最終章 part1



 スズメバチは、眠ってしまったJr.の頭を前脚で撫でた後、そっと身を離した。這いずって廊下を抜けていき、ベランダのドアを何とか前脚の爪で開ける。冷たい夜風が、体を撫でた。
 Jr.に償いたい事は山ほどあった。Jr.の側を離れたくないが、今は、片付けなければならない事が残っている。これだけはどうしてもやらねばならない。体力は戻りきっていないが、何とかなるだろう。
 スズメバチは、翅を広げ、暗雲の中へ飛び立った。
 雷鳴が時折空を裂いている。白い光が空を引き裂いて、耳をつんざく轟音を立てる。風が湿っぽい。じきに雨になるだろう。それよりも先に、けりをつけてしまわねば。
 これ以上、Jr.を関わらせたくない。
 街灯の光の当たらない裏通りを、スズメバチは飛んでいった。そして、目的の場所へと到着し、屋根の上に降りた。

「そうか、来たか……」
 屋根の上に張り巡らされた無数の蜘蛛の糸のうち、数本が切られた。太さ一ミリにも満たない糸で、しかも今は天気が悪くて糸が見えないので、引っかかるまで、糸がそこにある事にすら気づかない。その糸が一本切れただけでも、分かった。誰かが屋根の上にいる。鳥ではない、もっと大きなもの。そして、ジョロウグモは知らせてきた。
 アレが来た、と。
 電気のついていない室内で、ボルトは一錠の薬を手に、笑いを浮かべていた。

 スズメバチは、脱出のときに割った倉庫のガラス窓から、倉庫へ入る。視界の中に、蜘蛛はいない。しかし、どこに隠れているか分からない。用心しながら、床の上に降りる。今のところ、糸も張られていないようだ。翅を畳み、静かに、床の上を歩く。物音は自分が歩く音だけで、他には何も聞こえない。
 突然、何かが翅に絡まった。
「よく戻ってきてくれた」
 声が聞こえ、倉庫の天井から光が降ってきた。電気がつけられたのだ。
 カーテンとクッションが、蜘蛛の糸で作られている。その蜘蛛の糸の中に、ヒトの姿のボルトが見える。その後ろには、ジョロウグモの抜け殻らしきものもある。
「君のことだ。またやってくると思っておったわい。……目的は、君のノートと手帳にあるんだろう? ヒトに戻るための研究をしていた、あの二つのもの」
 スズメバチは相手を見ていたが、話はほとんど聞いていなかった。
(なぜヒトの姿になっている?)
 後ろの抜け殻から見て、ジョロウグモは脱皮したのだろう。ジョロウグモが脱皮するかは分からないが、ボルトはヒトの姿になっている。一時間経ったらヒトの姿に戻ってしまう欠点を克服した薬を服用して、自分の望む時にヒトに戻れるようにしたのだろうか。
「わしがなぜヒトに戻れるのか不思議かね。簡単なことだ。自分の細胞の形を変化させるのだ。クモとヒトの遺伝子を混ぜるのではなく、クモの遺伝子成分を服用し、体に作用させるだけ。細胞の形を変化させるのだよ。君は遺伝子レベルで変化をさせようとしたから、一定時間しか変身ができんだけだ。ヒトとスズメバチという異なるモノ同士が体内に住み着いておるのだからな、ヒトの遺伝子が反発したのだ。しかしスズメバチの侵食は確実に訪れていたがな」
 ボルトは、手の中にもっている物を見せる。薬が一粒。
「これは、君をヒトの姿に戻す薬。君のノートと手帳に書かれていた事柄を元に、わし独自の解釈を加えて、作ったものじゃ。もっとも、君の体内に深く入り込んだスズメバチの成分まで追い出しきれるものではないが――」
 ボルトは、薬を白衣のポケットへしまった。
「どうだね。ほしいだろう? 言わなくともわかるとも。君は今すぐにでも、ヒトに戻りたい。だが、おいそれと薬を渡すわけにはいかんな。実験もしておらんし」
 スズメバチは触角だけ動かした。
「そうだな。一つ取り引きといこうじゃないか。もし君が条件を飲めば、わしは君に薬をやるし、君の行ってきた極秘の実験を決して口外しない。しかし君が飲まないならば、君はずっとその姿のままじゃて。なあに、君ならすぐ条件を飲めるはず。簡単な条件じゃて」
 そしてボルトは言葉を切った。
「Jr.を、わしによこしてもらおう」
「!!?」
「君はJr.を薬の実験台にはしなかったからな、Jr.は純粋なヒトのクローンだ。実験に使うのにうってつけじゃ。肉体など、培養液によって育成された特殊な体液成分を除けば、全くといっていいほど、混ざり物が無いのだしな」
 スズメバチは動かない。
「クローンならいくらでも作れるじゃろう。君にはクローン作成の資格があるではないか。どのみち君はJr.をただの家政夫にしかしていないのだから、わしのところで薬の実験台になってもらうほうが、よほど彼のためになるとも。何たって、君の『役に立てない』ただのクローンから卒業して、わしの『役に立てる』サンプルになるのだからな。誰かの役に立てる事こそ、Jr.がもっとも望んでいた事ではないか。わしは知っておるぞ、優秀なスパイたちが、教えてくれるのだからな」
 Jr.が、役に立ってこなかった?
 いや、確かにJr.は、役に立っている。今だって、何くれと世話を焼いてくれている。
「親に見離されるのが嫌で、懸命にすがり付こうとする子供と一緒じゃのう。Jr.は……。それが憐れで仕方ないわい。反抗期すら迎えていない幼い子供を、どのみち君は自分の手元にだけ置いておくつもりじゃろう。ただの家政夫としてな。Jr.は本当に気の毒じゃて。自分のしたい事を何も出来ず、君の世話をずっとし続けているのだからな。君がせっかく仕込んだ医学と遺伝子工学の知識も、Jr.がこれから先も家政夫でい続けるとなると、使われること無く、君の使われた時間も無駄になる。しかし、わしの所に来るならば、わしの極めて有用な実験台として、その知識を有効活用させることが出来るわい」
 そんなことはない!
 スズメバチは翅を広げ、高速で飛びかかった。ボルトの体にその鋭い爪が立てられる寸前、そのスズメバチの体は、目に見えない無数の糸によって絡めとられた。スズメバチの飛んできた勢いで、周りのものが倒れる。跳ね上げられた箱から、古い油の入ったアルコールランプが床に落ちる。ランプは割れなかったが蓋が外れて、少しずつアルコールが床にこぼれた。
「ふむふむ。そうきたか」
 ボルトは、糸から逃れようともがくスズメバチを見た。
「どうやら君は、Jr.を渡す気などないようだな」
 いつの間にか、この倉庫のあちこちから、無数の蜘蛛が姿を現していた。
「では、君のために作った薬は、渡すわけにはいかんな。そして――」
 ボルトは、背後の、抜け殻が置かれた巣に目をやる。
「君は、わしの獲物だ。逃がすわけにはいかんな」
 窓の外が一瞬、真っ白な閃光に包まれた。光が終わらぬうちに、耳をつんざくような音を立てて、倉庫の天井が突き破られた。
 稲妻だ。
 落雷の衝撃で蛍光灯が一斉に消える。同時に、稲妻の落ちた場所から火花が飛び散り、アルコールランプからこぼれ出た油に、うつった。
 アルコールがあっという間に火の回りを広める。蜘蛛たちは、身の危険を感じ取ったか、すぐにどこかへ引っ込んでしまった。火が床を舐める。火で蜘蛛の糸は一部焼け、スズメバチは自由になった。
「何だと……!」
 落雷のショックから立ち直りきれないボルトに、スズメバチはすかさず飛びかかり、床に押し倒して押さえつけた。
 周りには、木箱などの燃えやすい物がたくさん置いてある。火は早くも標的を見つけて、美味そうに舌を這わせる。あっという間に、火の手は広がる。逃げなければいけないのに、スズメバチは逃げないで、ボルトを押さえつけている。
「わ、わしをはなさんでいいのか! そのままだと火の中に、そして薬は――」
『かまうものか! 私はもう元に戻れないんだ! 例えここで薬を飲んでヒトの姿になったとしても、死亡解剖されれば、死んだ体組織の細胞から、私が何かの研究をしていたことは知られてしまう。研究に関係したかもしれないという推測でJr.も何かされるだろう。それならいっそ、化け物のまま焼死する方がましだ! 国の研究所のことだ、せいぜいホルマリン漬けにするくらいだろうからな。その方がよほどいい! 何もかも焼けてしまえばいい!』
 スズメバチはボルトの顎に噛み付いた。同時に翅に火が移るが、あいにく翅に神経は通っていないので、熱は感じない。
「何もかも終わってしまう……研究が、わしの上り詰めてきた地位が……」
『この期に及んで地位の心配か? どのみちこの火勢で逃げられるわけなど無いんだ、望みどおり、もう終わりにしてやる!』
 スズメバチは喉笛を食いちぎった。
 火の勢いは弱まるどころか、ますます強まる。蛍光灯が落雷の衝撃で割れ、破片を床にばら撒いただけでなく、まだ電力の供給されている電線からバチバチと火花を飛ばし続けている。
 翅が焼け、背中に初めて熱が伝わった。熱い。しかし不思議なことに、スズメバチは落ち着いていた。絶命した相手のポケットから薬を取り出そうともせず、そのまま体の上に乗っていた。
 遠くから、複数のサイレンの音がする。誰かが救急車と消防車を呼んだらしい。
 スズメバチは、焼け落ちてしまった、既に無い翅を動かしていた。
『これでいい……何もかも焼けて灰になってしまえばいい……』
 ここで焼死すれば、ボルトの死体とこの巨大なスズメバチの死体は回収される。片方は死亡解剖され、片方は研究用に色々いじられた後でホルマリンに浸けられて保存されるだろう。
 焼け始めた目の前の木箱。その炎の揺らめきの中に、何か浮かび上がった。
 寂しそうな、Jr.の顔。
『ああ……君を独りにしてしまうな。……私を、恨んでいるか?』
 わからない。
 日の中の揺らめきに映る顔は、静かに消えた。
『私は、君の親失格だったな……。何もしてやれなくて、傷つけてばかりで、言いたいことがあったはずなのに話も聞いてやらなかった。こうすればいいと、勝手に自分で思い込んで……』
 熱が周りを取り囲む。焼ける熱さで、頭が働かない。体にも少しずつ火の粉が飛んできた。焼け落ちた翅の付け根からも火が体に回り始める。
『君は私を恨むかも知れんな、Jr.……。だが、私はもう完全なヒトには戻れないんだ。そしてこれは、私が自分で自分をこんな風にいじった、罰だ』
 車の到着するブレーキ音が聞こえてきた。そして、他にも近くから聞こえてくる、無数の小さな音。車の音ではないようだが、スズメバチにはどうでもよかった。
 体の自由がきかなくなってきて、何か、炎とは違うものが周りを取り囲んだように思ったが、それきり何も分からなくなった。


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