第7章 part2



 魔女の小屋の中で、しばらく沈黙が流れる。
「き、記憶か寿命って――」
「ゾンビパウダーのような今ではほとんど廃れてしまった古代の呪術、しかも、生命にかかわるものは特に強力な力を持つ。そいつを治すにはそのくらい大きな代償が必要なんだよ、坊や」
 説明する魔女は、青ざめたシンイチの反応を面白がっているようだ。ギィは沈黙していたが一歩進み出た。
「代償が必要なのは知っている。……俺の寿命を差し出そう」
「ええっ」
 シンイチはギィを見た。だがギィの顔に迷いはない。
「おやおや、そうかい。命惜しさに記憶か坊やを差し出すものと思っていたけどねえ」
「俺には忘れたくない事がある。それに、小僧には後で役に立ってもらうから、代償として差し出すわけにはいかない」
「あの、でも――寿命を差し出すと言う事は、貴方の死期が早まると言う事でしょう!? 貴方は剣聖と刃を交えるのを願い続けておられたではありませんか! どうしてお命を擲つような――」
 シンイチの声はどんどんしりすぼみになっていく。はっきりとわかったのだ。
「まさか、貴方が治療したいのは、剣聖フリメルダ……」
「その通りだ」
 尚も何か言おうとするシンイチを制して、ギィは魔女に言った。
「早いところ、治療薬を作ってもらいたい。こいつがまた何か戯言を言う前に」
 魔女は呪文を唱えだした。つぼから出る紫の煙が消え、真っ白な煙があふれる。魔女が手を向けるとギィの体が淡い光に包まれ、光の玉が勢いよく飛び出して魔女の手の中におさまる。光の玉が白い煙に覆われ、小さな爆発音があがった。
「ほら、出来たよ」
 魔女の手の中に、いつのまにか小さな瓶が握られている。ギィの体から急激に力が抜け、シンイチにもたれかかってきた。慌ててシンイチは支えるが、重い。ギィは荒く呼吸しながら、薬を受け取った。
「……礼を言う」
「あんたがどのくらい生きていられるかは、あんたの意志の力次第だよ。せいぜい残り少ない人生を楽しむ事だね」
 何とかギィを支えてシンイチが魔女に背を向けた時、ふと、後ろ髪を触られたような気がした。振り返ると、魔女がクスクス笑っているだけ。
「どうかしたのかい、坊や」
「い、いえ……お邪魔いたしました……」
 湿原の小屋に帰りつくまでかなり時間がかかった。一人で歩く事もままならぬほど衰弱したギィを引きずるようにして戻ってきたシンイチは、とりあえず彼を座らせて壁にもたれさせてやる。
「大丈夫ですか?」
 無意味な質問と分かっているが、しないわけにはいかなかった。ギィは質問を無視して、息を切らしながら言った。
「おい、小僧。俺の言う事をよく聞け。このために、お前をつれてきたんだからな……」

 昼下がり、フロージスの町で一番足の速いチョコボを借り、ギザールの野菜を鞍の後ろに積んでもらうと、シンイチは大急ぎでチョコボに乗って町を後にした。目指すはナザン廃坑。全力疾走させて湿原の傍を通過し、廃坑前についた時にはチョコボはくたびれ果てており、歩くことすらできない状態だった。チョコボに乗ってフロージスを出発してから一日後の事である。
「彼らが一刻も早く来てくれればいいのだが……」
 手綱を近くの岩に引っかけ、シンイチはチョコボに水とギザールの野菜をやる。チョコボは食べて飲んでから眠りについた。日が暮れた後、声が遠くから聞こえてきた。月明かりの中、シンイチは目を凝らす。見覚えのある大きな帽子をかぶり明るい色の服を着たヒュムの少年と、赤いリボンをつけた銀髪のヒュムの少女と、大きな体のレベガージの男、楽器を持っている青い服のモーグリが見える。
「やった、ガリークランが来た!」
 シンイチは、思わず声をあげていた。彼は、ギィから預かってきたものを近くの岩場にそっと置き、近くの岩の陰に身を隠す。彼が置いたもの、それは湿地の魔女が作った薬だ。ガリークランの連中は、あたりにいるモンスターを追い払い、薬を見つける。耳をすませると、彼らの話が聞こえてくる。彼らがこの薬を「湿地の魔女の秘薬」だと言い、「フリメルダを捜す」ために「乾いた土地へ行こう」としている。乾いた土地とはおそらくクシリ砂漠であろう。ガリークランは去り、後にはシンイチとチョコボだけが残された。ほっと安堵のため息をついたシンイチは、襲ってくる睡魔に負けてチョコボと一緒に眠り、日の昇らぬうちからガリークランの追跡を開始した。
 クシリ砂漠はアイセン平原を抜けねばたどりつけない。ガリークランを見失わないよう、逆に彼らに見つからぬよう、常に注意を払いながらシンイチは進んだ。ガリークランを追いながら、シンイチはギィの言葉を思いだしていた。
『この手紙をパブに出してこい、今ならまだガリークランがこの大陸にいるはずだ。お前、ガリークランの連中の顔は知っているか? そうか。それならいいな。奴らが依頼を受けたら、お前は奴らより先に、ここから東にあるナザン廃坑へ向かえ。そして薬を手近な所へ置いたら、お前はどこかに隠れてガリークランに薬を拾わせるんだ。絶対に薬を失くすな! 失くしたら、殺す!』
 受け取った大事な薬を握りしめ、シンイチは指示通り町に大急ぎで戻って、パブのマスターに「ガリークラン宛てに」とギィの手紙を渡した。手続きを済ませてパブを出ようとした時、ちょうどガリークランが入ってきて、クエストが無いかと尋ねる。マスターが、渡されたばかりの手紙を見せるとガリークランは飛びつき、引き受けた。それを見たシンイチは急いでパブを出てチョコボを借り、町を飛び出したのだった。
『ガリークランが薬を手に入れたら、奴らの後を追え。奴らなら必ず剣聖を見つけ出せるだろう。何日かかってもいい、とにかく全てを見届けて、俺に話せ。いいな?』
(魔獣に襲われぬよう結界石を小屋に置いてきたが、あの人は大丈夫だろうか……)
 衰弱して動けないギィの事を考えながらも、進んでいく。クシリ砂漠に到着したのはナザン廃坑出発から三日目の日没後。襲ってくるサンドピットの群れにカマイタチを放ち、怯んだ所を次々に斬り伏せる。チョコボを守りながら進んでいったので、ずいぶん遅くなった。ガリークランはもう到着している。シンイチはチョコボを適当な岩につないで餌と水を与えてから様子を探る。ガリークランは何か見つけたらしく、急いで走りだす。シンイチも後を追ったが、その前に、身を隠せる岩を探すのを忘れない。ガリークランはたくさんのゾンビと戦っている。不思議なことに、ある一体のゾンビを守るために彼らは戦っているのだ。ガリークランと一緒に戦っているのは、金夏の月にタルゴの森でギィと何やら話をしていたあの騎士風の男だ。そのうちゾンビの群れは追い払われ、彼らが守っていたゾンビだけが残される。ガリークランはそのゾンビに魔女の秘薬を使う。すると、ゾンビの姿が見る見るうちに変わり、見目麗しき乙女の姿となった。シンイチは驚愕のあまり口をあんぐり開けた。この乙女こそが、剣聖フリメルダ。
(し、信じられない……)
 騎士風の男は、フリメルダの相棒ルク・サーダルク。二人はともにユトランドを周って人助けをしていた身だったが、いつまでも剣の腕で彼女にかなわぬルク・サーダルクは、魔がさして、ある時手に入れたゾンビパウダーを彼女に呑ませたのだ。己を恥じ、「二度とお前の前には現れない」と彼は言い、彼女の元を去った。
 フリメルダは、ガリークランの一員となった。

「そうか。剣聖は、治ったか……」
 シンイチが湿原の小屋を出発して、また戻ってくるまでに八日が経過していた。幸い、ギィは無事だったので、シンイチは心底から安堵した。シンイチの報告を聞いたギィは、やつれた顔で安堵のため息を漏らした。
「貴方は、後悔しておられないのですか? ご自分の寿命を差し出された事……」
「後悔だと? 愚問にもほどがある。俺は、剣聖フリメルダと刃を交えるためだけに、旅をしてきた。彼女と手合わせ出来れば、勝とうが負けようが関係ない、俺はそれで満足だ」
 シンイチは目を伏せたが、すぐ面を上げた。
「では、今度は貴方の番ですね。そのお体では剣聖と刃を交える事も出来ますまい」
 ギィをチョコボの背中に何とか乗せて、フロージスの町に戻る。ギィが回復するまでにはおよそ一週間を要した。シンイチはその間彼の言いつけでガリークランを偵察し、報告のために夜しかフロージスに戻らなかったが、その合間にひたすら修練を積んだ。灰秋の月に入ると、ギィは普通に歩きまわれるほどに回復した。とはいえ、やつれはまだ多少残っている。魔女に寿命を渡してしまった以上、これはどうしようもない。今のギィは気力を振り絞って生きているのだ。強靭な意志と精神力、これがなければとっくに彼は――
「ギィさん。そろそろ、詳しくご説明願えませんでしょうか?」
 シンイチがそう切り出したのは、六日目の夕方。明日フロージスへ到着する予定のガリークランの偵察を終えて宿に戻り、ギィに報告を済ませた後だ。ギィは刀の手入れをしていたが、シンイチの問いに、手入れを止めて答えた。
「何が聞きたい」
 シンイチは順に質問した。なぜシンイチだけを連れてきたのか。なぜ薬を直接ガリークランに手渡さなかったのか。剣聖フリメルダがゾンビとなってこのオーダリアをさまよっていた事を、どうやってつきとめたのか。
 ギィは順番に答えた。
「最初の質問。本当は俺一人だけで行くつもりだったが、モーラベルラでお前の仲間の導士に調べ物をしてもらった後、考えが変わった。秘薬を作った後で万が一俺が身動き取れない状況に陥った場合、誰か手足として使える者が要ると思ったんだ」
「そして、わたしに白羽の矢をたてた」
「その通り。異国出身のお前はユトランドの事情には明るくないから、目的地を告げられても尻込みする可能性は低い。そのぶん、仲間から引き離すのは難しかったがな。目的地を告げれば即座に奴らは反対するか、全員でついて行くと言いだすかもしれなかった」
「で、一触即発の事態に持ち込んだ」
「人質でも取らねばお前は俺についてこないと思ったからな。もちろん俺はお前の仲間を斬るつもりはなかった。気絶程度にとどめるつもりだった」
「……どんな形であれ、貴方に必要とされた事は嬉しゅうございます。しかし、わたしが貴方を裏切るとはお考えにならなかったのですか?」
「確かに裏切る可能性は無いわけではない。だが、ガレリア洞窟で俺を助けたお前は、誰かを見捨てたり人を裏切ったりして平気でいられる奴ではない。現に、フロージスへ戻る前に結界石を置いていき、ちゃんと戻ってきた後で俺を町まで運んだのだからな。お前は、逃げようと思えば出来たはずなんだ、俺は動けなかったのだから」
「衰弱した貴方を見捨てて逃げるなどそんな薄情な事が出来るわけがありません!」
「それがお前の本音だろう。その考えを持つ限り、お前は俺を裏切らない。その点だけは信用できる。お前を連れて行こうと思ったもう一つの理由はこれだ」
(信用されているのではなくて、舐められているんだな。良心を揺さぶってやればいいようにこき使える小童だと思われているんだろう)
 シンイチは苦々しく思ったが、顔に出さぬよう努める。
「次の質問。お前を使いに出してガリークランに薬を手渡す方が確かに手っ取り早い。が、そんなことはしたくなかった」
「たとえわたしが貴方からの使いである事を告げずに彼らに薬を渡したとしても、薬の代償を払ったのが貴方であることを感づかれたくなかったから、ですか?」
「わかっているじゃないか」
 それから最後の質問に答える。
「最後の質問。以前、ムスクマロイの原でガリークランの小僧が言った、『フリメルダはロアルにはいないと思う』と。そこで俺は一から調べなおすことにした。まずはルク・サーダルクを見つけ、剣聖の居所について問うたが『フリメルダは死んでしまった』とほざいた。だが、俺があのクランの小僧と会ったのはつい最近、小僧の言葉を信じるなら、剣聖はまだ死んでいないはず。おかしいと思って問い詰めると、『実はゾンビとなって彷徨っている』と吐いた! いきさつを聞いた時、奴を切り捨ててやりたくなった!」
(タルゴの森でわたしが盗み聞きしたところか……だからあんなに怒っていたのか)
「奴は、湿地の魔女しかフリメルダを治せないだろうと言っていた。俺はゾンビパウダーについては何も知らんから、そいつも調べることにした。ガレリア洞窟とモーラベルラではいい情報が引き出せた。お前の仲間の導士だけだな、ここまで詳しい情報をくれたのは。それに、奴もルク・サーダルクと同じことを言っていた、治療薬を作れるのは湿地の魔女くらいだ、と。……折よくガリークランはこの大陸にいて、ゾンビパウダーについてもっと詳しく調査しようと訪れたモーラベルラには、お前たちがいた。千載一遇の機会と見て、俺はお前の仲間に調査を頼み、そしてお前をつれてきたんだ」
 いったんギィは話を止める。
「ところで俺も聞きたい事があるんだが?」
「はい、何なりとお尋ねください」
「お前は、このイヴァリースの他に全く異なる別の世界があると言われたら、それを信じるか?」
「へ?」
 シンイチはぽかんとした。あまりにも予想外の質問に口が半開きになり、思わず変な声が出た。どう答えるべきかしばらく迷った。
「信じていない、というのがわたしの回答です」
 ギィはしばらくシンイチの顔を見つめていたが、やがて視線をそらす。
「そうか……さっきの質問は、忘れてくれ」

 翌朝。
「こいつをパブに届けてこい」
 ギィは、シンイチに手紙を渡す。シンイチは手紙を受け取り、大人しく部屋を出た。パブに向かって歩く途中、彼はため息をついた。渡された手紙の内容は想像がつく。もうすぐギィは逝ってしまう。それを忘れるためにがむしゃらに修練を積んできたのにまた思い出してしまった。暗い気持ちを抱えてパブに入り、マスターに「ガリークラン宛てに」と手紙を渡す。それから宿に戻って荷物をまとめ、宿のおやじに部屋代を払い、エアポートに向かう。山ほど物資が積み込まれている貨物用飛空艇がいくつもあり、旅客用飛空艇を探すのに一苦労。
 飛空艇が飛び立ってから、シンイチはギィに言った。
「ギィさん。目的の場所に到着したら、最期の『手合わせ』をしていただけませんか?」
「何故?」
「貴方と刃を交える機会は、もう訪れません。ですから、せめて貴方の太刀筋をこの身に刻んでおきたいのです」
「……考えておく」
 翌朝、飛空艇はモーラベルラのエアポートに到着した。町には寄らず、北西にあるデルガンチュア遺跡へ向かう。遺跡には雪が降っていないが、雨雲が上空に垂れこめている。遺跡の周囲には、誰もいない。ギィは入り口の前で立ち止まり、シンイチを振り返る。
「さて、剣聖と手合わせする前に、最期の『肩慣らし』をさせてもらうぞ。手は抜いてやるから、本気でかかってこい」
「ありがとうございます」
 二人は離れて立つ。わずかな間をおいて同時に抜刀する。バティストの丘で最初に刃を交えた時とは比べ物にならぬ猛攻。手を抜いているとはいえ、ギィの攻撃はいずれも目でとらえるのが困難なほど速く尚且つ正確に急所を狙ってくる。シンイチは攻撃をことごとく正確に防ぎ、回避して、攻撃に転じる。最初に刃を交えた時は、防ぐだけで精いっぱいだったが、今は攻撃する余裕がある。一方、ギィは見事な刀さばきでシンイチの攻撃をたやすく防ぐが、一度、手首を返しての逆袈裟斬りで顔を斬られかけた。鍔迫り合いになると、ギィは言った。
「少しは手ごたえがあるな。なかなか生意気な太刀筋だ」
「わたしはずっと、貴方の背中だけを見て修練を積んできました。貴方を越えることが、わたしの目標ですから!」
 ギィは、両手で刀の柄を握りしめシンイチを押し戻そうとする。押されてきたシンイチはそのまま凍滅を放つ。刀から冷気が生まれ出るのを見たギィはすぐさま跳んで下がる。シンイチの刃は草むらを切り裂き、周りの気温を急激に低下させる。一撃が、彼の背丈の倍ほどもある氷の柱を作り出す。ルピ山でデュアルホーンに襲われた時よりももう一回り大きくなっている。それから数合渡り合った後、決着はついた。シンイチの手から刀が弾かれ、宙を舞って石畳に落ちた。ギィは刀を鞘に収め、シンイチはがっくりうなだれる。
「参りました……」
「ウェアウルフのように突進したがる戦法は変わらんが、モーグリと共にゴーグのごろつきどもを蹴散らした時より腕をあげたな。だが俺が本気を出すほどではない」
 シンイチは、モーグリの自警団と一緒に戦ったあの場面を見られたと知り、赤面した。
「さて、体は温まった。散々引っ張りまわしたが、もうお前に用はない。仲間の元へ戻るんだな」
 シンイチに背を向け、彼は遺跡の奥へと静かに歩いて行った。直後、複数の気配を感じ、シンイチが慌てて遺跡の陰に隠れると、それは、ガリークランと剣聖フリメルダであった。彼らは遺跡の中へ入っていく。シンイチも入る。気付かれぬよう距離をとって忍び足で歩く。
(剣聖の実力が本物ならば、あの人は必ず本気で戦うだろう。全てを心骨に刻して忘れぬためにも、いかなければ! 何もかも見届けなければ!)
 最奥の広間で、既に戦いは繰り広げられていた。シンイチは入口の傍の柱から覗く。フリメルダとギィ、互いに真剣そのもの。ギィは本気で戦っている。顔を見ればすぐわかる。フリメルダとギィの太刀筋がほとんど見えない。音で、刃がぶつかるのがわかる。隙をうかがってじりじりと移動してはすぐ斬りかかる。斬撃をかろうじて防ぐ。両者とも腕前は互角、シンイチはそう思った。とても彼らには敵わない……。
(ギィさん、なんて嬉しそうな顔……。わたしにはそんな顔を見せた事が無いのに)
 真剣な顔。ギィは間違いなく、フリメルダとの手合わせを心の底から喜んでいる。剣聖の実力は彼に本気を出させるにふさわしいものだった。彼の悲願がとうとう達成したのだ。嬉しくないはずがない。
 薙ぎ払いを繰り出したギィにわずかな隙が出来た。そこをついたフリメルダの一撃で、ギィの手から刀が離れ、勢いよく宙を舞った。

「お前……!」
 脚をひきずるようにして遺跡の入り口に姿を見せたギィは、目を見開いた。
 雨の中、シンイチが立っている。雨具をつけていないので、彼はずぶぬれになっている。
「お見事でした……」
 声が、妙に震えていた。
「また見ていたのか」
「はい……そして、何もかも聞きました、貴方が過去に剣聖に助けられた事も……」
 シンイチはうつむいて道を開ける。
「貴方を御引き留めするつもりはありません。どうぞお通りください……」
 ギィはシンイチの傍に歩み寄り、立ち止まる。そして、己の帯から刀を外した。
「最期の頼みだ、こいつを預かっていろ」
 シンイチは目を丸くして、ギィを見た。
「遠い将来、お前が俺を越えた剣士になれたら、抜くのを許してやる」
 少し躊躇った後、シンイチは刀を受け取った。よく使いこまれた黒塗りの鞘の刀。鞘の隅にギィのフルネームが刻まれている。自分の刀よりずしりと重く感じる。
「確かに、お預かりしました。この刀を振るうにふさわしい剣士となるまで、日々精進いたします……」
 ギィは初めてシンイチに微笑んだ。
「お前も俺と同じく強きを求める者なら、それくらいはやり遂げるんだな」
「はい……」
 ゆっくり歩み出す。少しずつ、シンイチから離れていく。その後ろ姿が、雨の中へと消えていく。シンイチはその背中に声をかけようとした。だが何と言えばいいか分からない。別れの言葉? 決意の言葉? 感謝の言葉?
 シンイチが迷っていると、去っていく足音がとまった。数秒の沈黙の後、
「世話になったな、シンイチ」
 初めて、名前を呼ばれた。
 シンイチの両目から涙が流れおちた。彼は刀を抱きしめ、深くこうべを垂れて最敬礼をした。

 ガリークランが遺跡から出てきた時、そこには誰もいなかった……。


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