第6章 part2



 闇の中、無数の羽音に追われていた。
 羽音の正体は無数の虫の群れ。しつこく追いかけてくる。必死で走るが、やがて追いつかれる。虫たちは周りを取り囲み、檻を作る。進む事も引き返す事もできない状態に追い込まれた。
 檻が開かれ、その向こうから、大きさがヒトほどもある虫が姿を現した。
 巨大なスズメバチ。
 スズメバチは体をがしっと乱暴に鉤爪で掴み、喉笛に食いついた。血が飛び散ったが、痛みはない。スズメバチはそのまま体を裂き、食いちぎった。血の海が広がり、体はバラバラになった。
 スズメバチは食いちぎるのを止める。すると、その姿が見る見るうちに変化する。ヒトだ。自身のよく知っているそのヒトは、血の海に一瞥をくれることもなく、きびすを返して、闇の中へと歩き去っていった。虫たちもその後を追って闇の中へ消えていった。
 取り残された、血の海に横たわるバラバラの体。痛みなど感じない。死んでもいない。やがてその血の海すらも闇の中に飲み込まれ始める。体が沈み、闇の中へ消えていった――


 月曜日の早朝五時半。
 眠れなかった。
 スペーサーは溜息をついてデスクから身を起こす。スタンドの光を消すと、ティッシュに包まっていたスズメバチが姿を見せる。
『おや、早いね』
 スペーサーは答えず、着替えて階下へ降りた。スズメバチはついてきた。
 食欲もなかったので、何も食べずに椅子の上の鞄を取る。そのまま家を出て車に乗る。モノクロの、ほとんど車の通っていない道路を走る。研究所の駐車場に車を止めた後、研究所に入る前に、専用病棟へ向かう。指紋鍵のかけられたドアに手を触れると、すぐにドアが開き、入るとドアは閉じてロックがかかる。研究所の研究員全ての指紋が登録されているため、必要なときはいつでも入れるのだ。
 受付の機械が彼の指紋と虹彩を認識し、見舞い許可を出す。スペーサーはそのまま階段を上り、二〇号室のドアをそっと開け、中に入る。
 弱いオレンジの光に照らされている部屋。Jr.はベッドの中で眠っている。寝顔は、良いとは言えない。
『ありゃ。姿が見えないと思ったら、この巣にいるんだね。いつ巣を変えたの?』
 白衣の襟の裏から、スズメバチが顔を出した。
 スペーサーはJr.に手を差し伸べ、頬に触れた。冷たい。
「!」
 指先に感じた、頬の柔らかさとは別の感触。ほんの少し、指先が濡れる。
 涙だった。
 スペーサーが部屋を出てすぐ、うめき声を上げ、Jr.が目を開けて飛び起きた。飛び起きた音に気づいたスペーサーは、部屋に戻ろうと思ったが、ドアの陰に立つだけにした。入っていっても、Jr.がまた興奮してしまうかもしれないからだ。
 ベッドに起き上がったJr.はしばらく息を切らしていたが、やがてうつむいて、声を上げて泣き出した。何故泣き出したのか、スペーサーには分からない。悲しいのか、怖いのか、それすらもわからない。
 Jr.は一時間以上も泣き続けていた。泣き止んで、落ち着いてくると、周りを見渡す。そして涙で濡れた毛布の中に包まる。何かから身を守ろうとするかのように。よく見ると、その毛布の包みが、震えている。
 怯えている。
 Jr.に何か声をかけてやりたかった。が、スペーサーはドアの陰に立ったまま、部屋の中には動けなかった。
 五分後、廊下には誰もいなくなっていた。

 研究所。
 器具をそろえ、自分の血液を採血した彼は、自分の血液をチェックする。
 うめく。
 ハチ毒との融合が進んでいる。それも、予想以上に。これ以上融合が進めば、薬を飲まなくても勝手に変身してしまうだけでは済まないだろう。視界や味覚の変化からも考えて、最終的には、ハチ毒そのものに体を乗っ取られて『化け物』になるかもしれない。研究と人体実験の間は気づかなかった。いや、気づいても気づかぬふりをしていたのだ。
 研究室の時計が、六時半を告げた。
 スペーサーはノートを広げ、新しいページにボールペンで何やら書き始めた。

 研究室の隅を、ジョロウグモが這っていった。

 昼の強い日差しは、雲とレースのカーテンによってある程度遮られており、室内には眩しすぎない光だけが入ってきていた。
 病室のベッドの上に、薄い朱色の毛布の塊が置かれている。その塊の下にはJr.が隠れていた。昼食のときも、毛布の下からは出てこないで、毛布の下で食べていた。小鳥の声がさえずる今は、恐怖心もだいぶ和らいでいたが、それでも毛布の下からは出ず、じっとしていた。
 胃に血が周り始めて、眠たくなってきた。だが彼は、昼寝したくなかった。眠ると、また夢を見るからだ。自然に眠っても、薬で眠らされても、繰り返し同じ夢を見てしまう。それが嫌だった。
 虫たちに追われ、巨大なスズメバチにバラバラになるまで体を食いちぎられ、誰にも助けてもらえずそのまま闇の中に飲み込まれる夢。
 ベッドのシーツをぎゅっと握り締めた。
 眠りたくない。
 帰りたくない。
 帰れない。
 怖い。
 窓の外で、虫の羽音がするたびに、彼は毛布の中で身を縮め、音が去るのを待った。

 スペーサーが研究所を出たのは、深夜を少し過ぎた頃だった。車に乗る前に、裏の病棟へ行き、指紋鍵のロックを外す。受付を済ませようとしたが、ロボットはメッセージを出した。
『ブー。二〇号室ノ患者トノ面会ハ、管理者権限ニテ禁止トナッテオリマス』
「なんだって?!」
 スペーサーは面食らった。管理者権限ということは、ボルトがその命令を出したという事になる。だが何故……?
『オヒキトリクダサイ』
 受付の機械は、無慈悲に同じ言葉を繰り返す。階段やエレベーターにはバリケードが作られ、外部からの侵入を遮っている。いつもはバリケードなど張り巡らされていないのに。
『オヒキトリクダサイ』
 何とか入ろうとするスペーサーを軽々とその両腕で持ち上げ、離せと暴れる彼をそのまま病院の外へ放り出してしまった。
「いてて。しかし、一体どういうことだ……? 突然面会謝絶とは、所長が何かしたのか?」
 乱暴に放り出されて腰を打ったため、しばらく立てなかった。

 翌朝。
「なぜ面会謝絶にしたのですか?!」
 スペーサーは、所長室の黒檀のデスクを叩くところだった。
 椅子に座って書類を眺めるボルトは、ふうと溜息をついた。
「Jr.の様子は見ただろう。君を見ただけで、怯えておった。怪我に加えてあの怯えようはただ事ではないわい。一昨日は君を見ただけで怯え、昨日は一日ベッドから出てこなかったからのう」
「しかしそれだけで――」
「それだけ、だが」
 ボルトは遮る。
「あの体の傷がどうやってついたのかは聞かんが、クローンがあれほどオリジナルを拒絶するという事は、あってはならぬこと。子供が親から虐待を受けるのと同じくらいにな」
「私は本当に何も知らない……」
「本当に何も知らなくとも、あの様子が続く限り、君と会わせない方がJr.のためにもなるだろうて。あれでは傷が治っても家に帰すことはできんからな。それに――」
 意地悪な目で、スペーサーを見た。スペーサーはその目で見られると同時に、得体の知れぬモノに見張られているような、奇妙な感覚に支配された。虎視眈々と獲物を狙う獣のような目。彼は思った。
「事と次第によっては、Jr.に対する君の親権が政府によって取り消されるかもしれん。あれだけオリジナルの君を拒絶しておるんだ。親権が取り消されれば、Jr.はただの君の複製でしかなくなり、政府の特別機関が彼を引き取って管理することになる。それは、君にとっても避けたい話ではないのかな?」
「……」
「なあに。怪我が治るまでの間、様子を見るだけじゃて。それまで待つだけじゃよ」
 スペーサーは返す言葉もなく、歯軋りしてうなだれた。
 所長室を出る前、ボルトはスペーサーの背中に言葉を投げた。
「なあに。君も、しばらくはやりたい事を、Jr.の目を気にせずやれるじゃろうて」
 何も言わず、スペーサーはドアを閉めた。
 自分の研究室へ戻ってきたスペーサーを、スズメバチが出迎える。
『おや、遅かったね』
 食べかけのゼリーから離れて、彼のもとへ飛んでくる。スペーサーは浮かない顔のまま、ドアを閉め、椅子に座った。デスクの上には、あのノートが無造作に放られているまま。
『どうかしたの。浮かない顔しちゃって』
 スズメバチは白衣の襟に降りると、彼の首筋をそっと噛んだ。針で刺すような痛みが走る――はずなのだが、今の彼は痛みなど感じる余裕がなかった。
「ふん。Jr.の目を気にせずやれ、か……」
 ノートに手を伸ばし、パラパラとめくる。書きかけの項目がいくつも見付かる。これは変身のための研究の後で新しく開始した研究のメモだ。
 怯えきったまなざしの、怪我をしたJr.の姿が、目蓋の裏に焼きついていた。
 あの眼で見られるのは、もう嫌だ。

 今日は曇り。どんよりした灰色の雲が空を覆い隠している。雨が降るのか、外はしけっぽい。が、適温のクーラーがつけられた院内には関係のない事であった。
 専用病棟のただ一人の入院患者であるJr.は、相変わらず、毛布の下に潜ったままであった。増血剤の投与のおかげで、不足していた血液はほぼ元に戻ったし、クローンの肉体的な傷の治りが早いこともあって体の傷は時々うずく程度になっていた。
 毛布の下で、Jr.は眠そうな顔でうつらうつらしていた。昨夜は何とか寝まいと頑張っていたからだ。カフェインの摂取をしたかったが、傷を負った体では、かえって毒だ。
 病室のドアが開いて、人の足音が聞こえ、部屋に入ってきたのがわかる。
「具合はどうかね」
 ボルトの声だ。何年も前に研究所で一緒にスペーサーと研究をしていたときに毎日聞いていた声。今も覚えている。顔は忘れてしまったが。
 Jr.は毛布のふちから顔を覗かせる。丸っこい老人の顔が目に飛び込む。ああ、こんな顔してたっけ。Jr.はすぐ思い出した。
「血液は標準値まで戻ってきたし、君の顔にも血の気がさしておるのお。ちょっと採血して検査したいから、腕を出してくれんかね」
 片腕だけを出す。ボルトはその腕を消毒した後、注射針を刺して血を吸い取る。終わると止血剤を塗った。
 ボルトは礼を言った後、病室のカーテンを閉める。外の光は、分厚いカーテンに遮られ、電気のついていない室内は薄暗くなった。
「そんなに外が気になるなら、閉めておいたほうがいいかのお。そんなに毛布の下にいるほど眩しいのなら――」
「……そうじゃないんです」
 Jr.は毛布をひっかぶった。
「蜂が……蜂が来るから、隠れてるだけ――」
「蜂とな。ううむ。一昨日の夜も、意識が戻ってすぐにそう口走ったのお。安心せい、蜂なんか入ってこないから、出てきて――」
「いやです!」
 Jr.は毛布の下から出ようとしなかった。
「また僕を殺しに来る――また殺しに来る……」
 枕が毛布の中に引き込まれ、毛布の包みが震えた。
 ボルトはそのまま、何も言葉をかけずに、そっと出て行った。
「そうか、蜂が殺しに、か」

 Jr.が退院するまで、約二週間。
 スペーサーは、仕事が終わった後、また別の研究を開始した。今度は変身の研究ではない。その逆の研究だ。
 時計の針がコチコチと時間を刻む。スペーサーは手を休めず、ノートにボールペンを走らせ続けている。家に帰る気はない。そんな暇があったら研究に没頭していたほうが良い。
 あの時と同じように。
 夜中を過ぎ、午前三時を過ぎ、やがて夜明けの光がブラインドの隙間から部屋に差し込んできた。が、スペーサーはボールペンを走らせる手を決して休める事無く、ノートに書き込みを続けている。
 時計が朝の九時を示す頃、初めて彼は手を休めた。
「ああ、もうこんな時間か」
 呟いて、背伸びをして立ち上がる。スズメバチが襟の下に潜って、ついてくる。
 トイレで用を足し、渇いた喉を給湯室で潤した後、彼はまた部屋に戻った。
『あんた結局寝てないんだねえ』
 目の下のくぼみを見て、スズメバチは翅を広げた。
「徹夜には慣れてるから」
 スペーサーはそれだけ言って、今日の研究の準備を始めた。
(期限は二週間。それまでに、どれだけ研究を進めておけるか、私の気力次第だな)


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