最終章 part2



 誰かが闇の中に立っている。暗くて、顔は分からない。
 誰なのか確かめるために近づいてみたが、相手は少しずつ、近づいた分だけ遠ざかる。待ってくれと思わず手を伸ばす。しかし、相手は少しずつ、遠ざかっていく。走る速度を上げて少しずつ距離を縮める。相手は、背中を向けたまま、振り向かない。
 やっと追いついた。
 だが、相手の肩をつかむと同時に、その姿は闇の中に消えてしまった。


 眩しい光。
 開きかけた目の中に飛び込む光。眩しさで目を閉じた。しばらくすると目が慣れてきたので、目を開ける。
 天井。電気のついたままの蛍光灯。
 頭がガンガン痛む。何かで散々殴られたような痛みだ。その痛みが視界をゆらゆらと不安定にさせている。その歪んだ視界の中で見えるのは、天井と蛍光灯だけだ。
 体の感覚が戻ってくる。何か、柔らかなものが背中に当たっている。どこかに寝かされている。しかもこの柔らかい感触は……
 自室のベッド。
 そして体の節々に痛みが走る。風邪を引いたときのような痛みだが、今の痛みはその数倍強かった。
 それでも全身の痛みと頭痛をこらえて、首を横に向ける。見慣れたデスクと本棚がある。そして逆方向には、窓がある。カーテンは開かれている。
 自分の部屋だ。
(私の部屋……?)
 鳥の声が、外から聞こえてくる。
 窓から、太陽の光が直接差し込んできた。だいぶ日が高く昇ったようである。眩しいので、腕を伸ばして太陽の光を遮った。
 その腕が目の前を覆うと、途端に目が丸くなった。

 ヒトの腕。

 自分の目が信じられなかった。それを確かめるために、何度も見た。
 だがそれは、ヒトの腕。間違いなく、自分の腕だった。ところどころに包帯の巻かれた腕。
「に、人間……!」
 頭の痛みはだいぶ引いていたが体の痛みはまだあった。しかし、痛みを忘れて彼はベッドの上に飛びおきた。
「人間だ! 戻ったんだ――」
 左腕に何か刺さっている痛みがあった。見ると、赤っぽいチューブの伸びた、大きめの針が刺さっている。
「これは――」
 家においてある救急セットの一つ。緊急で輸血が必要になった場合に使うものだ。血管に針を刺し、チューブを通して血液を相手の血管へ送り込む仕組みになっている。
 彼は、チューブの先を追う。チューブは床に向かって伸びている。そしてその先には、チューブを接続している針がある。
「!」
 床の上に、Jr.が倒れていた。
 その片腕に、輸血用の針を刺したまま。片手に紙を握っている。体の側に小型の注射器が転がっている。内部は黄色っぽい液体を入れていたのか、うっすらと黄色に染まっている。
「一体、どうしたんだ……!」
 スペーサーは、全身の痛みも忘れ、ベッドから降りる。Jr.を抱き起こすが、その体は冷たく、顔は青白かった。血液不足だ。
「Jr.、一体何をしたんだ! 目を開けてくれ!」
 しかし、Jr.は反応しない。目も開けない。揺さぶっていると、Jr.の持っている紙がカサリと音を立てた。スペーサーは、紙を手の中から引っこ抜くと、しわのよった紙を広げて読んだ。
『この紙を君が読んでいる頃には、僕はもう生きていないと思う。君の消え行く命を救うには、体の傷の手当じゃなく、大量の輸血も必要だから。そして、君の体をある程度ヒトに近づける最も簡単な方法は、ハチ毒の混じった体内の血液をヒトのものに変える事だったから。だから、君の血液成分を変える為に血清を打って、僕の血液を送る事にした』
 クローンとオリジナルは、血液成分やヘモグロビンの数など細かい点が異なるので、普通はそのまま輸血できない。そのため、クローンがオリジナルに、あるいはオリジナルがクローンに輸血をするときは、血液成分をどちらかにあわせるため、血清を打つのである。
『どれだけ血液を要するかは、細かい検査をしないと分からない。でも、僕が輸血で失血死するとしても、死を恐れてなどいない。むしろ、最期に君の役に立てて、嬉しいんだ。僕はずっと君の役には立てなかった。君の助手として生み出されたというのに、たぶん役に立てたといっても最初だけだろう。それ以降は、てんで駄目だった。なんせ家にこもってばっかりだから。現場で忙しい君としては、不満だったかもしれない』
 読んでいる間、紙が上下に震えた。途中、何行か読み飛ばしてしまった。
『……チケットがあればクローンはいくらでも生成できるから、僕が輸血で失血死しても悲しむほどの事じゃない。次のクローンには、今度こそ君の役に立てるように色々仕込んでやってほしい』
 少しずつ文字がぼやけてきた。
『六年間、一緒にいてくれてありがとう。とても楽しかったよ。  さようなら』
 最後の言葉を、彼は読んでいなかった。紙が、手の中から滑り落ちた。
「そ、そんな……!」
 膝の上のJr.を先ほどより強く揺さぶった。
「嘘だ! 嘘だと言ってくれ、Jr.!」
 だが、どれだけゆすぶっても反応が無い。
「何故君が、死ななくてはならないんだ! 私が助かっても全然嬉しくないんだ!」
 閉じられた目蓋は、どれだけ揺すられても開かない。
「クローンは何体でも作れる。だが、『君』は、たった一人しかいないんだ! どれだけ君にそっくりで、性格も癖も何もかも同じであっても、『君』じゃない。『君』は、たった一人だけしかいないんだ! どんなクローンも、『君』の代わりにはなれないんだ!」
 目の前にいるJr.の顔に、熱い涙が落ちていく。
「私だって、君には何もしてやれなかった……話も聞いてやらなかったし、君が望んでいる事とは別の事ばかりで、君をずっと傷つけてきた。君に償いたい事は山ほどあるのに……」
 最初は新しい助手になるかもしれないと考え、クローンを作った。だが、思い返せば、あれは、両親を失った悲しみを紛らすために、側にいてくれる誰かがほしかったのだ。そして――もう、独りになりたくなかった。
「頼むから、目を開けてくれ……何か言ってくれ……やっとできた、新しい家族なのに……」
 相手の肋骨がきしむくらい、スペーサーはJr.の冷たい体を抱きしめていた。

 ふと、スペーサーは体を離した。
 何か感じた。
 間違いかと思い、もう一度相手の体を強く抱いてみる。
 自分の体に何か伝わってきた。
 心臓の鼓動。それも、ごくかすかなもの。
「まだ生きている!」
 スペーサーはすぐにJr.を寝かせなおし、救急セットの鞄をひっくり返して増血剤を取り出す。Jr.の腕から輸血用の針を抜くと、代わりに、増血剤を入れた注射器の針を刺し、薬を流し込む。左胸に手のひらを乗せ、ぐっと強く押して心臓に刺激を与える。
(頼む、回復してくれ!)
 緊急用の薬のため、増血剤の効果は早い。一分も経つと、少しずつJr.の顔に赤みが差してきた。同時に、マッサージされている心臓の鼓動は、少しずつ力強いものになる。だがまだ気は抜けない。スペーサーはまだ根気良くマッサージを続けた。
 二分経った。手のひらから感じ取れる心臓の鼓動は、まだ若干弱かったが、それでも生命がその生存活動を維持するのに十分な力強さに戻った。


 暗闇の中を歩いていた。振り返っても、横を見ても、闇しかない。確か、さっきまで後ろには光があったはずだ。しかし、今は何もない。
 どんどん歩いていくが、闇の中に出口は見当たらない。飲み込まれるような深い闇だけが辺りを支配している。
 ふと、前方のはるか遠くに、何かキラリと光るものが見えた。あれを、追って走る。追わなければならない気がしていた。光は遠ざかるが、走ると、少しずつ近づいてきた。
 そして、その光るものに手を伸ばす。すると、あたりは真っ白になった。


 スペーサーはJr.を抱き起こした。わずかに呼吸している。強く揺さぶってみると、反応が少しずつはっきりと表れる。やがて、
「……?」
 Jr.は、目を開けた。
 焦点の合わない目が、目の前にいる相手を認識するのに、だいぶ時間がかかった。それでも、Jr.はやっと、口を開いた。
「……スペーサー?」
「Jr.……!」
 スペーサーは、Jr.を再び強く抱きしめた。
「Jr.……よかった――よかった――」
 ずっとJr.は抱かれ続けていた。
 初めて、抱きしめてもらった――


 倉庫に雷が落ち、炎上した時、体が焼けて動かなくなってきたスペーサーを助けたのは、無数のスズメバチの群れだった。彼が出て行くのをキッチンで見ていたスズメバチが、近くの巣をまわって援軍を呼べるだけ呼び、後を追ったのである。炎上した倉庫に到着した無数のスズメバチは、生きているのかも分からない恐ろしく巨大なスズメバチを何とか数の力で持ち上げ、稲妻によってあけられた天井の穴から脱出し、家まで運んだ。運んだといってもベランダに落としたのであったが。
 リビングで眠っていたJr.は、ベランダに何か落ちる音を聞いて目覚め、自分を抱いていたスズメバチの姿がない事を知った。そして、慌ててベランダに出ると、そこには、体の黒焦げになった巨大なスズメバチが横たわっていた。焦げ臭い嫌なにおいで、火傷したのだとわかったが、どうやって手当すればいいか分からない。
 急に、スズメバチの体に亀裂が入った。ピシピシと亀裂は全身に広がり、バカッと音を立てて体が割れる。その中から、火傷のない、しかし無数の切り傷だらけのオリジナルの姿が現れた。
 全身の切り傷は何でつけられたものかは分からないが、Jr.はスペーサーを部屋に運び込み、手当した。救急車を呼んで待つ暇などない。止血剤も使ったが、なかなか出血が止まらない。ヒトにしてはやけに黒っぽい血液を傷口から流している。静脈の血は動脈の血と比べて色が悪いものだが、それでもこれは静脈で流れる血の色よりはるかに禍々しさを感じた。
 出血で顔色がどんどん悪くなるスペーサーを見て、Jr.は、輸血に踏み切った。一か八か。自分が死んでもオリジナルが助かるか、両者とも死んでしまうか、自分が無事でオリジナルが死んでしまうか、結果は分からない。それでも、Jr.は彼を救いたかった。
 これが、『親』にできる、Jr.の精一杯の治療だったから。
 自分が万が一失血しした時のために遺書がわりの手紙を書き、スペーサーに血清を打った後で輸血を開始する。次第にオリジナルの顔色はよくなり始めたが、逆にJr.の顔色は悪くなってきた。それでもJr.は彼の顔色がよくなってくるのが嬉しかった。そして、スペーサーが命を取り留めた頃には、Jr.は失血死の一歩手前の状態にまでなっていたのである。あと数分、スペーサーがJr.を助けるのが遅かったら、彼は確実に失血死していた。
 だが、Jr.は戻ってきてくれた。


 ずっと、思っていた。
 必要とされていないのだと。
 彼は、研究の助手としての、自分の存在を必要としていた。最初はそうだった。だが、今はもう違う。
 彼は、別のものを望んでいる。
 新しい家族としての存在を――


 ボルトの倉庫の火事から数日経った。さまざまな手続きを経て、副所長が、所長の地位についた。そして、研究員達は、いつもどおりの研究生活を再開した。上が変わっただけで、後は特に変化していないからだ。
 焼死したボルトは死亡解剖に回された後、墓地に葬られた。ボルトがジョロウグモに変身するために服用していた薬は、彼の細胞の形を変化させるだけで、遺伝子のレベルでは全く変化を起こさせなかったため、怪しまれずに済んだようだった。
 十月も終わりに近づいたある日の朝、
「行くのか? これからもっと寒くなるのに――」
 スペーサーは、窓を開け、スズメバチに言った。スズメバチは、蜂蜜を舐め終わって、翅を広げていた。
『そりゃあね。巣作りの季節は終わったけどね、冬篭りの支度をしなくちゃなんないし。それに、やっぱりニンゲンの生活とアタイの生活は全然あわないの。蜂蜜は美味しかったけど』
 スズメバチの言葉は未だに分かるので、完全にヒトに戻ったわけではない。
『でも、あんたとの生活は結構スリルがあって、楽しかったよ』
 スズメバチは彼の手のひらに乗り、優しく噛んだ。
『んじゃ、また来年会えるかもしれないね』
「そうだな」
 良く晴れた空に、スズメバチは飛びたっていった。

 朝八時すぎ。
「じゃ、行ってくるから」
 Jr.は、いつもどおりに出かけるスペーサーを見送りに、玄関まで行く。その顔には、もう憂いも悲しみも無い。明るい笑顔であった。
「いってらっしゃーい!」


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ご愛読ありがとうございました!
今回は、オリジナルとクローンという二つの視点から話を作ってみました。
互いの気持ちのズレや思い込みなど、オリジナルとクローンのものの見方を
書き分けてみたつもりです。
至らぬところが多かったですが、楽しんでいただけたなら幸いです。
最後までおつきあいくださり、ありがとうございました!
連載期間:2008年1月〜2008年10月


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