ヨランダからニッキーを改めて「友達」として紹介されると、男の態度は途端に変わってしまった。ニッキーにやたら話しかけるようになったのだ。ヨランダに良く思われたいという下心があるようだった。
(ああいう人と結婚しなくちゃいけないなんて、悲しすぎるなあ。物語のお姫様って、皆あんなだったのかなあ。好きでもない男の人と結婚させられるなんて……)
だがヨランダはヘンリーとは恋人関係以上にはならないと固く約束している。だからヨランダとヘンリーは結婚しない。ニッキーはそれを残念に思っていた。
(ヘンリーにいさんと結婚すればいいのに……)
ニッキーはそのまま眠りについた。
夜十一時。ヨランダは自室のベッドにもぐりこんでいた。いつもならもう眠っているはずだが、今日はなかなか寝付けない。ため息をひとつついてから彼女は身を起こし、ナイトテーブルの明かりをつけた。スタンドの明りはベッドの周囲を照らすだけの弱いものだったが、彼女には十分だった。明かりを見つめながら、
(結婚まであと二ヶ月……)
ヨランダは何度かあの婚約者と会って話をしている。いずれも父が話し合いの場を設けており、結婚前にお互いを直接よく知っておくようにという配慮なのだろう。何度か父も一緒にいてくれたが、最近は仕事が忙しいのか来られなくなってしまった。ニッキーを同席させたことがあったが、あの婚約者は露骨にニッキーを嫌っているようだった。あとからニッキーに聞くと、ニッキーは元々一般市民なのだが父と兄の経営する《アース新聞》会社の資産によって特別に特権階級の居住区に住むことを許されているだけであり、特権階級のほかの連中からは一般市民と馬鹿にされているのだとか。ニッキーのいない時、あの婚約者は心底うれしそうな顔をしたことからも、間違いはないだろう。
(あんな人の子供を産めるのかしら……)
ヨランダはため息をついた。結婚式まであと二ヶ月しかない。気が重かった。
(ヘンリー、会いたいわ……)
ヘンリーからの手紙は来ない。ヨランダは知っている。ヘンリーの住んでいる町で激しい暴動が起きていた事を。アレックスが事前に手をまわして、ファゼットの部下たちにヘンリーを陰から守らせているので、今のところは安心だ。父の直属の部下たちは腕利きだ、彼らなら確実にヘンリーを守ってくれる。
だが、やはり顔を見たかった。
またひとつ、ため息をついた。
(もう一ヶ月以上も経ってしまったのか。早いものだなあ)
ヘンリーは書類の処理をしながら思った。あの暴動がおこった後、色々なことが次々に起こった。やっと今頃になって新しい政治体制がつくられつつあり、治安も回復されようとしている。結局あの残された自然や食糧生産区は市議会が管理することになった。新しい特権階級の出来上がりと言うところだろう。暴力革命が起こって何か変わったかと言えば、町の人々が、本当の自然の姿をこの目で見ることが出来るようになったと言うところだけで、後は何も変わっていない。特権階級の後釜として、市の有力者がそのイスに座っているだけだ。管理人と言う地位。やろうと思えば食料のひとり占めだって可能なのだ。
(色々あったが、結局元の鞘におさまったようにしか見えない)
外では血なまぐさい事が多かったが、今は終わりを迎えつつある。一方、社内では、なぜか社員たちがヘンリーを取材しに来るようになった。特権階級の生活を知っているヘンリーに色々話を聞くことで記事のネタにしようというのだろう。あの演説以来、誰かに狙われることはなくなった。社員がヘンリーをどう見ているかは、ヘンリーにはわからないままだ。だが手を出さないということは一応自分を一般市民として見ているのではないだろうか。それとも過激派にとっては手を出しづらい状況になってしまったということだろうか。
社員からの質問に答え、「答えた通りに記事を書き、決して答えを改竄しないこと」と固く言いつけてから、ヘンリーは社員の群れを退室させた。
(ニッキーは大丈夫だろうか)
妹のことを思う。ニッキーを屋敷に預けてきたが、楽しく暮らしているだろうか。それともヘンリーに会いたがっているだろうか。ヨランダが色々面倒を見てくれているはずだが、それでもヘンリーは心配だった。アレックスに近づきさえしなければ、もっと安心なのだが、どうもニッキーはアレックスを想っているフシがある。近づくなと言っても、近づこうとしているかもしれない。アレックスがニッキーに関心を示さなければ、なおいいのだが……。
(会えるのはいつだろう。今年中は無理かな……)
ニッキーの顔を見たかった。元気にしているといいのだが……。
書類の処理を終えて、ヘンリーは印刷会社の社長と打ち合わせをするべく、支度をして会社を出て行った。
町を歩きながら、周りを見る。無政府状態だった時の治安の悪化は徐々に回復に向かっている。大勢の人とすれちがったが、いずれも、特権階級の居住区を見るために急いでいるようだった。町の噂にも耳を傾けてみると、自然の残された居住区の景色はすばらしかったとか、穴だらけで風情がないとか色々噂が飛び込んできた。食料生産区や畑には入れないので、破壊された家々をめぐりつつ庭を見て回ったのだろう。あの日以来、自宅には帰っていない。執事はどこへ行ったか分からず、ヘンリーは会社の仮眠室で寝泊まりするようになった。おそらく自宅は壊されただろうから。
無防備に歩いているのに、襲われる様子はない。自分が特権階級の居住区に住んでいたと知っているのは会社の社員と取引相手くらいなもののはずだし……。とはいえ、記者たちが忙しく走り回っているのだ、ヘンリーについて聞きかじるなり調べるなりした他の新聞社の記者から取材の一つでもあるのではないだろうか。
印刷会社の社長と話をし、夕方過ぎにヘンリーは会社に戻ってきた。社内はあわただしく、朝刊の記事づくりに追われている。ヘンリーがドアを開けて会社に入った途端、社員の何人かがメモ帳を持って取材を開始。いいかげんその取材攻撃にも疲れてきた。取材で記者に朝から晩まで付きまとわれる人の気持ちがわかってきた。取材の後で何を書かれるか分かったものではないので、正直に答え、書いた後で必ず記事を見せにくるように伝えた後、ヘンリーは社長室に戻った。届いた書類の整理をしていると、一通、封筒が見つかった。ヘンリーに宛てたものだが差出人については何も書かれていない。とりあえず封筒をあけると、さらに小さな封筒が二つ。封筒の一つを開けて中の紙を取り出す。上等の紙。この辺りではまだ売られていない紙。その文面に目をやった途端、ヘンリーの目は丸くなった。
手紙は、ニッキーが書いたものだった。間違いない、妹の筆跡だ。
「ニッキー……」
熱いうれし涙が流れた。手紙には、色々書かれていたが、要約すると一人前のレディを目指して日々勉強で忙しくしていることと、ヨランダはとても素晴らしい淑女だとほめちぎる内容にわかれる。アレックスとは会っていないのか、彼については一行も書かれていない。そのほうが、ヘンリーとしては安心できた。言いつけを守って近づいていないのだろう。あるいは、勉強で忙しくてアレックスと話す暇もないのかもしれない。いずれにしろ、アレックスがニッキーをたぶらかそうとするかもしれないのだから、油断は禁物だ。
もう一通の封筒には、いつものいい香りのする桃色の便箋があった。ヨランダからの手紙。結婚相手と何度か会って話をしている事、ニッキーが真面目でいい子なので一緒にいて楽しい事、近づいてきた結婚を不安に思っている事を書きつづっている。手紙の終わりに、会いたいと言う単語を添えて。
「ええ、こちらも、お会いしたい……」
ヨランダの側からは手紙を出せるが、ヘンリーからは手紙の返事を出せない。町の郵便局自体は復活しているのだが、あの島へ持っていく便を持つ特権階級専用の郵便局はないからだ。逆に、あの島から来た郵便物を届けてくれる謎の局員は今もどこかに存在している。
手紙を大事にファイルにつづり、ヘンリーはため息をついた。
ユリはいつも通り、仕事を終えて社宅に戻った。治安の悪化にともない、一時は社員たちが身の安全を確保するために社内に宿泊したものだ。だが、治安が徐々に回復するに従い、その心配をしなくて済むようになった。
部屋のドアを開けようとすると、その郵便受けに何かが挟まっているのを見つけた。目立たない色の封筒で、宛先は彼女の社宅になっており、差出人の名前は一切書かれていない。一体誰からだろうと、ユリはとりあえず室内に入ってカギをかけた。部屋の明かりをつけ、封筒をやぶって中の紙を取り出す。上等の紙に書かれたその内容に目をやるなり、
「アレックス!」
思わず叫んでいた。
手紙の差出人は、アレックスだったのだ。
ユリの手は震えた。その目は、手紙にくぎ付けとなった。手紙には、二年前のことについて書かれている。入隊後に基地のある秘密に触れたことで、基地は彼を消そうとし、ハンターのスパイという濡れ衣を着せて指名手配した。基地や警察から追われた彼はある人物によって「安全な場所」にかくまわれることになり、その人物は基地に圧力をかけて、彼を書類上「処刑」させて「死亡」させ、表世界から存在を消させた。彼は追われることはなくなった。その代わり、かくまわれている彼はその人物の外交カードとして基地へ圧力をかけるための人質となったのである。
何度もユリは手紙を読み直した。筆跡は間違いなくアレックスのそれであり、手紙というより報告書にしか見えないその文章は、間違いなく、手紙を書くのが苦手だった彼のそれである。ユリはそれでも手紙の内容を信じられなかった。アレックスが本当のことを書いたのか、それとも嘘なのか、それは確かめようがない。だが、この手紙を信じるならば、アレックスはハンターの内通者ではなかったことになる。
(信じていいの、よね?)
ユリは悩んだ。どうしたらいいだろうか。筆跡は確かに彼のものだが、誰かが真似て書いたのかもしれない。ユリは、手紙をよこすよりも直接アレックスと会って話を聞きたかった。手紙だけでは、内容を信じていいか分からないのだから。
しばらく悩んで、彼女は手紙を信じることにした。アレックスは、自らハンターのスパイとなるような性格ではなかった。動物が好きで、ハンターをいつか自分の手で捕まえてやるとよく意気込んでいたから。それだけしか、信じる理由はなかったが、彼女はその頼りない理由にしがみつきたかった。アレックスが悪人だとは、信じられなかったから。
「でも、もうあんたは指名手配されてないんだから、その安全な場所から出てこればいいのに……」
ユリはため息をついて、手紙を大事にしまった。
窓の外の空は、急激に曇り始め、遠くで稲光がピカピカと光っていた。
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