第7章 part2
Jr.の体の傷は完治していた。入院期間はわずか二週間であったが、Jr.は少し痩せていた。
ベッドに起き上がって、ボルトから差し入れてもらった本を読んでいた。部屋のカーテンと窓、ドアがきちんと閉まっていれば恐怖心はわかなかったが、それでも虫の羽音が窓越しに聞こえてくると、毛布を引っかぶった。
本にしおりを挟んで閉じた後、Jr.は毛布の下で溜息をついた。
退院まであと二日。家に帰るか、施設に行くか、まだ決められずにいた。友人が引き取ってくれるといったがそれは最後の選択肢だ。
病室のドアがノックされ、ボルトが入ってきた。
「やあ、だいぶ元気を取り戻せたようじゃな」
満面の笑顔。その手には、Jr.の見慣れた鞄を持っている。
「まずは、回復おめでとう」
「ありがとうございます」
Jr.は毛布の下から顔を出し、元気のない声を出す。
「どうしたんじゃ、元気がないな。もうじき退院だというのに。おお、そうじゃ、知らせておかねばならんことがあったな」
手に持った鞄を見せる。
「実はな、政府の急な要請により、君のオリジナルはしばらく出張しなければならなくなった」
「そうですか」
感情の変化の全くない声。
「なんじゃな、そのリアクションは。まあいい、とにかく君は帰宅するか、施設に行くか、早く決めなさい。施設に行くなら、手続きをせねばならんからな。……それとも、もう決めたかね?」
「いえ」
Jr.は首を振った。
「わからないんです、どうしたらいいのか……」
帰宅しても誰もいない。オリジナルが休日以外に家にいないのはいつもの事。とはいえ、仮にオリジナルが家にいたとしても、オリジナルに「おかえり」と出迎えてもらいたいのか、それとも顔をあわせたくないのか、Jr.にはまだ分からなかった。
「そうかね。しかし、施設へ行くための手続きは最低でも今日中には済ませねばならんからな、夕食のときに、返事を聞かせてもらうよ」
「はい……」
ボルトは、鞄だけを置いて、去った。
Jr.は、サイドテーブルに置かれた鞄を見つめた。
(帰るべきなんだろうか……)
わからない。
窓の外を、ジョロウグモが這っていった。
退院の日。
Jr.は、オリジナルの鞄を手に持って、病院を出た。
彼は、家に帰ることにした。
送っていこうかというボルトの提案を断り、彼は歩いて帰った。車で三十分かかる道のりは、退院したてのJr.には少しきつかったが、一人で帰りたかったので、徒歩での帰宅を選んだ。
朝の八時過ぎに病院を出て、家に着いたのは十時半過ぎ。鞄から鍵を出して開け、中に入る。
「ただいま」
言っても、誰もいない。分かりきった事。
リビングに行くと、カーテンが閉めきられているのが見えた。オリジナルは夜しか家にいないのだから、開け閉めするのも面倒になってしまったのだろう。Jr.はカーテンを開けて光を中に入れる。
光の入ったリビングを見て、Jr.は思わず声を漏らす。
「うわ」
掃除していないらしい。埃が床に落ちている。テーブルを指で触ると、埃がついて指が汚れた。
キッチンに入り、冷蔵庫を開ける。ほとんど空だ。しばらく何も買っていないらしい。
(きっとろくに食べてないんだろうなあ、あの頃のように)
賞味期限が四日以上過ぎたミルクが入っていたので、流しに捨てた。
オリジナルはまた体重を落としただろう、数キロほど。
冷蔵庫を閉め、Jr.は自室に向かおうかと階段を上りかける。
足が二段目で止まる。
体が震えた。
『アレ』に襲われたときの光景が、目の前に鮮明によみがえってきたのだ。オリジナルの姿が見る見るうちに変化し、続いて、襲い掛かってきた。鉤爪を肩につきたてて、体を引き裂こうとし、食いちぎろうとした。
何かがドサリと落ちる音がして、Jr.は我に返った。振り返ると、ソファの上に置いた鞄が床の上に落ちていた。
リビングへ引き返し、鞄を拾ってソファにおきなおした。
やっぱり、行けないや。
あそこには。
財布を取り出し、買い物に出かける。賞味期限切れのものを全部処分すると、冷蔵庫の中は完全に空になってしまったからだ。
商店街へ行くと、どこからか主婦達が集まってくる。彼を取り囲み、口々に問うた。旅先はどうだった、なんだかやつれてるけど何かあったの。問いかけの内容から、自分が旅行に行っていた事にされているのだとわかったJr.は半分正直に、旅先でちょっとした事故にあって、現地の病院にいたと答えた。主婦達は口々にJr.を心配する言葉を発し、買い物袋から、果物や野菜など、買った物を少しずつ分けてくれた。断る暇もなく、Jr.はそれらを全部受け取る羽目になった。
「あ、ありがとうございます……」
Jr.は、次々に押し付けられるものを受け取りながら礼を言うのが精一杯だった。その一方で、胸が、続いて目頭が熱くなるのを感じた。
(皆、僕を心配してくれてるんだ……)
そのまま彼は帰宅した。
帰宅後、彼は家の中を掃除した。玄関から物置に至るまで、はたきでほこりを落とし、掃除機をかけ、雑巾がけをした。洗えるものはすべて食器洗い機で洗い、あるいは洗濯機に突っ込んだ。
数時間後、階段の上にある二つの部屋を除いて、家中が綺麗になった。よく晴れた空の下、洗濯物をベランダに干し終わり、Jr.は一息ついた。これだけ大掃除をしたのは久しぶりだった。
とうの昔に昼を過ぎていたが、昼食を作る体力は無かったので、口笛を吹きながらリンゴを四つに切り、皮を少しむいて、ウサギリンゴを作った。それを食べながら、Jr.は外の景色を見つめていた。何でもない、目の前に道路があり、時々車の通過する景色。時々小鳥が窓の柵に停まって、すぐに飛びさるのが見える。開かれた窓から、涼しい風が優しく吹いてきて、Jr.の体をそっとなでた。
Jr.は食べながら思った。家中を掃除してしまいたかった。そして綺麗になった。食器はすべて洗ったし、洗濯物は綺麗に洗って干した。だが、なぜ急に掃除したくなったのだろう。何もかも綺麗にしたくなったのは、何故なのだろう。そして掃除と洗濯が終わった今、急に心の中が空っぽになったように感じるのは何故なのだろう。
ふと、外から虫の羽音が聞こえた。Jr.は反射的に立ち上がって、窓をピシャリと閉めた。
まだ駄目だ。
羽音が聞こえなくなっても、Jr.は窓を開けなかった。
それから二、三日過ぎた。オリジナルは帰ってこないまま、研究所からも何一つ連絡は来なかった。Jr.はその日その日を、リビングでぼんやりとソファに寝転がって過ごしていた。まだ、部屋には戻れなかった。戻りたくもなかった。
オリジナルの鞄は、ソファの上に置きっぱなしにされたままだった。手をつけられてすらいない。ほんの少しほこりをかぶって、大人しくソファの一角に収まっている。
昼ごろ、Jr.はソファから起き上がった。先に、すっかり乾いた洗濯物を取り込んで畳み、片付けた。それから昼食だ。ここ数日、果物とサラダだけで食事を済ませてきた。今日も、オレンジとグレープフルーツを半分に切って、昼食はおしまい。
食べ終わって、皿を片付けていると、床の上に何かが落ちる音がした。振り返ると、オリジナルの鞄が床に落ち、中身を床にばら撒いている。皿を先に片付け、Jr.はリビングへ戻って鞄を拾い上げ、ソファの上に置きなおす。それから中身を片付けにかかった。
財布や手帳を拾っているとき、Jr.の手は、ある手帳の上で停まった。いろいろな事がびっしりとページを埋め尽くした手帳。ちょうど表紙が開いており、彼はそのページの中を見たのである。
「……!」
いくつかの公式や数式が並ぶ。そしてその隣に書かれた遺伝子工学専用の公式。それらを目にしたJr.は、震える手でその手帳を拾い上げる。最初のページを開いて、手帳の内容を見る。日付は今から半月以上前。メモの内容はすべてオリジナルの筆跡で書かれている。Jr.はその内容を次々に読む。培養中に彼に与えられた医学と遺伝子工学の知識が、メモされた項目を次々に分析していく。
最期のページに目を通し終えたJr.は、手帳を落とした。
「そ、そんな……」
Jr.は、目の前に書かれた事柄すべてを、信じられなかった。
「そんなことをしていたなんて……」
本当に、信じられなかった。だが、この手帳に書かれている事はすべて本当のこと。
「ねえ、わかってるはずじゃないか……」
Jr.の手から手帳が落ちた。
「わかってるはずじゃないか! そんなことすれば、いずれ自分がどうなるか、わかってるはずじゃないか!」
Jr.は虚空に向かって叫んだ。
誰も答えてくれるものはいなかった。
(なんで、気づかなかったんだろう……『こんなこと』になっていたって事を)
目の前に落ちた手帳に目を落とし、Jr.は思う。妙に心臓がドクンドクンと早く脈打っている。
手帳の最初のページには、この研究を始めたきっかけが簡潔に記されている。
『映画《狼男》』
以前、リビングで一緒に観た映画。オリジナルはあの映画をきっかけに、この研究を思いついたのだ。
ページの中に、ハチ毒の成分の化学式が記されている。ハチ毒を起爆剤として、狼男が満月の光を浴びて変身するように、薬を服用する事で変身できるように、少しずつ自分のカラダを変えていったのだ。より変身に適したカラダになるように。そして、よりヒトに近づいたカタチのスズメバチになるように。
蜂蜜の摂取量の増加、なま物を好む味覚の変化、些細な事への過剰な苛立ち、そして言葉では説明できない《何か》の変化。
オリジナルは、研究を重ねるたびに、ハチ化していたのだ。もしかすると、Jr.の目には届かない肉体的な変化もあったかもしれない。手帳のメモから察するに、ハチ毒とオリジナル自身の融合は恐ろしく進んでいたのだろう。そして、あの夜、薬を飲んだかは不明だが、スズメバチに変身して、Jr.を襲ったのだ。
(気づかれないように、日ごろの研究を表向きの理由にして、いつもの研究が終わった後で、この研究をやってたに違いない。誰もいなくなる時間帯まで残るなんて珍しくもないし……)
考えるJr.の頭の中に、一筋の考えが浮かんだ。しかしこれは、オリジナルに直接問いたださねば、わからないことだった。
Jr.は手帳を握り締めて、暑い日差しの中、走っていた。家のドアにはちゃんと鍵をかけてある。彼は、ボルトの家を目指していた。オリジナルの鞄の中にある名刺から、ボルトの住所を見つけ出したのだ。
ボルトなら政府の機関にかけあってオリジナルを出張から呼び戻してくれるかもしれない。もしそれが出来なくても、この手帳に書いてあることを見せれば、オリジナルの体を元に戻すために、何か手を打ってくれるかもしれない。
Jr.は三十分後にボルトの家に着いたが、くたくたに疲れきっていて、肩で息をしていた。
小さな庭を通り抜けて玄関先まで歩いていったが、その庭に、大小さまざまな蜘蛛の巣が張り巡らされている事に、彼は全く気づかなかった。やかましくセミがミンミンと鳴き喚いていても、彼はセミの声など全く気づいていなかったくらいだ。
呼吸が落ち着くまで待って、インターホンを押す。しばらくしてボルトが出てきた。
「おや、何だ! いつのまに――ああ、Jr.か」
一瞬オリジナルと間違えたらしい。そっくりなのだから無理もないが。
ボルトは咳払いした。
「退院して間もないのに、よく来てくれた。もしかして、歩いてきたのかね」
汗だくのJr.を、ボルトは上から下まで眺める。
「まあ、入んなさい」
室内に入れてもらって初めて、Jr.は、今日が休日だと知った。カレンダーを見ていなかった。今日が平日だったら、自分はどうする気だったのだろう。すごすごと引き返したかもしれない。
リビングに通される。クーラーがほどよくきいていて涼しい。しかし、一方で、何か、無数の視線のようなものがJr.を取り囲んでいるような感じがした。リビングの様々な場所に誰かが潜んでいるような――
体を硬くして椅子に座っているJr.に、アイスティーが出される。ボルトに近づかれると、なぜかJr.の体はますます硬くなる。そして、何かがおかしいと一瞬だけ頭の中をよぎるものがある。それは、彼がオリジナルに対して抱いていた疑惑と全く同じものであった。
「さて、何かあったかね? 君のオリジナルはまだしばらく外に出ておるが」
「実は――」
Jr.は、持ってきた手帳を見せた。ボルトは手帳を受け取り、ページをめくる。時々興奮したような荒い鼻息が聞こえ、うなずきがあった。
「フム、なるほど」
読み終わったボルトは手帳を閉じた。
「この手帳の事を伝えたかったのかね」
「そうです。だから、オリジナルをすぐに呼び戻して欲しいんです」
「なぜ呼び戻して欲しいのかね」
「それは――個人的に聞きたい事があるんです。それだけ……」
本当にそれだけなのだろうか。言った直後にJr.は自問した。
ボルトは難しい顔をした。
「残念だが、わしには君のオリジナルを呼び戻すだけの権限はないのだよ。政府の連中の頭は固いでな」
「……」
「そのかわり、オリジナルが戻り次第、すぐに君には知らせる事にしようか」
「お願いします!」
Jr.は、震える体を落ち着かせようと、出されたアイスティーを一口飲んだ。周りの視線が急激に増えた気がする。落ち着いて座っていられない。
「では、Jr.、君を――」
ボルトの声は途中までしか聞き取れなかった。
Jr.の体からは、力が抜けていった。
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