第5章 part1



 三日過ぎた。
 深夜に活動した蜂による刺傷事件が新聞の一面に載らぬ日はなかった。Jr.はスペーサーが家を出た後、掃除や洗濯を済ませて、商店街の店が開く時間になるまで新聞を読んでいるのだが、いずれも死傷者がこの近所の住人ばかりであることに目を丸くした。彼の知る限り、犠牲となった住人の何人かは、彼を好いていない者たちだ。
 もう一つ、Jr.の目を丸くさせたことがあった。
 この刺傷事件が発生してから、中傷手紙が届かなくなった。相変わらず「進歩派」からは匿名の封筒が届いているが、それを除けば、Jr.が毎日のように破り捨ててきた誹謗・中傷の手紙は、全く来なくなった。
(まさか、亡くなった人たちが、今まで僕に手紙を送りつけてた……?)
 Jr.は、頭の中をよぎったその考えを、頭を振って否定する。そんな事を考えるのは失礼だ。たまたま手紙が来ないだけなんだ。
 時間が来たので、買い物に出かける。道を歩いていると、時々虫の羽音を耳にする。見ると、スズメバチが五匹、あたりを飛んでいた。
(営巣の時期だからかな。蜂が増えたなあ)
 その蜂たちは、Jr.の後を、少し離れてついていっていた。
 いつもの食料品店に入る。店の中までは、蜂はついてこなかった。彼はそれに気づかないまま店の中を歩いたが、妙な空気と視線には気づいた。
 珍しいものでも見るような、それでいてそれを排除しようとしているかのような――
 自分がその空気と視線の真っ只中にいる事に気づくのに、時間はかからなかった。だが、なぜ自分が来ただけで店の空気が変わったのか、急に視線を浴びたのか、分からなかった。会計を済ませて店を出るまで、その空気と視線は付きまとい続けた。
 商店街を歩いているとき、時々人とすれ違う。今日から学校が始まったので、子供に出会うことはない。買い物に行く主婦くらいなものだ。だが、そのうち何人かも、彼にあの視線を向けてきた。
 帰宅してから、Jr.は自分がやましい事でもしたのかと自問した。だが、記憶の糸をたどっても何一つ思い出せない。いつもどおりに振舞っていたはずだ。なのに、あの視線と空気は一体何だというのだろうか。
 買った物を片付けて、ついでに新聞も片付ける。手に取った朝刊の一面が目に入ると、Jr.はしばらくそれを見つめた。
『蜂による刺傷事件増加。市が巣の完全駆除を検討』
 犠牲者はいずれも、近所の住人。Jr.を普段から好いていない者たちだが、偶然被害にあったにしては出来すぎている。まるで、蜂たちがJr.の好いていない者だけを狙っているように見える。
(馬鹿馬鹿しい。ただ偶然に重なっただけだよね。でも、もしこれが原因だとしたら――)
 店と商店街で感じ取ったあの視線と空気。住人からのあの視線は――
 Jr.の背筋を、冷たいものが流れた。
(僕が蜂に命じて殺させたとでも……?)

 夜十時半。
『やれやれ。あんたのやること、わかんなくなってきたねえ』
 デスクの上で、スズメバチは翅を広げたり閉じたりした。
 変身がとけたスペーサーは床の上であえいでいる。彼の背中には、翅の生えた跡が見える。
『ほかの巣のやつら連れてきたと思ったら、みんな引き連れて、どっか行ってさあ。アタイは留守番だし』
 しばらく荒い息をついていたスペーサーは、やっと座り込んで口を開く。
「いいだろ、別に。私には、行かなくてはならない理由があるんだ。そのためにはもっと大勢の蜂が必要なんだ」
『そうなの。でも、アタイはニンゲンの考える事は、さっぱりわかんないねえ』
 スズメバチはそれ以上言わず、翅をふるわせて、ゼリーにかぶりついた。
 立ち上がり、スペーサーは服を着て、手帳にメモをする。それを終えると器具を片付け、荷物をまとめて部屋を出る。スズメバチは慌てて彼の服に飛びついた。
『アタイを置いてかないでよ』
 廊下は明かりがついていたが、彼が歩いていくと、その後ろで、ライトは消えていった。最後の研究員が出るとき、自動的に消灯され、施設は施錠されていくのだ。
 ドアから外へ出ると、背後で施錠されるカチリという音がした。
「さて、帰るか」
 スペーサーは車に乗り、エンジンをかける。
「?!」
 目をこする。
 目の前に映る駐車場が、妙にぼやけて見えた。眼鏡が曇ったかと、外してみるが、眼鏡は綺麗なまま。指紋ひとつついていない。
『どうかした?』
 スズメバチが肩の上に移動し、問う。スペーサーは無視して、そのまま車を発進させた。発進の後、また研究所の明かりがついたことに彼は気づかなかった。
(薬の改良は、今のところはもう無理か。完全に行き詰ってしまったな。変身時間は一時間きっかり、ヒトほどではないが前脚の爪で物をつかむくらいはできるようになった。ヒトとだいたい同じ景色が見えるようにはなったが、代わりに私の目がハチ化し始めた。これは失敗だったな)
 モノクロの道路を走らせる一方で、別のことを考えていた。
(このあたりの蜂の巣をいくつか見つけ出せたな。それに、蜂たちが素直に従ってくれるとは思っても見なかった。薬の研究は失敗ばかりではなかったということか)
 家に帰り着き、部屋に入る。着替えるために部屋のライトをつけた。
 モノクロの光に照らされる、モノクロの部屋。
 視界がモノクロに包まれる時間が長くなっているのに、彼は気づいていた。薬を飲むたびに、その時間は確実に長く、しかも短期間で訪れる。明らかに薬の副作用だ。
 視界がカラーに戻り、彼はほっと息を吐いた。
(しかし、これで、Jr.の頭を煩わせてきた手紙が届く事もなくなったわけだ。さぞかし喜ぶ事だろう)
 着替える彼の目は、冷たかった。

 土曜日の朝は、どんよりと曇っていた。
 蒸し暑く今にも雨の降りそうな中を、Jr.が折り畳み傘を持って買い物に出かけた後、スペーサーは目覚めた。時計を見て、いつもより遅く起きたことを知る。スズメバチはいない。いつもの通り、郵便受けの見張りに出ているようだ。
 着替えて階下に下りる。テーブルの上に、ラップをかけた朝食が置いてある。店の開く時刻までスペーサーが寝ているときは、朝食を先に作ってから買い物に出かけているのだ。
 電子レンジで温めるのは面倒なので、そのまま食べる。食器を洗って、薬の今後の改良について考えながら階段を上り、ドアの開いている部屋に入った。
 が、デスクの上の、作りかけのプラモデルを見て、部屋を間違ったことを知った。Jr.はドアを開けっ放しにして出かけたのだ。
「ああ、間違った……」
 部屋を出ようとするが、きれいに布団の畳まれたベッドに何か置かれているのを見つけた。
「これは――」
 アルバム。
 書斎の奥深くにしまったもの。自分が二度と見なくて済むように。
 ベッドに腰掛けて、アルバムをめくる。懐かしい写真。入学式、卒業式の写真。
 最後のページを見ず、彼はアルバムを閉じた。
 なぜJr.がこのアルバムを持っているのだろうか。おおかた、書斎を掃除していて偶然引っ張り出したものなのだろうが、なぜ元に戻しておかないのだろう。Jr.の思い出などではないのだから、持っていても意味は無いはずなのだ。
「そういえば」
 思い出す。
「培養期間の記録以外で、Jr.の写真を撮ったことがなかったな。アルバムにはさめる思い出が、何もないわけか……」
 Jr.が培養装置から外に出されて数年間、スペーサーは彼を色々な所へ連れて行った。電車やバスなどの公共交通機関の使い方を教えたり、地図の読み方を教えたりしたものだ。だが、教育のために連れて行ったのであって、外界を楽しむために連れて行ったことなどなかった。ずっと、家で留守番ばかり。留守番に対してJr.が不平不満をこぼした事はないが、本当はどう思っているのだろう。住まいを与えて後はほったらかしにしていると考えているのだろうか。『親』失格だと、考えているのだろうか。
 玄関のドアが開く音がする。Jr.が帰ってきたのだ。スペーサーは立ち上がり、Jr.の部屋を出た。
 帰宅したJr.は憂鬱な顔で、買い物袋を台所の床におろした。商店街のあの視線は、未だに彼にまとわりついている。子供たちは変わらず彼を慕っているが、大人達の方は少しずつ彼を遠ざけ始めている。そのうち子供たちも、大人の取る態度の変化に気がついて、Jr.から離れてしまうかもしれない。もしそうなってしまったら――
 考えても仕方ない。考えればネガティブになってしまうだけだ。Jr.は自分に言い聞かせ、昼食の下ごしらえを始めた。
 流しの三角ボックスに捨てた魚の切れ端を、スズメバチがこっそりとくすねていった。

「なあ、この魚、焼きすぎていないか?」
 昼食の席で、スペーサーはJr.に言った。
「え?」
 Jr.は相手の言葉に、目を丸くした。
「焼きすぎって――いつもどおりだよ? いつもどおりによく火を通してあるんだけど、焦げすぎてはいないはずだよ?」
「いつもどおり? だが、もっと生でもいいんじゃないか?」
「あれ? でも君は生もの好きじゃないでしょ」
 スペーサーは生ものが好きではないため、Jr.は彼に肉や魚を出すときはよく火を通している。そしてスペーサーも、よく火を通したものの方を好んで食べている。
 だが彼は、いつもどおりの焼き方を、焼きすぎだと言った。Jr.は首をかしげた。一体どうしたのだろう。急に、いつもどおりの焼き方を気に入らないと言うとは。
「ああ、そういえば!」
 Jr.にこれ以上怪しまれないために、スペーサーは慌てて話題を変えた。
「どこか、行ってみたい所はあるか?」
 Jr.の持っているフォークが落ちて、皿の上でカシャンと音を立てた。
「え、え? いきなりどうしたの」
「いや、何だ、家にこもってばかりも良くないだろう。気晴らしにどこか旅行でも行ってみたらどうだ」
 Jr.は狐につままれたような顔のまま、相手の顔を見つめていた。数秒の沈黙の後、やっとJr.は口を開いた。
「どこかって言われても、そりゃ行ってみたいところはあるよ。でも、君、休みとれないだろ」
「私のことはいいんだ」
 スペーサーは自分のアイスコーヒーに蜂蜜を入れる。
「自分の事は自分でやれるし、私は旅行には興味ないから」
「いや、でも……」
 いきなり旅行の話を持ち出されたJr.は戸惑いを隠せず、話を続けようとしなかった。黙りこくってしまったのだから。結局、十分ほど無理に話を続けていたものの、スペーサーも諦めてしまった。
 部屋に戻ったスペーサーは、スズメバチが台所からくすねた生の魚の欠片にむしゃぶりついている間に、考え始めた。
(いきなり旅行の話をふったのがまずかったかな。喜ぶと思ったのに、かえって警戒させてしまったようだ。一度くらい、自分の楽しみのために出かけてくれても構わないのに。それに――)
 妙な気配が、あたりに漂う。
(Jr.が私に疑いの目を向け始めた。根掘り葉掘り聞かれないように、しばらく遠くへおいやっておきたいのに)
 自分の体に起きている変化には気づいている。薬の実験を重ねた事が原因だ。だがJr.もうすうす気がついているようだ。

 一方、Jr.は自分の部屋で、作りかけのプラモデルを脇に押しやり、デスクにふせっていた。プラモデルを組み立てたい気分ではなかった。
(なんで急に旅行の話なんか持ち出したんだろう。別に留守番するのは苦じゃないのに。そりゃ、行きたいところはあるけど、どうせなら二人で一緒に行きたい。一人で行ってもつまんないよ。それに――)
 溜息をつく。
 旅行に興味がないし、国直属の研究所の所員なのだから研究内容は山ほどある。スペーサーはやるべき事だらけのため、休みなど取れない。政府から様々な要望が出されればそれを検討し、進捗や研究結果をレポートして政府に送らねばならないのだ。それも、一週間ごとに。
 自分が旅行に行けない分、一人で楽しんで欲しいと思っているのかもしれない。だがJr.はそうは思えない。急に旅行の話題をふり、何とか話を続けようとまでした。ただ単に行って欲しいだけなら、スペーサーの性格から考えて、しつこく食い下がる事はない。すんなり諦めてしまうのだから。だが、今日の彼は明らかにおかしい。何とかして話を続けようとしたのだ。よほどJr.に旅行してもらわねば困るといわんばかりに。
(何か理由があるはずだ。僕を外に出しておきたい理由が――)
 まだ気になっている事がある。
 自室のゴミ箱の中に、チラリと目をやる。
 スズメバチの翅の一部。昨日、スペーサーの部屋に落ちていたもの。デスクと本棚の隙間に落ちていたため、スペーサーは気づかなかったようだが、掃除していたJr.は気がついた。この翅の大きさは十センチを優に上回る。翅全体の大きさは軽く五十センチを上回るだろう。なぜスズメバチとわかったかと言うと、窓を閉めるときにうかつに挟まって死んだスズメバチの死骸を見つけて、調べてみたからだ。
(こんな巨大なスズメバチなんていないはず。でもあの部屋に落ちていた。一体どういうことだろう)
 翅の一部からして、あまりにも巨大なスズメバチが、昨夜スペーサーの部屋にいた事になる。だが、スペーサーが襲われているわけではないし、化け物みたいに巨大な蜂がいたと彼が騒いだわけでもない。
(わけのわからないことだらけだなあ)
 自分の身近で様々な事が同時進行している。急激に増えた蜂による近所の刺傷事件、部屋に落ちていた翅の一部、届かなくなった中傷の手紙、近所の住人の態度の変化。何よりJr.は、スペーサーの「様子」がおかしいと思い始めていた。見た目は変わらない、だが確実にスペーサーは「変わって」いる。味覚が変わり、異常に蜂蜜の摂取量が増えてきた。原因はわからないが……。
 そして、この一連のわけのわからないことが、一つの糸で結び付けられている気がする。直感的にJr.は思った。

 窓の外を、ジョロウグモが這っていった。


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