第6章 part1
土砂降りは明け方まで続いたが、次第に止み始めた。時計の針が八時を指すころには、やっと東の空から厚い雲を割って太陽の光が差し込んで、綺麗な虹を作り出した。
スペーサーは、玄関前に置かれたじゅうたんの側で目を覚ました。彼は木の床の上に横たわっていた。体の節々が痛み、頭はガンガン痛む。起き上がると、ここが自分の部屋ではない事に気づく。一体何故こんなところにいるのかと、昨夜の記憶を手繰ってみる。
昨夜、考え事をしていた。考え事の最中に聞こえた廊下の物音を確かめるためにドアを開けたが、誰もいなかった。その後、部屋に戻って椅子に座ろうとしたが、急にめまいが起こって倒れてしまった。
覚えているのはそこまでだった。
意識がはっきりと戻って、改めて自分の状況を確認する。
服が破れている。
(あの感覚は変身のときのものと同じ……だとすると、やはり私はあのめまいの後で変身してしまったんだ。薬も飲んでいないのに)
自分の血液を用いて薬を作りそれを投与した夜のことを思い出す。あの時も体調が悪くなり、眼が覚めると家の外にいた。意識のない間に変身していたのだ。そして今回も同じ事が起きたに違いない。
めまいで意識を失う直前に見た、歪んだ世界の中に何かが飛び込んだのを思い出す。あれは、見慣れたシルエット……。
「Jr.!」
スペーサーは飛び上がった。まさか、変身を見られたのでは?!
大急ぎで階段を駆け上がり、Jr.の部屋に飛び込む。
「いない……!」
部屋には誰もいない。カーテンは閉められたまま。寝た形跡すらもない。
「Jr.、どこにいるんだ!」
廊下に飛び出したとき、彼は気づいた。天窓から差し込む太陽の光におかしなものが照らされている。壁と床に、その奇妙なものが付着している。眼鏡をかけていないため、よく見えなかったが、かがんで指先で触れてみる。生乾きの液体。鉄の臭いがする赤いもの。
血。
ぎくりとした。
自分が怪我をしているのかと体を調べたが、どこにも異常はない。
(私の血ではない。ではこれは――)
Jr.の血だ。
血は、廊下に点々と続いて、階段を下り、玄関前で途切れている。そして鍵は開いたままになっていた。
スペーサーは、己の体から血の気が引く音が聞こえた気がした。
変身している間に、Jr.に怪我を負わせてしまったのだ。
傷がどれほどのものかはわからないが、玄関まで血が続いているという事は、Jr.は怪我をしながらも何とか逃げ出したのだろう。だが――
(怪我をした体でどこへ行ってしまったんだ……)
階下の電話が鳴る。ほっておこうと思ったが、なぜか体はそうしなかった。階段を下り、受話器を取ると、第一に、聞きなれた声が飛び込んだ。
「やあおはよう」
所長ボルトの声。こんな時に聞きたくない声だ。スペーサーが何も返答しないでいると、再びボルトの声が聞こえたが、それは、妙に重かった。
「こんな時間に何の用だと思っているんだろう。じゃがな、どうしても君に伝えねばならんのじゃよ。だから何度も夜中に電話をかけたんじゃが、君は出なかったな」
やや間があった。
「研究所の専用病棟におるんじゃよ、Jr.が」
スペーサーの体が、固くなった。
専用病棟とは、クローンの患者専用病棟である。培養液で生成されるクローンには、一部、ヒトと異なる治療法を必要とする病気や怪我がある。羊水で受精卵から育つのではなく、培養液で、急速な細胞分裂と人工栄養素の大量供給で育てられるため、細胞分裂速度やヘモグロビンの働く速度などの細かな点がヒトと異なる。これは、クローンがオリジナルの臓器のスペアとして利用される事を防ぐために特別に考案された培養方法のためだ。
ボルトはその病棟の管理人でもある。
「怪我をしていてな、しかも出血の為に危うく命を落とすところじゃったよ。怪我をしながら走ったせいだな。わしが偶然あの道路で虫さがしを――おっと、とにかく、Jr.は専用病棟におる。増血剤と手当の結果、何とか意識を取り戻したが、今は薬を打って寝かせてある。しかし、Jr.の怪我といい、君、何かやったんかね」
「あ、いやその……」
曖昧に返答したが、スペーサーの声はひどくかすれていた。
「まあとにかく、こうして電話もつながったんだ、すぐ来てくれんかね。専用病棟だよ、わかっておるな」
返答もせず、スペーサーは電話を切った。
研究所の裏側には病院があり、専用病棟はそのすぐ東に建っている。小ぢんまりした三階の建物ではあったが、ほかのクローン専用病院よりもはるかに進んだ、すぐれた設備がそろっている。
スペーサーは、破れた服を着替えた後、車を飛ばしていつもの駐車場に車を停めた。病院の駐車場でない事を思い出したが、裏手に回ればすむことなので、そのまま走った。
病棟の入り口へ飛び込むと、受付の側にボルトがいた。息を切らして飛び込んできたスペーサーを見て、深刻そうな顔を向ける。いや、実際深刻なのだろう。
「二階の二〇号室におるよ」
それだけ言った。スペーサーは礼も言わず、彼の側を走って通り抜け、エレベーターを待つのも面倒なので階段を駆け上がった。
二〇号室はすぐ見付かった。階段を上がって、すぐ右へ曲がれば、その病室のドアが見えたのだから。『静かに』と書かれた札など何処吹く風、スペーサーはドアを勢い良くガラリと開けた。
「Jr.!」
専用個室の中に、Jr.は寝かされていた。眩しくない程度に日の当たる位置にベッドが置いてあり、その周りには点滴と、薬のトレーを載せたサイドテーブルが置いてある。
Jr.は眠っていた。入院着の下に見える肌を見ると、肩と胸に包帯が巻かれ、腕には増血剤の入った点滴がつけられている。顔色は悪く、悪夢でも見ているのか、安らかな寝顔とはいえない。
スペーサーは、Jr.が無事だった事への安堵がこみ上げるのと同時に、Jr.に怪我を負わせてしまった自責の念が頭をもたげてくるのを感じた。自分の意識のなかった間の出来事とはいえ……。
「どうも、Jr.の様子がおかしいんじゃ」
いつの間にか、ボルトがいた。
「手当の結果、意識を取り戻したのは良いが、何かに怯えているんじゃよ」
「怯えている?」
「しきりに蜂が蜂がと繰り返してなあ、目覚めて意識がはっきりしてきた途端に震え上がって、泣きだすんじゃ。だから、薬を打って寝かせてあるが、そろそろ目覚める頃じゃろう。君の顔を見れば少しは落ち着きを取り戻すかも知れん。だから、しばらく側にいてやってくれんかね」
ボルトはそれだけ言って、個室を出て行った。
Jr.が目覚めたのは、それから間もなくの事だった。スペーサーは、室内に置かれている椅子に座ってじっと彼を見つめていたが、Jr.が目を開けると、ほっと胸をなでおろした。
意識がはっきりし始めたらしいJr.は目の焦点が合い始め、続いて、スペーサーの顔を認識する。
「私がわかるか、Jr.」
スペーサーはなるべく自然に問うた。Jr.は相手をじっと見つめていたが、やがてその寝ぼけ眼が急激に大きく見開かれた。
喜びの声を上げるかと思いきや、Jr.はベッドの上に飛び起きるなり、震え上がった。
「ど、どうしたんだ……」
スペーサーの差し伸べた手を、相手は強く振り払った。ただでさえ青白い顔から更に血の気が引いていくのが、目に見えてわかる。逃げようとして下がるが、ベッドの柵にぶつかる。それでも逃げようとするJr.を落ち着かせようと、スペーサーはもう一度手を伸ばすが、Jr.はまたしても振り払う。
「来るな!」
甲高い声で、Jr.は叫んだ。体はガタガタ震え、その真っ白な顔には、恐怖が満ちていた。また逃げようとするが、今度は血が足りなかったのか、ぐらりと体が前に倒れ、ベッドにうつぶせになった。それでも、スペーサーを見る目には、恐怖が満ちていた。
ボルトがアシスタントロボットと共に入ってきて、仰天する。
「どうしたのかね、怪我人を動かすなど――」
ロボットがJr.を起こし、寝かせてやる。しかしJr.が逃げようと弱弱しく抵抗するので、ロボットはプログラムどおり、薬を首筋に注入する。効き目はすぐにあらわれ、Jr.の目はすぐに閉じられ、体はベッドの中に沈んだ。
「全く、一体どうしたというのだね。Jr.が君を見て嬉しさのあまり興奮した――ようにはとても見えなかったが」
しかし、問われてもスペーサーは答えられなかった。差し伸べようとして振り払われたその手をじっと凝視していたのだから。ボルトは彼が無反応であることに気づいて、ロボットと共に個室を出て行った。一人にしておくほうがいいと考えたのかもしれない。
一人になっても、スペーサーはそれに気づかなかった。ショックが大きすぎて、周りのことなど何もわからなかったのだから。
Jr.に拒絶されたのは、初めてだった。
培養装置を出されたときから、スペーサーの後をどこへでもついてきて、言いつけには素直に従った。その言動を観察する限り、親を慕う幼子のようなJr.を見る限り、嫌われているとは思わなかった。
だが今は違う。
スペーサーの存在自体を、Jr.が拒絶している。
変身を目の当たりにし、怪我を負わされたのだ。肉体的にも精神的にも、Jr.の受けた傷は相当深いはずだ。オリジナルが異質なる存在に変わる衝撃、巨大な化け物に襲われた恐怖。スペーサーを見ただけで、恐怖に満ちた目をむけ、差し伸べた手を振り払い、逃げようとした。それほどJr.は怯えきって、心を閉ざしてしまっているのだ。
柔らかな日差しが、薬で眠らされたJr.の寝顔を照らす。真っ白な顔の寝顔は、苦しそうなものだった。終わらぬ悪夢でも見ているかのような。
五分後、部屋はJr.一人だけになっていた。
Jr.の容態は良いとは言えない。肉体的な傷は二週間もあれば完治するが、眠りから覚めるたびに火がついたように泣き出すか毛布に包まって隠れてしまうので、精神的な傷を癒すのはかなり時間がかかるだろう。
ボルトの説明もほとんど耳に入らなかった。スペーサーは半ば上の空で帰宅した。車を車庫に入れた後、道で近所の住人と出会う。
「あらあら、お久しぶりねえ」
「ええまあ」
スペーサーの答えはそっけない。しかし相手は気にせず、喋る。
「今日は一緒じゃないのね、Jr.ちゃんと」
「……Jr.は旅行に行っているんです」
「あらそう。でもちょうど良かったわね。Jr.ちゃんの元気がないものだから」
「元気がない?」
「あら、あなた気がつかなかったの。ここ数日、蜂に刺されて死んじゃう事件が多発しているでしょう。それが皆、わたしの知る限りじゃ、Jr.ちゃんを好いてない感じの人だけだったのよ。だから、近所中が噂で持ちきりよ、もしかしたらJr.ちゃんがこの蜂の事件を起こしているんじゃないかって」
スペーサーの背筋に、冷たいものが流れた。
「でもねえ、ただの噂よねえ。人間が蜂に命令して人間を殺させる、なんて事できるわけないのにねえ。あんなにいい子のJr.ちゃんなのに。うちの子もJr.ちゃんの事は実のお兄さんみたいに慕っているのよ。Jr.ちゃん気の毒にねえ。この噂のせいで、周りの人がJr.ちゃんを犯人かなんかだと思ってるみたいなの。だからここ数日、Jr.ちゃん、笑顔を見せてくれなくなったの」
それから五分ほど一方的に喋った後、相手は去った。
スペーサーはその背中を見送りながら、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
(馬鹿な……何もかも裏目に出てしまっているなんて)
Jr.の元へ届けられる中傷の手紙や、嫌がらせを止めたかった。そのために薬を使い、近くの蜂たちを引き連れて、襲わせた。これでJr.に対する手紙や嫌がらせを断てたと思っていた。だが、Jr.は、近所の人々から、蜂事件の犯人かもしれないという根拠なき噂によって、排除されかけている。スペーサーの考えていた結末とはあまりにも違いすぎる。スズメバチに見張りをさせ、中傷の手紙を届けたり嫌がらせを仕掛ける者をことごとく消したのも、Jr.を喜ばせたかったから、嫌な思いをさせたくなかったから。だが彼のためを思ってやったことは、成功どころか、逆効果だった。Jr.が近所から孤立しつつあるだけではない、オリジナルの変身した巨大なスズメバチに襲われて心身ともに深い傷を負い、怯えて心を閉ざしてしまった。Jr.はどんどん傷ついていくばかりだった。
「私は、どうすればよかったんだ……?」
どんよりと曇り始めた鉛色の空に、その言葉は吸い込まれていった。
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