第5章 part2



 夕方は急激に曇りだし、激しい雷雨となった。何度も雷がとどろき、土砂降りの雨がひっきりなしに窓を乱暴に叩く。
 部屋にいるスズメバチは、デスクの隅でティッシュにくるまって眠っていた。雷など何処吹く風。
 食後、妙にスペーサーの機嫌が悪くなった。苛立っているその空気を感じ取ったJr.は、なるべく彼に近づかないよう、食後はすぐに居間から出た。逃げるように部屋に戻ったJr.に目もくれず、スペーサーはソファに座って苛々しながら考えていた。
(何とかJr.を遠ざけておきたいが、本人が乗り気でない以上、追い出すことは不可能か。力ずくでそうさせてもますます不信感を抱かせるだけ。家にいる以上、あいつは私を見ているから、何らかの変化が私に起きている事に、既に気づいているはずだ。Jr.にこれ以上の変化を気づかせないためには、一体どうしたらいい? Jr.が忘れるまで、薬の研究を中断するほうが早いか? それとも私が研究名目でしばらく外へでるか? いずれにせよ、私が薬の研究を密かに行っていることだけは気づかれてはならない。知ったら最後、何としてでも止めようとするからな、Jr.のあの性格では。ならば、最後の手段は――)
 雷鳴のとどろきがあたりを揺すると同時に、頭に浮かんだその考えを、彼は頭を振って払拭した。我に返ったのだ。
(ああ、駄目だそんな事をしては! なぜそんな事を考えたんだ、全く。取る手はまだあるのに、よりによって……)
 深呼吸して気を落ち着けた。
 居間を出て、階段を上がる。二階の廊下に面したドアは二つとも閉まっている。自室のドアを開け、カーテンの閉められた暗い部屋に入った。
 電気をつける。スイッチの入るパチンという音と共に、部屋が蛍光灯の明るい光で照らされる。
「わっ!」
 スペーサーは仰天した。
 部屋の中に、巨大な蜘蛛の巣が張られていた。部屋の半分が蜘蛛の巣で陣取られ、端は天井、端はベッドの柱、端はデスクのスタンドにそれぞれ結び付けられていた。
 デスクの上は無事だった。そのデスクの上で、寝ていたはずのスズメバチが、捕まえたジョロウグモを仕留めて、肉団子にすべく丸めているところだった。おそらくこのジョロウグモ、部屋に巣を張った犯人だろう。
『おや、おかえり』
 肉団子を作りながら、スズメバチはスペーサーの姿を見つけて声をかけた。スペーサーはしかしながら、部屋に突然できた巨大な巣に仰天して、返事も出来なかった。
『こいついい夜食だよ。あんたも食べる?』
 スズメバチは団子をまるめ終わると、それをデスクにおいたまま、飛んできた。
『どうしたんだい、固まってさ』
 首筋を噛むと、痛みでスペーサーは我に返った。
「はっ。ああいや、なんでもない。……そ、そんなことより!」
 部屋の隅にある物差しをとって、蜘蛛の巣を巻き取った。
「一体何処から入ってきたんだ」
 忌々しそうに、デスクの上に置かれたジョロウグモの肉団子を横目で見た。
「窓は閉めきってあるはずなのに、こんな大きな蜘蛛が入ってこられるわけないのに……」

「うわ」
 カーテンの隙間を通して稲光が見えた。Jr.はプラモデルをいじる手を止める。続いて耳をつんざくばかりのすさまじい雷鳴が響いて辺りを揺るがした。近くに落ちたようだ。
「やだなー、雷苦手なんだよ……」
 夜間の雷鳴ほど、Jr.の心臓を縮めるものはない。培養装置から出されて数ヶ月ほど経ったころは、闇を切り裂く閃光と、続いて訪れる耳をつんざくような雷鳴に怯えて眠れず、半泣きでスペーサーに無理を言って一緒に寝てもらったものだ。今はそんな事はないが、目を閉じていても目蓋の裏にまでひらめく閃光にはさすがにドキリとするので、布団を頭の上までかぶって寝ることにしている。
 雷鳴が収まった後、隣室から、驚いたような声が聞こえた。
「ん?」
 立ち上がり、壁に耳をつけて聞いてみる。
 しばらくは、雨が窓を叩く音しか聞こえなかったが、壁を隔てて誰かの声が聞こえてきた。聞きなれた、スペーサーの声だ。それは間違いない。
 Jr.は強く壁に耳を押し付けた。
「ああいや、なんでもない……」
 独り言にしてはおかしい言葉だ。誰かの呼びかけに応えているとしか思えない。
 まるで、スペーサーが他の誰かと話しているような――
 何か作業をしているらしい。歩いている音が聞こえる。やがて歩くのを止める。
「一体何処から――」
 独り言なのだろう。だが、何について言っているのかはわからなかった。
 やがて、物音は雷鳴にかきけされて、何も聞こえなくなった。
 Jr.は壁から耳を離した。
(さっきの、一体誰と話していたんだろう……)
 スペーサーが独り言を言う癖を持っているのはJr.も知っている。が、誰もいないのに誰かと会話しているような独り言を言ったためしがない。あれは明らかに、誰かと対話していたのだ。
「ああいや、なんでもない」
 一体誰と話していたのだろう。

 時計の針が、十一時を回った。
 眠れない。
 スペーサーは、だいぶ遠くなったがそれでもまだゴロゴロと聞こえてくる雷の音を聞き流しながら、メモ帳とノートを読み返していた。
 ノートには、研究を始めてから、薬に必要な薬品や調合による成分変化、薬品投与による遺伝子への作用などが書かれている。ずいぶんたくさん赤線が引いてあり、細々としたメモが書かれては消されている。直したはずの箇所まで入念に線が引かれて新しいメモが追加されているところもある。
 メモには、薬を飲んで変身している間の己の姿と性質、変身している時間などが書かれている。変身している時間は一時間きっかりでこれだけは全く変わらないが、身体変化と性質変化は研究を重ねるたびに変わっている。ただの巨大なスズメバチでしかなかった最初と比べると、ヒトと同じ視界になり、カラーでものが見えるようになった。鉤爪は若干形が変わり、ヒトの指と似た形になり、頑張ればものをつかめるようになった。代わりに自分の視界がモノクロ化し始め、味覚も変わった。以前は蜂蜜なんて好きではなかったのに、無性に口にしたくなり始めたのだから。
 変化は確実に自分の身に起こっている。そして、ノートの中に書かれた無数の修正内容から考えて、この先も研究のために薬の改良と服用を続け、この研究が完成すれば、自分がどうなるかは想像がつく。
 が、あえて彼はそれを選択したのだ。自分の血液を使って薬を作り、それを体内に注入したその時から。
 廊下で物音がした。
 反射的に立ち上がり、数歩で部屋を横切り、勢い良くドアを開けた。
 誰もいない。
 だが、階段を下りていく音はした。見ると、Jr.の部屋のドアが開いている。明かりはない。Jr.はいつも十時にはベッドに潜っているのだ。おおかた喉が渇いて眼が覚め、水を飲みに降りていったのだろう。
 ドアを閉めるのも忘れ、スペーサーはまたデスクに戻る。椅子に座ろうとして、椅子に手をかけたとき、
「!」
 目の前がぐらりと歪んだ。
 頭が急に重くなり、鉛の玉でも詰められたかのように、体が右へ左へと揺れる。
(な、なんだ一体……)
 薬を飲んだときのめまいと同じ。
(馬鹿な、薬は飲んでいないのに……)
 全身の骨がバキバキ音を立て、全身の激痛で立っていられなくなり、床に倒れこむ。高い熱が出て、呼吸するのも苦しく感じられるほど。体の節々が熱っぽくなり、続いて体内から何かが盛り上がってくるようなおかしな感覚が体を支配した。
 視界のゆがみがひどくなり、やがて、そのゆがみの中に何か別のものが飛び込んだように見えた。
 視界が急激に闇に包まれていく――
 
 時計の針が、十一時を指した。
 眠れない。
 Jr.は部屋の電気を消したまま、寝間着にも着替えず、ベッドに仰向けに寝転んでいた。時々雷のなる音は聞こえたが、遠くなっているのでさほど怖くない。
 なぜか、神経が高ぶっている。眠気など感じない。いつもならばとっくの昔に夢の世界に出かけているはずなのに。
 喉が渇いた。
 部屋を出て階段を下りる。途中、ドアの開く音が聞こえた気がしたが、ちょうど近くに戻ってきた雷によってその音は消された。台所で水を飲み、ついでに手洗いで用を足した後、Jr.はまた階段を登った。
「ん?」
 部屋のドアが開いて明かりが漏れている。いつも部屋にいるときは閉じられている、スペーサーの部屋のドア。が、開いている。そして、室内から漏れてくる光の中に、何かの影が廊下に映し出され、うごめいている。
(何だろ……)
 苦しそうなあえぎと呻き。一体何が起こったのかとJr.はドキドキしながら、スペーサーの部屋の入り口に立った。急病なのだろうかと考えていたJr.の目には、しかしながら、あまりにも信じがたい光景が映し出されていた。
 床の上に横たわっているのは、確かにスペーサーであった。だが、Jr.の目の前にいるのは彼であって彼でなかった。
 背中から虫の翅が生えて、顔は半分以上蜂のものになっている。胴体はくびれ、服を突き破って、一対の虫の脚が生えてきた。
 やがてその姿は完全な一匹のスズメバチに変わった。
 体長がヒトほどもある巨大なスズメバチは起き上がると、触角を動かす。やがてJr.を見つけたのか、翅を広げて、高速で飛びかかってきた。
 目の前の出来事でショックを受け、動けないJr.は、スズメバチが飛びかかってきても、避けることが出来なかった。瞬時に鉤爪で肩をつかまれ、廊下に押し倒された。それでも彼はショックから立ち直れないまま、目の前の巨大なスズメバチを凝視していた。すでにその顔からは血の気が完全に引いてしまっている。悲鳴を上げたくとも、舌が口の中で貼り付き、声帯が麻痺して声を出すことすら出来なかった。
 スズメバチは顎を鳴らし、威嚇する。Jr.は、目の前の怪物が自分を襲う気だと本能的に悟った。ヒトの指にも似た鉤爪が肩に食い込んで痛む。その痛みが我に返らせたと同時に新たな恐怖心を呼び起こした。
 スズメバチが顎を大きく開けて喉笛に食いつこうとしたとき、Jr.は反射的にスズメバチを渾身の力で突き飛ばした。鉤爪で肩を少し切ってしまったようだが、痛みなど感じている暇はなかった。何とか起き上がることはできたが、腰が抜けたのか、立てない。
 一方、スズメバチは獲物に反抗されて怒りだした。何とか逃げようと階段へ後ずさりするJr.めがけて、また飛びかかってきた。今度もJr.を鉤爪で捕えようとしたが、Jr.がすんでのところで体を倒したので、両肩をつかみそこなった。だが片方の鉤爪が彼の右肩から右胸までを切り裂いた。
 体を伝う生暖かな液体の感触と、両肩と胸に走る鋭い痛みで、Jr.は恐怖心に完全に支配された。目の前の巨大なスズメバチが自分を殺そうとしている事はもう明白だったが、それ以上のことは何も考えられなかった。
 殺される。
 逃げなければ。
 Jr.は、それからどうしたのか、全く記憶がなかった。
 気づくと、土砂降りの中、人気のない公園を歩いていた。傷口から流れ落ちる血は雨に流され、地面の水溜りと混ざっていた。肩で息をしており、足は少し震えている。
 意識が戻っても、Jr.はいまだ放心状態だった。自分が怪我をして疲れきった状態で公園にいる事だけはのみこめていたが、彼はそれ以上深く考えようとしなかった。スズメバチに襲われたショックから立ち直りきっていなかったのだ。
 彼の足はあてもなく歩いていた。体が疲れてもう走ってくれないのだろう。公園を出てから、しばらく道路沿いに歩いていたが、少しずつ目の前が暗くなり始めた。
(そうか、怪我してるんだっけ……だから――)
 考え事は終わった。
 体は道路の上に倒れ、Jr.の目はゆっくり閉じられていった。


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