第9章 part2



 朝が来た。
 窓から眩しい光が差し込んできて、顔を照らされたJr.は目を覚ました。しばらく天井を見つめ、周りに目をやり、自分がリビングで寝たことを思い出した。首が痛むのは、ベッドの枕よりも固くて高いソファの肘置きを枕代わりに使ったせいだろう。
 カーペットに目をやって、思わず声を上げそうになった。
 巨大なスズメバチが、横になっている。
 なぜここにこんな巨大なスズメバチがいるのか、一瞬だけ頭が混乱した。が、昨夜の出来事をすぐに思い出した。
 カーペットの上のスズメバチは、身動きしない。死んでいるのか眠っているのかわからない。側によってゆすぶってみると、触角が動いたので、生きている事は分かった。
 一体どうやったら、彼は元に戻れるのだろうか。元に戻る研究をしていたというから、ひょっとしたら何か聞かせてもらえるかもしれない。しかし、聞き出そうにも、スズメバチの姿では相手の言葉は通じない。せめて研究内容を記したノートなり手帳なりあれば、自分でも何とかできると思うのだが……。
 置きっ放しの鞄をひっくり返して、役立ちそうなものを探してみる。しかし生憎、オリジナルの私物以外に、Jr.の手助けをしてくれそうなものは何も入っていなかった。スペーサーが研究内容とその結果を記したノートと手帳は、両方ともボルトの手の中だ。取りに行く手もあるが、また捕まりに行くようなものだ。
 まあいい、そのうち、なにかいいことを思いつくだろう。カレンダーを見たが、幸い今日は祝日だ。今日いっぱい、考えるのに時間を使えばいい。
 サラダボウルに水を満たしてスズメバチに水を飲ませてやる。それから、冷蔵庫を探していろいろなものを取り出す。果物やら肉やら野菜やら。いくつかはそのまま、いくつかは調理して、スズメバチの前に並べてみる。
「どれ食べる?」
 スズメバチが口にしたのは、生の肉と魚と蜂蜜。それ以外は何も食べない。味覚が完全にスズメバチのそれに変わっている様だった。
 皿をさげようとすると、スズメバチはいきなり脚を二対伸ばしてきて、Jr.を、まるで人形のように引っ張って抱きしめた。
「わっ!」
 Jr.は突然のことに驚いたのと、スズメバチに襲われたあの夜の事がフラッシュバックし、反射的にスズメバチを強く突き飛ばして後ずさった。
 スズメバチは突き飛ばされ、後ろのソファに体をぶつけた。ぶつけたショックで、体を丸く縮めた。怯えた顔のJr.は荒い息をついていたが、はっとした。四つんばいでスズメバチの側に何とか近づいた。
「ご、ごめん。大丈夫……?」
 幸い、反応はあった。
「いきなり抱きつくから、驚いちゃって、つい――」
 沈んだ顔のJr.にスズメバチは何も言わなかった。代わりに、触角を小さく動かしただけだった。許してくれたのだろう。勝手に解釈した。

 まさか、Jr.に突き飛ばされるとは思っても見なかった。だが、仕方ない。『あんな出来事』があった後なのだ。未だにトラウマとして引きずり続けているのだ。だから、身を守るためにとっさに突き飛ばした……。血の気の引いた、恐怖に満ちたあの顔で。
 そうと分かっていても、拒絶されるのは、耐えられない。
 あんな夢を見た後なのだから。
 Jr.が、別れの言葉を告げて闇の中へと消え去っていく夢。
 ただの夢と分かってはいる。だが、妙に現実味を帯びていた。そして、実際にJr.がどこかへ消えていきそうな気がした。今は目の前にいても、そのうちどこか、手の届かない場所へと――
 だから、思わず抱きしめていた。
 どこへも、行ってほしくない。
 目の届くところにいて欲しい。

 スズメバチがどこから飛んできて、側に降りてきた。
『ありゃ、あんたまだ寝てるのかい』
『……疲れているんだ』
『全く、怠けもんだねえ』
『……』
『まあいいや。何か食べられるもの、ない?』
『あっちにあると思う』
 スズメバチは、Jr.が皿を洗い終わって台所から出た後で、台所の流しへ飛んでいった。生魚の切れ端を見つけて、それを食べ始める。こちらとしては、昼まで何も口にしたくない。眠って体力を蓄えたい。
 結局、朝になってもヒトには戻れなかったが、ボルトの家から手帳やノートを取り返すことが出来れば、Jr.に研究を続けてもらう事ができるかもしれない。だが、もう向こうは次の蜂の襲撃を警戒しているだろう。あるいは、向こうから攻める準備を整えているかもしれない。いずれにせよ、何かあったときの為に、もっと援軍をつれてこさせておきたい。だが、今は眠りたかった。
 優しい朝の光を避け、意識を闇の中に深く沈めた。

 洗濯物を干した後、Jr.はリビングの椅子に座って、郵便物をえり分けていた。商店街の安売りの広告、電気代の請求書、セミナー勧誘の封筒などありふれたものが届いている。中傷の手紙は届いていない。スペーサーが夜間にスズメバチを放って住人を殺させた事で、手紙が届かなくなったのだ。手紙が届かなくなるのは嬉しいが、手紙を届かなくさせたそのやり方は、人として許されることではない。
 新聞を読んで、ちらりと横目でスズメバチを見る。カーペットに横たわる巨大なスズメバチは、太陽の柔らかな光を避けて眠っているようだ。今は体力を回復するために休んでいるのだろう。
 新聞を畳み、上の階へ行くために、階段に足をかける。何日も掃除していないのだ。さぞや階段にも廊下にも部屋にも、埃が積もった事だろう。
 階段に足をかけると、途端に足が震えた。手すりに手をかけて体を支え、何とか一段ずつ階段を上る。深呼吸を繰り返し、何とか最後の階段を踏みしめて埃だらけの廊下に立った時、Jr.は自分の体力と気力を全て使い果たした気がしていた。
「ふう」
 廊下は埃だらけだった。持ってきた掃除用具を使って、まず廊下だけを掃除する。次に自分の部屋に入り、カーテンを開けて日光を入れる。埃にまみれた部屋を綺麗に掃除する。布団をベランダへ出して干し、シーツと枕カバーを洗濯機へ入れるために廊下へ出す。続いて、スペーサーの部屋にも入ろうとしたが、開かれた入り口で立ち止まった。
 閉めきられたカーテンのため、部屋の中は薄暗い。埃にまみれた部屋の床の上に、彼は何か影のようなものを見た。
 思い切って廊下の電気をつける。部屋の中も少し照らされる。しかし、彼が見た黒い影は、どこにもなかった。見間違いのようだ。あそこには、倒れて変身していくスペーサーの影があったのだが……。
(気にしすぎてるんだ……)
 それでも、オリジナルの部屋に入るにはだいぶ勇気を必要とした。何度も手足が止まり、引っ込んでしまう。知らない間に血の気が引いていき、息も荒くなり、冷や汗すらかいていた。
 それでもJr.はやっとの事で部屋に入って電気をつけた。部屋の入り口に立ってから入るまで、一時間はかかっているだろう。Jr.は手早く掃除を終え、布団を干し、シーツと枕カバーを部屋の外に出した。部屋の外に出て電気を消したとき、Jr.は心底からホッとした。まだ体はカタカタと震えている。深呼吸して震えを止め、新しい洗濯物を持って階下に降りた。
 洗濯物が洗濯機の中で、泡と一緒にぐるぐる回っているのを見て、彼は、自分自身も洗濯機で何もかもすっきり洗うことができたらどんなにいいかと、思った。
 何もかもリセットされてくれないだろうかと、願った。
 かなわない願いだと分かってはいる。だが彼は願わずにはいられなかった。
 気づくのが早ければ、オリジナルがあんな研究をしていたのを、止める事ができたかもしれないから――
「何でいつも役に立てないのかな、僕は……」
 洗濯機の中に、涙が一滴落ちていった。

 昼前に眼が覚めた。時計は十一時三十分を指している。思ったより眠りは浅かった。リビングにJr.の姿は見えない。家のどこかにいるのか、買い物に出かけたのか……。
 Jr.が何を考えているのか分からない。怯えているのか心配しているのか。恐怖心を抱きながらも身を案じているのかもしれない。世話はしてくれるがあまり近づいてこないのだから。
 元をただせば自分のせいだ。Jr.を襲って恐怖心を植え付けてしまったのだから。オリジナルに襲われたことで、生みの親に殺されるという裏切りに近い絶望感も抱いたろう。近づいてこないのも、抱かれたときに突き飛ばしたのも、そのためだろう。Jr.を守ってきたつもりが、逆に彼を傷つけ続け、最後にはあんな事に……。
 Jr.、どうやって君に償ったらいい……?

 時間はのろのろと過ぎていった。昼を過ぎ、三時を過ぎ、六時を過ぎた。その日は日没によって終わりを告げていく。
 真っ赤な夕日が建物の向こうへ消えていくのをベランダで見送りながら、Jr.はぼんやり風に当たっていた。昼からずっとベランダにいて、考え事をしていたのである。
 スズメバチに変化してしまったスペーサーの体を、可能な限りヒトに近づける方法。
 あの手帳の内容は大体覚えている。そして、その手帳に書かれた公式や成分表を思い出せる限り思い出し、一つだけ、最も簡単かつ確実な方法をひねり出す事はできた。だがそれは極めて危険な手段であった。できればそれは、Jr.にとって避けたい手段……。
 雲が出てきた。夜は雨だろう。風に当たって体が冷えてきたので、室内に戻る。
 リビングでは、未だにスズメバチがカーペットの上に横たわっている。死んでいるのか寝ているのかどうも分からない。近づいてみると、ぴくっとスズメバチの脚が動いたので、Jr.はとっさに後ずさった。
「起きてたんだね」
 半ばホッとした。後の半分は――
「今から、ごはんの仕度するから」
 冷蔵庫から食料を取り出している間、急にJr.は嫌な予感におそわれた。ふと、リビングを振り返る。ほんの一瞬だけ、スズメバチがいなくなってしまったような気がしたのだ。だが、スズメバチは相変わらず、カーペットの上で翅をのんびりと動かしていた。
(気のせいだよね)
 食後、Jr.は風呂に入ったが、部屋には戻らなかった。スズメバチから目を離したくなかったからだ。目を離したらどこかへ行ってしまうかもしれない。そんな気がしてならないのだ。
 スズメバチは相変わらず、カーペットの上から動かないが、その姿勢は違っている。Jr.を見つめているようだ。Jr.はソファから立ち上がり、おそるおそるスズメバチの側に寄った。いきなり抱きしめられるかもしれないので、いつでも飛びのけるように脚が動いている。
 スズメバチは、翅を動かしている。といっても飛ぶためではなく翅が動くか確かめているようでもある。
「どこか、行くつもりなんだろ?」
 スズメバチの触覚が、ぴくりと動いた。
「やっぱりそうなんだね。どこか行ってしまうつもりなんだね?」
 触覚が、しょげた。
 思わずJr.はしゃがみこみ、スズメバチの胴を掴んで激しくゆすぶった。
「ねえ! どこ行くの? 僕を置いてどこに行こうっていうのさ!」
 スズメバチは何の反応も示さない。Jr.は構わず揺さぶり続けた。
「ねえ、何か言ってくれよ!」
 相手がヒトの言葉を話せないのはわかっている。だがそれでも彼は、心の中に浮かぶ言葉を、ひたすら出るに任せて言い続けた。
「そんなに僕が嫌いなの? 僕が何の役にも立ってないから?! 僕を置いてどこかへ旅にでも出るつもりなのかい、僕を置き去りにして――」
 スズメバチは何もいえない。
「置いていかないで! どこへも行かないで! 何でもするから、何でも言う事聞くから……」
 その声はだんだん泣き声に変わり始めた。
「お願いだから、独りに――しないで――」
 羽音が聞こえた。
 スズメバチがゆっくりと体を動かし、脚を伸ばしてJr.を引き寄せ、抱きしめた。大きく頑丈な蜂の顎が、Jr.の首筋を優しく噛んだ。相手は巨大な化け物であるはずだったが、不思議なことに、抱かれていると心が安らいできた。朝も抱かれたが、あの時は怖くて突き飛ばしてしまった。だが、今は違っていた。怖くない。
 赤ん坊が安心感をいだくのは、こんな風に母の腕で抱かれているときなのだろうか……。

 スズメバチの脚に抱かれたまま、Jr.は眠ってしまった。


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