第2章 part1



 休みが明け、スペーサーはいつもどおりJr.に起こされる。日曜日であっても一日中机に向かっていたのだ、深夜過ぎまで起きていたため、朝に起きられなくなっている。
「ほら、起きて!」
 休日は好きなだけ寝かせておくが、平日はそうも行かない。乱暴に揺さぶられて、スペーサーはやっと起きた。寝ぼけ眼をこすってベッドの上に座り込む。
「えー、もう朝……?」
 時計は、朝の六時半を指している。
「また徹夜スレスレまでノートとにらめっこしてたんだろ? それより、今日は早く行くんじゃなかった?」
 言われて思い出す。今日は、研究所の所長から、いつもより早く来てくれと言われていたのだ。
「そうだった! 七時半までに行くんだった。もっと早く起こしてくれ!」
 スペーサーの眠気はいっぺんに吹っ飛んだ。彼を起こす前にJr.が準備してくれていたのか、タンスの前にかけられている服を慌てて着る。
「起こすも何も、僕は六時ごろからずーっと君を呼んでいたよ。けど、生返事ばっかりして起きてこなかったじゃないか。あ、鞄なら、リビングに置いてあるから――他に何か入れるものはある?」
「ああ、それなら、デスクの上のノートを……」
 部屋を出て階下へ降りる前に、スペーサーは慌ててJr.に告げた。
「あ、ノートとついでに、赤いファイルに入れてある書類も頼む」
「ノートと書類ね。わかった」
 Jr.は、焦るスペーサーとは反対にのんびりと、必要なものを持って階下へ降りた。ノートと書類入りのファイルを鞄に入れ、玄関まで持っていく。朝食を取る暇もないまま支度だけすませたスペーサーは、Jr.に簡単に礼を言うと、Jr.の用意した弁当と鞄を引っつかみ、これまた慌てて家を飛び出した。
「いってらっしゃーい」
 Jr.は、そのあわただしい出勤を見送った後、新聞の折り込みチラシの中に入っていた葉書らしき紙を、破って捨てた。

 遺伝子総合研究所まで、制限速度十キロオーバーで車を走らせたスペーサーは、駐車場にとめた後、転がるように車を降りて、研究所へ飛び込んだ。
「ま、間に合った……」
 正面玄関にかけられた大時計は、七時十五分を指している。
 額の汗を拭って、白衣の襟元をととのえなおした後、鞄を持って所長室へ向かう。既に鍵が開けられている。ドアにつけられた曇りガラス越しに、部屋の中に人のシルエットが見える。所長だろう。ノックすると、中から返事が聞こえた。
「失礼します」
 スペーサーはドアを開けて中に入った。
 歳は六十を越えたであろう、若干、肥満気味の小柄な男・ボルト。背丈はスペーサーの頭一つぶん低い。頭は禿げ上がっている。
「おお、来たな」
 ボルトはどこかずるそうな笑みを浮かべている。スペーサーはこの笑みがどうも好きになれない。
「どうかね、研究のイントロは?」
 所長は、部屋の奥からつかつかと歩み寄ってくる。スペーサーは、書類入りファイルを取り出し、ボルトに渡す。ボルトは書類をめくり、読む。
 しばしの沈黙。
「こいつは斬新な考え方、すばらしい! さすが、わしの見込んだ男なだけあるのお! これこそわしの望んだ研究の出だし!」
 悦にいっているような、裏返った声。スペーサーは耳障りな声だと、内心で嫌悪の声を漏らす。
「これからもこの研究を続けてくれたまえ。君ならやれるとも! 期限は問わないからな、頼むぞ」
「わかりました」
 スペーサーはそっけなく返事する。スペーサーは、やりたいように研究をさせてくれるならば好きなだけ没頭するが、誰かに言われてやりたくもない事をやるというのが好きではない。もっとも、いくら彼が稀代の天才だとて、そんなわがままが通用するほどこの遺伝子総合研究所は甘くないが。
 書類を返してもらった後、スペーサーは、割り当てられている研究室に入り、Jr.から持たされている弁当の包みを開ける。朝食抜きで飛び出してきたので、少し食べようと思ったのだ。
「おや」
 いつもより量が多い。添えつけられた別のボックスには、ロールパンの背を割って具をつめたサンドイッチが詰めてある。そして、走り書きのメモが添えられている。
『朝食用』
 何度呼んでもスペーサーが起きてこないとわかった時、Jr.が、自分で彼を起こしに行く前に作ったのだろう。
「なるほど。ありがたくいただくか」

 掃除と洗濯と買い物を済ませ、Jr.は休憩していた。早くも気温は三十度を越え、外へ出るだけでも汗だくになる。氷を浮かべたアイスコーヒーを飲みながら、彼は改めて新聞を取り上げた。朝はバタバタしていて、ゆっくり読む暇がなかったのだ。『熱中症や日射病、脱水症状での死亡者多数』の一面を下へ読みすすめて、二面に移る。そのトップに載せられている記事を読んでいくJr.の表情が少し暗くなる。
『クローン、脅迫者を殺害…「俺は偽物じゃない、人間だ!」』
 クローン悪用禁止の法律が作られているにもかかわらず、オリジナルがクローンを自分の身代わりにしたり、クローンが第三者から嫌がらせを受ける事件があとを絶たない。Jr.もまた、例に漏れず、誹謗や中傷だらけの匿名の手紙を何度も送りつけられている。どの手紙や葉書にも、似たような言葉が、不吉な赤いインキで書き連ねてあった。偽物、人形、つくりもの――。感情論しかない言葉ばかりだったが、中には生物学の知識を持つ者――Jr.から見れば基礎中の基礎程度――からの手紙もあった。クローンを非難する手紙は数あれど、擁護する手紙などない。もう慣れっこになっていたJr.はその手の手紙が届くたびに、読まずにゴミ箱へ捨てていた。
「はあ」
 読み終わった新聞を片付け、Jr.はキッチンへカップを洗いに行った。

「おかしい。何か足りない……」
 ボルト所長から依頼された研究はそっちのけで、自分の書いたノートと、目の前に置かれた実験器具を交互に見ながら、スペーサーは唸っていた。昨夜はこのノートに色々と書き込みをしていたとき、「これならいける!」と思ったのだが、実際に器具と薬品を使ってあれこれ合成してみても、うまくいかない。薬の成分の完成に、何かが不足しているのだ。
「うーん。一体何が……」
 研究室から出て、トイレに行くついでに考え事をする。
(何か、刺激物のようなものでもないと駄目なのか? 足りない成分を補うには、急激に元の成分を変化させることのできる衝撃的なものが必要なんだが)
 考えながら歩いていると、いきなり片手に、刺されたような激痛が走った。何かと思って、痛む右手を見ると、そこには、スズメバチがいた。
 気づくと、彼はとっくにトイレの場所を通り過ぎて、渡り廊下に出てしまっていた。しかもちょうどスズメバチの営巣の季節に入っていたので、そこそこ大きめの巣が渡り廊下のそばに作られている。今日駆除されるはずの、大きさ二十センチにもなったスズメバチの巣にうっかり近づいてしまったため、刺されたのだ。
「まずい!」
 スペーサーは慌てて手のスズメバチを振り払い、Uターンして渡り廊下から研究所のドアの向こうへ飛び込んでドアを閉めた。防弾ガラス製のドアの向こうで、二十匹ほどのスズメバチがドアに体当たりを仕掛けているのが見えた。
 ほっと息を吐き、トイレに向かう。傷口を水で流しながら、彼は手のズキズキする痛みをこらえた。
(後で毒抜きをするか)
 ついでに用を足して、医務室へ行く。刺された痛みが半端でないのと、傷口付近が腫れてきたからだ。
 痛む右手の代わりに、左手で医務室のドアを開ける。ドア開閉用のボタンが壁の右側についているので、左手では押しにくい。
「ああ、刺されたのかい?」
 医務室に勤務している初老の医師は、彼の右手の傷口を見て、言った。
「この時期は多いんだよ、ハチにやたらと刺されるんだ。渡り廊下の巣だろ? いいかげん何とかしようと思って専門家に連絡したんだよ」
「まだ専門家は来ていないのか……」
「そうらしいねえ。あんたが刺されてるんだからな。おや、これは毒の洗い出しが足りんな――」
 そこで、医務室に緊急コールが入る。どうやら研究員の一人が、薬物の実験中に酸欠で倒れたらしかった。医師は、スペーサーのことなど眼中にないかのように、周囲の器具を取りまとめて鞄に突っ込み、急いで部屋を出て行った。
「……どうしろと言うんだ」
 医務室にほったらかしにされたスペーサーは、毒の洗い出しが足りないと言われた事を思い出し、とりあえず、医務室の隅にある洗浄用シンクで、また手の傷口を水で流し始めた。蜂の毒については、彼は門外漢だった。
(昆虫図鑑でも借りるか……)
 それから三十分後、医師が医務室に戻ってきたときには、スペーサーはもういなかった。腫れた傷の痛みをこらえながら、書庫に向かっていたのだから。
 しかし、書庫を探したが、該当する図鑑も辞典も何もなかった。もっぱらヒト専用。
「役にたたんなあ」
 スペーサーは自分の研究室へ帰り、やりかけの作業を再開した。利き手がスズメバチに刺されているので、どうしても作業の一部に左手を使わなければならず、ボタンを押すだけで済む操作以外は苦戦する羽目になった。ペンを左で上手く握れず、メモを取る事すら不便に感じたほどだった。
 日常の研究と、別に時間を割いている所長命令の研究。並行して進めている状態だが、今日はこのどちらも、進捗が大幅に遅れることになりそうだった。

 夕方の六時過ぎ。
 スペーサーの帰りは、大概六時頃になる。まるで計算でもしていたかのように、ほぼ六時に帰ってくるのだ。が、帰ってこないときは、研究所でそのまま作業を続けるということ。連絡を入れてこないのは、遺伝子総合研究所が外部への情報流出を防ぐために非常災害時を除いてあらゆる電波をシャットアウトするつくりになっているからだ。外に出るにも外出許可証が要る。スペーサーはその手続きをするのが面倒なので、六時を過ぎても帰ってこなければ、今日は帰れないと思って欲しいとJr.に既に伝えてある。
 さて、どこかどんよりとしてきた曇りの空を眺めながら、Jr.は自分の夕飯を作っていた。
「雨のにおいがする……。そういえば、スペーサー、傘持って行ったっけ?」

「しまった……持って来てなかったな」
 スペーサーは自分の荷物を調べ、落胆した。
 研究室の窓の外は激しい雨が降っている。
「あんなに晴れていたくせに、いきなりこれか」
 帰るときに備えて傘を探していたのだが、なかった。車の中に置いてあるとも思えない。置いてあったとしても取りに行くのは少し面倒。
「まあ、どのみち、作業はまだまだかかるんだ。夜のうちに雨が止むかもしれないし、誰もいないほうが作業を心置きなく行える」
 スペーサーは鞄を閉じた後、目の前に置かれた装置だらけのデスクに目をやる。様々な種類の薬品がビーカーや試験管に満たされている。その実験装置の先には、数錠のカプセルが置かれている。
「一応サンプルとして作ってみたが、未完成だからなあ」
 カプセルの内部には、非常に小さな粒に凝縮された様々な成分がつまっている。
「しかし、まだ痛むな、この傷」
 未だにスズメバチに刺された痕はズキズキ痛み、腫れもひどい。傷口を水で流した程度では十分な手当ではないからだ。この研究所内の者は、彼以外、全員帰宅している。今この研究所にいるのは、彼一人だけ。だから改めて医務室に行って手当してもらおうにも、病院へ行かない限り、十分な毒抜きが出来ない。だが、彼は手当てのことをすっかり忘れており、時折水で傷口を冷やしてはいるがそれ以上のことはしていない。
「理論上は、この成分で合っている。解決すべき事は、この薬を服用した際に、どんな刺激をカプセルの成分に与えれば作用を引き起こせるか、だな」
 カプセルを手の中で転がす。
「さて、このカプセルの実験は何で行うべきか……」
 この研究所内に、実験体となるべきモルモットはいない。別の施設にいるのだ。しかもこの時間帯。もう既にその施設は閉まっている。ヒトを使うわけにも行かない。この研究所の規則として、薬物の実験にヒトやクローンを使うことは禁止されている。
「最も身近で、最も観察のしやすい、なおかつ外部に簡単に秘密を漏らす事のないような実験体が必要だが……」
 スペーサーの中に、一つの考えがよぎる。が、その顔には、迷いがあった。
「しかし、『これ』が失敗したときは、どうすれば――」
 暫時の沈黙。雨が窓に叩きつける音と、時計の秒針が時間を刻む音だけが響く。
 外で雷鳴がとどろき、室内を一瞬眩しく照らす。何か迷っていたようだったスペーサーだが、稲妻の音で迷いを断ったようだ。
 スペーサーは一度カプセルを左手でぐっと握り締める。そして彼は、カプセルを、自分の口に入れた。


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