第2章 part2
カプセルを飲み込んで数秒ほど経つと、全身がすさまじい熱を帯びたように感じた。目が回り、体から力が抜けて、立っている事すら困難になる。熱が引いた途端に今度は全身を引き裂かれるような激痛が走り、骨がボキボキと音を立てる。激痛に耐え切れず、彼は思わず床に倒れこんだ。
全身の激痛、朦朧とする意識、暗くなる景色、小さくなる音。
真っ白な視界と、続いて訪れる轟音。落雷だ。どうやらこの研究所近くに落ちたらしく、外部から電力を供給しているこの研究所の電気は全て消え、一時的に非常電力に切り替わる。
研究室の中は、弱いオレンジの光で照らされる。そのオレンジの光の下で、服用したカプセルによって、ある作用が引き起こされていた。
胴体が異常にくびれて「くの字」になる。胴から一対の腕が伸びて、同時に四肢の形が大きく変化する。細くなり、硬くなり、奇妙な方向に曲がる。目の前に映るものが一瞬だけ歪み、続いて急に目の前がモノクロに変わる。オレンジの光が見えなくなったのだ。頭部が大きく変化し、顎が割れ、目が顔の横に広がって大きくなる。最後に、異様なまでに大きな翅が背中から伸びて、作用は終わった。
この激痛が治まるまで、一分ほどしかかからなかった。だが、その一分の間に起こった出来事は、彼には何時間もの出来事に感じられたほどだった。床の上に横たわっていたスペーサーは、意識がはっきりするまで動けなかった。カプセルを服用した自分に何が起こったのか、分からなかったからだ。少なくとも、目の前の景色の色が変わったことは明白だ。オレンジの光が見えない。白黒の景色だけしか見えないのだから。
熱が引いて、だいぶ楽になってきた。スペーサーは起き上がろうとして、片腕を動かす。
「?!」
自分の目を疑った。
目の前にあるのは、確かに自分の腕のはずだった。ちゃんと服を着ているのだから、間違いはない。だがその腕は、ヒトの腕ではない。何かの昆虫の腕だった。
(な、何だこれは……?)
彼は起き上がるのを止め、体を仰向けにする。
二対の腕、一対の足。だがその手足は間違いなく、昆虫のもの。異常なまでにくびれた胴と、異常なまでに長く伸びた腹部。そしてその腹部についた縞模様と、体の下から見える薄い翅、頭部から伸びているらしいワイパーのようなモノ。
自分の体が何か得体の知れないモノに変わっている。いやいや、一応この姿の想像はつくのだが、今の彼には受け止められない。直接自分の目で見てみなければ――。
起き上がってみるが、二足歩行に適していない体らしく、四つんばいにならなければならなかった。この部屋に鏡はないはずなので、物を映せる窓ガラスに向かって進む。背中の翅が邪魔くさい。デスクに当たる。
それでもやっとのことで窓にたどり着き、まだ窓の外に雨が打ち付けているのを見る。幸い、動体視力は残っている。窓の枠に、腕の鉤爪をひっかけて、よいしょと窓ガラスに身を乗り出す。
稲妻の光。続いて訪れる雷鳴。耳をつんざくほどの音であったが、今の彼には雷鳴などどうでも良かった。彼は目の前の、ガラスに映るモノに釘付けになっていたのだから。
稲光の白い光に照らされたガラスに映っているのは、ヒトではなかった。
巨大な、スズメバチの頭部。
再び意識が戻ったとき、彼は、窓の側に倒れていた。外から、鳥の声が聞こえ、室内に太陽の光が差し込んでいるのが見える。室内はモノクロではなく、ちゃんと色がついていた。
起き上がると頭痛がする。思わず額に手を当てる。
「!」
彼は手を見た。
ヒトの手。
「?!!」
自分の体に触れる。翅も、余計な脚も、異常なまでにくびれた胴も、ない。ヒトの姿だった。これを確認するために、また、窓を覗き込む。雨は夜間のうちに止んだようだ。早朝の弱い光が窓に当たり、窓に映るものを彼の目に見せる。そのガラスに映るものを見たとき、彼は危うく声を上げて泣きそうになった。
見慣れた自分の顔が、そこにあった。スズメバチの顔ではない、自分の顔。
「元の顔だ……!」
彼は脱力して、ずるずるとその場にへたり込んだ。安堵した。昨夜のあの出来事は皆、薬を飲んだ彼の幻覚だったのだろうか――。
体に改めて目を落とす。驚愕と焦りの表情が浮かび、冷や汗が背中を滑る。
服が破れている。ワイシャツ、ズボン、白衣。一対の腕が生えた箇所、下腹部が異常にくびれて伸びた箇所、翅が生えた箇所。
「あれは、夢じゃなかった……」
喜びもつかの間、スペーサーは、青ざめていた。
スペーサーが帰宅したのは、早朝五時半。研究所で寝泊りする事も多い彼にとって、この時間帯に帰るのは別に珍しい事ではない。Jr.もそれを知っているので、起きてくるのはいつもどおりだ。
そっと鍵を開けて家に入る。忍び足で階段を登り、廊下をそっと歩いて自室に入る。部屋のドアをそっと閉めた後、彼はほっと一息ついた。
「さて、どうしたものかな」
スペーサーは、今着ている服を見る。スズメバチへの変身の際に、破れてしまった服。どう繕っても、直すのは難しいだろう。この破れ方を見てJr.が何と言うだろうか。こんなおかしな破れ方など普通はありえないのだから、怪しまれるに決まっている。裾や袖をどこかにひっかけて破ったのならばまだ納得してくれるだろうが、この派手な破れ方についてはどう言い訳すればいいのやら。
「うーん……」
「処分したって?」
どこか疲れた顔のスペーサーに朝食を出しながら、Jr.は調子はずれな声を上げた。
「ああ」
Jr.が起きてくる前に冷たいシャワーを浴びて眠気を払ったスペーサーは、コーヒーを一口飲んで、息を吐いた。
「実験の最中に、うっかり薬を服にかけてしまって、急いで脱いだはいいんだが、薬のかかった部分のシミがすぐに広がって、中和も出来ない状態になってしまって」
「で、処分したわけ?」
Jr.は半信半疑の表情で自分の席に座って、向かいのスペーサーに疑いの眼差しを向けた。スペーサーは何とかごまかそうと、話を締めくくろうとした。
「そういうわけだ。夜間の眠いときにやったせいだろうな」
「で、君は研究所で服を処分した後、何にも着ないで帰ってきたわけ?」
「馬鹿なことを言うな!」
赤面したスペーサーはテーブルを叩いていた。
それからあれこれ言って、何とかJr.を丸め込んだものの、まだ怪しまれている事は明白であった。が、Jr.はそれ以上追求してこなかったので、スペーサーはほっとした。
朝食の後、いつもどおり弁当を持たされ、鞄に必要なものを詰めなおす。
「ああ、そうだ。今日も研究所に泊まるから」
それだけJr.に行って、彼は車に乗り込んだ。
一番に研究所に着き、スペーサーは自分の研究室へ入る。デスクの上の器具はほぼ片付けられている。
彼は、デスクの引き出しを開ける。そこには、昨日作り出した薬が二粒転がっていた。
(あのスズメバチ変身を引き起こした『何か』があるはずだ。未完成だったあの薬物の成分の中にないとすれば、おそらく私の体の中にあるはず)
右手を見て気がつく。
スズメバチに刺された痕が、きれいに治っていた。
(こんなに早く治るものではないはず……)
部屋が暑いのでエアコンをいれる。知らない間に汗だくになっていたので、顔を洗いに行く。右手を気にしながら歩いていると、また歩きすぎて渡り廊下に出てしまった。
『どこ? どこ?』
誰かの声が聞こえ、スペーサーは手から顔を上げる。
渡り廊下には誰もいない。彼だけしかいない。
『どこ? 巣はどこ?』
巣?
スペーサーは思わず周りを見渡した。巣といえるものはない。昨日彼が見つけたスズメバチの巣は駆除された後だった。
虫の羽音が聞こえる。じっと立って耳をすませていると、やがて、彼の近くを一匹のスズメバチが通った。
『巣、どこ?』
スペーサーは気づいた。
スズメバチが喋っている。
『ん? 何だろう、このニンゲンは』
スズメバチが彼のほうへ飛んでくる。刺されるのではないかと、思わず彼は固まった。スズメバチは彼の顔の周りを飛んだ後、首筋に止まる。
『何でこんなところに突っ立ってるんだろう?』
動いたらスズメバチを刺激してしまう。スペーサーは動けない。
『なあんだ、ただ突っ立っているだけね』
スズメバチはやがて彼から離れて飛び始めた。
『いやねえ、ニンゲンて。勝手にアタイの作りかけの巣をどっかへやっちゃうし、いきなり巣をつついていたずらまで仕掛けてくるし。ニンゲンて最悪な連中だこと』
「何だって?」
スペーサーは思わず口を開いた。その声に反応して、彼から離れかけたスズメバチが、また戻ってきた。また顔の前を飛ぶ。
『……喋ったの?』
「そうだ」
スペーサーはスズメバチに対して喧嘩腰で言う。刺されても、いざとなったら叩き潰せる小さな相手なのだから。
スズメバチは言った。この口調からすると、メスの蜂らしい。
『あんたなの? 巣をどこかへやっちゃったのは』
「私じゃない。ほかの人間だ」
『……言葉わかるの?』
「わかる」
スズメバチは、彼の周りをぐるぐると飛び回る。
『あんた、仲間のニオイがする』
「ニオイ?」
スペーサーは首をかしげる。ちゃんとシャワーは浴びたつもりだが……。
スズメバチは、彼の肩に止まる。
『あんた、不思議なニンゲン。ニンゲンなのにニンゲンのニオイがしないなんて』
「わかったから、どっか行ってくれ。刺されたくない」
『冷たいねえ、ニンゲンて。誤解してるようだけどさ、よっぽどのことがないかぎり、アタイらはニンゲンを刺しはしないんだから』
スズメバチは彼の首筋に這い登り、触覚を擦り付けてきた。スペーサーは身を翻して建物の中へ戻った。トイレの手洗い場で洗顔して冷や汗も流した後、研究室に戻る。
部屋に入ると、涼しい風が吹き付けた。
『あら涼しい。アタイの巣よりも涼しいわ』
スズメバチは早速彼の首筋からはなれ、エアコンの近くの壁に止まる。風がちょうど来るところだ。
スペーサーはハチを放っておいて、椅子に座る。
(急にハチの言葉がわかるようになったな)
昨日の出来事を回想する。朝、スズメバチに刺された。その後、傷口を水洗いだけして、それ以上の手当はしなかった。夜に、できたばかりの試験段階の薬を飲み、スズメバチに変身した。
(ハチ毒があの薬の成分に作用を起こしたと考えるのが普通だな)
腫れのひいた右手は、普通に使えるようになっている。
デスクの引き出しの中の、カプセルを見る。
(もう一度、試してみなくては)
深夜前。弱いオレンジの光がともる研究室。
『あれ? あんた何してるの』
スズメバチは、デスクの上に置かれたゼリーを舐めながら、スペーサーのやっていることを眺めている。何をしているのかといえば、彼は部屋の電気を一旦オレンジのライトに切り替えた後、昨日服用した例のカプセルを出し、変身に備えて服を脱いでいた。今日も研究員は、彼を除いて皆帰宅してしまった。誰にも見られる心配はない。
(抗体が出来て作用が引き起こされないかもしれないが、試してみるか)
彼はデスクの上のカプセルを一つ手に取り、飲んだ。
全身が熱を帯び、痛みが走る。しかし、昨夜ほどではない。痛みはひどいが、意識はかろうじて保たれている。それでも立っていられなくなり、思わず彼は膝をつく。
デスクの上のスズメバチが仰天した。
『あ、あんた一体なにが起きてんだい?!』
デスクの上からスズメバチが見たものは、人間の姿であったはずのスペーサーが、全く異質なものに変わってしまう光景であった。一対の腕が生え、胴はくびれ、背中から翅が伸びる。腕と脚が虫のそれにかわり、顔が変わってヒトからスズメバチに変わる。触角が伸びて、両眼が複眼に変わり、二つの複眼の真ん中に単眼が生まれる。同時に視界が変化し、オレンジの光がモノクロの光にしか見えなくなった。
変身にかかった時間は三十秒ほど。
変身の終わったスペーサーは、その大きさこそヒトの身長のままだったが、その姿は完全なスズメバチであった。
痛みも熱も、昨夜より早く引いた。ヒトとは全く違う体のつくりとなったためか、起き上がるのもぎこちない。
『あんた、やっぱりアタイらの仲間だったのかい』
デスクの上のスズメバチは、ゼリーを舐めるのも忘れ、スペーサーの側に飛んでいった。
『違う……私は人間だ』
スペーサーは答えた。が、それはヒトの言葉ではない。スズメバチの言葉だ。
『私に、何が起きた?』
『何って、あんたアタイと同じ姿になってる。ホントだよ!』
『やはり……』
背中の翅を動かしてみる。のろのろとだが、動く。余分に一対ある脚も、動かせる。触角も動く。
(飛べるのか?)
研究室は、様々な器具を収納したりする棚が設置されているので、少し広めに作られているし、薬を飲む前にデスクを動かしてスペースをとってある。
翅を動かす。慣れてきたので、より速く動かす。が、動かし方を間違ったか、左へぐらりと体が傾き、デスクに体をぶつける羽目になった。
『あんた何やってんだい。そんなんで飛べるわけないだろ』
スズメバチは呆れ顔で、ゆっくりと翅を動かしてみせる。
『ほれ、こんな風にするんだよ』
スペーサーはその真似をして、翅を動かす。少しずつ早く動かしていくと、体が浮き上がる。やがて手足の支えがなくとも飛べる高さにまで、飛んだ。
(信じられない……飛んでいる)
少しずつ前進するが、空中停止は上手くできない。何度も壁に頭をぶつけた。スズメバチはそのたびに、彼にあれこれレクチャーした。時間がかかり、翅を動かすのにも疲れてきたが、彼は確実に、ハチとしての飛び方を身につけていった。
約一時間ほど経過する。
突然、全身の体のつくりが変わり始める。翅がひっこみ、余分な一対の脚が縮み、胴のくびれが治る。複眼と単眼と触角がなくなり、ヒトの頭にもどる。
ちょうど、床から五十センチほどの高さを飛んでいた彼は、変身が解けたため、床に落ちる事になった。運よく怪我はしなかった。
『ありゃ。何が起きたんだい?』
スズメバチは、彼のそばによって来た。スペーサーは頭を振った。
「変身が解けた……」
やけに頭がズキズキする。薬の副作用だろうか。
「もっと改良の余地がありそうだな」
全身汗だくの彼は、一息ついた後、床の上の服を拾い上げた。
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