第9章 part2



 結局タイゾウを逃がしてしまった。シンイチとウィルは、イーストランドと一緒にフロージスへ戻る。先ほどの戦いで、ウィルには、タイゾウの分身のからくりがおおよそ分かった。その完全な解析の協力をイーストランドに求めたところ、彼らは快く承知してくれた。ウィルとてこれ以上タイゾウにつけ狙われるのは嫌なのだ。さっさと彼らにタイゾウを捕らえてもらわねば。
 大勢で帰ってきたのを見て、マーシアは驚いたが、ウィルから事情を聴いて更に驚く。ボロンとガブりんはシンイチに跳びついて、喜びをあらわにした。
 パブで早めの夕食を終えてから(幸いシンイチの食欲はいつも通りに戻っていた)、宿に戻る。
「まあ、曲がりなりにも秘密の会議ってことだし。外に会話が漏れるの困るしな」
 ウィルはマーシアに頼んで、風の精霊による特別な結界を張ってもらう。部屋全体を覆う事で、室内で起こる全ての音は、外にはほとんど伝わらないようになる。マーシアは消耗が激しかったので、結界を張り終えたのを確認すると、さっさと部屋に戻って寝てしまった。
「そんじゃ、始めますかねえ」
 出席者はウィル、イーストランドのみ。シンイチは昼間のようにボロンとガブりんを説得できず、仕方なく外れる事になった。どうしても離れたくないと言ってきかなかったのだから。
「まず、あの戦いの中でわかったのは、タイゾウの投げつけたこの鉄の爪に塗られた毒が、分身を作り出していたということだ。毒の煙が風に流されて移動し、タイゾウの姿を形作って攻撃するんだ。だから、風で毒の煙を散らしてしまえば、分身は消える。俺がシンイチにカマイタチを出せと言ったのはそのためさ」
 細心の注意を払って持ち帰った、タイゾウの鉄の爪。毒が塗られており、輝きは鈍い。
「しかし、煙など見えなかった……」
 ハヤテの言葉。ウィルは頭をかいた。
「うーん。それはあんたたちが魔力の探知が出来ないからじゃないかと思う。毒の煙には微妙に魔力が込めてあったから、探知に慣れてる俺には見えたんだ。実体と分身が入れ替わるトリックは、分析しないとわからないけどな。失礼なこと言うけど、あんたたちは魔術に頼らないで戦ってきたんだから、気がつかなくてもおかしくない」
 高位の術を修め、普段から術を使うために、魔力の分析や探知が出来るウィルにはわかる。毒の中に込められた魔力が、タイゾウの姿を形作らせているのだ。
「確かに。タイゾウは盲点を突いたというわけか」
「たぶん、タイゾウは他の国から入ってきた術や毒物をヒントにして、分身を作り上げることに成功したんだろうな。ところでこの爪の毒、どんな効果があるんだ?」
「毒殺によく使われるもので、口や傷口から液体を直接摂取すれば即死する。気体を吸えば、徐々に体力を奪われ死に至る。だが、鼻を突く特有の臭いがあるので、気体を使っての毒殺はめったに行われない。このユトランドでの事情は知らぬが……」
「いや、タイゾウはあんたらの国の毒を有効活用してたぜ。治療薬が作りにくくなるように、ユトランドの毒と混ぜ合わせた。シンイチがその実験台にされちまったが、幸い解毒の材料を持っていたんで、助かったよ」
 ウィルは、テーブルの上に置いた毒の爪を見る。
「毒の煙が作る分身がどうやって実体をもつのかについては、これから調べる必要がある。悪いけど、手伝ってほしい。俺はあんたらの国の毒や薬には明るくないからな」
「承知した」
(それにしても、シンイチの奴……あの時どうして、タイゾウの居場所が分かったんだ?)
 ウィルはふと疑問に思う。ゼンゲンとウィル、コジロウの後ろを取ろうとしたタイゾウの分身を「見る」事が出来たとしか思えない行動。イーストランドと同じく術には縁のないシンイチに魔力の感知ができるわけがないのに。
(いや、シンイチは湿地の魔女の術にかけられたままだ。古代の呪術や薬に精通してる湿地の魔女なんだ、魔力も見えるに違いないし、湿地の魔女がシンイチに指示していたんだろう……)
 魔力探知の状態でシンイチを見ると、シンイチの身の周りを、玉虫色をした魔力が覆っているのが見えるから……。

(見える……!)
 ボロンを連れての風呂場からの帰り、シンイチは、ウィルの部屋のドアに張り巡らされた結界を「見た」。風の精霊が作る空気の結界なので透明のはずなのだが(触る事は出来る)、シンイチには「見えている」。結界が赤く浮き上がって見えている。
(あの時にさした、あの目薬の効果なのか?)
 カノル砦でタイゾウと戦った時も、ゼンゲンやウィル、コジロウの後ろを取ろうとしたタイゾウの分身が、はっきりと赤く浮き上がって見えたのだ。それだけではない、ウィルがシンイチをブリザラで助けたとき、術を放とうとしたウィルの体が赤くなったのが見えた。
(術を放とうとしたウィルさんの体を包んだあの赤いものは、何だろう? それ以外では、ウィルさんは至って普通に見える)
 部屋に入る。一方の壁に張り巡らせてある結界が赤く浮き上がって見える。ウィルの部屋が隣なのだから、仕方ない。一つしかないベッドの上では、ガブりんが大の字になってねそべっていたが、シンイチたちが入ってくると、起き上がった。が、また寝転んでいびきをかき始めた。
「ねー、シンイチにいちゃん。あれ見せて!」
 ボロンはシンイチの袂を引っ張る。あれとは、万華鏡の事だ。ボロンは最近それをとても気に入っており、覗いては面白がるのだ。荷物の中から万華鏡を出して渡してやると、ボロンはさっそく万華鏡の筒をくるくる回しながら覗く。母の形見の万華鏡。母の死後はそれを肌身離さず持ち歩き、ユトランドへ来て初めのころは寝る前などによく覗いていたものだが、今ではボロンに貸すことの方が多くなった。
 満足したボロンはシンイチに万華鏡を返してから、ベッドにもぐりこんだ。
「ねー、シンイチにいちゃん。あのおハナシして! 大きな桃が川から流れてくるやつ!」
 幼いころに、母から色々なおとぎ話や唄を聞かせてもらったのを思い出しながら、シンイチはボロンにおとぎ話を聞かせてやる。最近は毎晩せがまれるのだが、別に嫌ではなかった。そのうちボロンは眠りについた。寝付きのよさは天下一品。シンイチは支度を整えて素振りをしに宿を出た。だが、裏手に回るや否や、彼は光に包まれ、全く別の場所へ移動させられたのだった。

 湿地の魔女の小屋に、シンイチは召喚された。めんくらっているシンイチに、湿地の魔女は不気味に微笑んだ。
「突然だけど、このあいだ、魔力を『見る』ための目薬を作ってやった対価を支払ってもらうために、あんたをここに呼んだのさ」
「は、はい……?」
 あの不気味な目薬の対価。確か依頼の際には1の下に0が七つつくくらいの金を払わねばならないはず。だが彼は何も依頼していないので金は取られないはず。ならば何をとられるのだろう。寿命、命、視力?
 湿地の魔女が手にしているのは、シンイチの頭髪。湿地の魔女が呪文を唱えると、つぼの中で急に何かがポンと爆発したような音がする。頭髪をつぼの中へ入れると、黒い煙が上がる。煙は勢いよく吹き出た。シンイチの首や手足にその煙がまとわりつき、輪にかわる。輪は不気味な文様を描いた後、彼の手足や首をぎゅっと締めつけるが、すぐに消え失せる。
「い、今のは――」
 シンイチは輪の消えた個所に触れる。今は何もないのに、何かがそこについている奇妙な感覚は消えない。
「いろいろ考えたけどね、あんたにはこれが一番似合うと思ったのさ。体ではなく、心を拘束する呪いの枷」
「えっ……」
「本来なら、あんたを完全に支配しあたしの意のままに操る事の出来る呪いさ。だが、弱めてかけてあるから、あたしへの依存心が強くなっただけ。体は坊やの自由に動かせる」
 そして湿地の魔女は瓶を見せる。その中には、握りこぶしほどの大きさの、真っ白な光を放つ球体が入っている。なぜかシンイチはその不思議な球体を知っているような気がした。
「ついでに、あんたの魂も半分保管させてもらったよ。あんたがフロージスへ戻った時山ほど食べた理由はこれだよ。魂が半分抜かれ、同時に生気もその分奪われたから、体が生気を補うために山ほど食物を要求しただけのこと」
「えええ」
 現状を飲み込みきれない状態の中で、情けない声がやっと出てきただけ。シンイチは、頭の中が混乱し始めている。
「わ、わたしの魂? ほ、保管とは――」
「あんたが一度絶命しても、この魂があんたの体に満ちれば蘇生できる。いざというときの保険だよ。ちょうどいい暇つぶしのあんたに死なれちゃ困るからね」
 全部飲み込むまでに時間がかかった。シンイチは真っ青になり、体が震え、声すら出ない。口が無意味に開閉するだけで、言葉が何も出てこない。シンイチのその反応を見て、湿地の魔女は不気味に笑いながら言った。
「目薬の対価として、金の代わりに、あんたの心を拘束させてもらったよ。よく言うだろう、タダより高いものは無い、と」

 夜中前。
「やっとわかったぞ。タイゾウの分身が実体を持てる理由が!」
 手持ちの器具を使っての、毒の分析が終わったウィルは疲れも見せず、むしろ嬉しそうに言った。
「位置を特定するために魔力を込めた種が入ってるんだ! タイゾウはその種の位置を正確にとらえることで分身と自分を入れ替えて戦う事が出来るわけだ! 煙が種の魔力で自分の姿をかたどったところでテレポで瞬間移動していたんだ! 一度に複数の敵を相手にできるのもテレポのおかげだな」
 そしてその分身の対策も、まもなくできあがった。分身は煙から生まれるが、毒の煙を風で散らすのは一時しのぎにすぎない上、吸い込む恐れがある。完全に防ぐためには、毒物や煙を凍らせて動きを止めるしかない。
「あとはタイゾウの腕なんだよな。あんたら全員を相手にしても、対等に戦っていた。分身を防げてもこればかりはどうしようもない」
「シンイチの里は、歴史に名を残すほどの武術者を輩出している。その中でもタイゾウは凄腕として我が国の遠方にまで名をはせているのだ、我らが束になっても簡単に打ち崩せる相手ではない」
 シンイチの里の武術者たちが束になってもタイゾウを仕留める事が出来なかったのだ、少人数のイーストランドではなおのこと。
「オーダリア・カップで見せていた、あんたたちの連携で何とかできないか? それに、シンイチの話も聞いたんだ、新しい戦法を考え出せるかもしれない」
「ふむ……」
 ゼンゲンは考え始めた。しばらく沈黙が辺りを支配する。そのうちゼンゲンはウィルに言った。
「おぬしの力も貸していただきたいが、よろしいか? 煙が見えるのはおぬしだけなのだから」
「……そう聞いてくると思ってたよ。わかってる。あんたたちに力を貸すよ」
「かたじけない」
 イーストランドは頭を下げた。
(シンイチもたまに言うけど、かたじけないってどういう意味なんだろう? 謝罪の言葉か?)
 ウィルは首をかしげた。

 フロージスの宿の裏手に、魔法陣の力で飛ばされたシンイチ。ショックから立ち直るのにどのくらいかかったのかは分からない。月が西の空へ傾き始めると、やっと彼は考え始める事が出来た。
(いや、少なくとも体だけはわたしの意志で動かせるんだ。湿地の魔女はわたしを通して見聞きできるが行動までは支配できない! まだわたしは体の自由だけは残っている!)
 無理やり自分を納得させるべく、屁理屈をこねる。
(依存心など誰でも持っているものだ。ボロンがわたしに甘えるのと同じだ、寂しければ誰だって甘えたくなるだろう。それが、わたしの場合は、母上ではなくて湿地の魔女に代わっただけだ……)
 胸に手を当てると、肌着の下から灰色の光を放ってすうっと浮かび上がる小さな魔法陣が見える。ここへ帰す前に湿地の魔女が彼の体に刻んだ移動の魔法陣だ。この魔法陣の力で、シンイチは己の意志でいつでも湿地の魔女の元へ行く事が出来る。
(それに、魂を半分抜かれたのだから、多少無茶をしても大丈夫と言う事だ。湿地の魔女が大事に持っている限り、わたしは一度死んでも大丈夫なんだ……)
 これ以上気分が重くならないうちに寝てしまおうと頭の中を無理やり切り替える。宿に入り、足音を立てないよう注意を払って階段を上り、廊下を歩く。相変わらず結界が赤く浮き上がって見える。会議の邪魔をしないように息をひそめて気配を殺し、そっと通る。ドアを開け、部屋に入る。ボロンとガブりんの寝息といびきが聞こえてくる。ランプの弱い明かりでベッドを見ると、いつのまにかガブりんが布団に潜り込んでボロンと一緒に眠っている。
 シンイチはドアをそっと閉め、ため息をついた。
(皆には、隠さなくては……。これ以上心配をかけたくない……)

 夜更け。湿地の魔女の小屋に一人の客が訪れた。
「おや、また来たのかい」
 湿地の魔女はつぼから煙を噴き上げるのをやめ、客を見た。
「材料は持ってきた、薬を作ってくれぬか?!」
 血まみれのタイゾウはそう言って、湿地の魔女のつぼの前に大きな袋を置いた。血の臭いがプンプンする、しかも血のしみだらけの不気味な革袋だ。
「わしはもう昔のころのようには暴れられん。だが、わしはもっと血がほしいのだ! 血がほしいのだ、わかるか! 今日もいきのいい獲物と戦ったが、仕留めることはできなんだ。薬が無ければ奴らを仕留められんのだ!」
「聖戦の薬がほしいのかい。……いいよ、作ってやる。今回は金は取らないよ」
「本当か!?」
 タイゾウの目が不気味に輝いた。
「あんたはもう、あたしに依頼を持ちかける必要がなくなるからねえ」
 湿地の魔女は薬を作り、渡した。タイゾウは嬉しそうに受け取り、礼を言うのも忘れて、瓶いっぱいに注がれている薬を一息に飲み干してしまった。
 トラメディノ湿原に、不気味な咆哮が響き渡った。

 朝。暗雲垂れこめる、嫌な夜明けだ。
 近くに潜んでいるであろうタイゾウを探すために、イーストランドは早めに宿を出る。毒の煙対策としてウィルも一緒に行くと知り、マーシアはその長い耳をぺしゃんこに倒してしまった。
「えーっ、ウィルも行っちゃうの」
「しょうがないだろ、俺しか奴の毒物の仕掛けを見られないんだから。イーストランドは腕利き揃いなんだし、俺の事は心配いらねえよ」
 一方、シンイチはイーストランドに時間をかけて説得された。
「己の分をわきまえよ、シンイチ。おぬし一人が立ち向かっても勝てる相手ではない。それはおぬし自身もよく知っている事だろう。留守を守ることも大事なことなのだ、おぬしを必要とするものがいるのだから、傍にいてやるがいい」
「……仰せの通りにいたします」
 この言葉をシンイチの口から吐かせるまでに、イーストランドはかなりの時間を費やしたのだった。
 こうして、イーストランドとウィルは町を出た。
「シンイチをつれてこなくて、本当に良かったのか?」
 湿原に向かって歩きながら、ウィルはゼンゲンに問うた。
「シンイチもあんたらと同じく、凍結の奥義は使えるんだけどな」
「まだシンイチの腕は未熟、タイゾウと対等に戦うことは出来ぬ。その上、昨日の行動を見ても分かる通り、タイゾウに肉親を殺められた憎悪に身を任せて突進する猪武者なのだ。いつ暴走するか分からん以上、つれていくわけにはいかない」
「仇討ちのためにチームワークを乱されるわけにはいかないもんな。血の気の多い年頃だ、感情に任せて動くこともあるし。まあ、親を殺されたあいつの気持ちは分からなくもないが……」
「シンイチは幼すぎる。己の激情を制御できるほど成熟しきっていない」
「違いない」
 そのまま湿原に向かって歩いている間、ウィルは何か忘れ物をしたような気がしていた。だが何を忘れてきたのか、思い出せなかった。
 東へ進むにつれて、空を覆っている雲はさらにどんよりと黒くなっていく。昼前のはずなのに、夕方のような暗さを感じてしまう。しめった風に乗って、血の臭いが流れてくる。おそらく、タイゾウがあたりのモンスターを手当たりしだいに狩っているのだろう。
「もう少し遠くに、いるようだ」
 ゼンゲンはつぶやいた。彼らはウィルとは違って、気配や殺気を感じ取っている。ウィルは魔力を探知するが、何も感じとれない。
「タイゾウは、魔力を使うようなことはしていない。何かしていたとしても、せいぜいあの短剣を振りまわしてるってところだな」
 ぬかるみの道が終わり、桟橋の道に代わる。ここから、モンスターの死骸がぽつぽつと見えるようになってきた。いずれも鋭利なもので傷をつけられ、絶命している。進むにつれて死骸が増える。そして、赤く染まった沼や池が増え始めるころ、
「!」
 イーストランドは鞘から刀を抜いた。ウィルはすぐ魔力の探知を開始する。
 高笑いが辺りに響き、血に染まった装束を着たタイゾウが、同じく血に染まった匕首を握りしめ、どこからか襲いかかってきた。


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