最終章 part1
十二月十日。雪が空から降ってきて、あたりを白く染め上げる。
屋敷裏の小さな建物で結婚式が挙げられた。参加者はごくごく少数の、とてもささやかな結婚式だった。式が終わり、新郎新婦は屋敷のそれぞれの部屋に引き取った。それというのも新婦が、しばらく一人にしてほしいと懇願したからだ。自室に引き取ったヨランダは、気が済むまで泣き続けていた。
落ち着いた彼女はニッキーを部屋に呼んだ。ニッキーは、日々の厳しい勉強と努力で淑女としての作法を確実に身につけてはいるものの、いざというときは地が丸出しになるのだった。
「ヨランダお嬢様、だいじょぶですか?」
おずおずとニッキーは部屋に入ってきた。ノックも忘れて。ヨランダは彼女の無礼をとがめることもせず、泣きはらした赤い目にはまだ涙を浮かべながらも、微笑んだ。
「もう、だいぶ落ち着いてきたわ」
長いこと二人は話をした。食事もティーセットもこの部屋に運んでもらい、ニッキーはヨランダの話し相手をつとめた。ヨランダの話の長さには、ニッキーも慣れてきていた。さらに、今のヨランダにとって一番の良薬は、ひたすらヨランダの話を聞いてやることだった。
深夜過ぎ、話し疲れたヨランダは眠りについた。ニッキーも自室に引き取り、同じくぐっすり眠りについた。
娘の結婚式の翌日が月に一度の会議の日。屋敷に戻っていたファゼットは、娘の結婚式に出席したのち、部屋に一人でこもっている娘を案じていた。一日経った。時間が経つうちにあきらめの気持ちも出てきて、今は落ち着いているらしいが……。彼とて本当は娘を他の男に渡すのは嫌なのだ。だがこの家を娘の代で絶やすのも避けたいのだった。
さて、夕方になって、ファゼットはアレックスを書斎に呼んだ。足を引きずりながら書斎に入ってきたアレックスは一礼して、勧められるままに椅子に腰かけた。その黒い瞳は、今も、飢えた獣の目をしている。
「さて、君の計画について尋ねておこうか」
ファゼットは書類を取り上げ、それに一度目を通した。
「君は、わたしの地位と力を使って、己の成すべきことを成し遂げられたかね?」
「もちろんです。予定とは少々外れてしまいましたが、軌道修正は完了しています」
アレックスの返答には、迷いがなかった。ユリの存在を知ったことで、予定を急きょ変更しなければならなくなったが、今はもう大丈夫だ。新しい政治体制もでき、治安は回復に向かっている。アレックスの目的「基地の上層部と議会を丸ごとつぶすこと」はこれで成し遂げられた。暴動がおこる前に町のあちこちにある雑誌社に《バッファロー暴走事件》についての真相を掲載させ様々な特集を組ませたことで人々は事件について改めて知ることが出来た。あの事件を起こしたのは議員候補の一人であり、野生動物保護官の職務怠慢ではなかった。これで、「アーネストの濡れ衣を晴らす」という目的も達成できた。
だが、アレックスはこれで終わりにするつもりはなかった。
「目的はすべて成し遂げることが出来ました。本当はもっと血を見てもらう予定だったんですが……。治安の悪化によって、メディアによる大衆心理の支配の力は弱まっています。暴動が高じていくつかの新聞社や雑誌社が議会と通じ合っていたという理由で、暴徒の手によって破壊されたのと、メディアよりも噂話の方がはるかに速く流れて広がるからです」
「その通り」
「なので、あなたにそれを回復していただきたいのです」
「おや、わたしにかね」
「壊すのと直すのとでは、必要な労力が全く違いますから。自分では荷が重すぎます」
アレックスの黒い瞳の中に、ファゼットが映る。まるで、獲物のように。
「この二年間、メディアの支配権を握っていたのは自分です。本来、あなたは自分よりはるかに上の立場。自分を止めることもお出来になった立場。しかし自分を止めなかったために、特権階級の生活は脅かされることになったわけですから、他の特権階級の連中はさぞやあなたを怨むことでしょう。ですが、民衆の不満を解消するためには、特権階級の支配はもう終わらせねばなりません。これからは市議会や町議会が支配する番です。新聞をめったに読まない特権階級とは違い、普段から噂話やメディアにどっぷりと浸かった市民は、群集心理も働いてかなり操作しやすい存在ですから、裏世界の礎を再構築するには、ちょうどよい場所だと思いますが」
「ふむ、そうだな。しかしなぜ、自分では荷が重いと思っているのだね」
が、アレックスはその問いを無視した。
「……前々からおたずねしようと考えておりましたが」
一旦言葉を切る。
「あなたが、自分にこれだけの地位と力をお与えになったその理由、そろそろご説明願えませんか? おそらくは《子供》たちにもお話しになっていないのでしょう? 《彼ら》が反発するようなことでしょうから」
ファゼットは大笑いした。
「ははは、とうとう聞いてくれたようだね!」
ひとしきり笑ってから、ファゼットは改めてアレックスを正面から見つめた。
「わたしが君にこれほどの地位と力を与えたのは、君がわたしの力をどう使うかを観察するためだ。君がわたしの力を使って裏世界の礎をさらに強固なものにするか、それとも破壊してしまうか、まずそれだけを確かめる必要があった。そして君は、わたしの本来望んでいた通りのことをしてくれた。君はわたしの力をフルに使ってくれた。町を支配していた特権階級を滅ぼし、新しい政治体制を作り上げることに成功した。一方で、裏世界の礎を少々ぐらつかせた。もしこれで、わたしの後を継いでくれる気があるなら、わたしは喜んで君を指導したいものだ」
いったん言葉を切る。
「わたしが望んでいたこと、それは特権階級をつぶすことだ」
アレックスは目を大きく見開いた。
「ちっぽけな望みだと思っているだろう? だが、特権階級が世界中からなくなった暁には、より徹底的な情報操作網を広げることが出来る。特権階級に余計な口を挟まれずに済む」
「……それは、完全な世界征服ですか?」
「いや、わたしはもう世界を手にしたも同然だ。人心を支配するには、メディアを手中に収めるのが一番早いのだからな。が、特権階級だけはメディアの支配下にない。若い連中は、今の地位にあぐらをかいて座っているのを当然のことと思っているし、わたしが表に絶対出られない存在だと思ってもいる。それに、この島のことが一般市民に知られるわけにはいかん。目の上のコブは早急にとりのぞいておかねばならん」
「たとえ特権階級を滅ぼしたとしても、いつか誰かがこの島を発見することになるでしょう。特権階級があろうとなかろうと、その点は変わらないのでは?」
「その通り。だから、時間稼ぎとして、彼らが避難した後に残された飛行機や船を部下に破壊させているところだ。設計図などの重要なものも回収させている。民間警備隊が使っている飛行機も使い物にならなくさせている。一般市民の渡航手段が発達して、この島の場所を知ることが出来たとしても、そのころにはもうこの島は存在しなくなっているだろう」
「……?」
「この島それ自体は、外から見るとただの荒れた岩礁にしか見えないようになっているからだ。少しずつ、島の周りをカメレオン・バリアーで囲ませている。《子供》たちの飛行艇にも取りつけた機械を大型化したものだ。この、外見は荒れた島自体に上陸することはできるがね、目に触れるものすべてがただの岩にしか見えないのだ。手で触っても岩の感触しかしないように、今、機械の改良を急がせている。もちろん、荒れた島を開発しようと言う動きが出てこない間だけは安全だがね」
「さようですか」
アレックスは、またファゼットの目を穴のあくほど見つめた。
「では、これまでの自分の行動について評価していただけませんか」
「評価かね?」
突然の話の切り替え。すぐ平静に戻ったファゼットはアレックスを値踏みするように見る。
「そうだね、先ほども言ったように、君がわたしの後を継いでくれるなら喜んで指導したいくらい、すばらしい行動っぷりだったよ。わたしが見込んだだけのことはある逸材、君こそ後継ぎにふさわしい」
黒い瞳の中に、まるで獲物のようにファゼットが映し出される。
「ありがとうございます。しかし、何度も申し上げたように、あなたの後継ぎになるつもりは毛頭ありません」
「何故なのかね?」
「面倒事は嫌いです」
そう、アレックスは「面倒」な事は嫌いだった。そしてもう一つ理由があった。
「そうか、面倒事は確かに多いな。わたしも日々それに悩まされているよ」
ファゼットは笑った。アレックスは笑わなかった。
「自分よりふさわしい後継ぎならば、他にもいるでしょう」
「そう、確かにいる。《彼》は病から回復したばかりだが、早くも遅れを取り戻し始めた。とはいえ、わたしの後継ぎとするには少し頭が固すぎるのでね。最初は《彼》を後継ぎにしようと決めていたのだが、君を観察するうちに、《彼》以上のモノを持っていると気が付いたのだ。磨けば光る逸材、それが君なのだよ。ここまで成長した君と《彼》をはかりにかけたら、天秤はわずかな差で君の方へ傾くだろう。しかし君がどうしても嫌だと言うのであれば仕方がない。わたしの後継ぎ候補は二人、それが一人に戻るだけの話なのだから」
諦めがよすぎやしないだろうか、アレックスは思った。が、すぐに、
「そうだ、あとでちょっとした余興をお見せしましょう。そうすれば、あなたが今後後継ぎについてどうなさるべきか、お分かりになるかと思います」
書斎から部屋に戻ったアレックスは、セイレンが用意したばかりの夕食を腹に収めた後、濃いめにいれたコーヒーをたっぷりの砂糖とミルクで飲む。まだわずかに湯気を立てているコーヒーカップを受け皿に置いて、アレックスは振り返り、後ろにいるセイレンに問うた。
「ねえ、オレって長生きすると思うかな?」
何気ない問いだった。セイレンは、返答するのに少し時間を要した。
「長生きなさると思います」
「ありがとう」
アレックスはコーヒーを一息に飲み干した後、また振り返ってセイレンに言った。メイドの頬がぽっと赤く染まった。アレックスは彼女が頬を染める理由がどうしてもわからない。
「顔赤いけど、熱でもあるの?」
「い、いえ……」
セイレンの声は小さかった。
「それならいいんだけど……ああ、そうだ。ひとつ頼まれてほしいんだ」
会議は無事に終わった。特権階級たちは、暴動がいつ起こるかと怯えており、支配する地域の徹底的な情報統制についての議題には遠慮なく飛び着いてきた。大荒れになるかもしれないと言うH・Sの予想は外れた。今後、暴動に関する情報はファゼット自身の手で監視されることになり、特権階級たちは一安心して、会議を終えたのだった。
(とはいえ、奴がいるかぎりは安心できんな)
H・Sは、自室へ向かって歩きながら考えていた。
(義父さんはいつまで奴に権力を与えておくつもりなんだ? 後継ぎにしたいと考えてもいるようだし、二年も経つんだ、そんな考えはさっさと捨ててしまえばいいのに……)
ため息をつきながら部屋のドアを開けたところで、思わず目を見張り、続いて、喉まで出かかった声をおさえた。
「おつかれさま。待ってたよ」
部屋の椅子に、アレックスが座っていた。
「何故、ここにいる……!」
H・Sの喉からやっとこの言葉だけが絞り出された。アレックスは反対に、
「あんたと話をしたい。それだけさ」
この言葉に、《彼》は内心むかっ腹をたてたが、顔には出さなかった。アレックスが相手の都合を考えないのはいつものことなのだから。H・Sはため息をついて、アレックスの向かいの椅子に座った。
「で、何を話したい。手短に言え。疲れてるんだからな」
「うん、できるだけ手短に言うつもりだよ」
アレックスは切り出した。
「あんたには悪いけど、オレはあの方の後継ぎになるつもりだよ」
「!?」
「元々あんたが後を継ぐ予定だったようだけど、最近いろいろ問題があったそうじゃないか。それにあの方はオレを推し始めている。二年も経ったんだ、首を縦に振らないオレに対して、いいかげんしびれをきらしたんだろうね。回復したとはいえ、子供のころの傷跡は大人になってからも尾を引くものだから、あんたが倒れるなりなんなりされたら、あの方もさぞ困るだろう」
弾かれたようにH・Sは椅子から飛び上がった。それに動じずアレックスは続ける。
「仮にオレがあの方の後継ぎとして認められたとしても、捨てられたあんたをそのままにするつもりはないよ。あんたたちの情報収集の腕前はスゴイと認めているし、あの暴動の影響で取引が減ってハンターとしての活躍の場はこれから徐々に少なくなるだろうけど、スパイとしての活躍の場は増えて行くから、これからもがんばってもらうつもりさ」
「……っ!」
「それに、あんたも分かってるんじゃないのか? あのままあんたが病から回復しなかったら、あの方があんたを切り捨てたかもしれないということを」
最後の一言が相手を完全に逆上させた。アレックスにつかみかかり、胸倉をつかんだ状態で、アレックスを椅子から引っ張り上げる。アレックスは椅子から引っ張りあげられて、腰を浮かした状態になった。
「貴様……! それ以上言ってみろ……!」
それを言うのだけでも精いっぱい。怒りに顔をゆがめ、歯が折れるかと思われるほどひどい歯ぎしり。いつも冷徹なH・Sとは思えぬ豹変ぶり。しかしアレックスは臆した様子を見せず、冷たく笑っている。
「ほら、やっぱり分かってるじゃないか。あんたは、あの方に捨てられるのを何より恐れている。だから必死で頑張ってきたんだろ? でもあの方はもっと現実的だ。役立たずはさっさと切り捨てて、もっと使い物になるものを重宝するにきまっている。キズもののあんたが重宝される時代はもう終わりに近いってことだよ」
アレックスの胸倉をつかむ手が小刻みに震えてきた。
「もしもあの方がオレを後継ぎとして指名したら、あの方にとってあんたはもう用済みだってこと、わかってるだろ?」
怒りに震えたその両手が、電光石火でアレックスの首をつかみ、締め上げた。
「貴様! 義父さんが、義父さんが私を見捨てるなどと戯言をよくも――」
「ずいぶんと荒っぽい余興だな」
背後から聞こえた声に、H・Sは、アレックスの首を絞める手の力を思わず緩め、後ろを振り返った。
どこから入ってきたのか、ファゼットは首を横に振り振り、ゆっくりと歩いてくる。H・Sの、アレックスの首を絞めている手からは、完全に力が抜けてしまっている。アレックスは椅子にドサリと落ち、ひどくむせた。
「と、義父さん……」
H・Sの顔は怒りが完全に消え失せ、代わりに驚愕と恐怖が表れている。汗だくになり、体が小刻みに震えている。
「アレックスの、体を張った余興を見せてもらったよ」
ファゼットは言った。
「回復した君をそのまま続投するつもりでいたが、その様子だと、わたしを信頼しているとは思えなくなってきたよ。アレックスのささいな挑発にものってしまうのだからねえ。わたしを本当に信頼しているのなら、そんな乱暴な行為には出ずに、笑い飛ばせば済むだけだろうに。逆上したということは、君にとってアレックスの言葉は、己の痛い場所をつかれたのと同じではないのかね?」
「と、義父さん、私は――」
「言い訳は聞きたくない。とにかく、今夜は部屋で反省しなさい」
H・Sは真っ蒼になったまま、床にへたりこんでしまった。
アレックスが脚を引きずりながら出ていく時でさえも。
十二月十四日。町の一角は騒然としていた。市議会が管理する食料生産区から、温室で育てられているトマトなる野菜が半分以上盗まれたのだ。
「あのプチプチした感触が好きなんだけどなー、当分は値上がりするわねえ」
ユリは小説の校正を終えて、フウとため息をついた。最近、野菜や肉や魚を口にするようになった。最初はその触感と味に驚いた。胃袋が慣れないうちは何度もトイレにこもったものだが、今は大丈夫。町では食糧事情が変わったことにより、歯の弱い老人たちは相変わらず栄養剤にたよっているが、それ以外の者は栄養剤を口にするのをやめてしまった。自然のめぐみの美味さを知ってしまったのだ、栄養剤の苦さや渋さをまた口にしたいとは思わない。町の薬局の棚から栄養剤がほとんど消えてしまい、ほかの日用生活品が棚を陣取った。
ユリは小説を出し、他の記者の記事の校正を手伝った。昼食の時、食堂では豆のスープと肉団子が出た。豆だけしか入っていないスープは塩で味付けてあるだけのシンプルなものだが、栄養剤に比べるとはるかに美味いし、腹もちする。食事を終えた後、昼休みを同僚と喋って過ごす。昼休みが終わると、仕事を再開し、仕事が終わったら帰宅する。いつも通りの一日だった。
社宅の部屋に帰ると、空から雪が降ってきた。寒いわけだわ、とユリはひとりごちた。まだ残っている栄養剤を温め、コップに入れて飲む。苦い。だが不思議なことに、これを温めて飲むと体が温まるのだった。
「そういえば最近社長の元気がないわねえ。どうしたのかしら。なんだか失恋したみたいな、そんな感じよねえ」
ヘンリーは最近沈んだ顔つきになっていた。理由を聞いても応えてはくれなかったが、絶対に何かあるぞと、皆は確信していた。
ヘンリーは会社の施錠をした。特権階級の居住区にあった家は暴徒たちの手で破壊されてしまったので、今は社宅の一室に泊まっている。あの暴動で行方知れずだった執事は数週間前にひょっこりと姿を現してくれた。今も、狭い社宅でヘンリーの身の回りの世話をしてくれている。
「おかえりなさいませ」
老いた執事はドアを開けてヘンリーを出迎えた。ヘンリーは疲れ顔のまま室内に入り、着替えて、執事の作る夕食を腹に収めた後、寝室に入り、机の上に置かれた郵便物に目を通す。そのうちの一通は、ヨランダがヘンリーに送ってきたものだ。当たり障りのないことだけしか書いていないが、その紙面はデコボコしている。さらにそのデコボコした個所に書かれた文字はぼやけている。まるで紙面に水滴でも落としていたかのようだった。
(そうか、結婚したんだ……)
結婚することはあらかじめ知らされていたとはいえ、ヘンリーの心に鉛のおもりのような悲しみがズシリとのしかかってきた。今月の頭からずっとその事を考えると気分が沈んでしまっていた。そしてその夜、ヘンリーは一人で泣いていた。
一週間後にまた手紙が届いた。今度はヘンリーを屋敷へ招くために迎えをやったという簡単なものだ。明日の朝の四時に港に来るようにと、場所の指定もされている。ちょうどその日は祝日が重なっており、何日かの休みが取れることになっている。ヘンリーは思い切って、その祝日ともう一日、会社を休みにすることを決定していた。ヨランダの結婚の件で傷心していたのが原因だ。とにかく、ヨランダとニッキーに会えるので、ヘンリーは喜んだ。
朝の四時。静まり返った暗い港には小さな船が一隻あり、ヘンリーは月明かりを頼りにその船に乗り込んだ。デッキから階段を下りるとすぐにドアがあり、開けると小さな船室になっている。寝台と窓と明かりがあるだけの簡素なつくりとなっている。ヘンリーは荷物を床に置き、椅子代わりの寝台に座った。船は最初のうちは静かに港を離れたが、港が見えなくなると、急に船の後ろでエンジンが始動して、スクリューを勢い良く回転させた。これまでにない速度で、船は海水を派手にはねあげながら突っ走る。休むこともなく船は勢いよく突き進み、昼ごろ、島に到着した。
「ヘンリー!」
「ヘンリーにいさん!」
港で待っていたヨランダとニッキーがヘンリーを出迎えた。ヘンリーは屋敷に通され、ヨランダとニッキーからかわるがわる話を聞くことになった。淑女としての勉強をしているニッキーは、以前のニッキーよりもしとやかで優雅な身のこなしを身に着けていたが、ちょっと気を抜くと地が出てしまっていた。
「でねー、ひどいの、ヘンリーにいさん! お嬢様の結婚相手ったら、お嬢様のお付きの人の姿が見えないからって、お嬢様に『なぜあんな下賤な平民とおつきあいをしているのですか』なんて聞くんだもん。それもワタシの目の前で!」
ニッキーの愚痴を延々と聞かされていると、彼女の家庭教師が彼女を呼びに来た。ニッキーがしぶしぶ行ってしまうと、今度はヨランダの番だった。今までヘンリーに会えなかった寂しさと、今日会えた喜びを、この会話すべてにぶつけてきた。結婚式の後はニッキーがずっとヨランダの支えになっていたこと、ヘンリーに結婚式の事を伝えるのはとてもつらかったこと、ほかにも洪水の如く話をあふれさせてくるヨランダ。だがヘンリーは恋人の話にすべて耳を傾けていた。
その後、ヨランダの夫と一緒に昼食をとることになった。ヨランダはこの男とは少し打ち解けた様子だが、まだよそよそしさはある。一方ヘンリーは、恋人の夫を好かなかった。この、歳の近いであろう男が特権階級の住人の一人だと言うことはヘンリーは覚えているが、普段から付き合いがないぶん、どんな事情を抱えて結婚に至ったのかわからない。だが、明らかなことは、この男も所詮は特権階級の人間だと言うことだった。自己紹介だけして昼食をとり、天気やこのごろの寒さなどのあたりさわりのない話をした。しかしあからさまにヘンリーを見下す目、同時に、嫉妬のまなざしも向けてくるのだ。自分がヨランダの恋人であることも向こうは知っているのだ。見た目は大人しそうだがプライドは高く、敵に回すと厄介な奴ではなかろうかとヘンリーは思った。同時に、こんな男と結婚しなければならない恋人が不憫でたまらなかった。
船に乗って帰るその日まで、ヘンリーはヨランダの望むだけ傍にいた。彼女の夫の嫉妬のまなざしを背中に受けながらも。
「ヘンリー、ありがとう」
恋人が船で去った港で、ヨランダはさびしそうに見送った。その隣で、ニッキーは大声で兄の名を叫んでいた。
ニッキーはそれから、兄が去った寂しさを埋めるかのように、アレックスの部屋に押し掛けた。ひとりで考え事をしながらおやつの時間をすごしていたアレックスは迷惑千万と言った顔で、それでも追い出すことはせず(泣かれるかもしれなかったからだ)、相手をしてやった。ニッキーは、一体どこから言葉が出てくるのかと思われるほど長くしゃべりつづけた。テーブルに置かれた焼きリンゴや熱い紅茶も目に入っていない様子で。ヨランダの長話に慣れているアレックスはニッキーの話を聞きながら、おやつを食べ、紅茶を飲んだ。
「で、ひどいんですよ! ヘンリーにいさんのこと、あからさまに嫌そうな顔で見てくるんですよ、そのひと! お嬢様を見る時は普通に笑ってるのに! 絶対媚うってるに違いないんです!」
ニッキーの愚痴はそれから三十分も続いた。やっとニッキーが満足して退室してしまうと、アレックスは心底からほっとした。
十二月二十六日。
《子供》たちは、茫然自失となった。
H・Sが、死んだ。
現在の担当区域の情勢を直接確認し合うために、夜、K区に集まったハンターたち。だが、H・Sだけは姿を見せなかった。依頼を終えて、大急ぎでK区に向かっていた彼の飛行艇は、K区の入り口から離れた砂漠の岩に頭から突っ込み、炎上したのだ。集まってきたK区の人々によって飛行艇の炎は何とか消し止められた。頭から突っ込んだ衝撃で燃料が後部のエンジンから流れ込んでひどく焼けた操縦室には、黒焦げの亡骸が操縦席に座りながらも、コンソールにつっぷしていた。
「一体どうしてこんなことに……」
《子供》たちは、ショックを隠しきれなかった。
ファゼットは《子供》たちを屋敷に呼び寄せた。その夜、《子供》たちが通夜のために大部屋に行ってしまってから、彼はアレックスを書斎に呼んで、話をした。
アレックスが紡ぎ出した言葉には、明らかに驚きがこもっていた。
「まさか手塩にかけて育てた《彼》を、あなたがあっさりと殺害なさるとは思いませんでした。一体どのような方法で?」
「飛行艇のエンジンを改造しただけのこと」
「なるほど。それなら操縦ミスか自殺で片付けられてしまいますね。しかし、《彼》はあなたの大事な後継ぎではないのですか?」
「いや、いつか君の見せてくれた、体を張った余興で改めてわかったよ、彼はもう使い物にならん。回復したとはいえ、以前ほどの能力は発揮できなくなってきている。送ってくる報告書の質も落ちてきていたし、このまま彼がわたしの後を継いだとしても君ほど上手くはやっていけないだろう。切れ者ではあるがわたしに依存し過ぎる傾向があるしな」
「……殺す必要はなかったと思いますが」
「彼はわたしに対する忠誠心は人一倍強かったのだが、逆に嫉妬心も強かった。それに彼は過去の傷からやっと立ち直れたとはいえ、しょせんはキズものだ。君にちょっと挑発されただけで不安定な状態に陥ってしまう。今までずっと彼を後継ぎとしてもいいと考えていたが、改めて考え直した結果、後継ぎとすることはできないと結論を出した。それに、君を直接指名すれば、わたしに対して忠誠心が高いと同時に嫉妬深い彼の事だ、きっと君を殺しただろう。だから彼には代わりに死んでもらったのだよ。嫌な結末を知るよりは、何も知らずに死んだ方がずっと良いではないか」
「……ほかの《子供》たちはどうなさるおつもりですか。皆にとってリーダーと言える存在のH・Sを失ってしまった《彼ら》はこれまで通り続投ですか?」
「そのつもりだ。H・Sという求心力は無くなったが、《彼ら》には次の世代が育つまでのつなぎとなってもらうつもりだ。君が起こさせた《暴動》によって世界が徐々に変わって、特権階級が失われてしまえば、ハンターの存在価値は徐々に薄れていく。重用されるのはハンターではなく本業のスパイとなる。動物の捕獲活動はBランク以下のハンターに任せておけばいい」
「それで、次の世代が育ったら、今の《子供》たちはどうなりますか」
「《彼ら》にもいずれは舞台から退場してもらう予定だ。気の毒ではあるがね」
「……」
アレックスの黒い瞳には、わずかにため息をつくファゼットが映し出されている。ほんとは《子供》たちを失うのは嫌なんだろうなあ、情がうつっているだろうから。
「しかし、自分はあなたの後を継ぐ気はないと何度も申し上げていますが?」
そう、H・Sが死亡した今、ファゼットの後継ぎはアレックスしかいない。だがアレックスは後継ぎになるつもりはない。
ファゼットは机から書類をどけて、アレックスをもう一度正面から見た。その顔に不敵な笑いを浮かべて。
「そう、君は何度も断っている。だが君は、必ず首を縦に振るとも」
部屋に戻ったアレックスは風呂に入り、寝間着に着換えてベッドにもぐりこんだ。それと同時に部屋の明かりが消え、辺りは闇に包まれる。アレックスはすぐ眠りに落ちた。
夢の中で、アレックスはまたしてもスライドショーを見ていた。これは、今まで見続けたアーネストの記憶ではない。最初のシーンは闇から始まり、続いて、弱弱しい明かりがともり、その明かりによってどこかの狭い部屋にいることが分かる。さらに、何人かの大人たちの姿がどこからか現れる。だがその場面はすぐに消え失せてしまった。同時にアレックスの目も覚めた。汗びっしょりになっている。アレックスはすぐ気が付いた、あの大人たちに対して恐怖心を抱いたことに。あの夢は一体何の夢なのか、その疑問は数日すぎてから解決した。
これは、H・Sの幼少期の記憶だった。数日間、アレックスの夢は同じものの繰り返し。薄暗い部屋の中に突然大人たちが現れる。そしてその大人たちを見て恐怖心を抱くと同時に目が覚める。やっと今日になって、その繰り返しから脱する事が出来た。大きな手が頭をなでる。最初は頭を引っ込めてしまうが、相手はそれを叱ることなく、優しく抱きしめた。それから夢は進み続けた。アーネストの時よりもずっと早く進んだその夢は、一週間後にはもう、彼が義父からハンターとしての名前を与えられ、外の世界へ飛び立つまでに至った。音は一切聞こえていないただのスライドショー、会話も何も聞こえてこない。だが、そのスライドショーを主観視点で見ているアレックスは、ファゼットの期待にこたえて愛情を注いでもらうために必死で勉強してきたH・Sの懸命さとひたむきさを感じ取った。
夢の傾向が変わってきたのはさらに一週間が経過してからだった。彼のスライドショーはアーネストのそれと違って、写真を次々に見せられているようなものだったので場面の展開はあっという間だ。このころにはスライドショーは今年の夏ごろまで進んでいた。アーネストに弱みを握られ、いつ彼が契約にそむいて裏切るかと怯えている。何も考えは伝わってこないし、アーネストが何を言っているのかはわからないが、それでもH・Sが怯えていることは分かった。アーネストの記憶をスライドショーで見ていた時、H・Sの顔は平静そのものだったが、極力ポーカーフェイスを装っていたのだと、アレックスは初めて知った。そして、アーネストの死を知ったと思われる場面で、H・Sは安堵した様子だった。胸をなでおろすような動作がアレックスの目に映った。それから夢は急激に変わった。闇の中から突然アーネストが現れ、首を絞めて殺してくる夢。アレックスは思わず飛び起きていた。その夢はさらに一週間続き、アレックスは眠りたくなくなった。代わりに仕事量を増やしたので、セイレンに心配されてしまった。夢が変わったのは、さらに一週間経過した後。H・Sが体調を崩したらしく、医務室の医師と話をする場面が何度も繰り返して夢に現れた。それから、またアーネストの夢を見た。だが今度は違った。アーネストの姿は消え、代わりに現れたのは、傷だらけの幼い子供。子供は泣きながら消えていった。
その次の日、夢はさらに急速に進んだ。日々の報告書作りはH・Sにとっては日常茶飯事なのか大した印象も残っていないようであり、夢は一晩のうちにあの日にまで進んでしまった。アレックスが「余興」を見せたあの日だ。ファゼットに冷たい言葉をたたきつけられたH・Sは、夜が明けてからもショックをひきずっているらしく、歩き方に元気がなかった。次の場面ではファゼットを相手に何か喋っているようだったが、ファゼットはあくまで彼の話を聞くつもりはないようだった。たぶん、アレックスが部屋を去った後で、ファゼットの部屋へ直行し、弁解していたのだろう。そのまま夢は進み、彼は死に向かって進んで行った。依頼を幾つか済ませた彼は、夕方になって、やっとK区へ向かうことができた。飛行艇を操縦している時、前方のモニターに顔が映っていたが、やはり沈んだ顔だった。ファゼットの言葉をいまだに引きずり続けているのだ。こんな沈んだ気持ちで報告書を作成しても、穴だらけの質の悪いものになってしまうに違いない。K区に向かっていると、ふと、操縦桿を握る彼の様子がおかしくなった。同時に飛行艇の高度が急激に下がり始める。彼は何とか体勢を立て直そうと必死で操縦しているが、彼の操縦を全く受け付けない飛行艇はそのまま落ちて行ってしまう。前方には、砂漠の中にそびえる岩山。あれにぶつかればいくら飛行艇でもただでは済むまい。あの岩山の固さは、金属並みなのだから。
飛行艇は、落ちた。スライドショーの画面が激しく揺れたかと思うと、夢はそこで終わってしまった。それがH・Sの死を意味することは、明白だった。
夢が覚めて起き上がったアレックスは、しばらく荒く呼吸していた。やがて呼吸が落ち着くとため息をついて、また暖かな布団にもぐりこんだ。壁の柱時計は、夜中の二時を指していた。
(信じていた父親に殺されるとはねえ。オレが考え付く限り最悪の死に方じゃないか)
寒いので、頭の上まで羽根布団を引っ張り上げる。
(……だが、死んでもらって助かったよ。あいつはオレの最後の障害物だったんだから)
頭までふとんをひっかぶった状態で、アレックスは冷たく笑っていた。
二月下旬の会議の日。アレックスは自らファゼットに言った。
「あなたの右腕としての地位のままならば、その役目、お引き受けできます。しかしあなたの後を継ぐことはできません。《子供》たちをはじめとして、あなたの抱えておられる優秀な部下の方たちが納得しないでしょうから。しかし、正式な後継ぎではなく、あなたのお手伝いをする程度ならば、納得してくれましょう」
「そうかね」
しばらくファゼットは、アレックスを値踏みするように見つめていた。
「わたしとしては正式な後継ぎがほしいところだが、君がそこまで譲歩してくれただけでも、有難いと思うべきだろうねえ」
彼はアレックスに手を差し出した。その顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。
「よろしく頼むよ、アレックス。わたしが正式な後継ぎ候補を指名するまではね」
「……こちらこそ」
アレックスは無表情で、その手を握り返した。
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