第8章 part1



 自分の意識がぼんやりと戻るのを、Jr.は知覚した。
 頭の中がぼんやりする。
 目の前に霧がかかっていて、よく見えない。体の感覚が徐々に戻り始め、自分がどこか固い場所に横たわっている事は分かった。埃のにおいが辺りに充満している。重い目蓋を開けると最初は闇しか飛び込んでこなかったが、徐々に目が慣れてきた。上から弱い光が降り注いでいる。どうやら窓らしい。
 体に少しずつ力を込めてみる。しびれがあったが、すぐに取れてきた。腕を上げ、肘と膝を使って体を起こす。座って、しばらくぼんやりした顔で周りを見た。何やらごちゃごちゃと箱やら棚やらが置かれており、厚く埃が積もっている。ここは倉庫だろうか。
 光のあまり届かない隅っこに、何やら厚いレースのカーテンらしいものが幾重にも垂れ下がっている。何だろうとぼんやり考えながら、立ち上がる。
 顔に何かが触れた。
 慌てて払うと、それは、蜘蛛の糸だった。
「うわ。蜘蛛の巣……」
 Jr.はぶるっと身震いした。幸い巣の主はいないようだった。
 光を頼りに、入念に周りを見回す。目が慣れてきた今、自分の視界の中に、無数の蜘蛛の巣が張り巡らされている事を知った。
「うわ」
 蜘蛛の苦手なJr.にとって、ここは地獄だ。早く出たいと思いつつ、自分が何故この場所にいるのか、この場所の出口は何処なのか、何もかもさっぱり分からない状態で、半ば混乱していた。冷静に考える余裕はほとんどないと言っていい。それでも、混乱状態のJr.を落ち着かせたのは、この奇妙な場所の奥にある、暗がりのレースのカーテンだ。あの奥に何かあるかもしれない。そう思って、彼は、周りの蜘蛛の巣に気をつけながら、そっと歩いた。
 少しずつ奥が見え始める。あれは何だろう、確かめたいという好奇心が沸いているJr.は、周りの蜘蛛の巣が体に引っかかったとき以外は、そのレースらしいものを注視していた。
 わずかな光でも、この場所がほぼ完全にみえるようになった時、Jr.はこの、目指していたものの正体を知った。
 蜘蛛の糸のカーテン。幾重にも折り重なり、壁から床へと入念に張り巡らされたそのカーテンは、わずかな太陽の光を浴びて、弱々しく光を放っていた。
「うわ。こんなでっかい巣があるなんて」
 幸い巣の主はいない。
 こんなもの見るんじゃなかった、と、Jr.は溜息を漏らした。
「ああ、そうだった。出口を探さないと」
 後ろを向いて、その蜘蛛の糸のカーテンを視界から消した。蜘蛛の巣を見ないように、先ほどの倍以上に注意を払う。
「探すには及ばんよ」
 どこからか声が聞こえた。
 ボルトの声だ。
「しょ、所長さん?」
 Jr.はきょろきょろした。しかし声の主の姿は何処にも見えない。
「どこにいるんです?」
 Jr.の呼びかけに、相手は応えない。なおも彼がきょろきょろしていると、あまり光の届かない天井から、何かが音もなく降りてきた。
「ここじゃよ」
 彼の背後に降りてきたそれは――
 振り向いたJr.は、悲鳴を上げ、血の気の引いた真っ青な顔で尻餅をついた。
 ヒトほどもある大きさの、巨大なジョロウグモ。
「わ、わ、わ……」
 Jr.は言葉が出てこない。ジョロウグモは床に降り立ち、Jr.の体にのしかかる。ヒトの体重に、Jr.は抵抗する間もなく、床に押し倒された。
「何を驚いておるんじゃ。わしじゃよ」
 ジョロウグモはボルトの声を発した。しかし、Jr.は聞いていない。目の前に迫ってきた不気味なクモの顔をじっと凝視したまま、震え上がっていたのだから。
「そうか、この姿に驚いておるんじゃな。安心せい。君のオリジナルの興味深い極秘の研究を、自分の角度から突き進めただけじゃて」
 オリジナル?
 やっとJr.は平静を取り戻した。が、相変わらず、目の前のジョロウグモには恐怖心を抱いているままだ。
 ジョロウグモは、笑うかのように、シュルシュルと不気味な音を立てる。
「そうとも、君のオリジナルはこの場所におる。ここはわしの自宅の倉庫でな。広さは自宅と同じくらいの――おっと話がそれるところじゃったな。さあ、あわせてやろうか」
 ジョロウグモはJr.を抱き上げた。先ほどよりもより迫ってくるジョロウグモの不気味な頭部をJr.は凝視したまま、ジョロウグモが脚の一本で指した方向を、最初は見ていなかった。
「君のオリジナルだ」
 先ほどJr.が歩み寄っていった、あの蜘蛛の巣の分厚いカーテン。それが、他の小さな蜘蛛たちに食べられ、あるいは糸を回収されていく。カーテンは少しずつ薄くなっていき、その向こう側にあるものが少しずつ見え始める。最初はただの家具か何かかと思われたそれは、明らかに、別の形をしている。
 すべての糸が取り払われたとき、Jr.は、我と我が目を疑った。
 蜘蛛の糸のカーテンの向こうに見えたのは、太い糸で体を絡め取られた、オリジナルの姿であった。


 話は、Jr.が退院する二日前の朝に戻る。朝一番に研究所へ来たスペーサーは自分の研究室で採血し、その血液を検査して、うん、と頷いた。
「うん。望んでいた値に戻りつつあるな。順調だ」
 一方で顔が曇る。
「しかし、この値ではまだ不安定すぎる。ちょっとの刺激でいつ変身してしまうとも限らない」
 書類を取り出す為にデスクの引き出しを開けると、書類の綺麗に整頓されたその中に、薬が転がっている。変身するために飲む、あの薬だ。
「まだあったのか。まあいい、今は忙しいし、後で処分するか」
 薬をポケットに突っ込んだ後、スペーサーは必要な書類を出し、そろっているか確かめる。そして書類を持って所長室へ向かった。ボルトに呼ばれていたからだ。
 所長室のドアをノックしようと、手をドアに向ける。
 手が止まった。

 開けるな。

 何かが、彼に告げた。
 開けるな。
(馬鹿馬鹿しい。書類を渡せば済むじゃないか。五分もかからん。さっさと入って、さっさと出ればいい)
 スペーサーはドアをノックした。入室を許可する声が聞こえたので、彼はドアを開けた。
「!?」
 入った途端、彼は視線を浴びた。何十人、あるいは何百人ぶんもの。
 しかし、部屋の中には、デスクにかけているボルトしかいない。
「失礼します」
 その声が、自分の喉から発されたものであると知ったのは数秒後。妙に声がかれている。ボルトはそれにも気づかない様子で、どこか固くなっているスペーサーを見た。
「ああ、書類の件だったな。では、渡しておくれ」
 スペーサーはボルトに書類を渡す。
「ふむふむ、ご苦労さん。君にばかり作業を多く増やしてしまってすまんな。書類はなかなかいい出来だよ、君」
 ボルトは立ち上がり、回り込んでスペーサーの肩を叩いたが、その指先から、細い糸のようなものが伸びていることに、スペーサーは気づいた。そしてその糸らしきものが妙にねばついていることにも。
「おお! そうじゃ、君に話しておかねばならん急な用件があったんじゃ!」
 ボルトはポンと手を叩いたが、スペーサーは相手の言葉をろくに聞いていなかった。
 きれいに掃除の行き届いたこの部屋にあるはずのないものを、見たからだ。
 巨大な、ジョロウグモの巣。巣の主が、巣の真ん中に陣取っている。
「まず君は――」
 ボルトの言葉が聞こえると同時に、首筋にチクリと軽い痛みが走った。
「……についてだが――」
 次第に相手の声は聞こえなくなり、視界は闇に閉ざされていった。
 それから意識が戻ってきたのはどれくらい時間が経ったころなのか、とんとわからない。意識が戻ったという事は、体のだるさと熱っぽさを感じ取った事によって、判明した。体の状態を知ることができるのだから。しかし風邪を引いた覚えなど無いのに、この体調の悪さは一体どういうことだろうか。少し胸がむかついているが、それをこらえた。
 周りは暗かった。が、自分がどこかに浮いているような気がする。体の感覚は戻ってきているが、地面に足がついている感触が全く無い。が、正確には浮いているというより、吊るされているというほうが正しそうだった。胸のむかつきは、何かが体を圧迫していたせいだったのだ。包帯を体にきつく幾重にも巻きつけられているような、しかしその包帯らしいものは、布ではない。もっとべたついた感じの……。
 眼が暗さに慣れてきた。戻ってきた嗅覚が、この暗い場所の臭いを集めた。どこかの倉庫か物置だと判断させる、埃のにおい。そして、天井からだろう、降り注いできた弱々しい光が周りを照らす。確かに見える埃と、そしてもう一つ。
 無数の蜘蛛の巣。
 そして自分の体に巻きついていたそれを見ると、スペーサーは驚愕した。
 自分の体に巻きつき、絡み付いて、天井から吊り下げているのは、太さ一センチを優に越えるであろう蜘蛛の糸。
「な、何だこれは……!」
 暴れたが、糸は彼の体をしっかり捕えて離さない。動けば動くほど体にまとわりついた。
「ようこそ、わしの家へ」
 どこからか声が降ってきた。そしてその声はボルトのものであった。
 が、その声は妙に嗄れている。そもそもこれはヒトの声なのかと思われるほど、スペーサーには耳障りに聞こえてきた。
「所長?」
 見渡す限り、しかしボルトの姿は無い。声だけが降ってくる。天井付近にでもいるのかと首を上げたが、暗がりばかり。見えても巨大な蜘蛛の巣ひとつしか――
 その巨大な蜘蛛の巣から、何かがスルスルと降りてきた。目を凝らし、それを良く見る。日の光にてらされたそれはヒトではなかった。
 巨大なジョロウグモだった。
「眼が覚めたようじゃな。どうじゃな気分は」
 そのジョロウグモから、先ほどの声が発せられた。八本の脚を不気味にくねらせながら、ジョロウグモはからかうような声を出していると気づくのに、スペーサーはだいぶかかってしまった。
(まさか)
 冷や汗が背中を滑る。普通ならばジョロウグモがこれほどの大きさに育つはずはないし、ヒトの言葉を発することも出来るはずがないのだから。だが、目の前にいるジョロウグモはヒトほどの大きさもあり、ヒトの言葉を喋っている。そしてその口調。
「所長?!」
 ジョロウグモは、脚を不気味に動かした。
「そうとも! わしだ、ボルトだ! うひゃひゃ」
 ジョロウグモは糸を別の壁に吹き付ける。太さは軽く五センチを越えている糸。その糸を伝って、ジョロウグモは彼の背後に回りこんだ。スペーサーはそこまで首を回せないが、まわせないほうがはるかに良かった。ジョロウグモのおぞましい頭部を間近で見なくてすんだのだから。
「おや、驚いているようじゃな。まあ、この姿で会うのは初めてじゃからな。どうじゃ、この姿は」
 脚の何本かが彼の体にまとわりついてきた。糸で縛られているとはいえ、その上からさらに蜘蛛の脚の感触が伝わってきて背筋が震えてきた。
「驚きのあまり声が出ないと見た。そりゃ当然じゃろう。しかし君は素晴らしく面白い研究を開始してくれたものだ」
 ジョロウグモは不気味な笑い声を出す。
「君の研究は面白い。実に興味深い。理論は素晴らしいが間違ってもいた。しかも、未完成とはいえ、学会に出せば君は必ずマッドサイエンティストの烙印を押されて、学会を追放されていたかもしれぬほどの高レベルの理論じゃ……。おや、まだ分からんのか。それとも、わかったのかね? そう、君が極秘にノートにつづっていた、変身の研究だ」
「!?」
 ボルトが知っている。ということは、ボルトは、スペーサーの部屋に入ったとき、ノートを読んだのだ。そして、スペーサーがその研究を進めている裏側で、ボルトも研究を始めていたのだ。
 ジョロウグモは彼の反応を楽しむように、言葉を続ける。
「君の理論は、体内のハチ毒を起爆剤として、ある反応を起こさせ、細胞の形質と性質をハチそのものに変化させるというもの。アレルギー反応に似たものだな。だがこの理論は間違いもある。体内に残留するハチ毒に体を徐々に蝕まれていくのだからな。だから、Jr.の目の前で変身してしまったのだよ」
 なぜ知っている?!
「驚いておるな。さよう、わしも、ハチと話せる君と同じく、クモ類の者たちと会話が出来るのだよ。特に、家の庭で採ったジョロウグモをわしの変身実験として用いてから、ジョロウグモとの相性は良くてな。君の家と、研究室をスパイしてもらっていたのだよ。もっとも連中はいろいろなところに巣を張りすぎたようじゃがな。だが、おかげで、様々な事がわかったとも。おかげでなぁ」
 蜘蛛の脚が体をワサワサとなでてくる。
「そしてな、わしは思ったんじゃ。ハチ毒で変身することを思いついた君の身体を調べてみたい、とな。わしはジョロウグモの体液を服用しつつ、薬を服用した。ジョロウグモは無毒なものだからな。だがハチ毒は違う。ハチに二度目に刺されて死亡するというアレルギー反応たるアナフィラキシーショックを起こしかねない研究をしておったからな、君は。だが君は、研究を重ね続けたにも拘らず、ずっと平然としておる。毒を使わなかったわしと、毒を使った君との違いが知りたい。そして――」
 周りの蜘蛛の巣から、その巣の主が出てきた。いずれも普通のサイズの蜘蛛だ。
「君は、重要なサンプルでもあるのだぞ。生物学的にも、遺伝子工学的にも――」
 首筋に何か痛みが走る。同時に、彼の目の前は少しずつ暗くなっていった。


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