第4章 part1
Jr.は、寝坊した。
朝七時半過ぎに目を覚ましたのだ。目覚まし時計が七時半過ぎを差しているのに気づくと、眠気は一気に吹っ飛んだ。電光石火のごとき速度で起き上がり、着替えるのも忘れて部屋を飛び出した。
「やばっ、寝坊にも程がある!」
スペーサーの部屋にノックもなしに乱暴にドアを開けて入る。
「やあ、おはよう」
スペーサーはすでに起きていて、着替えているところだった。
「ごめん、寝坊した……」
「いいんだ。君も疲れているんじゃないか?」
熟睡するほど疲れていたのかと首をかしげたJr.は、着替えるために自室へ戻る。スペーサーは階下へ降りて、新聞を取ってきた。一面を読む前にJr.が階段を下りてきて、朝食を作る。その次に、弁当を作る。ごく簡単なものであったが、かなりの早さで作られる。朝食のサラダを具にして、またたくまに弁当箱にサンドイッチが詰められていく。わずか五、六分で弁当を作り終えると、朝食をとった。いつもよりかなり遅い朝食であったが、スペーサーは特に焦りもせずに食べている。
(あれ……?)
Jr.は不思議に思った。スペーサーは、トーストに蜂蜜をつけている。いつもはそのまま食べるのだが――とりあえず、理由は聞かないでおいた。個人の嗜好の変化にいちいち口を出す必要はないだろう。
スペーサーが出て行った後、Jr.は新聞を取り、一面の記事を見る。金融詐欺がトップを飾っている。記事を読み進めて次の面へ移ろうと一枚めくると、緊急速報の記事が一枚、ハラリと落ちてきた。
「珍しいな、緊急速報なんて」
記事のタイトルを見る。
『蜂に刺されてショック死』
タイトルの側に、写真が載っている。柿の木が植えられた、屋根の青い家。
「近所じゃないか。たしか町会の役員さんの家だっけ。気の毒に……」
町会以外ではほとんど顔をあわせたことはない。週末に商店街で出会う、その息子にはあまり好かれていないようだった。そして、蜂に刺されて死亡したのは、その息子だった。
記事を読む。昨夜の深夜過ぎ、被害者が、窓から侵入したらしい蜂に刺されてショック死したという。被害者は過去に、庭で蜂にさされた事があり、今度の事件では偶然同じ種類の蜂に刺されてアレルギーによるショックを引き起こして死亡したのである。しかも複数の蜂に、急所を一時に刺されていた。
「蜂って夜に活動するんだっけ?」
この家に庭はないが、たまに蜂は飛んでくる。裏手に小さな林があるからだ。緑化運動ということで、木々が植えられているし、ほったらかしにはせず、適度に間伐している。木の背は高いので、鳥以外に、蜂も巣を作れる。そのため、蜂による刺傷事件が毎年のように起こっている。
「そろそろ営巣の時期なのか。僕も気をつけるかな」
新聞を畳み、Jr.は洗濯物を取りまとめて、洗濯場へ行った。少し離れて、スズメバチが彼の後を追った。
ボルト所長は、スペーサーの部屋に入り、あのノートを見る。パラパラとめくり、中をじっと見つめる。時々顔をしかめて首を振ったり、目を輝かせて見入ったりする。スペーサーはちょうど、政府からの管理人の応対で留守だ。彼の研究成果についての質問に答えている最中。役人連中は型どおりの事しかしないとは言え、基本的な質問ばかりで非常にねちっこい。スペーサーは、マニュアルに書かれたことしか口にしない連中と話をするのが嫌なのだが、研究を任されたのは彼なのだから、嫌々応対していた。
ボルトはノートを全て見終えた。これはスペーサーが自分の研究内容を新しく書きなおしているものだ。修正された箇所が非常に多いノート。だが、そのページは着々と終わりまで進みつつある。まだ途中までしか書かれていないが、書き込みのあるページ数は確実に増えている。
「なかなか進んでいるようだ。しかしながら、ハチ毒もなかなか有用なものだが、下手をするとアナフィラキシーショックを引き起こすからな。もちろん毒を起爆剤にする必要はない……まだまだ甘いな」
部屋の隅を、ジョロウグモが通っていった。
スペーサーは自分の部屋に戻るために廊下を歩きながら、考えていた。
(昨夜の実験は上手くいったな。変身の痛みもだいぶ和らいだし、色覚の異常もなくなってヒトと同じ色でものが見えるようになった。最後の問題は、ヒトと節足動物との身体構造の違いだな。ハチに骨はないがヒトには骨があるし、ハチの足の先は鉤爪になっているがヒトには指がある。脚の数も違うしな。あの体型は二足歩行には適さない。まあ当たり前だな。それに、翅は動かせるが鳥のように閉じる事はできない。飛ぶためには必要だからあそこはいじる必要はないな。となると――)
廊下の突き当たりの壁に、ゴンとぶつかった。
「いてて……」
顔を押さえて部屋に戻る。
「ん?」
部屋に入って気がついた。
ノートが動かされている。
(また所長か……?)
スペーサーは用心しいしい、ノートを掴む。パラパラとめくってみる。
ほっと息を吐く。何か変なことを書かれた様子はない。だが、動かされているという事は、見られたという事。
心臓がドキドキし始めた。政府直属の研究所の設備を無断で別の研究に使っているのだから、所長が彼のノートを見て、けしからんと考えるのはごく自然な事だ。もしかすると、政府に直接――
ノックもなしにドアが開けられ、スペーサーは反射的に、ノートを背中に隠す。
ボルト所長が入ってくる。スペーサーの背中を冷や汗が滑った。
「君に少し話したいことがあるのだがね」
その言葉で、スペーサーの心拍数は一気に跳ね上がった。ボルトはどこか意地悪な笑いを顔に浮かべると、言った。
「君はちっとばかり役人連中に時間を割きすぎているな。型どおりの質問しかしないのだから、軽めにあしらって追い返せばいい。どうせ奴らに理解できるわけないのだよ。それよりも、頼んでいた研究をもっと進めてくれ。そちらのほうが、重要度は高いからな。研究の仮説・クローンにオリジナルの持つ技術を完全移行することが可能かどうかを突き詰めて欲しい。知識のデータ化に成功した君ならできるかもしれん。だから――」
妙にねばついた手が、スペーサーの右肩に触れる。
「ぜひともがんばってくれ」
そしてボルトは退室した。
スペーサーは、廊下の足音が聞こえなくなると、ほっと息を吐いた。
(オリジナルの技術をクローンに移行……できるわけないだろう。技術は知識とは違う。体で覚えるものだ。知識は脳に注入すれば勝手に覚えてくれるが、技術は体に経験させ続けて習得するもの。データ化された知識の注入に成功したJr.でさえ、字がちゃんと書けるようになるまでどれだけかかったか……)
ノートを鞄にしまい、彼は何気なく窓を見る。
「!」
彼の目は、窓に釘付けになった。
窓に、蜘蛛の巣が張り巡らされていた。それも、室内に。
「一体、いつのまに?!」
彼は立ち上がると、巣をよく見る。巣の主はいない。
昨夜、帰る前に窓を施錠してブラインドを下ろした。それは覚えている。そして今朝、ブラインドの向きを変えて太陽の光をいれた。それも覚えている。そして昨夜から今朝にかけて、こんなところに蜘蛛の巣はなかった。先ほど部屋に戻ったときは、ノートに真っ先に目がいったので、窓を見てはいなかった。
彼が政府からの管理人の応対で席を外している間に、巣が作られたとしか言いようが無い。だが、クモはこんなに早く巣を作れるのだろうか。たかだか十分か十五分程度の短い時間で。昆虫図鑑を調べると、一応、巣作りには一時間もかからない事が多いようだが、それでも疑問が残る。掃除されているこの研究所の中に、こんな大きな巣を張る必要などないだろう。獲物がいないのだから。せいぜい部屋の隅を這い回るゴキブリくらいなものだろうが、それでも、巣を張るなら部屋の隅か天井付近にでもするだろう。
スライドをおろす金属棒を使って巣を絡めとった。巣の主はどこかに隠れてしまったのかもしれない。
右の首筋がくすぐったい。何かと思って首から肩の辺りに触れると、何かねばっこいものが手につく。
ボルトに触られた部分に、蜘蛛の糸がついていた。糸が、彼が動くたびになびいて、首筋をくすぐっていたのだ。
「……どういうことだ?」
所長が意図的にあの蜘蛛の巣から糸を絡めとったのだろうか。ノートが動かされていた事から、所長が彼のいない間に部屋に入ったことは明白だからだ。しかしわざわざそんな蜘蛛の巣をつける悪戯をしなくても――された側が不快になることはわかりきったことだが――他にもやり方はあるだろう。それに、所長が既に蜘蛛の巣を見つけているなら、先ほどの入室の際に、彼に教えたはずだ。
部屋に突然張られた蜘蛛の巣と、白衣の肩につけられた糸との関連性が全く分からず、スペーサーは首をかしげた。
Jr.は買い物から帰ると、郵便受けからはみ出している茶色の封筒を、中身を見ずに取り出す。封筒には氏名も何も書いていない。郵便ではない。どうせいつもの中傷手紙だろうと、家に入ってから、ゴミ箱へ歩く。
「ん?」
捨てようとして気がつく。
封筒の口は閉じられておらず、中の紙が見えている。いつもの中傷だろうと思ったが、なんとなく開いてみる。
いつものとは違っている。
『あなたがいつも苦しい思いをしているのは知っています。クローンというだけで冷たい視線を投げられ、一人の人間として扱ってもらえない……。それどころかあなたを排除しようとしている。』
二枚目に移る。
『あなたは確かにクローンです。けれど、あなたは一人の人間です。あなたが異質な存在として疎んじられているとき、あなたのオリジナルは何をしてくれましたか? 何もしてくれないでしょう? クローンはオリジナルの都合で生み出されます。クローンの存在理由がオリジナルの都合によるものだけとはあまりにも考えられない事。法律で親権を持つオリジナルとはいえ、用済みになればクローンは捨てられるのです。けれど、現在もこのようにオリジナルの都合でクローンが生み出され、彼らは社会から冷遇されているのです。あなたも同じでしょう?』
三枚目に移る。
『あなたは、もっと大勢の人に自分を知ってもらいたいはずです。あなたはつくりものではない、人間だということを。あなたは本来守られなくてはなりません。ありとあらゆる社会からの冷たい視線を跳ね返すには、あなた一人では力不足。もしあなたが、どうしても助けが欲しくなったらすぐにでも来て下さい。』
手紙の終わりには、住所と電話番号だけが書いてあった。来て欲しい建物の名前をあえて書かないところを見ると、公表される事を恐れているのかもしれないが、Jr.はその住所の場所に何があるか知っている。
大きな法律事務所。「進歩派」と自称する弁護士達の集まるところだ。ここではクローンの裁判の弁護を担当し、彼らの担当する裁判はことごとく原告たるクローンが勝訴する。
Jr.はゴミ箱へその手紙と封筒を、細かくちぎって放り込んだ。
「なんで匿名でポストへ入れるんだ? 法律事務所なら堂々と名前を入れればいいのに。……例え入れてきたとしても、こいつらに弁護してもらいたくはないけど」
Jr.が最も嫌う連中が、「進歩派」である。「法律」と「クローンの人権」を盾に、勝訴後も原告の在住する地域を探り、ごく些細な言い争いなどでも起ころうものなら即座に「クローンに対する人権侵害」とレッテルを貼り、裁判を行う。敗訴すれば自分達で裁判費用は支払うが、勝訴すれば裁判費用は被告が全額支払う。もっとも、「進歩派」が敗訴した事などないのだが。
この敗訴ゼロの弁護士集団を頼ったクローンがいた。しかし、その結果、そのクローンは地域の人々から好かれるどころか、孤立してしまい、結局はオリジナルともども別の場所へ引っ越した。
「露骨なえこひいきは、かえって周りの反感を買うし、些細な事で訴えられるくらいなら、誰だってつきあうのを避ける。……『法律の守護者』の言葉に酔いしれているか、こんな裁判の結果がどんな事態を招くか分かっててやってるんだろうけど」
自分がクローンである以上、避けることの出来ない問題でもあるが、Jr.はそれでも、「進歩派」の弁護士に裁判の弁護を依頼することはしないつもりだった。確かに今は、彼を疎ましく思っている連中もいる。力ずくで嫌がらせをとめる事はできるかもしれないが、それではクローンに対する反感はより強まるだけだ。続く嫌がらせをとめる方法は他にもあるはずなのだ。弁護士の力で押さえつける事無く、反感を強める事のない、他の方法が。
電話が鳴る。
「久しぶりだな、Jr.」
受話器の向こうから聞こえてくる声。年齢は三十を過ぎているだろう、若干野太さがある声だ。
「ああ、久しぶり!」
Jr.の顔はパッと晴れた。受話器から聞こえる声は、前述のクローンのものだ。Jr.の出逢った最初のクローンでもある。出会ってすぐに二人は仲良くなったが、それは、二人ともクローンという立場と、オリジナルに対して引け目を持っていたからであろう。事実、二人ともオリジナルが職場で重要視される人物同士。スペーサーは政府直属の研究所の研究員、一時期は一部の病の根絶によりマスコミと学界を騒がせ、将来は所長になるであろうと噂されるほど。友人のオリジナルはいくつもの大企業を一手に取り仕切る巨大な企業の重役、この男がいなければ国の企業の半数は成り立たないといわれるほどの大物だ。
そして、クローンにはオリジナルが有名人でなくても抱くある種の感情がある。羨みとも僻みとも妬みともつかないもの。だがオリジナルに対しては決して口に出来ないものだ。クローン同士だからこそわかる、このマイナスの感情。それを持っているからこそ、二人とも惹かれたのだろう。友人が遠くへ引っ越した後も、こうして電話や手紙で互いの近況を知らせあっているのだから。
Jr.は一時間雑談をした後、別れの挨拶をして電話を切る。テーブルからひきよせて座っていた椅子から腰を上げ、背伸びした。その顔にはいつになくすっきりした笑顔があった。
夜十一時過ぎ。
スペーサーは、床の上であえいでいた。先ほど変身が解けたばかりで、全身が汗だくになっている。最後まで残っていたスズメバチの翅が、彼の背中にもぐりこんで消えた。
疲れが収まると、時計を見る。
(変身している時間はきっかり一時間。これだけは変わらない。しかし、身体変化の方はこちらの考えていた通りになっていくな。少しずつだが視界がヒト化しつつある)
一息ついて、服を拾い上げ、着る。電気をつけ、鞄から黒い表紙の手帳を取り出し、日付と時刻、そして変身後の自分の様子を細かく記録する。これは、この変身の研究を始めたころからつけている記録で、理論の組み立ての段階から今日に至るまで欠かさずつけられている。
記録をつけ終わると、器具や薬品を片付け、忘れ物がないか確認し、彼は部屋を出た。
深夜の道路を運転しているとき、彼は時々目をこすった。目の前の景色が幾重にも重なって見えたり、景色そのものがモノクロに見えたり――
「疲れてるのか……?」
帰宅後、部屋に入ると、おなかがすいたとデスクの上でスズメバチが訴える。
飛んできたスズメバチを見て、スペーサーは思わずたじろぐ。スズメバチは、少し左右に揺れながら飛んでいたが、それが彼には、異常に大きくジグザグに揺れながら飛んできたように見えたのだ。
『ねえ、どうしたの。アタイおなかぺこぺこなんだけど』
「え、あ、ああ……」
スズメバチが昆虫用ゼリーに頭を突っ込んでいる間、スペーサーは着替えていた。何気なく、タンスの扉の裏につけられた鏡に目をやる。
「!?」
鏡の中の景色が、モノクロに見えた。
慌てて鏡から目をそらし、瞬きして、周りを見る。
カラーだ。
また鏡に目を戻すと、ちゃんと自分の姿に色がついている。
しばらく目を閉じて、また周りを見る。
モノクロ。
またしばらく目を閉じて、目を開ける。
カラー。
疑惑。
ゼリーを舐めるスズメバチに、スペーサーは、本棚から取り出した三冊の本の表紙を見せた。表紙にはそれぞれ色がついている。赤、白、黒だ。
「なあ、一つ聞いていいか?」
『なあに?』
スペーサーは、三冊の本をそれぞれ指差しながら、聞いた。
「この本は、赤と、白と、黒の、三つの色があるように見えるか?」
スズメバチは触角を動かす。
『え? アタイには二色にしか見えないよ?』
スズメバチは、赤い本と黒い本が同じ色に見えるという。白だけは見分けているようだ。
スズメバチの視界はモノクロなのだ。
図鑑で調べて分かりきった事。だが彼は、スズメバチに聞かずにはいられなかった。
疑惑は振り払われるどころか、ますます確信に変わり始めた。
自分の目が、ハチ化しているのだ。
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