第9章 part1
天井付近の窓から差し込む光が弱くなり、それが赤くなり、やがて窓の外は薄暗くなった。それに伴い、この場所の視界も悪くなる。暗いのだ。
「どこか出口は――」
Jr.は倉庫の壁をあちこち調べている。
スペーサーの白衣のポケットから、スズメバチが姿を見せた。彼がこの物置に監禁されている間、餌として小さな蜘蛛を捕まえて食べていたためか、スズメバチはピンピンしている。
『ありゃ。どうしたってんだい。何だか元気ないねえ。ずっと寝てばかりだった次には、疲れたのかい?』
スペーサーは反論したい気分ではなかったし、言い争う体力も無い状態であった。スズメバチに二言三言、ある事を頼むと、スズメバチは快く翅を広げて、天井付近に飛んで姿を消した。
Jr.は出口と思しき大きなドアを見つけて、押したり叩いたりしていたが、どうやら外から鍵がかけてあるらしく、ドアはうんともすんとも言わないまま、彼の目の前に立ちふさがっていた。
「駄目か。鍵がかかってる。……当たり前だけど」
万に一つでも開いていてくれたらよかったのに。口の中で呟いてもどうしようもないが。
Jr.が壁を調べ始めてから、一時間は経った。衰弱で動けないので床に寝かされたままのスペーサーは、スズメバチの事が気がかりになってきた。虫くらいなら外へ出られる小さな隙間があるかも知れないと考えて、外へ出るように言ったのだ。飛んでいったスズメバチは戻ってこない。出口を探すのに手間取っているか、あるいはとっくに外へ出てしまったか……。探しに行けない以上、相手の帰りを待つしかないのだが、あまりの遅さにひどく苛々してしまった。
「あっ」
Jr.の声で、スペーサーは我に返った。
「もしかして、これかっ」
倉庫の隅にある、小さな窓。床に設置されており、人がやっと通れるか否かの幅。泥棒よけか、鉄格子がはめられている。Jr.はこの窓に目をつけたらしく、この鉄格子を外すべく、手近な場所に落ちていた、小さな薄い鉄板をドライバー代わりに、ネジを外そうとしている。周りが暗いので、Jr.が少し焦っているのが、音でわかる。やたらとカチカチ金属音が聞こえるのだ。しょっちゅう手元を狂わせているようである。
「ああもう! 暗すぎるよ」
それでもJr.の努力は実を結びつつあった。ネジは一つ、二つと外れていった。そうして六つのネジを外して一本目を外したとき、Jr.はほっと溜息を漏らす。しかし、鉄格子は全部で六本。まだ一本目が外れたばかりだ。
「よし、次だ……」
二本目の鉄格子のネジに鉄板をねじこもうとした。
ほとんど何も見えない天井付近の空気が、動いた。
スペーサーは、その天井で何かうごめくのが見えた。ヒト以上にハチは、白黒のコントラストから、闇の中で物が識別できるようだ。モノクロの視界に飛び込んだそれは、Jr.のほうへ向かっている。
「Jr.……!」
弱い声を上げるが遅かった。天井から音もなく降りてきたそれは、Jr.の背中にのしかかったのだ。いきなり背中に重いものがのしかかり、Jr.は前のめりになって壁に頭をぶつけた。
「困るのお。泥棒を招くようなことをしてもらっては」
意地悪な声で、巨大なジョロウグモは笑った。
「薬ができたから服用してもらおうと思って、急いでやってきたんじゃ。早めに戻って正解じゃったのお」
太い糸が、Jr.の体に巻きついた。ねばつく糸に体を絡め取られて、Jr.は身動きが取れなくなった。それ以前に、苦手な蜘蛛に襲われたというだけで、Jr.の体は縮み上がってしまって動かなくなっていた。
「久しぶりの再会で、より親睦を深める事ができたじゃろ、二人とも。じゃが、それももうおしまいにしてもらおうかの」
ジョロウグモはJr.を器用に背負い、スペーサーの側まで歩いてくる。そのジョロウグモの頭部には、普通の大きさのハエトリグモがいる。その背中に、小さな赤いカプセルが糸で縛り付けてある。
「Jr.の持ってきた手帳、わしの研究、両方を合わせて作ったものじゃ。細胞の融合を更に押し進め、より早く、より長く変身できるようにする仕組みになっておる。君の変身時間の最高記録は一時間。これをどうしても延ばせなかった。だがわしのは違うぞ。君の血液を使い、半永久的に変身させる事ができるように、成分を改造したのだからな。血液成分が異なるから、Jr.では試せん。だから、君にはちょうどいい実験体になってもらおう」
「誰が、そんな化け物に……」
言いかけたスペーサーの口に、ハエトリグモが薬を背負ったまま、飛び込んだ。
薬が蜘蛛ごと喉を通り抜けるまでに、時間はさほどかからなかった。
胃を中心に、全身に熱が広がった。わずかに体を動かしただけなのに、バキバキと関節が音を立てた。熱が全身に行き渡ると、今度は体が反り返るほどの激痛が襲い掛かってきた。今までに服用してきた研究中の薬とは、似ても似つかない痛みだ。いつものような、体の中から何かが突き破ろうとしてもがく痛みではない。全身がこねくり回され、骨ごと何か別の形に無理やり変えられていくような、おかしな痛みだ。
体の形が変わっていく。胴体がくびれ、一対の虫の脚が服を突き破って生えてくる。腕と足の形が変化し、ヒトの指に似た形の鉤爪を持つ虫の脚になる。頭部が異常に変形して複眼が現れ、両眼が大きな一対のハチの目に変化する。背中を突き破ってスズメバチの長い翅が生えた。
変身が終わるまでに、ほんの五秒程度。だがスペーサーにとっては一時間もかかったように思われた。
ジョロウグモの背中に縛り付けられているJr.は、オリジナルの変身を再び目の当たりにした。ヒトの姿から、みるみるうちにスズメバチの姿に変身していくオリジナル。
またしても、あの光景が目の前によみがえった。姿の変わるオリジナル、巨大なスズメバチ。そして、引き裂こうとして飛びかかってきた巨大な化け物。
床の上に横たわっている、巨大なスズメバチ。それを見るだけで、彼の体は震え上がった。たちまち顔が真っ青になる。
「ああ……あ……!」
体が逃げようとするが、糸で縛り付けられているため、ジョロウグモの背中の上でもがく事しか出来ない。早くしないと襲われる。その焦りがJr.の体を支配しているのだ。
ジョロウグモは、床の上に横たわって動かないスズメバチのそばに、さらに近づいた。
「さて、どうかな、状態は」
その時だった。
無数の羽音が、倉庫の内部に響いた。見上げると、わずかに差し込む月明かりで、何か小さな物がたくさん、室内を飛んでいるようだった。
「な、なんじゃと!」
ジョロウグモは、思わず、背中のJr.を振り落としてしまった。
床の上の巨大なスズメバチは、触角を動かした。
間に合った。
外へ出させたスズメバチに、他の巣の蜂たちを出来る限りたくさん集めてきてくれるように頼んだのだ。蜂なら通り抜けられる小さな隙間を見つけて外へ脱出したようだ。
蜂たちは妙に興奮している。床の上に横たわる巨大なスズメバチが、攻撃フェロモンを発しているからだ。あの巨大なジョロウグモを攻撃しろとフェロモンは命じている。
何百匹もの蜂が一斉に、巨大なジョロウグモめがけて飛びかかる。だが、それより早く、この倉庫のどこに隠れていたのか、多数の蜘蛛たちが糸を吐き、蜂の攻撃を妨害する。ある蜂は糸に絡め取られ、ある蜂は蜘蛛を食い殺した。蜘蛛たちは果敢に戦ったが、いかんせん、蜂の数が圧倒的過ぎた。蜘蛛の過半数は食い殺された。
蜂たちがジョロウグモを攻撃し始める。ジョロウグモは周囲に糸を吐きつけ、蜂の攻撃を防ごうとする。小回りのきく蜂とはいえ、巨大なジョロウグモの糸の攻撃にはかなわない。あっというまに、糸の一吹きで、何十匹もの蜂が糸に絡めとられて床に落ちた。一分もしないうちに、蜂の数はほんの一握りにまで減った。
「応援を呼んだな! どうやったかは知らんが、たかが蜂の群れで、わしを殺せると思わんほうがいいぞ――」
その言葉を言い終わる寸前、床の上に横たわったままのスズメバチがいきなり起き上がり、翅を広げ、同じく床の上に横たわって動けないJr.を素早く抱え上げて飛び上がった。気づいたジョロウグモが糸を吐こうとするより早く、スズメバチは上方の窓をバリンと破って、外へ飛び出した。
「逃げたか……!」
ジョロウグモは、残った蜂を壁に叩きつけて、全て絶命させた。
三日月の光が辺りを弱くてらしている。
Jr.を抱えたスズメバチは、街灯の光の届きにくい裏道を勢い良く飛び、木々の多い道を抜け、自宅裏まで飛んだ。草の上にJr.を降ろして、体を縛り付けている糸を爪で裂いてやると、そこで力尽きてしまい、ぐったりと横たわってしまった。
Jr.は自由の身になると、ぐったりと倒れて動かないスズメバチを揺すった。
「ねえ! 大丈夫?」
触角が動いたので、生きてはいるらしい。
Jr.は、このままスズメバチを放っておくわけにもいかず、とりあえず家に入ることにした。先に裏口の鍵を開け、それからスズメバチの胴らしい箇所を引っ張る。痩せているはずだが、やけに重かった。汗だくの奮闘の末、彼はスズメバチを家の中に引っ張り込む事に何とか成功した。
裏口を施錠後、スズメバチの体についた土や埃を拭うために、一旦浴室に入り、洗面所のタオルを湯でぬらす。そして、スズメバチの着ている、破れた服を脱がせて、体を丁寧に拭いてやった。スズメバチは触角を動かすくらいの反応は示してくれた。
Jr.は、またスズメバチを引きずって、リビングにやっと入った。ドアを蹴って開け、敷かれたカーペットの上にやっとのことでスズメバチを横にしてやる。Jr.は大きく息を切らして、ソファにどっかりと座り込んだ。
「ああ、疲れた……」
時計を見ると、夜の八時半。ずいぶん長いことあの倉庫にいたようだ。昼食に果物を少し食べたきり、水一滴口にしていなかったが、不思議なことに空腹感はない。それでも喉の渇きだけはあった。
台所で水を飲んだ後、Jr.はスズメバチの側に歩み、屈み込んだ。わずかにスズメバチの大きな頭が動く。その不気味な目に見つめられているのは分かっている。怖くて逃げ出したいのをこらえ、彼は聞いた。
「何か食べる?」
何も反応が無い。死んでいるのかと思われるくらいだ。あるいは、何も食べたくない、と言いたいのかもしれない。
「いらないの……。じゃ、水飲む?」
触角が動いた。飲みたいのだろう。Jr.は台所でコップに水を入れてから、気づいた。あのハチの姿ではヒトと同じ様に飲めるはずが無いのだ。そこで大きなサラダボウルに水をなみなみと入れ、スズメバチの前においてやる。スズメバチは何とか起き上がると、サラダボウルの上にかがみこみ、ぐいぐい水を飲み始めた。その飲みっぷりに、側で見ているJr.は驚いた。瞬く間に水を飲み干してしまうと、スズメバチはまたカーペットの上に横たわった。疲れきっていて、動く気力が無いのだろう。何日も倉庫に監禁されていた上、人ひとりを抱えて、車で三十分はかかる道のりを、精一杯急いで飛んできたのだから。
Jr.自身も、疲れていた。まだ寝る時間ではなかったが、肉体的にも精神的にもくたびれていて、もう眠りたくて仕方ない。目蓋が下がり始めた。さっさと電気を消し、自室には行かず、リビングのソファに寝転ぶ。一分も経たないうちに、彼は寝息を立てていた。
Jr.はどうやら、見捨てはしないようだ。
ありがたい。
『あんな事』があった後なのに。
家の中に何とか引っ張り込まれ、体を温かな布で拭われた後、水を飲んだ。今は、何よりも水を飲みたかった。一気に飲むのは体に負担をかけすぎることだが、そんな事に構ってなどいられない。コップ一杯の水では到底足りない。大きなサラダボウルの水全てを飲み干してしまって、ようやっと満足できた。
Jr.はさっさと電気を消してソファに寝転んだ……自分の部屋には戻ろうとしない。部屋に戻りたくないのかもしれない。五分も経たないうちに、寝息を立て始めた。
疲れていた。
栄養不足で、気力を振り絞らない限りは動く事もままならない。今必要なのは、休息と栄養だ。いつボルトが蜘蛛たちを放ってくるとも限らないが、それでも、今は眠って休みたかった。
朝がきたら――ヒトに戻れるのだろうか。
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