第8章 part2



 Jr.は、蜘蛛の糸に絡め取られているオリジナルの姿を凝視していた。
 オリジナルはまるで、蜘蛛の巣に囚われた蝶々のようだった。一体どのくらいあの巣の中に絡めとられていたのか。ぐったりと頭がたれ、抵抗した跡すら見られない。意識が無いのか眠っているのか、最悪、死んでいるのか――
「安心せい」
 巨大なジョロウグモは言った。
「蜘蛛の毒で意識を失っておるだけじゃて。なあに、解毒の蜘蛛に噛み付かせれば目を覚ますとも。心配はいらんよ」
 その言葉を裏付けるかのように、オリジナルの体を、小さな蜘蛛が這い登る。そして首筋を噛んだ。
 一瞬、オリジナルの体に痙攣が走った。少し経って、オリジナルの首が動く。意識が戻ったのだろう。だるそうに首を上げ、ぼんやりした虚ろな目で周りを見る。焦点が定まってきたらしく、こちら側をじっと見つめ始めた。
 ジョロウグモはJr.から離れ、目にも留まらぬ速さで、別の獲物の背後へ回る。そして、意地悪く囁きかけた。
「眼が覚めたかね」
 相手は返事をしない。焦点の定まりきらない目で、何かが気になるのか奥を注視している。
「ほほ、それにしてもだ」
 ジョロウグモは周りにも聞こえる声を出す。
「君が、実験に動物ではなく自分自身を使っていたことには驚くばかりだ。そして、君が自分の完成させた理論の正しさを証明するために生み出したJr.すらも使わなかったとはな」
(え?)
 離れた所で動けないJr.は、ジョロウグモの言葉に目を丸くした。
「まあ、Jr.は自宅暮らしなんじゃし、近所の住人の目にはたえず晒されておるからな。毎日近所の住人の目に触れる実験体よりは、めったに人前に出てこない実験体を使えば、研究の実験をしている事がばれにくくなるというもの。家にいるのは朝だけだからなあ」
 ジョロウグモは、言葉を続けた。
「そして、Jr.に自分の変化を気づかれかけたと知った。その頃には自分の体の変化にも気づいておったしなあ。君は何とかJr.を遠ざけておきたかった。これ以上一緒にいたら気づかれるだけではすまないと考え、場合によっては研究を止めさせようとするかもしれぬJr.をしばらく旅行にやって、変化が起きた事を忘れさせようとした。が、Jr.が余計に不審に思って離れてくれないので――いっそ殺そうとまで思ったくらいじゃろう?」
 凍りついた空気の中に、ジョロウグモの嗄れた声が響く。
「人間の理性がそうさせなかった。とはいえ、異常なまでに攻撃的になっていたのは、君がハチ毒に体を蝕まれている証拠でもある。君の性質までもがハチ化し始めたのだから」
 意地悪な声。
「君は、まだ研究を続けるつもりだった。が、あの夜を境にその考えを完全に変えてしまった。そう、君が薬を服用しないのに変身し、Jr.を襲った夜だ!」
 オリジナルが巨大なスズメバチに変身し、襲い掛かってきたあの夜。
 Jr.の体から一気に血の気が引いた。
「Jr.の怪我によって、君は考えを変えた。君は自分の体を今度は元に戻す研究を開始した。ハチ毒の融合が進んでいるのならそれを可能な限り遅らせて、毒の成分を少しずつ、細胞に無害な成分に変えていく……まあ順調だったかもしれんが、君がその研究に着手したところで、もう遅いのだよ」
 ジョロウグモは、一気に八本の脚を動かした。
「わしは、君が意識を失っておる間、君の持っていた薬と、君の体をすっかり調べさせてもらったのだ。そして、わかった。異質なる虫と細胞レベルで融合した君は二度と、完全なヒトには戻れんのじゃ!」

 ヒトには戻れない。

 その一言が、この場所の空気を更に冷たく凍りつかせた。
「君がどうあがこうと、もはや無駄な事じゃて。そして、君の身を案じてわざわざ来てくれたJr.が持ってきた君の手帳、あれにはなかなか役立つ事が書いてあった。君の手帳とわしの研究を合わせれば、すばらしい薬が出来上がるぞ。誰にも発表はできん、学会が禁忌とし続けた研究内容! 異質なるものに侵食されること無く姿を自在に変えることの出来る薬じゃて! 完成するまでそこで待っているがいい。久しぶりの再会を楽しむんじゃな。ひゃははは……!」
 甲高い声を上げ、ジョロウグモは天井へ消えていった。周りの蜘蛛たちは、巣を喰い、あるいは糸を回収して少しずつ部屋を明るくした。蜘蛛の巣のカーテンはすっかり取り払われ、スペーサーを絡めとっている太い糸もすっかり無くなった。
 体の支えをなくした彼は床に落ち、倒れた。
 Jr.は、いまだ身を震わせていたままだったが、蜘蛛たちがいなくなってしばらくしてからやっと床に座り込み、おそるおそる、オリジナルのほうへ這いずる。立てない。ジョロウグモにのしかかられた恐怖で、腰が抜けてしまったのだ。
 オリジナルは倒れたまま。しかし、体がわずかに動くので浅く呼吸している事が分かる。Jr.は手を伸ばせなかった。わずか五歩の距離で、彼はオリジナルを見ている事しか出来なかった。
 しばらくして、動いたのはオリジナルのほうだった。衰弱している事は目に見えて分かる。しかし、残った力を懸命に振り絞って、起き上がろうとしているようであった。何とか首だけを上に向け、顎を床に乗せる。
 虚ろな目が、Jr.を見つめている。
 わずかに動く口からは何も聞こえてこない。何か言っているのかもしれないが……Jr.は相手に近寄れない。体が動かないのだ。
 あのジョロウグモの話が、耳に残っているから。
 オリジナルの口から、初めて、耳に聞こえる言葉が漏れた。

 なぜ、ここに来た。

「なぜって……」
 Jr.は相手の顔を真っ直ぐ見られなかった。
「君が、あんな研究をしていたってわかったから……何とか君を呼び戻してもらいたかったんだ」
 虚ろな目が、Jr.の顔を映す。
 しばらく沈黙が流れた。
 急にJr.はオリジナルの顔を真正面から見た。
「何で君はそんな馬鹿な真似をしたんだ! 何でそんな――」
 その目から、熱い涙が絶え間なくこぼれ落ちてくる。
 言いたい事は一杯あったはずなのに。なぜ、言葉が出てこないのだろう。聞きたい事もある、ぶちまけたい事もある。なのに、なぜ……。
 オリジナルはただ目の前のクローンを見つめている。その虚ろな目は、やがて一旦閉じられ、再び開かれた。クローンが何を言いたいのか、見当はついているらしく、一呼吸置いて口を開いた。
「……好奇心から、その研究を始めた。蜂に刺された事を利用して、自分の細胞を、異質なる存在の細胞と混ぜ合わせる事で、変身作用を起こさせやすくした。体内に残留するハチ毒を変身の起爆剤とし、薬の成分がハチ毒を刺激するとともに細胞レベルでの肉体形質変化を促す。……しかしこの理論は、成功であると同時に失敗である事が分かった。ハチに変身する事ができる代わりに、自身の性質すらハチに変わっていく。そして研究のために薬の服用を繰り返した事で、ヒトがハチと融合し、肉体的にも精神的にも、ヒトでありハチであるという不安定な状態に陥っていた」
 一呼吸、間があった。
「……その結果が、あの忌まわしい出来事を引き起こしてしまった」
 巨大なスズメバチが襲いかかってきたあの夜。
「あれは――あれは――」
 クローンは二度、唾を飲み込んだ。
「あれは君が自分で襲い掛かってきたんじゃないか! そうまでして僕を殺したかったのか?!」
 オリジナルは、かすかに、違う、と答えた。
「あの時は、侵食が進みすぎていた……。薬も飲まないのに変身し、人間としての理性は存在せず、私自身の意識すらも存在していなかった。あの時の私は、スズメバチそのものに変わっていた……。君を殺したかったわけではない……」
『あれ』はオリジナルの意志で起こった出来事ではなかった。
 その答えを聞いて、やっとクローンは、オリジナルに問いたかった事を、口にすることができた。
「じゃあ、ここのところ起きていた蜂による刺傷事件は……君が起こしたの?」
 否の返答が欲しかった。だがオリジナルは否定しなかった。
「君が、近所の住人から嫌がらせを受けたり、匿名の中傷手紙を受け取っている事は知っていた……。だから――」
「だから……殺したって言うの?」
 オリジナルは、否定しなかった。
 クローンは、何度も首を横に振った。
「何でそんな事を! 何で!」
「君に、これ以上悲しい思いをさせたくなかったから……」
「誰がそうしてくれって頼んだんだよ! そんな事したって、何の解決にもなりゃしないのに……クローンに対する偏見は他にも減らすやり方があるはずなのに!」
 そんな事は、今では痛いほど分かっている。あの時は――それが正しいと思ってやった。だがそれは逆効果だった。クローンは喜ぶどころか、かえって孤立し、傷ついていた。
「今じゃ、もうわかってる……私が何もかも、間違っていたんだ」
 オリジナルの目から、雫がこぼれた。
「本当に――本当にすまなかった……」
 目の前に横たわるオリジナルの姿が、ぼやけて見えなくなってしまった。
 何と応えたら良いか、わからない。埃だらけの床に置かれた手は熱く、指先がチリチリ痛んだ。湧き上がる胸の痛みと熱が体中を駆け巡っている。
 やっと腕の力を振り絞って出来た事と言えば、床の上に横たわったオリジナルを膝の上に引っ張り上げて、抱きしめた事だった。何故自分でもそうしたのかわからなかった。体が勝手に動いたのだから。
 抱かれて体の力が抜けきったオリジナルの顔に、熱い雫がいくつも零れ落ちていった……。


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