第4章 part2



 夜九時。
 部屋のドアを閉めたJr.は、ベッドに腰掛けて、古びた本を見ていた。
 一冊のアルバム。
 今日、書斎を掃除していたら、埃だらけの隙間から出てきたものだ。表紙に、マジックで何かが書いてあるが、かすれて読めなかった。
 アルバムをめくっていく。生まれたばかりの赤子。元気に動き回る赤子。両親に手を引かれて歩いていく幼児。小学校の入学式、卒業式。写真は、中学校卒業で途切れていた。
 アルバムの最後のページに、花の添えられた二つの墓標が写った写真がはさんである。墓石に刻まれているのは両親の名前。
 スペーサーの両親が既に他界している事は、Jr.も知っている。元々彼の両親も、現在の彼と同じく遺伝子総合研究所の研究員だった。高校へ進学していた彼は、その後を継ぐ形で研究所の研究員として抜擢され、学校を中退後、配属された。両親を失ったその年に。
 Jr.はアルバムを閉じて、自分があの研究所のクローン培養装置の中にいた時のことを思い出す。年配の研究者に混じっていた、たった一人だけの若手の研究者。培養中に意識が芽生えた時から、目を開けて、透明なオレンジ色の培養液に満たされた筒のガラス越しに何度も見つめ続けたその顔。この頃は自分の顔がどんな顔かわからなかったし、筒の向こうから見つめてくる相手が誰だか分からなかった。培養期間が終わり、筒から出されたとき、首筋にバーコードを刻まれ、初めて自分がクローンである事を知った。培養中に注入された知識が、教えてくれたのだ。オリジナルと区別するために、クローンにはバーコードが刻まれるのだと。そして、目の前に立っている男が、自分のオリジナルなのだと。
 それから、スペーサーとの生活が始まった。学問の知識はあったが、一般人としての常識は何も身についていなかったJr.は、彼にいろいろな事を教えてもらい、いろいろな場所に連れて行ってもらった。練習用ノートで字の練習をし、色々な本を丸ごと書き写して文章の組み立て方も覚えた。培養中は羊水とは異なる特別な培養液で育てられるため、クローンはオリジナルよりも知識の吸収が早く、身体の成長もまだ少し続く。そのため今のJr.はスペーサーよりも少し背が高いし、物事の飲み込みも数段早い。数年で覚えるべきことを全て覚え、研究者としてふさわしい技術と知識を身につけるに至ったが、研究所側はスペーサーとJr.が共同で研究をするのを許さなかった。だが、Jr.は参加できなくなったことを恨んでなどいない。研究所に通う前から、玩具屋で見つけたプラモデルが大好きで、その後はプラモデル収集に本格的に熱を入れ始めたのだから。試行錯誤で家事もこなせるようになり、家計管理のやり方も覚えた。近隣の住人達と付き合うようになり、子供たちと一緒に遊ぶようになった。
 けれど、不安だけは拭い去れなかった。
 いつか自分がオリジナルから捨てられるかもしれないという、不安。何も言わないけれど、もしかしたら、役立たずと考えているかもしれない。チケットさえ発行してもらえば、クローンなどすぐ作れる。オリジナルは、クローンの親権を手放す事は絶対に許されないが、別の新しいクローンを作る事は認められているのだ。
 Jr.はそのことだけは考えまいと懸命に努めていた。考えれば考えるだけ、不安は恐怖に変わっていく。彼にとってのスペーサーは、親であり、教師であり、自分の存在理由を与えた者だ。スペーサーに捨てられること、それは、Jr.にとって何よりの恐怖だった。オリジナルに捨てられることは、クローンの存在理由がなくなるのと同じなのだから――

 寝る前、スペーサーは、スズメバチに言った。
「なあ、郵便受けに手紙を入れるやつを見張ってくれるか?」
『ユービンってなに?』
「ああ、この家、いや巣の外にあるだろう、もっともっと小さな四角い箱が。あれが郵便受けだ。あの中に、色々な紙が入ってるんだが――」
 スズメバチがわからないと言いたそうに触角を動かす。スペーサーは、新聞とチラシ、手紙などの違いを説明するのに三十分以上かけてしまった。最終的に、スズメバチは理解してくれたものの、その頃にはスペーサーはくたびれきっていた。そもそもスズメバチは新聞など読まず、手紙も書かないのだ。ただの紙の束にしか見えないというスズメバチに新聞と手紙の違いを理解させるのに、古新聞や過去に送られた手紙をひっぱりだして色々見せながらの説明で、やっと理解させる事ができたときのスペーサーの喜びはひとしお。
「じゃ、明日から頼んだぞ」
 スペーサーはそれだけ言って、部屋の電気を消して、ベッドにもぐりこんだ。スズメバチはしばらく触覚を前脚でこすっていたが、部屋の隅を這っていくジョロウグモを見つけて飛びかかり、肉団子にしてムシャムシャと食べた。

 翌朝。
 Jr.はいつもどおり、六時半過ぎに起床した。
 夢見は悪かった。
 暗闇の中、一人きりでどこまでも歩いている夢。冷たく、暗く、音のない、闇だけが続く世界の中を、一人で歩いていた。これが夢の世界だとわかっていた。早く眼が覚めてくれとも願った。そしてやっと眼が覚めたとき、いつもの部屋の中にいた。安堵の溜息をついた。
 額の汗を拭ってベッドから降り、着替えて、階下へ降りた。玄関の鍵を開け、朝刊を取ろうと新聞受けまで歩む。
「げっ」
 思わずJr.は声を上げた。
 郵便受けに、無数の蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
「やだなー、蜘蛛は苦手なんだよ……」
 さいわい、朝刊に蜘蛛の巣はかかっていない。
 刺さった朝刊を、投入口から引き抜き、Jr.は手近な棒状の物を探す。家の裏で木の枝を見つけたので、それを使って、郵便受けの蜘蛛の巣を絡め取る。巣と一緒に、巣の主も絡めとられたが、Jr.は巣の主が棒を伝ってくる前に、放り投げて枝を捨てた。
 家に戻り、キッチンで朝食と弁当を作る。その間も、彼の顔は暗いままだった。
(あれは夢だってわかってる。けど、何でだろ、何で夢で片付けられないんだろ)
 スペーサーを起こした後、先に階下へ下りて、コーヒーを淹れた。
 朝食のとき、スペーサーは朝刊に目を通していたが、ふと、Jr.は奇妙な事に気づいた。
 相手の顔が、笑っているように見えた。
 何かを喜んでいるが、どこか嘲りすら感じさせる、冷たい笑い。
 なぜ、あんな笑い方を?
「Jr.、どうかしたのか?」
 相手に聞かれ、Jr.はハッとした。
「え、いや、なんでもないよ……」
 相手が探るような目でこちらを見るので、Jr.は無理に笑顔を作ったが、それはあまりにもぎこちなかった。
 スペーサーが家を出た後、Jr.は朝刊を読もうとしたが、新聞がどこにもなかった。
「あれ? スペーサー、新聞持って行ったのかな」

 研究所へつき、自分の研究室へ入ったスペーサーは、家から持ってきた朝刊を広げる。
「営巣による蜂の巣の増加。それにともなう刺傷事件の増加の恐れあり、か」
 新聞の見出しに書かれたその文字に目を通す彼の目は、冷たかった。
「もう少し行動の幅が広がりそうだな。これなら、町内全域をほぼカバーできそうだ」
 新聞を鞄に入れなおす。
 ふと、今朝のJr.の顔が頭に浮かんできた。
 何かを不思議がっている表情。
 朝食のとき、なぜ見つめられているのかわからず、問うたが、Jr.は答えてくれなかった。何かをごまかすように笑っただけだった。
 何かを気にしているようだったが、話してくれない。スペーサーはJr.のそんな点にたびたび苛立ちすら感じていた。
(言いたいことがあれば素直に言えばいいのに。なぜ隠そうとするんだ)
 鞄を部屋の隅に片付けて、実験道具をデスクに並べた後、彼は研究の続きに取り掛かった。
 部屋の隅を、ジョロウグモが這っていった。

 買い物から帰ったJr.は、郵便受けから何かが突き出しているのに気づく。手紙だ。郵便受けから引き抜き、ちらと文面の一行目に目を通しただけで、それ以上読まずに家に入る。その後ろを、そっとスズメバチがついてくる。その手紙をゴミ箱へ捨ててしまうと、彼は溜息をつきながら部屋に入っていった。
 スズメバチは家に入らず、郵便受けの近くに止まった。
『さて、暑くなりそうだねえ』
 前脚で触角をこすりながら、見張りを始めた。
 時間はのろのろ流れていく。時折、隣家の水撒きによってできた小さな水溜りで水分補給をしながら、スペーサーが夜の十一時過ぎに帰ってくるまでスズメバチは見張り続けた。それまでに投函されたものは、新聞を除くと、手紙が六通。それらは夕刊と一緒にJr.が持って行き、いずれも捨ててしまったが、スペーサーにとって重要なのは、投函された手紙の数ではなかった。誰がその手紙を投函したかが、重要なのだ。
 深夜前、スペーサーはJr.の部屋のドアをそっと開ける。Jr.はぐっすりと眠っている。後頭部の傷はだいぶふさがっているようだ。クローンはオリジナルよりも傷の治りが早い。彼らを育てる培養液が、細胞分裂を、オリジナル以上に促進するためだ。
 スペーサーはJr.の枕元に屈み込んだ。そして、そっと頬に触れた。
「Jr.……もう苦しい思いをしなくてすむから。もう少しだけ、待っていてくれ」
 彼はそっとささやいて、部屋を出て行った。
(そう、Jr.が嫌な思いをしてきたのは、私が何の力にもなってやれなかったからだ。だが今は違う。今なら――)
 風の無い深夜、虫の羽音が空に響いた。やがてその羽音は、もっとたくさんの虫の羽音に変わっていった。


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