第3章 part2



 朝五時半。
 誰かに呼ばれているような声がして、スペーサーは目を開けた。ぼやけた視界が、少しずつ鮮明になる。視点が合わずにブレている世界が、少しずつブレをなくす。
 目の前に、スズメバチがいる。
「……なぜここに?」
 彼の発した言葉はそれだった。
 スズメバチは触角を動かしながら答えた。
『あんたについてきたの。悪い? それにしてもあんた、夜に散歩するなんて変わり者だねえ』
「散歩? 何を言って……」
 彼は起き上がる。昨夜の体調の異常はない。頭痛もしないし、全身の鈍痛も感じない。昨日注射針を刺したところだけ、赤黒い小さな痣ができているのを除けばだが。
 周りを見回す。
 木々。坂。坂の下に見える家並み。
 自分の部屋ではない。ここは、
「家の裏じゃないか?!」
 スペーサーは思わず裏返った声を上げた。
『あんた今頃気づいたの? アタイびっくりだよ。だってあんた、勝手にあの窓を開けてここまで飛んできたの』
「飛んできた?」
 スペーサーは、目の前に座っているスズメバチの言葉が信じられなかった。
「飛んできた……? もしかすると」
 夜間、変身していたのかもしれない。そして、意識のない間に、ここまで飛んだ。
(あれは試験段階の薬……あれが体に作用して勝手に変身を引き起こしたのか? だとするととんでもない失敗作を作ったという事になるのか? いや、早合点かな)
 とにかく、彼は家に戻った。鍵がかかっていたので裏へ回り、排水パイプをよじ登って、窓の外に取り付けられた鉄柵につかまり、開いている自分の部屋の窓から中へ入った。何も盗まれた様子はない。泥棒が入らなかったのが不思議なくらいだ。窓は全開。カーテンがわずかに風になびいている。
 一息ついたところで、彼は床の上に落ちているものを見つけた。拾ってみると、それは、翅の一部。
『あんた、出る前に翅を壁にぶつけたのよ。そこで翅がちょっと欠けちゃってね。覚えてない?』
 スズメバチは彼の肩にとまる。しかしスペーサーは全く覚えていない。ずっと眠っていたとばかり……。
「……それで、私は一体何をしていた?」
『ああ、散歩だよ、散歩。この辺の木々をぐるっと回って、あそこで降りて、寝ちゃったのよ』
 スズメバチに変身した事は間違いないだろう。この翅は、スズメバチのそれなのだから。
(薬の調整はまだ必要だな。どんな姿のスズメバチになったかは分からないが、勝手に変身してしまうと困る)

 六時半過ぎ。
「やあ、おはよう」
 キッチンで、Jr.は声をかけた。
「ああ、おはよう」
 スペーサーはといえば、体についた泥や落ち葉を落とすために浴室で体を洗ってきたところだ。スズメバチは彼の部屋で、ゼリーがもらえるのを待っている。
「疲れは取れた?」
「ああ、だいぶ取れたよ」
 昨夜自分で試した薬のせいで体調が一時的に悪くなっただけ。が、Jr.には言わない。あくまで秘密の研究だ。
 スペーサーの答えを聞いたJr.はほっと息を吐いた。
「よかった」
 体に負担をかけすぎないようにと、軽めの朝食をとる。その間、スペーサーは内心はらはらしていた。ひょっとしたら、昨夜、スズメバチに変身して飛んだところを見られたかもしれないと思っていたからだ。いつもよりJr.の表情が暗い。
 一方でJr.は、迷っていた。昨夜見た、窓の外を飛んだらしい黒いもの。あの正体はわからなかったが、あの黒いものを見たかどうか、スペーサーに話そうか迷っていたのだ。
(いや、体調悪くて寝ていただろうし、暗かったから、見ていなかったかもしれないな。あるいは見えなかったとか)
 結局、Jr.は話さなかった。コウモリでも見たんだろうと笑われるだけだろうから。
 弁当を持たされ、鞄を持って家を出る前に、スペーサーはJr.に言った。
「ああそうだ、蜂蜜を買ってくれないか?」
「蜂蜜? いいけど……」
「ありがとう、じゃ、行ってくる」
 スペーサーは急いで出て行った。
「いってらっしゃい……」
 Jr.はどこか呆けた顔で、その背中を見送った。

 朝の六時。ボルト所長は、研究所に来ていた。政府に提出すべき資料を揃えなおすためだ。スペーサーの部屋に散らかる書類の中に、彼に渡しておいた研究資料があったのを思い出し、急いで行く。
「さ、急がんとな。期限は今日の昼までだ」
 ドアを開け、器具の片付けられた部屋に入って資料を探す。書類棚においてある必要書類を見つける。
「おお、あったぞ! こいつだ。だいぶ完成している。これなら政府も満足してくれるだろうな」
 部屋を出ようとするとき、所長は、デスクの隅に置かれたノートを見つけた。
「作業の進捗でも書いてあるのか?」
 ノートを取り、めくってみる。無数の公式と構造式、手書きの様々な成分表が目に飛び込む。しばらく読んでいたが、所長は身震いした。
「こ、これは……!」
 どんどん手がページをめくり、その目はいちいちページに釘付けになる。やがてノートの最終ページに到達する。ノートに書かれている事柄は未完成らしく、そのページには様々なメモが書かれている。薬の量、採血した自分の血の量、薬物の成分が引き起こす作用の予想図……。
 読み終わると、ボルトはノートを閉じた。
 その顔に、うっすらと、異様な笑いが浮かんでいた。

「蜂蜜買ってこいって言われたけど」
 Jr.は、いつもの食料品店で、ジャムの瓶の棚を眺めていた。棚の中には、様々な果物を使ったジャムとママレードが並び、脇の棚にはバターとマーガリンが並ぶ。
「いざ探すと、見つからないもんだなあ」
 他の棚に移ると、甘味料が目に飛び込む。砂糖、グラニュー糖、黒砂糖と通り過ぎて、蜂蜜の瓶を見つけた。とりあえず、小さめの瓶をカゴに入れる。
(そもそも蜂蜜は好きじゃなかったはずなんだよなあ。甘いものはよく食べるけど、蜂蜜は敬遠してたはず。喉がすぐ渇くからって。うーん。ゼリーの味に飽きて蜂蜜でも食べたくなったのかな)
 コーヒーはブラックで飲むが、スペーサーは元々甘いもの好きで、研究の合間に甘いものを口にする事は多い。虫歯にならないのが不思議だとJr.は常日頃から不思議に思っている。かく言うJr.は、スペーサーほど甘いものは好きではない。
 会計を済ませて店を出る。暑い日ざしが商店街を照らす。午前十時を回った頃であるが、すでに外の気温は三十度を越えている。
 商店街のはずれを歩いていると、急に背後から何かが頭にぶつかった。
「いたっ!」
 鋭い痛み。頭を押さえて振り向く。通行人はいない。この暑さだ、出歩く人はほぼいない。セミでも頭にぶつかったのだろうか。
 痛みのある箇所を押さえている手が濡れているのに気づく。汗にしては妙にドロリとしている。痛む後頭部から手を離して、その手を見る。
「!」
 手に、べったりと血がついている。
 足元に何か転がっているのが見える。
 血のついた、少し尖った石。
 頭も痛んだが、胸も締め付けられるような痛みが走る。
 そのまま彼は帰宅した。頭の傷口を浴室で洗い流し、持ってきた救急箱から消毒液とガーゼを取り出し、液をガーゼにしみこませて傷口を消毒する。薬のしみる痛みをこらえて、別の貼り付け用ガーゼを傷にあてる。貼るだけで包帯を巻く必要がないので、誰かに手伝ってもらう必要は無い。血の量に反して傷はそんなに大きくなかったので、病院に行かなくても自然に治る。
 片づけをした後、Jr.はリビングのソファに座る。時計はコチコチと時間を規則正しく刻み続ける。直射日光を避けるために閉めているカーテンの隙間から、眩しい光が差し込んで、床を照らした。

「ただいま」
 スペーサーは疲れた顔で、六時五分前に帰宅した。その白衣の襟の裏には、スズメバチがしっかりと潜り込んでついてきている。週に一度、薬品や器具の点検などで政府から管理人達が抜き打ちで訪れる。このときだけは残業は許されておらず、自宅へ持ち帰ることも許されない。だから何か作業が残っていれば翌日からスタートする。スペーサーは嫌々研究を切り上げて帰ってきたのだ。
「あ、おかえり」
 キッチンにいたJr.は、声をかける。が、スペーサーは彼の頭部を見て目を丸くした。
「怪我したのか?」
「あ、ああ。ちょっとドジって足滑らせて、棚に頭をぶつけて――」
 Jr.は弁解するように笑う。が、その笑いの中にあるものを、スペーサーは見逃さなかった。そして、Jr.の言葉が嘘であることも見抜いていた。
(頼むから、正直に言ってくれ。隠さずに言ってくれ。そんな笑い顔で――)
 Jr.は、彼に心配をかけさせまいとして、何も言わない。が、スペーサーは知っている。Jr.が何度も嫌がらせの手紙を受け取っている事、Jr.を疎んじている連中がいる事、そして訴えられるのを恐れてか姿が見えないようにチクチクと小さな嫌がらせを仕掛けるときがある事。Jr.は子供たちから好かれているし、近所の住人達からの評判もいい。が、全員が全員、Jr.を好いているというわけではない。単に気に入らないからという理由で無視する者もいる。それならまだいい。中でも悪質ともいえるのは、Jr.がクローンであるという理由で嫌がらせをする者だ。母の胎から生まれる双子は、子孫を残すために生まれる存在。一方、クローンはオリジナルから遺伝子を提供されて生成される人工的な存在。同じ生命体とはいえ、クローンを嫌う者たちは、オリジナルとクローンの間に極めて明確な線引きをしている。オリジナルは元々自然に生まれたものだが、クローンはオリジナルの偽物、あるいは生命それ自体の偽物という認識が非常に強い。
「さ、夕飯にしようか」
 Jr.は笑ったままの顔で、スペーサーに言った。

 深夜をすぎた頃。
 スペーサーはスズメバチに言った。
「なあ、Jr.の行動をよく見張っていてくれないか」
『見張れったって、あんたとそっくりじゃないの』
 蜂蜜を舐めながら、スズメバチは触角を動かす。スペーサーは眼鏡を外し、レンズを拭きながら言った。
「見分ける方法ならあるだろう。私は眼鏡をかけているし、Jr.は首筋にバーコード……つまり、首のここに黒い線がある」
『で、見張りって、ただ見てるだけ?』
「違う違う。Jr.の行く先々についていって――もちろん見つからないようにだぞ――誰かがJr.に危害を加えたら、その危害を加えた誰かを探すんだ。そして追跡して、その家を突き止める」
『家?』
「ああ、巣だな、巣。とにかく、危害を加えたのがどんな奴で、どこに巣を持っているのかをつきとめて、私に教えてくれればいい」
『わかった』
 スズメバチなりに理解してくれたようだった。
 部屋を出て、Jr.の部屋にそっと入る。既に電気は切られ、室内は闇に閉ざされている。開いているドアの隙間から差し込む光を頼りに、スペーサーは足音を忍ばせてベッドに近づく。Jr.は眠っている。頭の傷が枕に触れないように、うつぶせになって寝ているようだ。
 かがみこみ、そっと手を伸ばして頬に触れる。手が僅かに濡れる。廊下から差し込む光に反射したそれは、涙の流れたあとだった。
「今まで私は君の力になれなかった。だが、もう大丈夫だから。これからは、もうそんな思いはさせない。安心してくれ」
 スペーサーは、Jr.にそっと囁いた。
 眠っているJr.が、かすかにうなずいたように見えた。

 翌日、スズメバチはJr.の目の届かない場所から、彼を監視し始めた。報酬の蜂蜜とゼリーにつられたせいもある。
 Jr.はいつもどおり、スペーサーを見送った後、掃除と洗濯をする。それが終わると少し休憩してから買い物に出かける。食料品店の女将に頭の傷を心配されるも、たいした事ない怪我だから大丈夫と笑って済ます。スズメバチは、他の客に見つからないように、後をつけていた。
 買い物を済ませたJr.は、商店街を抜ける。スズメバチも後を追う。しばらくは何事もなく歩いていたが、背後から感じた風に、スズメバチはとっさに高く飛んだ。
 何かが風を切って、Jr.の後頭部めがけて飛んできた。が、当たる寸前、彼はスニーカーの紐を結びなおすためにかがんだので、何かは彼の頭上を越えて、地面に落下してカチンと音を立てる。
「ん?」
 Jr.は顔を上げる。前方に落ちている何か。それは、石だった。歩いている拍子に蹴ってしまったのかと、首をかしげた後、彼は立ち上がって歩き出した。
 一方、スズメバチは、危うく自分に当たるところだった石の一撃を回避し、石が飛んできたと思われる方向を向く。商店街の路地裏へと続く道。店と店の、人が一人通れるほどの隙間に、人影があった。どうやら石を投げた本人らしい。Jr.に当たらなかったとわかると、さっさと引っ込む。スズメバチは、その人影を追って路地裏に飛び込んで追跡した。路地裏をくねくねと曲がると、大通りに出る。その中の、柿の木が植えてある青い屋根の家の中に、不機嫌そうに人影は飛び込んだ。
『あ、あれが巣ね』
 スズメバチは、ついでに柿の実り具合を見た後、戻っていった。
 それから、スペーサーが夕方の六時少し過ぎに帰宅するまで、スズメバチは、少し遠くからJr.のプラモデルいじりを眺めていた。

 さて、夕食前、着替えているときに、スズメバチから報告を聞くスペーサー。
「なるほど。あたりはしなかったが、投げた奴はいたんだな」
『そう』
 スズメバチは、ペットショップで買ってきてもらった昆虫用のゼリーに頭を突っ込んで、糖分補給を始める。
「で、そいつの家、いや巣はつきとめたのか?」
『もちろん』
「そうか」
 私服に着替えたスペーサーは、ゼリーを舐めるスズメバチを残して、階下へ降りた。
 すでにテーブルには夕食の準備が整えられている。Jr.は、ここにはいない。トイレにでも行っているのだろう。
 スペーサーは、Jr.の席に近づくと、スープの中に、水溶性の薬を一錠落とした。薬はすぐに溶けてスープと混ざり合った。
 食後、二人はリビングで雑談していたが、Jr.は二時間も経つと、欠伸を始めた。風呂を入れるために一旦席を外し、数分後に戻ってきたときは眠そうな顔をしていた。さらに時間が経つと、頻繁に欠伸を繰り返し、こっくりこっくりと頭を揺らす。眠気に耐えられなくなってきたのか、おやすみの挨拶をして、リビングから出て行った。
 三十分ほど経ってから、スペーサーは、Jr.の部屋のドアを少しだけ開ける。闇の中からは、寝息が聞こえてきた。もう眠ってしまったようだ。
 夜中前、スペーサーは自室の電気を消して、窓を開けた。雲が出てきており、月の光は遮られている。
「ちょうどいい、少し改良した薬の実験にもなるな」
 彼は、デスクの上に置かれた小さい瓶を取る。瓶の中には四つほどのカプセルが入っている。
 彼は蓋をあけてカプセルを取り出し、口に入れた。

 闇の中、虫の羽音が響いた。


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