第5章 part1



「久しぶり、シンジ君」
 アユミは驚き喜び、足早に少年へ歩み寄る。呼びとめられたシンジは、身をこわばらせている。ここで遭うとは思わなかった、そう思っているのだろうか。大きく見開かれた、血のように赤い瞳の中に、にこにこ顔のアユミが映る。
「は、はい、お久しぶりです……」
「奇遇ねー、お買いもの?」
「……はい」
「故郷(くに)じゃあ滅多に見られない不思議なものを売ってるお店って多いもんねえ。あ、そうだシンジ君」
 アユミは、にこにこしたままの顔で問う。
「今更の質問だけどいいかしら?」
「はあ、アユミさんのお身内の方についてでしょうか?」
「ううん、違うの。貴方について知りたいの。いいかしら?」
「……何ですか?」
「貴方って、私の故郷(くに)の、どのあたりの出身なの? 私はね――」
 アユミは自己紹介したが、シンジは嬉しそうな顔をしない。
「……多くの武人を輩出する里のご出身ですね、アユミさんは。私もそこは知っています。私はその地域の近くで生まれたのですが、私の故郷はもうありません」
「えっ」
「事情があって、捨てざるを得なくなったんです。言えるのはこれだけです」
 シンジはそう言ったきり、口をつぐんでしまった。
「あ、ご、ごめんなさい。私ったら――」
 まずいことをしてしまったとアユミはシンジに謝ったが、シンジは首を横に振った。
「いえ。ユトランドに来てもう長いこと経っていますし、この土地はもはや私の第二の故郷といっても差し支えないので」
「そ、そうなんだ。でも、ごめんなさい」
「いえ」
 その時、アユミの背後から音が聞こえた。ドアが開き、ベルがチリンチリンと鳴った。ポピーの店へ、アユミは振り返った。
「シングさん。お話は終わったんですか?」
「ああ、ようやっとね。でね、店長から、新しいおたからを調達して来いと言われちゃったんだよ。ところで、アユミさんは何をしてたの?」
「あ、お話ししてたんです、ねえシンジ君――あら?」
 アユミはシンジの方を振り返ったが、いつの間にか、シンジの姿は煙のように消え失せていた。
「あれれ、どこへ行ったのかしら?」
「誰かいたのかい?」
「はい。私と同じ国の出身で、十五歳くらいのヒュムの男の子なんです。黒っぽい着物を着ていて、髪が黒くて目が赤くて、シンジっていう名前なんです。さっきまで喋っていたんですけど……」
 アユミは雑踏を見回すが、シンジの姿はどこにもない。
「どこへ行ったの?」
 シングの方に向き直ったほんのわずかな間に、シンジは消えてしまったようだ。それこそ、まるで煙をかき消したように。
「もういない。本当は急いでたのかしら。だったら引き留めて悪いことしちゃったかな」
 アユミはシングに再度向き直る。
「もういいです、シングさん。早速出発しましょう!」
「そうかい、じゃあそうしよう。まず目的地は、南東のカモアの町だ。その近くにある緑地でおたから集めをしたいからね」
「はい!」

 パブで昼食を取った後、アユミとシングは町へ出る。大勢の人々が表通りを行き来しており、露天商たちが大声を張り上げて客を呼び寄せている。
「カモアの町は、このユトランドのロアル側では活気のある町のひとつなんだ。同時に、ガストオブカモアという血の気の多いクランの縄張りでもある。カモアを愛する心は誰にも負けてないっていう、それなりに歴史のあるクランなんだけどね」
 カモアの町は冒険者が多く集まる場所で、周囲には丘や緑地がある。モーラベルラの町からたどりつくにはまずゼドリーの森を抜けねばならないが、この森の一部はある貴族が所有している。また、南のバティストの丘とモーラベルラの町を結ぶ街道も作られているが、森の中には、たちの悪いクランが縄張りを作ってその縄張りを通る者に対し通行料を求めたり、戦闘を仕掛けて追剥のまねごとをしたりと、トラブルが絶えない。
「ゼドリーファームって名前のクランなんだけど、そいつらは野菜作りと称して、確かに農園っぽいものをもってはいる……」
 露店の並ぶ表通りを歩きながら、シングは言った。
「野菜の栽培どころか、出来あがったものは、どう見たってモンスターとしか思えないものばかりなんだよな。ボム風レタスだのプリン風カボチャだの、しかもその野菜たち、奴らの命令に従ってこっちを襲ってくるのさ」
「命令に従って襲ってくるだなんて……一体何を栽培してるんでしょう? 動く野菜なんて、キラートマト種ぐらいのものでしょう?」
「それはわかってるよ。だがね、やつらは、あくまで野菜だと言ってるよ。活きのいい野菜だってね。それにしてもガードナーなみに歴史の長いクランだよ、奴らは。よほど農業で生計を立てたかったんだろうねえ」
「……」
 露店が道のわきに並ぶ。人混みを歩きながらも、それからシングは色々な事を教えてくれた。品物の品質の確かめ方、値切り方、スリにすられにくい財布のしまい方などなど。アユミは初めのうちは真面目に聞いていたのだが、シングが困ったのは、アユミが露店にならぶアクセサリをそれに負けないキラキラ輝く眼でじっと見る時であった。欲しがっているのは明らかだ。やはりオシャレをして着飾りたい年齢なのだ。旅に必要なものを買うだけで財布の中身がずいぶん軽くなったために、彼女はしぶしぶ諦めているが、これが買い物をする前だったらどうなっていた事やら。露天商の口のうまさに乗せられてあれこれ買っていたかもしれない。
「こういう店では役立つものも手に入るけど、中には全く役に立たないガラクタだってあるんだ。だけどそこは商売人、口のうまさは天下一品だ。彼らにとって、世間知らずな値切りの下手な客ほどいいカモはないから、何とか買わせようと色々な言葉を並べ立てるのさ。だから、綺麗な装飾品だからってすぐ買うんじゃなくて、財布の中身を考えて――」
「あ、あれ綺麗……」
「話を聞いてくれったら、もう!」
 アクセサリの並ぶ屋台からアユミを引き離すのはなかなか難しかった。
 アユミを引っ張りまわしながらのシングの講義が終わるころ、ちょうど露店の波も終わって、住宅街に差しかかっていた。町の東にある出口からは街道が伸び、その街道のはるか先には森が広がっている。広々とした森だ。
「この街道の先にあるのが、ゼドリーの森だよ。この時期は、風が通ってなかなか過ごしやすいんだけど、森の中を流れているフォルモの小川で水を飲んだり水浴びしたりするモンスターも多いから、気をつけるんだ」
「はい」
 それから2人は町を抜けて、街道へと足を踏み入れた。よく整備された平らな道が真っ直ぐに伸びて森へ向かっている。
「町の外は、あまり雪が無いんですね」
 アユミは、背後の空を覆う雪雲と、森へ向かうにつれて見えてくる晴れの空を見比べる。晴れが広がるにつれて、寒さも少しずつ和らいでくる。
「さすがに森の傍までは降って来ないけどね。昔からあの辺り一帯は人工的に雪を降らせているけど、森の方までは降らせていない。町の貴族の所有する森だから、雪で枯らすといけないんだろう」
「なぜ人工的に降らせるんでしょう?」
「さあね。何か理由があるんじゃない?」
 さすがにシングも年じゅう雪を降らせる理由が分からないらしい。
 それからも二人は喋りながら歩いたが、途中でアユミのために何度も休憩をはさんだ。故郷で武術を学んだと言っても、長く歩き続けられるほど体力があるわけではない上、喉の渇きをすぐ訴えてくる。シングは嫌な顔一つせず、休憩した。疲労した状態でモンスターや盗賊に遭遇したら、アユミは足手まといになるだろうから、休憩をはさんで体力をある程度回復させておこうと思ったのだ。
(それにしても)
 平べったい岩の上に腰かけているアユミを見て、シングは思う。
(アユミさんは、箱入り娘として育ったのかな。ユトランドへ来るまではずっと家の中にいて、ようやっと町の外へ放り出されたら右も左も分からない状態で、リーダーの足取りを手探りで探しまわっているんだからなあ。値切りも知らないし、旅に必要な荷物の揃え方もよくわかっていないし、武術の腕はともかくこんなに頻繁に休んで水を飲みたがるようでは――)
 リーダーがここにいたら、どうしていたろうか。
「――さん?」
 不意に聞こえた声で、シングは我に返った。
 アユミが不思議そうな顔で、シングを見ている。彼女は既に立ち上がっており、休憩はもう終わりにするつもりらしかった。
「どうしたんですか、さっきからぼんやりと空を見つめてましたけれど……」
「いや、ちょっと考え事をね」
「さようですか」
「それより、休憩はもう終わりにするかい?」
「はい」
 それから二人は再度歩きだした。前方に見えてくるゼドリーの森は徐々に近づいてくるが、森の傍まで来るころには、西の空がオレンジ色に染まっていた。
「今日はここで休むことにしよう」
「もっと先に進みませんか? まだ夜まで時間がありますし――」
「時間があるからこそ、休む準備をするのさ。それに、森の中はモンスターや盗賊が身を隠す場所をたくさん知っているし、木々やしげみが奴らの姿を隠してしまう。昼はともかく、野宿のために中に入るのはかえって危険なんだ」
「そうなんですか……」
 オーダリア大陸でアランと共に旅をした時は、森ではなく原っぱでの野宿ばかりであった。見晴らしの良い原っぱと違って、森の中は木々や茂みに囲まれて視界が必然的にせまくなるため、シングの言うとおり、危険なのだ。
 アユミはシングの指示に従って、野営の準備を始めた。これはアランと共に旅をしたときに、彼に指導されながら準備をした事もあり、シングの手をそれほど煩わせなかった。
 シングは、たき火の準備が整ったのを確認すると、懐から石を取りだして地面に置く。すると、黄色く光る小さな結界が辺りに作り出された。
「テントを張る手間を省くために結界を張ったんだけど、油断はできないよ。盗賊の中には魔術の心得を持つ奴もいるからね、結界を解かれる恐れもある」
「じゃあなんのために結界なんか――」
「テントより確実に雨風を防げるし、一部のモンスターや虫なんかはこの光を嫌うから、ある程度の魔物避けになるんだ。それに、寝てる間に悪い虫に噛まれる確率も減るから体を壊さずに済むんだ」
「そうなんですか。私、魔術の心得は最低限しかないものですから……」
「僕も魔術の部門はあまり得意ではないけどね。さあ、とにかく夕食にしよう」
 近くを流れる小川から水を汲み上げ、食事の支度をする。干し肉と塩を使った簡単なスープ、薄く切り分けた固パン。
「道中の食料は、目的地に着くまでの量をちゃんと計算して少しずつ使うんだ。中でも大切なのは水でね、食料が尽きても水があればしばらくは何とかしのげる。だが、今みたいにいつでも綺麗な水が飲めるわけではないし、水の石で浄化していない生水を直接飲むのは危険で――」
 食事を取りながらも、シングの講義は続く。アユミは、大人しく話を聞いた。本当は、食べたらすぐに休みたかったのだけれど、大切な話をしてくれているのだからちゃんと聞かなくては……。
「――というわけでね」
 シングは、話し終えた直後に気付いた。空の皿を持ったアユミの目がとろんとしていることに。やはりまだ旅慣れない身か。
「食べたらもう寝てなよ、アユミさん。片付けは僕がやっておくから」
「ええっ、ええ、でも――」
 アユミは必死で起きようとしているが、体は言う事を聞かない様子。立ち上がろうとしてふらついたので、シングは慌てて彼女を支える。
「大丈夫だよ、僕は。むしろ君の方が危なっかしいじゃないか。ほら、今日はもう眠って。明日に備えて」
 眠気に負けたアユミは「それならお願いします」とシングに食器を渡し、「おやすみなさい」と結界の中へ入って薄い布団代わりの毛皮にくるまって眠りに落ちた。シングは二人分の食器を洗った後、結界の傍に座った。
「やれやれ。本当に警戒心が薄いんだなあ。いくら結界が風雨を防ぐと言っても、この状態じゃあねえ……。安心しきってるとしか思えないよ。いざ敵に襲われた時、その体勢ではすぐに刀が抜けないだろうに。リーダーが見たら、確実に怒るだろうなあ、『敵に隙を見せるとは何事か』って」
 アユミは毛皮にくるまって、草の上に寝転がっている。これでは、敵が襲ってきた時、とっさに防御態勢を取れないではないか。何と無防備なのか。
 やれやれと呟いて、シングは火の番を始めた。

 翌朝から、二人の旅は始まった。朝になるとシングは仮眠をとり、それから食事をすませ、二人はゼドリーの森へと入った。鳥の声が聞こえ、少し遠くからは小川のさらさら流れていく音が聞こえ、生い茂る木々から落ちてくる木漏れ日が辺りを弱く照らしている。森と言っても、人が通るための道はある程度舗装されていた。てっきりけもの道を進むのだと思っていたアユミは驚いている。
「道がある……」
「商人たちが通ることもあるから、それのために道は整備されているんだ。それに、個人の所有しているところは、入らないようにちゃんと囲いも作られているからね。あと、この森の最大の特徴なんだが、木々のいくつかには魔力がわずかに宿っているのさ」
「木に魔力が宿るのですか?」
 アユミは目を丸くして、周りの木々を見まわした。どう見ても、周りにあるのはただの木々なのだが……。
「本当に、魔力が宿っているそうなんだよ。あまりに微弱なものだから、見分け方は僕もわからないんだけどね。リーダーは何故かそれの見分けをつけることができた。ただの木と魔力のある木を選りわけて、薪に向いた木を見つけ出せたんだよ。魔力を宿す木は特別な素材として重宝される一方で、薪として消費するには向かないんだよ。生木のように燃えにくいだけじゃなく、逆に火の力を取りこんで辺り一帯を火事にしかねないほど勢いよく燃やしてしまうこともあるからね」
 シングは説明しながらも当時の事を思い出す。クランの中で術の扱いに最も長けたアレンやチコですら、魔力を宿る木々を選りわけることは難しかったのに、シンイチは術とほぼ縁が無いにも関わらずたやすくそれをやってのけた。一体何故それが出来たのだろうと、皆でひそかに首をひねったものだ。
(叔父上ってすごい方なのね。魔術に長けた者すら見分けるのが難しいものを選りわけることができたなんて!)
 しかし、アユミは純粋に感心していた。
(でも私も負けていられないわ! 叔父上は武術でも魔術でも名をはせたようだけど、私だって……!)

 話をしながらも、二人は道を進んでいく。道なりに行けば、もし途中で何にも出会わなければ1日で抜けられる。シングはそう言った。
「――というわけにはいかないようですね」
 アユミは顔をしかめて立ち止まり、刀を抜いた。前方からそよ風にのって流れてくるのは、鼻がひん曲がるような悪臭。
 甲高い鳴き声をあげながら、木々の群れから現れたのはモンスターたち。鼻息の荒い緑チョコボと、首をかしげたゴーゴーバニー、そして、モルボル。
「モルボル?! あの悪臭の魔獣ってここにも生息しているの?!」
 吐き気がおそってくる前に、アユミは驚きをあらわにした。
「生息条件が整っていればどこにでもいるだろ。そんなことより迎撃だよ。あの緑チョコボはかなり気が立ってる」
 シングは落ち着きはらって、まずゴーゴーバニーに目を向ける。敵意を持っているらしい緑チョコボと違って、ゴーゴーバニーはただこちらを観察したいだけらしい。モルボルはまだわからない。シングはゴーゴーバニーに素早く手を伸ばし、ぐるっと円を描くような仕草をする。すると、ゴーゴーバニーの目がとろんと垂れた。
「よし、成功――ゴーゴーバニー、戦いのダンスだ!」
 魔獣使い特有の、モンスターを操る力だ。一時的にモンスターを操って味方につけることができるのだ。
「キャッピー」
 シングに操られているゴーゴーバニーは、かわいらしく尻尾を振って飛び跳ねる。すると、アユミの全身に力がわいてきた。戦いのダンスが発動したのだ。攻撃力の強化と、一時的に時魔法のヘイストがかかる。
「これは――」
 彼女が事態を把握するより先に、緑チョコボが甲高い鳴き声をあげて襲いかかってきた。アユミは先ほどまでの混乱はどこへやら、
「は!」
 飛びかかってきたチョコボのくちばし攻撃をさっと身を引いて回避、森の土にくちばしを突き刺してしまったチョコボの無防備な背に向け、
「奥義・凍滅!」
 冷気をまとった刀を振り下ろす。チョコボの背に刃がヒットした瞬間、一瞬にして当たりの気温が少し下がり、緑チョコボの全身がアユミ身の丈の倍もある氷柱の中へと閉じ込められる。
「一丁上がり!」
 アユミは、次にモルボルへと駆ける。いつもより素早く走れる。体が軽く感じる。操られた状態から解かれたゴーゴーバニーは、さっさと身をひるがえして草むらへと飛び込んでいった。
「アユミさん、そいつは僕が――」
「これならいける! 先手必勝!」
 シングの制止も聞かずに進むアユミは、だらしなく口を開けているモルボルに向けて刀を振りあげる。
「カマイタチ!」
 勢いよく振った刀から風の刃が生まれ、それらはモルボルの触手をいくつか切り落とす。それでモルボルは一瞬怯んだが、くさい息を止めるには至らない。
「グオオ!」
 モルボルはカマイタチの一撃で怒ったらしく、触手を振りまわしながらくさい息を吐き出した。目に見えてわかる濃い悪臭が、アユミに向けて吐き出される。モルボルの正面に陣取ってしまったアユミはそのまま下段の構えから居合抜きを放とうとしたが、くさい息を回避するのが間に合わず、それをうっかり吸いこんでしまった。
 強烈な吐き気に伴い、喉が焼けつき、開けていられないほど両眼が痛んだ。
「アユミさん!」
 シングが駆けつけるも、動きの止まったアユミはモルボルの触手に勢いよくなぎ倒される。反射的に受け身を取ったおかげで、頭を打たずに済んだのは幸いだ。
(これだけ怒っていると、操れるかどうか……)
 シングは、アユミに癒しの魔法を唱える前に、怒るモルボルを鎮めようと腕を突き出す。
「静まってくれよ、これで」
 素早くモルボルに向けて円を描く。だが大人しくならない。気が立ちすぎているのだ。地面に倒れたまま目から涙を流し派手に咳こむアユミに向けて、モルボルはまた触手を振りあげた。
 仕方ない、と口の中で呟きつつ、シングは荷物袋からサビのカタマリをとりだし、モルボルへと投げつける。運よくモルボルの口に当たり、注意がアユミからそれた。シングに向き直ったモルボルに向け、彼は再度操りを試みる。モルボルの口からあの黒い悪臭が漏れ出るより早く、手で何度も円を描く。
「グウ」
 モルボルは息を吐くのを止めた。操りが成功したのだ。シングはそのまま視線を外さず、指示を出す。
「さあ、住処に帰るんだ」
 モルボルは大人しく回れ右し、木々の奥へ向かって進んでいった。そうして辺りの気配が完全になくなって初めて、シングは大きくため息をついた。助かったのだ。アユミに白魔法を唱えて、くさい息による状態異常を治療してやると、アユミはようやっと落ち着いた。
「あ、ありがとうございましたっ」
 まだ小さな咳が出て、涙がぼろぼろ毀れおちてはいたけれど、アユミの体調はほぼ元通りと言ってよかった。
「いや、大した傷が無くてよかったよ」
 シングは言いながら、ため息をついた。
「本当に良かった。でもさっきはどうしていきなりとびだしたんだい?」
「さっきは、急に体が軽くなって力がみなぎったので……」
 せき込みながらもアユミは話す。
「皆、私ひとりで倒せると思ったんです」
「で、モルボルも同じく倒せると思ったと」
「はい……」
 その返答を聞いて、シングは先ほどよりも大きなため息をついた。
「それは無茶すぎる。確かにゴーゴーバニーの戦いのダンスで一時的に身体能力はあがったが、それはチョコボを屠れればそれでよかったんだ。モルボルは、怒らせる前なら僕が操って住処に帰すことで、こちらが余計なダメージを受けないようにするつもりだったんだ。でもねえ、僕の言葉も聞かずにいきなり飛び出したりして、下手をしたらもっとひどい怪我をしていたかもしれないんだ。リーダーならともかく君は――」
「ごめんなさい」
 うつむきながら、アユミが遮った。
「私が未熟者だってことはわかってます。皆さんが私と叔父上を比べてそう思われるのも当然のことです。でも私だって少しはできるつもりだって――」
 一時的に身体能力が強化されていなくとも、アユミには緑チョコボを奥義の一太刀で葬る自信があった。モルボルもきっと屠れる。そう思って突撃したのに、逆に叱られた。
 しばしの沈黙の後、
「わかった」
 シングは肩の力を抜いた。
「君の実力を把握していなかったことや、リーダーと比べてしまっていたことは、僕に非がある。だがそれらを除いても、君はやっぱり戦士としては未熟だ。敵意のある者を見分けられないのは君の大きな過失だった。あのモルボルは、アユミさんに攻撃されるまで敵意が無かったんだよ。大人しくあやつられてくれたからよかったものの、下手をしたら、凶暴化したモルボルに僕ら二人がやられていたかもしれないんだよ。ああ見えて、モルボルは怒りっぽいんだ」
「……」
「武術の修練は積んでいても、命を奪われる『戦い』を知らない。君の立ち位置はここなんだ。君は敵を倒すために戦うんじゃなく、まずは生き残ることを目指すべきなんだ。武術は確かに敵を倒すための物だけど、別の見方をすれば、自分の身を守るためのものでもあるんだよ」
 シングの背後で、ピキピキと鋭い音。見れば、アユミが奥義の一撃で仕留めた緑チョコボを閉じこめている氷の柱に弱く亀裂が入っている所。溶けてきたのだろうか。
「もしかしたらあのチョコボを仕留め損ねているかもしれないから、柱が割れる前に、ちょっとここを離れよう」
 シングの言葉で、アユミはうつむきながらも素直に立ちあがった。
 二人が大急ぎで森を抜けるころ、遠くにバティストの丘が見えていた。


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