第1章 part1
液体の排水音。
透明なオレンジ色の液体が、少しずつ筒の中から出される音。それに伴い、装着されていた酸素供給マスクと、へその緒を模した栄養チューブが取り外される。排水完了と同時に重力が体を支配し、立ち損なってその場にへたり込む。筒が下がり、外の空気が肺に流れ込む。慣れない外気に思わずむせた。酸素供給マスクから絶えず供給される酸素とは少し違う。不純物が混じっているのがすぐ分かったくらいだ。
咳が収まると、改めて周りを見る。明るい電気の光に照らされた、この筒の周りを囲んでいるのは、白衣を着た年配の研究者達。そしてもう一つの顔。
研究者達よりも頻繁に、何度もここに足を運んできていた顔。
相手から差し出される右手を、何も考えずに握り返した。
「誕生おめでとう」
「誕、生……」
複製体の生成および複製体の有する生存権および基本的人権について。
1.複製体の生成には、政府発行のチケットを所有する者のみを対象とする。
2.全ての複製体は、遺伝子提供者の保護下に置かれるものとする。遺伝子提供者は複製体の親権を持ち、いかなる場合があってもこれを手放してはならない。
3.全ての複製体は、遺伝子提供者と等しい生存権および基本的人権を持つことを保証される。
複製体。俗にクローンと呼ばれる。遺伝子提供者。俗にオリジナルと呼ばれる。
クローンに関する法律が出来たのは、五十年ほど前。しかし、クローンの絶対数は極めて少ない。誰でもクローンを生成できるわけではなく、政府がクローン生成の申請者を入念に調べ上げた上でチケットを発行して初めて、生成の許可を与えられる仕組みになっているからだ。政府直下の遺伝子総合研究所でチケットとオリジナルの遺伝子を使い、ヒトの胎児が母の胎内で成長するのと同じくらいの時間をかけてクローンを生成する。生まれたクローンには名前がつけられ、戸籍を与えられて、オリジナルの保護下に置かれる。オリジナルはクローンの親権を持つので、クローンはオリジナルの「子供」という扱いを受ける。また、外見上は両者ともに瓜二つであるため、クローンの首筋にはバーコードが刻まれている。政府がクローンの管理を行うためと、オリジナルとの判別をしやすくするためである。
八月下旬。まだまだ暑さの残る月だ。時折吹いてくる涼しい風で、早朝はあまり暑くはないが、昼前には急激に暑くなる。
土曜日の朝九時。
欠伸をしながら階段からおりてくる、少し猫背気味の男。
「やあ、おはよう」
リビングから声が聞こえる。そこには、階段から降りてきた男と寸分違わぬ顔の、双子の兄弟かと思われる男が新聞を読んでいるところだった。だが、この男の首には、バーコードが刻まれている。彼はクローンだ。名をJr.と言う。「息子」という意味だ。
「おはよう、Jr.」
眠そうな目をこすり、オリジナルは答える。名をスペーサーといい、若干二十五歳にして、政府直属の遺伝子総合研究所の研究員の一人である。僅か十六歳で研究員に抜擢され、今に至るまで、遺伝子レベルでの一部の病の根絶など数々の業績を上げてきた稀代の天才ともいえる男だ。研究熱心ではあるが、一方で、研究に熱中しすぎて現実感を若干喪失しており、いつでもどこでも考え事をする癖がついている。
新聞をテーブルに置いて、Jr.はキッチンへ入る。代わりにスペーサーは新聞を取る。
「パンならトースターに入れてあるよ? 要らないなら僕が食べるけど」
「要るから、食べないでくれ」
「うん。で、なに食べる?」
「好きにしてくれ」
「わかった」
言われて、Jr.はトースターのスイッチを入れ、冷蔵庫から卵を取り出した。
Jr.は、七年前に生み出されたクローンである。スペーサーの研究の助手として生み出されたので、オリジナルと同等の生物学、遺伝子工学の知識を持っている。知識を遺伝させる事は不可能なので、一度データ化させてクローンの脳に注入して覚えさせる。これはスペーサーが開発した技術だ。一から教えるよりも何倍も効率が良いため、現在のクローン生成にも取り入れられている。クローンは、生み出されたときは技術も知識もなにも持ち合わせていない、赤子と同じ状態なのだから。Jr.はこの技術の最初の実験体でもあり、この技術は成功している。生まれてすぐに言葉を話したのだから。
しかし、クローンとオリジナルの性格は必ずしも一致しないし、データ化させることもできない。常識や性格や個性は後天的に身につくものではあるが、知識とは違って、データ化できない。環境とオリジナルがクローンの人格形成に大きな影響を与える。食べ物の好き嫌いや服の好みなど些細な事すらも影響されるのだ。置かれた環境次第でクローンは善人にも悪人にもなる。この地域には子供が多いせいか、子供たちに囲まれて生活してきたJr.は、スペーサーの目から見れば、いささか子供じみたところのあるクローンである。
「できたよ」
「ありがとう」
Jr.は、スペーサーが遅めの朝食をのんびり取っている間、洗濯物を集めて洗濯機にかけ、部屋を掃除する。
一連の家事が終わってから、リビングで天井を見つめてぼんやり考え事をしているスペーサーに言った。
「ちょうど時間だし、たまには一緒に買い物行かないか? 気分転換にもなるし」
やってみようかと思っている研究のイントロで詰まっていたのは確かだったので、たまには気晴らしもいいかと考え、スペーサーは腰を上げた。
「たまにはいいか」
彼らの住居は商店街から少し離れた所にある。数分歩けばすぐに商店街のゲートをくぐる。
ちょうど店の開く時刻。気温が上がって暑いためか、客はあまり外を歩かず、さっさと手近な店に入っていくのが見える。直射日光を遮る屋根はあるが、今日はあまり風がないようだ。だから暑い。
Jr.は、書店の前で立ち止まって考え事にふけようとするスペーサーの腕を引っ張って、食料品店へ入る。自動ドアの向こうから冷房の冷たい風が吹いてきた。一気に涼しくなったが、しばらくすると少しばかり寒気を感じた。
「おや、Jr.ちゃん。いつもありがとね」
店の女将がJr.を見つけ、声をかける。長年の様々な野菜運びで鍛えられた、ずんぐりした体型の熟女で、この地域の町会長でもある。なぜかJr.を気に入っていて、去年のバレンタイン・デーに彼が買い物に来たときは、直径三十センチの手作りチョコレートケーキをホールまるごとプレゼントしたくらいだ。「ホワイト・デーのお返しは気にしないで」のコメントつきで。
「おや、今日はもう一人も一緒かい?」
「え? ええまあ、たまにはいいと思って」
スペーサーとJr.は、文字通り瓜二つだが、二人を並べれば判別するのは容易だ。スペーサーはここ数年で視力が急激に低下したため、眼鏡を使っている。対してJr.の視力は2.0のまま。そのため、眼鏡をかけていないほうがJr.だとすぐ分かる。
Jr.は女将に挨拶すると、スペーサーの腕を引っ張った。そうしないとどこかに立ち止まって考え事を始めてしまうからだ。オリジナルのこの困った癖を、腕を引っ張って気を散らしてやることで辛うじて回避している。
「何食べる?」
今日は安売りの日。色々な野菜につけられた値札には、赤い文字で「15%割引」と書かれている。野菜料理がたくさん出来そうだ。しかし、何を食べたいかと問われても、普段からJr.に献立を任せきりにしているスペーサーは、野菜を見ても、何も思いつけない。
ふと、カボチャに目を留める。
(うーん。これは、少し改良してやればもう少し大きく育ちそうだな。しかし、代償として味が悪くなるのと、栄養素が変化してしまうから食べるにはむかなくなるかもしれないな。量より味をとるなら、このままの方が美味そうだ)
彼がカボチャを見つめているのに気づいたか、Jr.はポンと手を叩く。
「たまにはカボチャの煮物もいいか」
コンコンとカボチャをいくつか軽く叩いてみて、気に入ったものをカゴに入れた。結局は献立を決めるのはJr.なのだ。
それから色々な野菜をカゴに放り込み、他に必要なものも同じくカゴに入れる。会計を済ませて店を出た。
次に向かったのは、プラモデルの専門店。開店時間をほんの僅か過ぎているにも関わらず、店の中からは何人もの子供たちが箱を抱えて出てくる。丁寧に包装されたプラモデルを、まるで宝箱のように大事に抱えている。
「ちょっと、待ってて。すぐ戻る」
Jr.はスペーサーを店の外で待たせ、店内に入る。数分後に戻ってきたが、その腕には、子供たちの持っていたものと同じ箱を抱えている。
「何が入っているんだ?」
じりじりと照りつけられていたスペーサーは、額の汗を拭って、Jr.に問うた。Jr.は嬉しそうに言った。
「何って、今日発売の飛行機のプラモデル。このメーカーのは人気あるから、予約しないと手に入らないんだ。精密だし、部品も丈夫だし、大きさとしても収納に申し分ないし――」
歩きながらの、プラモデルの講義が続く。
元々、Jr.はスペーサーの研究の助手として生まれたが、彼が興味を示したのは研究ではなくて、プラモデル。今ではすっかり、研究の助手というよりはプラモデルの収集家兼家事担当に変わってしまっている。もちろん、部屋の中は、大なり小なり、様々なプラモデルが飾られている。
「この型と大きさなら棚にきちんとしまえるし、手入れにもあまり手がかからないんだよね。だから――」
スペーサーはJr.の腕を引っ張る。話に夢中で前を十分に見ていなかったJr.は、あやうく電柱に体をぶつけるところだったのだ。
「あ、ごめん」
「しっかりしてくれ」
何かに夢中になると周りが見えなくなるのは、二人とも共通しているようだった。
商店街からの帰り、別方向にある公園へ向かう子供たちと出会う。夏休みの終わりを迎えた子供たちは最後の遊びに一生懸命。何人かはラジコンを持っている。これから公園で走らせるのだろう。何人かがJr.を見つけて声をかける。
「あ、Jr.兄ちゃん」
もちろん、血がつながっているわけではないが、Jr.は子供たちから実の兄のように慕われている。
まだ十にも満たない子供が多いので、Jr.はかがんで子供たちと目線を合わせる。
「あ、このラジコン、新型が出たんだね」
「うん。公園で動かすの」
嬉しそうな子供たち。車型のラジコンと戦闘機型のラジコン。封を開けたばかりの、独特のプラスチックのにおい。
「走らせるのはいいけど、人に当てちゃ駄目だよ。ラジコンだと言っても、頭にぶつかったら、痛いだろ?」
「うん。わかってる。あれは痛かったよ」
子供の一人が頭をさすった。どうやらラジコンの体当たりを食らった経験があるらしい。
子供たちの何人かはJr.と楽しそうに話をしているが、少し離れた所にも子供が数名いるのを、スペーサーは目に留めた。Jr.とスペーサーを交互に見比べている。そして、どこか不審な目つきでJr.を見た。
(クローン専用の法律があるとはいえ、偏見はそう簡単になくなるわけではないからな……)
スペーサー自身、クローンの研究に携わっているのと、自分のクローンが身近な場所にいる事から、社会に出るクローンがどのような目で見られるかは、レポートや実体験を通じて、大体分かっている。クローンと分かっていてそのまま受け入れる者、異質なものとしてクローンを排除しようとする者、クローンそれ自体を無視する者。
一番の問題は、クローンを「偽者」と呼ぶ者がいることである。オリジナルの遺伝子を用いて生成される存在であり、母の胎内から生まれ出るのとは違う。顔や姿は瓜二つでも、明らかにクローンはオリジナルとは別個の存在。双子それぞれに名前があるのと同じように、クローンも名前を与えられる事でオリジナルとの差別化が行われる。名前を貰うという事は、一人の人間として扱われるという事なのだ。そして「偽者」という言葉は、クローンをオリジナルとは別個の存在とみなしているという事にもつながるとはいえ、クローンたちをいい気分にさせるものではない。
(馬鹿らしい。生まれる方法は違えど、クローンは一個体の生命体。クローンが「偽者」なら、双子のどちらかが「偽者」と言っているのと同じではないか。双生児は天然のクローンと定義されているというのに)
やがて子供たちはJr.に別れを告げて、公園に走っていった。
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