第8章 part1
アユミがユトランドに来てから、十ヶ月以上が経過した。
(いつのまにか、そんなに経ってしまったのねえ)
ロアル大陸に木枯らしが吹く。アユミは防寒具の前を合わせて風を防ぐ。隣を歩くシングも同じく。
「さーて、そろそろエアポートに行かないとオーダリアいきの便が出てしまうよ」
「はーい」
シングと並んで歩き、モーラベルラのエアポートへ向かうアユミ。その間、彼女は初めてこの土地へ来た時のことを思い出した。
(ユトランドの地理なんて右も左も分からなくて、旅の知識なんてほとんどなくて。今まで生きてこられたのが本当に不思議なぐらいだわ。戦う事も出来たけど、その戦闘のほとんどは、シングさんに守ってもらっていたようなものだったしね)
修業のため、は表向き。本当は観光のために来たのだ。そして、叔父シンイチの話を聞くのはそのついでだ。後者の目的は、彼のクランメンバーによって短い期間で達成された。彼らの話から、シンイチは故郷に戻っておらず、クラン解散後、メンバーはリーダー活躍の噂を何も聞いていない事が判明した。
(もし叔父上にお会いできたら私の修業の成果を見ていただこうと思っていたけど、今の私じゃ鼻で笑われてお終いってことになりそうね……)
クランメンバーから聞かされる、シンイチについての思い出話は毎回同じだった。精神的にはもろいが剣士としての腕前は超一流。それを聞くたびに、アユミの心は沈んだ。それというのも、彼の姪と言うだけで、叔父と比較されている気になってしまうから。自分からそれを聞きたいと望んだくせに、結果として傷ついてしまう。
さて、エアポートでオーダリア大陸行きの飛行艇へ乗り込んだアユミたちは、フロージスのエアポートで降りた。降りた時にはすでに夕方近くになっていたにもかかわらず、この土地は気温が高い。しかし季節故か多少風が冷たくなっている。今回この土地へ来たのは、チコの依頼で、ある薬を作るのに使う薬草を摘むためだった。ムスクマロイのようなメジャーなものではなく、ある土地にしか生えない特別なものだ。
二人はパブで食事をとりながら、話をした。
「まさかあそこにしか生えていないとはね。チコさんが行くのを渋るのも分かる」
パンをちぎりながら、しぶい顔でシングはつぶやく。アユミは焼き魚の骨を取り除くのをやめ、首をかしげる。
「あそこって、町の東の湿原のことですか?」
「ああ」
トラメディノ湿原。昼でも暗雲が垂れこめ、アンデッドやラミアの巣窟となっている広大な湿原だ。
「あのトラメディノ湿原はね、年がら年中暗雲が垂れこめててね、いついっても不気味な所なのさ。できれば何の用事もない時に、あそこには近づきたくないね――今はチコさんに頼まれているから行くしかないけど」
旅慣れたシングですらいい顔をしないトラメディノ湿原とは、いったいどんなところなのだろうか。町から暗雲を見ることはあっても湿地自体には行ったことのないアユミは、半ば不安、半ば好奇心で胸をふくらませた。
初めて、トラメディノ湿原に足を踏み入れる。冬の木枯らしすら呑み込む何だか不気味な風が、湿地をふきぬける。ただのそよ風のはずなのに、アユミの体を撫でるそれはひと撫でごとに彼女の体温を確実に奪いつつも、その体を総毛立たせる。
見た目はただのうすぐらい湿地だ。空には暗雲が垂れこめ、今にも雨が降り落ちそうだ。じめじめしていて、湿原を歩くごとに、ぴちゃりと地面から水音が聞こえる。丈の高い草が生い茂り、道があるかどうかすら分からないほどだ。フロージスの町から伸びる道を進むにつれて、ジメジメした空気が体に重くのしかかってくる。
時折、草のどこかからケケケと甲高い笑い声が聞こえてくるのを、アユミは周りを見ながら敵かと確認するも、そのたびに何も見当たらずほっと胸をなでおろす。
「ここらへんはまだ湿地の入り口だよ。だからラミアとかのやっかいな奴らが出てくるのはもう少し先へ行ったところ。とはいえ、湿地自体に妖気がうずまいているからゴースト系のモンスターも呼びよせて、ラミア以外にも敵は現れる。油断はしないでくれ」
話しながらも、シングは高い草をかき分け躊躇わずずんずんと進むので、アユミは慌てて後を追った。湿原の奥に進むにつれて、どんよりした空気にさらに重みが増してくる。
「あ、あんな所に小屋がある!」
不意にアユミは声をあげて指を指す。高い草の群れるその向こうに、古びた小屋が見えたのだ。その小屋は水辺に建っており、渡る為の小さな橋と、傍には小船もついている。
「こんなところにも誰かが住んでるんですか?」
「……湿地の魔女以外に好きこのんで住む者はいないと思うよ。ここらでは、それなりにいい魚が釣れるから、腕のいい冒険者や旅人が魚を釣って食料にし、ここを一夜の宿として使う事もある。ちょうどいいから、僕たちもいったん休憩しよう。チコさんの取ってきてほしい薬草は、あの小屋からもう少し先に生えているからね。ラミアやゴーストに備えて体力を回復しておこう」
小屋の中に入ると、中はほこりっぽく、家具らしいものはなく、蜘蛛の巣が天井に張り巡らされている。ずいぶん長い事誰にも使われていなかったのは明白。掃除をしたいところだ。とはいえ体をきちんと休めるために来ているのであって掃除して消耗するために来ているわけではないのだから、アユミは我慢した。
乾し肉と塩でつくったスープとパンを食べ、数時間休憩してから二人は小屋を出発した。しかし間もなくシングは足を止めた。
「どうかしたんですか、シングさん?」
「まずい。霧がちょっと出てきたぞ。急ごう、アユミさん」
言うが早いか急に歩き出すシングを、アユミは慌てて追いかける。歩きながらシングは言った。この湿地ではミルクのような濃霧が発生することがあり、一度発生すると数時間は晴れることがない。だから急いで薬草を採取しようと歩いているのだ。
「チコさんも薬草を急いで手に入れてほしいと言ってたからね。アユミさん、僕の手につかまってよ。はぐれないようにね。薬草はここらへんに生えているから、しらみつぶしに探すよ」
「は、はい!」
ヒュムから見ればン・モゥは背が低く手をつなぎにくいことこの上ないのだが、アユミはそれでも身をかがめシングの片手を強く握った。こんな場所でひとり置き去りにされるなんて、まっぴらごめんだからだ。
シングの言う通り、少しずつ霧がたちこめてきた。ミルクのように濃くなっていくにつれ、周囲の草むらから聞こえるうめき声や笑い声、そして気配が距離を縮めてくる。アユミは自分たちの周囲に気配を感じた。それもひとつではない、複数だ。ラミアたちがいるに違いない。
「あった、薬草!」
シングの嬉しそうな声。そして草をかき分けブチブチとむしりとる音。アユミはシングの手をぎゅっと握りしめながらも、早く終わらないものかと周囲を見まわしながら、やきもきした。時間にして一分もかかっていないのに、視界の全くきかない、それこそすぐ傍にいるシングの姿すらろくに見えなくなるほどの濃霧の中、アユミは不安で押しつぶされそうになっていた。今ここで魔獣が襲ってきたら……。
シングは薬草を摘み終わり、持ってきた革袋にそれを押しこむ。
「よし、終わった。それじゃあ、霧が晴れるまで――」
フォオオオオオ!
空気を震わせる独特の冷たい声が周囲に響いて、濃霧の中から複数のレイスたちが襲いかかってきた!
「キャアッ!」
思わずアユミはシングの手を離してしまい、驚きで悲鳴を上げながら跳び退ってしまった。シングの姿がたちまち、霧と魔物の群れに呑み込まれてしまう。
「アユミさん!」
「シングさん!」
尻もちをついてしまったがすぐ立ち上がる。しかしアユミはシングの姿を捜す前に、襲ってきた敵を倒さねばならなかった。抜刀し、切りつけ、術で消耗させられながらも何とかレイスの群れを消滅させることに成功する。
「シングさん、シングさん!」
刀を手にしたまま、アユミはシングを大声で呼んだ。大声は霧の中へ吸い込まれていくが、シングの返事は聞こえてこない。水の流れる音と、遠くでラミアの甲高い笑い声が聞こえてくるのみだ。アユミはさらに大声を上げたが、シングの返事はないままだ。
「ど、どうして返事がないの? すぐそこにいるんじゃないの?」
アユミの全身は汗びっしょりになり、瞳は落ち着きが無くなって周りを見まわす。不安が一気に大きくなって彼女を押しつぶさんばかりになってきた。
「シングさーん!」
ありったけの声を絞り、怒鳴る。しかし返事は無い。再度怒鳴るも、やはり返事は返って来なかった。
アユミの頭の中ではぐるぐると色々な心配事が駆け巡りはじめる。シングは魔獣にやられてしまったのではないか。それともどこかに逃げのびているだけなのか。ン・モゥは水が苦手だ、もしかしたら深みにはまっておぼれたのではないか。
「ど、どうしよう、シングさんが……!」
シングの安否を確認できない不安と恐怖とで、アユミはパニックに陥りかけた。
フォオオオオ!
先ほど襲ってきたレイスの群れの声が、濃霧の中から響いてくる。
「や、シングさん! お願い、返事してください! どこなんですか!」
レイスの群れの声をかき消すように、同時に不安を何とか払いのけようと、アユミは声を張り上げた。
「アユミさん?」
背後から聞こえた声にアユミは思わず、目に涙をためて振り返った。草をかき分ける音と共に姿を現したのは、
「……あなたは!」
旅の途中何度か出遭ったシンジであった。シングではなく。しかし知っている顔に再会できたアユミは先ほどの緊張と不安が一気にほぐれて軽くなった。思わずシンジに抱きついてしまうが、その安堵感で、彼女の体からあらゆる力が一気に抜けていく。なかばシンジの体にぶら下がった状態のアユミを見下ろし、シンジは小さくため息をついた。
「……」
アユミの耳にははっきり聞きとれない言葉がシンジの口からつむがれる。それからアユミの額にシンジの手が触れると、急速に彼女の意識は闇の底へと沈んでいった。
「――さん、アユミさん!」
ゆさゆさと揺さぶられて、アユミの意識はゆっくり浮上する。
「ん……」
うっすら目を開けると、目の前に誰かの姿。しかし焦点が定まっていない。なおも揺さぶられながらも視界は徐々に鮮明になる。
「シング、さん?」
アユミをゆさぶっていたのはシングだった。
「ああ、よかった……」
シングはほっと安堵のため息をついた。
「僕がやっとたどり着いた時には、アユミさんはここで倒れていたんだよ。眠ってるんだか気絶してるんだかわかんなかったけど、とにかく本当によかった」
アユミは、のろのろと視線を左右に動かした。埃と蜘蛛の巣のインテリアがある。薬草を摘む前に休憩した作業小屋だ。
アユミは身を起こそうとしたが何だか頭がふわふわとして、力が上手く体に入らない。まだ起きない方がいいかも、とシングに言われ、アユミは床に横たわったままでいることにした。
「あの、シングさん……」
「どうしたの? 出発なら、もうしばらく休んでからの方がいいよ?」
「いえ、そうじゃなくて」
アユミは問うた。濃霧の中、シングとアユミははぐれてしまったが、その後どうなったのかと。
「僕はね、アユミさんとはぐれてからラミアの群れに襲われちゃったんだ。幸い、最寄りのスペクターをあやつってラミアたちの気をひかせることができたから、何とか逃げだせたけどね。その後アユミさんを捜そうとしたけど、休憩をとったこの小屋から不思議な光があふれていたんで、行ってみた。そうしたら君がこの小屋の中で横になって寝てるじゃないか。驚いたよ。でも無事で本当によかった」
「寝てたんですか?」
「うん。でもただ寝ていたんじゃないんだ。結界が貼ってあったんだよ」
「けっかい?」
シングの指さす先を見てみれば、小屋の入口に光る石が置いてある。
「あれはごく初歩の結界なんだ。ちょっと術の修練を積めば大抵の者は使う事が出来る。力の弱いモンスターは絶対に近寄って来ないよ」
そこまで言って、シングは首をかしげる。
「そういえばアユミさんはどうしてここで寝ていたの。僕とはぐれてから何があったのか覚えてる?」
シングに問われ、アユミは記憶をたどりながら説明した。レイスの群れとの戦闘後、シングを捜して大声をあげていた所、何度か会ったことのあるヒュムの少年シンジと遭遇したこと。
「そこからアユミさんは何も覚えてないんだね」
「はい……」
「でも僕はアユミさんの大声を聞いた覚えはないんだ。もしかしたらレイスやラミアが協力して、何かしら音を遮断する妨害工作をしたのかもしれない」
シングは頭をかいた。それから彼女に再度問う。
「そういえば、そのシンジって少年はどうしたの?」
「どうしたっていうのは?」
「僕がアユミさんを見つけた時には、アユミさんひとりしかいなくて、シンジというヒュムの少年はいなかったんだ。結界を張ったのもアユミさんをここへ運んだのも彼の仕業だと思うんだけど……」
シングは眉間にしわをよせた。
「このトラメディノ湿原は、よほど腕の立つ冒険者でも単身での通過は難しい。なのにアユミさんの話だとその少年はひとりだけしかいなかったみたいだし。彼は何処へ行ったのかな」
そういえばそうだと、アユミは思った。
「でも、もしかしたら誰か仲間がいて、シンジ君と一緒に私を運んでくれたのかもしれません……」
「だといいけどね……」
シングの難しい表情は、アユミが回復するまで消えることはなかった。
数日後、採集した薬草をモーラベルラのチコに渡して報酬を受け取った。
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