第8章 part2



「ほっ! やっ!」
 フロージスの宿の庭にて、アユミは早朝から刀を振っていた。
「まだまだ! スペクターの群れなんかで驚いてちゃ、まだまだだわ! まだ会ってないけど、叔父上に見られたらきっと笑われちゃうわ!」
 汗水たらして刀を振りつづけ、一休みする。そこで柵ごしに足音が聞こえたので、なんとなく彼女はそちらに視線を向けた。
「あら!」
 驚きの声をあげたのも当然。何日か前に、トラメディノ湿原でアユミと遭遇したシンジだったのだ。
 アユミの声を聞き、シンジは脚をとめる。
「おはよう、シンジ君!」
「おはようございます」
 アユミはつかつかと柵へと歩みよる。
「ねえシンジ君。こないだはありがとう。トラメディノ湿原で助けてくれて」
「あ、はい」
 シンジの返答はそっけないが、命の恩人にアユミは構わず話す。
「あそこってホントにおっかない場所ね。あんなにアンデッドが棲みついているなんて思わなかったわ。シングさんともはぐれちゃって怖かったし。でもシンジ君が来てくれたとき、本当に助かったって安心できた」
「……」
「それと、私があの小屋で見つかった時に結界が張ってあったそうだけど、あれもシンジ君がやってくれたの?」
「はい」
「へー。シンジ君本当にすごい! 何でもできるのね! あのスペクターの群れから私をひとりで助け出してくれたなんて!」
 アユミは純粋に驚いた。しかしシンジは照れた様子すらみせない。この少年は感情表現が希薄なのだろうか。
 しばしの沈黙。さらりと風が吹いて周囲の砂を静かに巻き上げた後、アユミは真剣な顔で言った。
「ねえシンジ君。どうやったら、私に、貴方ぐらい度胸がつくのかしら」
「度胸ですか?」
「だってそうじゃない。深い霧の中、あなたは一人で私のところにいたのよ? 私、あの時本当に怖くて怖くて動くことさえできなかったのよ……」
 しかしシンジは愚問だと切り捨てる。曰く、どれだけ腕のたつ戦士や魔術師でも、ジャッジとの毛役なしに、あの湿原で単身生き残る術はない。自分がアユミを助けたのは、作業小屋が近くにあって、魔獣たちが少し遠くにいたからにすぎない。結界を張ったのも、昔教わったものを実践しただけに過ぎない。
「私は、単身であの湿地帯を抜けたいとは思いません。それでも用があったから単身であそこに行きました。アユミさんと遭遇したのもお助けできたのも、運が良かったからにすぎません。アユミさんに度胸をつける方法など、私にはわかりません」
 そっけない言い方である。アユミはしょげた。
「そっかあ。腕のたつ武人でもあの湿地帯を抜けるには度胸だけじゃなくって、運の良さも必要なのね。鍛えてればいいってことじゃないのかあ」
 アユミは自分の刀を見下ろす。さっきまで少しでも修練をつもうと素振りをしていたのに、急にそれがばからしくなってしまったのだ。
「いえ、修練を積むに越したことはありませんよ」
 シンジは首を振った。
「大切なのは、自分の技量を理解し、相手を計り、自分が勝てる相手かを知ることです。貴方の場合は、敵を倒すためではなく、今は自分の身を守るために修練をつむべきです。それと、今後はあの湿原の奥へは行かないようにしてください。ろくな目にあいませんよ?」
 それから彼は、回れ右した。
「あ、シンジ君?」
「申し訳ありませんが、そろそろ戻らねばなりませんので、失礼させてもらいます」
「あ……」
 アユミは言葉をかけようとしたが、シンジは足早に道を歩き、角を曲がって行ってしまった。
「また行っちゃった」
 アユミはため息をついた。
「もっと色々教えてほしかったけど……」
 去り際の、「今後はあの湿原の奥には行くな」と告げたときのシンジの顔を思い出す。真剣で真面目な、いやそれ以上に、気迫のこもった表情。まるで本当に「行くな」と告げているかのよう。いや、そのつもりで言ったに違いない。幼い頃のアユミが村外れの洞窟に獣を見にいきたいと言った時に、父が告げたときの表情そっくりだったのだから。
(変ね。どうして、さっきのシンジ君の顔、あんなに父上に似ていたのかしら?)
 そこでアユミはふと思い出していた。そう、シンジの顔は、父コウタロウの顔とよく似ていた。
「あんなに気迫のこもった顔してたから、父上の顔に似ちゃったのかも。でもあの湿原には確かに二度と近づきたくないわね……」
 アユミは気を取りなおし、素振りを再開した。

 ルピ山の美しい夕焼けは、確かに観光名所としてふさわしいものだった。アユミはうっとりとした表情で、くれゆく夕日を見つめていた。
「きれいねえ」
「ああ、綺麗だよ。もっとも、冒険者向けの観光名所だけどね」
 シングは何度か見ているらしく、言葉は少しそっけない。しかし彼の言う通り、アユミとシングの周りにいるのは武装した冒険者たち。夕焼けに感動しているのは、装備のわりと新しい新米と思われる者達ばかりだ。
「一般観光客用に道も整備されてて、護衛のクエストも出るようになったんだけどね。やっぱりルピ山はそれなりに危険だから、モンスターの営巣シーズンを避けてしか一般観光客を招待することができないんだ」
「そうなんですか」
「それに、ルピ山には昔からバンガ族とン・モゥ族の集落があってしょっちゅういさかいを起こしていた。僕がまだクランにいた間に争いがおさまって、それからは互いに協力し合うようになったらしいんだけどね。パブに依頼を出していさかいの助っ人を募集して、ちゃんと報酬も払って、戦う場所も決まっていたとはいえ、彼らが争いを起こしていた時期は、営巣モンスターよりも危険な連中とみなされていたんだよ」
「……」
「だから一般観光客用の道が整備され始めたのは、集落がそれぞれ和解した後なんだ。それだけでもルピ山を通る旅人は、営巣時期のモンスターに気をつけさえすえば、かなり安全になったんだ」
「どうして争っていたんでしょう?」
「さあねえ。僕はあいにく集落の出身じゃないからね。じゃあ、そろそろ山を降りよう――スリには気をつけるんだよ」
「は、はい」
 アユミがユトランドに来て一年目となる日、綺麗な夕日を見たアユミは道中のスリやチカンに気をつけながら緊張して下山した。
 冒険者用の夕日見学ツアーを終わらせ、山を降りると、麓の大きな旅籠に泊まる。冒険者たちがガヤガヤ騒がしく話す間、アユミもシングと喋りながら夕飯を取り、おやすみの挨拶をしてからそれぞれの部屋に入る。魔法の明かりがともされている一人用の狭い部屋の中、扉と窓をしっかり施錠したアユミはどさりとベッドに腰を下ろした。
「もう、一年も経っちゃったんだ。あっというまだなあ」
 カーテンをしっかり閉めてから、着物を脱ぐ。
「ずいぶんとほつれて汚れてきたわねー。替えの着物だってそうだけど」
 ユトランドに来てから今に至るまでのできごとを思い返す。あのときに比べれば、旅の知識や戦い方など少しは身につけたつもりだ。その間に、この着物も替えの着物も、手入れしてはきたけれど、さすがに裾や袖が擦り切れて汚れも出てきた。叔父シンイチを捜すという表向きの理由で旅をする合間にユトランドの観光もずいぶんとしてきたつもりだが、実際には「まだアユミさんには危険だから」とシングに連れて行ってもらえない場所だってある。
「冒険者としてはまだまだひよっこって所なのかしらね。ちょっとは成長したつもりなんだけど」
 幼いころからクラン活動に加わっていたシングに未熟者扱いされるのは仕方ないが、それでもアユミは多少不満であった。もう二十歳なのだから子供扱いしてほしくない、と。けれど、シングに比べればまだまだ自分は冒険者としては新米なのだ。仕方がない。
(いつかシングさんに一人前だと認めてもらいたいわ。もっと頑張ろう)
 アユミが決意を新たに眠ろうとしたところで、ベッドに横たわった彼女の脳裏に浮かぶのは、幾度も旅の間に会った、シンジ。シング以外に彼女を何度も助けてくれた。
 彼は一体何者なのだろう。見た目の割には落ち着きがあり、どこか近寄りがたい雰囲気がある。アユミと同じ郷里(くに)の出身らしいがもうその故郷はない、と彼は言っていた気がする。彼の刀術を見たことはないが身を守れるぐらいの技術はあるに違いない。一度手合わせしてみたいものだが、一人旅をしているようだし、きっと腕は彼の方が勝っているだろう。
(不思議な子ねー、シンジ君て……)
 アユミの意識はやがて闇の中に沈んでいった。

 トラメディノ湿原。
 ラミアが歌い、スペクターが飛び回る。どんよりした空気に満ちた夜空の下、ぼんやりした明りのついている一軒のあずまやが建っている。
「おやおや、そんなに心配かい?」
 女の声が響く。
「まあいいけどねえ……ふふ」
「……」
「今の立場、わきまえるんだよ。あんたはもうとっくに――」
「……」
 会話の後、やがてあずまやの明かりは消えた。
 そうして翌朝、アユミとシングが旅籠を発ったころ、トラメディノ湿原の霧深い沼地にひっそり建つあずまやの扉が開いて、シンジが出てきた。いつもどおりどんよりとした空を見上げてため息をつくと霧の中へ姿を消した。

 モーラベルラの町は、いつ訪れても寒かった。アユミはシングと共にポピーの情報屋を訪れた。シングの集めた魔獣のおたからを、店長のポピーが飼っているベヒーモスに渡すためだ。
「そういえばアユミさん――」
 シングが店の奥へ行ったところで、店長のポピーが問うて来た。
「叔父さまは見つかったのクポ?」
「いえ、まだです」
 アユミはちょっとため息をついた。
「そうなのクポ。それは残念クポ。モグの店にも、目撃情報はひとつも入ってきてないのクポ」
「そうなんですか。やっぱり叔父上はユトランドを出てしまったのかしら」
 叔父シンイチほどの知名度になれば、ユトランドを去る時も情報が入って来そうなものだが、情報屋がそれを知らないという事は、実際には内緒でユトランドを去ったか、まだユトランドにいるかのどっちかのはずだ。しかしアユミはそう深く考えず、ポピーの言葉に、しょげかえるだけ。
「まあまあ、アユミさん、そうくよくよしないのクポ。おたくのお国だと『便りの無いのは良い知らせ』ということわざがあるはずクポ」
「ええ」
「きっとクラン解散後は自分の脚で各地を見てみたくなって、おしのびで旅をしてるんじゃないのクポ? モグは情報屋だから裏の取れない不確かなことは言わないけど、これぐらいなら言ってもいいクポ」
 なぐさめの言葉をアユミは素直に受け取った。


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