最終章 part1



 昼前の、フロージスの宿。
 部屋の中で、シンイチは先ほどから窓の外を眺めてぼんやりしている。イーストランドについていこうと思っていた矢先、断られた。それがショックだった。
(おぬしの肉親の仇討ちに行くのではない。我らは仕事を果たすために行くのだ。おぬし一人が突っ走って、全滅を招いては困る)
 わかっている。イーストランドがタイゾウを追うのは、それが彼らの仕事だから。シンイチが彼らについて行きたかったのは、殺された母の仇討ちをしたいから。
(情に流されるなと何度も父上に言われていたはずなのになあ……)
 母の葬式の後、タイゾウを追いたいと言った彼は父からこっぴどく殴られた。二年も経った今では、仇討ちがむなしいことくらい、頭の中ではわかっている。だが、こみ上げてくる怒りと憎しみを未だに昇華できない。
(仇を取ってもむなしいだけ。わたしの気は晴れるかもしれないが、母上は帰ってこない。だが、タイゾウを許すことは出来ない!)
 膝の上で彼はこぶしをぐっとにぎりしめた。
 不満を紛らすために素振りでもしようと椅子から立ち上がる。ボロンとガブりんはマーシアと一緒に教材を買いに行ってしまったので、これから邪魔は入らないだろう。刀をふた振り帯にさし、彼は先に腹ごしらえをしようとドアノブに手を伸ばすが、その手はドアノブを握る直前に止まる。
(そうだ、ウィルさんたちが怪我をして帰ってくるかもしれないし、傷薬を作ってもらおう)
 胸に刻まれた魔法陣に手を触れ、彼は湿地の魔女の元へ行く事を望んだ。彼は光に包まれたかと思うと、次の瞬間には、小屋に描かれている魔法陣の上に立っていた。湿地の魔女は嫌な顔一つせず、シンイチの相手をしてやる。よく効く傷薬がほしいと言うので、魔女はエリクサーの瓶をわたす。
「普通の傷薬より、こっちの方が役に立つよ、坊や」
 そう言うからには、間違いない。シンイチはそう思い、薬瓶を受け取って礼を言った。そして彼がまた魔法陣の力でフロージスへ帰ってしまうと、湿地の魔女は不気味に微笑んだ。
「傷薬くらい店で買えばいいものを。……もうあたしを頼り始めるとは、呪いが順調に効果をあらわしはじめた証拠だね」

 トラメディノ湿原は、毒の煙に覆われ始めた。
「くそっ、今度はこの戦法か……!」
 ウィルは、空中からミストを取り込んで魔力を回復させる。タイゾウが投げつける毒の爪はあらかたブリザラで凍らせた。ウィルの魔力探知とイーストランドの見事な連携によって、タイゾウは分身を出せずに追い詰められていった。だがタイゾウは、今度は辺り一帯の空気に毒の煙を混ぜこみ、空気を吸い込むだけで徐々に体力を奪い取る戦法に出たのだった。カマイタチで煙を払っても、そのたびに周囲の毒が流れ込んでくる。皆は防戦一方になり、タイゾウに攻撃する余裕がなくなった。
「くひひひ、無駄なこと! 大人しくその鮮血をわしによこせ!」
 タイゾウ自身が自由に動き回れるのは毒に耐性があるからだろう。ゼンゲンたちは事前に解毒剤を飲んできたのだが、それでも、徐々に濃くなる毒の煙によって確実に体力を奪われつつあった。空気に混ぜられている以上、嫌でも吸い込んでしまうのだ。さらに、ブリザラの氷をカマイタチで砕いて冷気を吹き飛ばし、辺り一面の毒の煙を凍らせて煙を薄くする事は出来たが、反面、急激に気温が下がり、今度は凍てつく寒さで体の動きが鈍ってくる。
 タイゾウの姿が消える。
 ウィルは魔力探知を続けるが、どこもかしこも魔力だらけ。毒の煙それ自体に魔力を混ぜてあるので、どの個所からタイゾウが襲ってくるか分かりづらい。ゼンゲンたちは背中合わせになり、互いの背後をとられぬよう周りを見て、気配を探る。
「う……」
 ジンペイの手から刀が落ち、青ざめた顔の彼は膝をついてしまった。毒にやられたのだ。背中合わせとなっていたコジロウがふりかえる。
「ジンペイ!?」
 直後、二人の頭上にウィルがサンダラを放つ。ぎゃっと悲鳴が上がり、帯電したタイゾウが、稲妻に打たれた勢いで吹っ飛び、赤く染まった池の中に落ちた。
「感謝する、ウィル殿」
「いや、なんのなんの」
 ウィルは大急ぎで皆にエスナをかけるが、完全な解毒には至らない状態。空気中に毒が混ぜられているせいだ。息を吸うだけで毒をどんどん吸ってしまう。いくら術をかけてもきりがない。
 池に落ちたタイゾウはすぐ跳び上がった。が、彼らとは離れた場所に着地する。
「楽しませてもらったぞ、愚か者ども……」
 高笑いをあげ、タイゾウはテレポでどこかへ消えた。
 タイゾウの気配は完全に消え失せた。
「た、助かった……」
 近くの小屋で傷の手当てをする。解毒剤をもう一度飲み、凍えた体を温める。
「それにしてもあっさり退いたなあ」
 ウィルはもう一度自分の魔力を回復させ、怪我人にケアルラをかける。
「いつもタイゾウはあんなにあっさり逃げるのか?」
「奴は獲物に執着しすぎない。仕留めきれないとわかった時点で、奴は退く。血に飢えているとはいえ、引き際はきちんと心得ているのだ。傭兵であったあやつが幾多の戦場を生き延びる事が出来たのは、腕がたつだけでなく、引き際がいいからだとも言われている。どれほど多くの敵を討とうとも、己自身が死亡してしまっては元も子もないからな」
「なるほどねえ」
「とにかく、タイゾウはいったん退いた。我らも一度町へ戻ろう。消耗しすぎた」
 一休みして、フロージスへの帰路に就く。ウィルは歩いている間中、妙な胸騒ぎを覚えていた。

 昼食を腹に収めてから、シンイチは宿の裏手で素振りをしていた。一時間ほど経ってから、いったん止める。雪が降り始めたのだ。フロージスに雪が降るのはとても珍しい。雪が降ってくるほど寒いのに、彼は汗だくになっていた。手拭いで汗を拭き、刀を鞘に収めていったん部屋に戻る。部屋に入ると、昼寝中のボロンとガブりんが目に飛び込む。マーシアは彼らが寝付くまで傍にいたらしく、シンイチの入室に対し「静かに」とジェスチャーで伝える。
「いろんなお話を聞かせてくれって、せがまれちゃった。さっき、やっと寝てくれたのよ」
「わたしも同じですよ。毎晩おとぎ話や民謡を聞きたがるんです」
 その時、シンイチの背筋に何か冷たいものが走った。反射的に左側、つまりウィルの部屋の方を見る。壁越しに、何か小さくて赤いものが見える。
「どうしたの?」
 マーシアは質問したが、シンイチは壁をにらみつけたまま答えない。何者かの気配。気配を感じ取ったか、マーシアは耳を動かした。だが、その顔は緊張している。
「ウィルじゃないわね」
「はい」
 シンイチは刀の柄に手をかけた。マーシアもそれに倣ってレイピアの柄に手を伸ばす。殺気は部屋の中を通り過ぎ、ドアを開ける。廊下を歩く音はほとんど聞こえない。だがそのすさまじい殺気だけは隠せない。廊下を通り過ぎ、殺意はふっと消える。気配を消したのだろうか。
「マーシアさん。この部屋全体に、昨夜のような結界を張っていただけませんか? そして、ボロンたちのそばにいていただきたいのです」
「シンイチ君。貴方はどうするの」
「あの殺気の主を追います!」
 止める間もなく、シンイチは飛び出す。ドアが閉まってから、マーシアはため息をつき、風の精霊に結界を張らせた。
「シンイチ君、本当に無茶ばっかりするんだから。そうだ、ウィルに連絡とれないかしら……」
 疲労と戦いながら、マーシアは集中した。もう一度風の精霊を見つけ出して、ウィルに言葉をおくるように頼んだ。
(ちゃんとヒュムの耳にも聞きとれるように、私の音を届けて頂戴!)
 ……。
 飛び出したシンイチはまずウィルの部屋のドアを慎重に開ける。誰もいない。だがテーブルの上には昨日タイゾウが投げつけてきた毒の爪が置かれている。赤い光を発する毒の爪。爪の周囲には、気化しているらしい毒の煙がわずかに見える。赤い煙があがっているのだ。
(爪の毒が気化しているのか? だが、この毒は無色透明のはずだが……)
 部屋を出る。後ろを振り返ると、自分の部屋にちゃんと結界が張られていることを確認した。ドアの前に赤く浮かび上がる結界。彼は階段を下りて外に出た。裏手に回り、周りを見る。風にのって雪がちらちら降る。だがその風が、赤くなっているところがある。その赤い風に乗り、あの毒のにおいがした。赤い風を目で追っていく。風は東から吹いてくる。深く吸わない方がいいと判断し、呼吸を浅くする。いきかう人々は、吹雪が来る前に建物に入ろうと急いでいるが、急に人々が倒れ始めた。毒を吸いすぎたのだ。
 強い殺気。同時に人々が悲鳴を上げた。フロージスの町のあちこちに、タイゾウが姿を現したのだ。そしてシンイチの背後にも姿を現した。赤い風に乗る煙がタイゾウの姿を形作ったところで、シンイチは振り返るや否や、電光石火の居合抜きで切り裂く。手ごたえは全くない。
 ぼたん雪が降ってきた。血の臭いが、毒の臭いと一緒に流れてくる。いくつも現れるタイゾウの分身。逃げ惑う人々、悲鳴。シンイチは自分の周囲を見渡し、自分の傍に現れるであろうタイゾウの分身を探す。自分の周囲を赤い風が取り囲んでいる。これでは、どこから分身が来るのか分からない。
「!」
 シンイチがふりかえると同時に、タイゾウの赤錆びだらけの匕首が襲いかかる。匕首の一撃を、すんでのところで受け止める。
「よくわかったのお、くひひひ」
 タイゾウの目は血走り、装束は血の染みだらけで不気味な茶色になっている。やつれはてたその顔には狂気だけがあった。ヒュムとは思えぬ形相にシンイチはぞっとした。シンイチの怯んだ隙をつき、タイゾウは次々に斬撃をくりだす。シンイチはすんでのところで全部を防ぎきるが、毒を吸っているので、少しずつ動きが鈍り始める。
「シンイチい! 生き血をよこせええええ!」

 トラメディノ湿原のぬかるみの道を歩いていたウィルは、突然立ち止まった。
「如何なさった?」
 ゼンゲンが問うた。ウィルは、前方から吹く優しい風に乗ってきた言葉に、耳を傾けた。
「フロージス、敵、あらわる。すぐ、帰って……」
 聞き取れたのはそれだけだ。精霊の言葉だ。ウィルは精霊の言葉を聞き終えると、見る見るうちに青ざめた。
「急いでフロージスに戻るぞ! 俺、取り返しのつかねえ事をしちまった!」
 イーストランドに説明する。ウィルは宿の自分の部屋に、タイゾウの毒の爪を置いてきてしまったのだ。もしタイゾウがあの爪の場所へテレポで逃げてしまったら、タイゾウの次の標的は間違いなくフロージスの人々だ。いや、先ほどの精霊の言葉から、フロージスへ逃げた事はもう明白だ。
「サキ、ハヤテ、ギスケ。先に戻れ! だが、タイゾウを見つけても深追いはするな!」
 ゼンゲンの指示で、脚の速い三人は素早く駆けだす。あっというまに姿が見えなくなっていく。
「我らも参るぞ」
 言われなくとも。たまにぬかるみに足を取られながらも皆は走った。フロージスが見えてきた頃には、辺りはぼたん雪が降り始めており、視界が少し悪くなっている。風に乗って、血の臭いが流れてくる。遠くからでも聞こえる悲鳴。ウィルは、フロージスの上空に魔力が漂っているのを見る。
(おそらく、魔力を込めた毒の煙だな。ああもう、何て事をしちまったんだ! 何か忘れたと思っていたが、とんでもないものを忘れちまってた!)
 ウィルが己の愚行を心底から後悔したのは、後にも先にもこの時だけであった。先に戻っていた忍びたちと合流、皆は町に飛び込む。寺院やプリズン、役所や魔法医に飛び込む人々。デュアルホーンの起こした暴動以来、町の住人達は上からの命令で避難訓練を重ねてきたと見え、倒れた人々以外は皆大急ぎで移動している。負傷者は警備兵が運んでいる。
 鼻を突く異臭。タイゾウの毒の臭いだとすぐわかった。
「我らはタイゾウを追う。おぬしは、シンイチたちを頼む」
「わかった」
 イーストランドとウィルはいったん別れた。ウィルは宿に到着し、階段を駆け上がると自室のドアを開ける。タイゾウの毒の爪がテーブルの上に残されている。ウィルはそれをブリザラで凍らせる。次にシンイチの部屋のドアを開けようとするが、ドアに触った途端に手がバシッと弾かれる。結界だ。マーシアが精霊に頼んで張らせたものだろうか。ウィルはドアごしに何度もマーシアを呼んだが、返事が無い。マーシアの部屋のドアを開けても誰もいない。シンイチの部屋にいるのだ。仕方なく、ウィルは、シンイチを探すことにした。タイゾウと戦うため飛び出したか、部屋の中にいるか。
(あの無鉄砲の馬鹿野郎のことだ、絶対飛び出していった!)
 宿の外に出る。雪で視界が悪くなり、毒の臭いよりも血の臭いの方が強くなってくる。裏手に回ってみると、まず血だまりが目に飛び込んだ。
(まさかシンイチのじゃあるまいな?)
 足跡はない。雪が芝に降り積もる前にこの血だまりの主はどこかへ去ったのだ。
「!」
 ウィルは、横から襲ってきたタイゾウにサンダラを放った。稲妻を受けたタイゾウは、揺らいで、消えた。
「やべえ。囲まれた……」
 自分の周囲に生まれ出る、五人のタイゾウ。ウィルは舌打ちし、魔力の蓄積を開始した。

 町の東の商店街を、シンイチはゆっくり歩いていた。
(怪我を治したばかりだ、無理は出来ないな)
 宿の裏で、毒で動きが鈍ってきたとき、タイゾウに胸元を切りつけられた。わざと急所を外して派手に血を飛び散らせるために。だがタイゾウはシンイチが倒れたのを見て満足してしまい、とどめをささずにどこかへテレポで去ってしまった。他に獲物を見つけた、と言わんばかりの目で。タイゾウが去ってから、シンイチは魔女からもらったエリクサーを懐から取り出して、傷口に少したらした。傷はすぐふさがり、彼は何とか立てるようになった。またタイゾウが襲ってこないうちに宿から離れる。傷は治っても、派手に出血した分の血液は戻らないので貧血状態。ものは試しと、瓶に残ったエリクサーを少し舐めてみると、めまいは治り、普通に動けるようになった。エリクサーの効果に驚いたが、それでも無理しない事にしてゆっくり移動した。
(あの毒を発生させている場所を突き止めなくては。麻痺でまた動けなくなっては困る)
 フロージスの町の上空は赤い霧で覆われている。毒の煙だ。大きなぼたん雪のために視界が悪くなってきているが、風がわずかにあるおかげで、毒の煙がどこから発生しているかはおおよそ突き止められそうだった。町の東だ。必要以上に毒を吸わぬよう、細心の注意を払って、シンイチは移動していた。赤い風をたどり、風上に向かっていく。
 町の外で、毒の発生源を見つけた。それは、毒殺されたモンスターたちの骸だ。処分まちのために積み上げられた骸の腐敗臭と毒がいりまじり悪臭を放っている。モンスターの亡骸はことごとく血を抜かれており、異常なまでにやせ細っている。悪臭と不気味な光景に、シンイチはやっとのことで吐き気をこらえるが、めまいだけは避けられない。
(これだけの魔獣がタイゾウの渇きを満たすためだけに殺められたのか……)
 なぜか、涙が出てきた。
(とにかく、気化しているこの毒をなんとかせねば。吸い続ければまた倒れてしまう。だが、火を放つと、周りに引火する可能性がある。それならいっそ――)
 涙を拭いて抜刀した。呼吸を整えて身構えるが、その刃は彼の背後に向かって振られた。ガキンと音がして、刀が何かで受け止められる。
「毒の場所をよくつきとめたのお。ゼンゲンの相手をしておったのに、忙しいわい」
 吐き気のするほど血の臭いを体から発しているタイゾウが、いつのまにか彼の後ろに現れていたのだった。口元に血糊がべったりとつき、その不気味な顔でニヤリと笑っている。タイゾウは、斬られて血にそまったシンイチの着物を見て、さらに不気味な笑みを浮かべる。
「やはり美味そうな血じゃ……!」

 フロージス中央の小さな公園。イーストランドはここでタイゾウの分身たちを迎え撃っている。だが、魔力を探知できるウィルと別れてしまったため、どこから分身が出現するのか分からず、苦戦を強いられている。
「くっ、きりがない……!」
 走って戻ってきた事もあり、イーストランドの疲労は蓄積する一方。分身たちは彼らをあざ笑うように、近づいては遠ざかり、斬られてはその都度新しい分身が現れる、その繰り返し。しかも周りはタイゾウの毒を含んだ空気なのだ、吸い続けていればいずれイーストランドは倒れてしまう。
 ふと、彼らを取り囲むタイゾウの分身が全て消え去った。同時に、鼻を突く毒の臭いも消える。
「分身が消えた?! 毒が消えたのか?!」
 皆は驚いたが、すぐに、タイゾウの本体を探しにその場を離れた。
 途中、宿の裏手で、消耗したウィルを見つける。彼も分身に襲われていたようだが、魔力の元たる毒の煙が消えたことに驚いている。
「あとはシンイチを探すだけだな。どこ行ったんだろ。無鉄砲すぎるあいつのことだから、たぶんタイゾウを追ったと思うんだが……」
「急いで探さねば! 怒りにまかせて何をしでかすか分からん!」

 ビキビキと派手に凍りつく、モンスターの死骸の山。
(これで、毒は全て凍りついたはずだ)
 シンイチの放った奥義・凍滅は、彼の身の丈の倍以上はあるその死骸の山を一瞬にして凍りつかせた。毒が凍りついて、鼻を突くあの悪臭が新しく漏れ出ることは無くなった。赤い煙は、急激に薄くなる。供給源が凍ったからだ。
「わしへの凍滅はみせかけにすぎんかったか。毒を凍らせてこれ以上被害の広がりを防ぐとは」
 シンイチの繰り出したカマイタチが辺りの空気を薙ぎ払い、毒を吹き飛ばすついでにタイゾウに襲いかかる。空気の刃から逃れたタイゾウは、赤錆のついた匕首を舐めた。舌がわずかに切れる。
「毒気の無い鮮血も美味いかもしれんなあ。戦場で飽きるほど飲みほした血の池の味と、貴様と、どちらが美味いだろうなあ。あの泥混じりの血の池と、貴様の鮮血と、アヤメの血の池。どれが赤いだろうなあ」
 母の名を聞くたびに、シンイチの頭には一気に血がのぼる。そして今回も例にもれず。大きく踏み込んで薙ぎ払いを繰り出す。刀がタイゾウの装束を派手に斬り裂いたが、怒りに任せた攻撃ゆえ急所は外れている。装束の下に厚いなめし革を身に着けていたので、タイゾウの体には思ったほどのダメージを与えられなかった。傷はそんなに深くない。傷口からどすぐろい血がゆっくりあふれてくるが、タイゾウはひるみもしない。動揺もない。
 血に飢え過ぎて、もはや痛みなど感じていないのだろうか。やつれ果て、狂気の光を目に宿したタイゾウはまた襲いかかってきた。トラメディノ湿原で戦った時と比べると、タイゾウの動きはおそろしく鈍っている。シンイチは匕首の攻撃を苦もなくかわし、受け流す。
「どうしたタイゾウ。わたしの鮮血がほしいのではないのか? なぜ遠慮している」
「遠慮などしておらぬ。聖戦の薬の効き目が、切れてきただけの事――」
 いきなりタイゾウが血を吐いた。どすぐろい血が口から吐き出され、シンイチは思わず飛びのいた。吐き気を催す嫌なにおいが辺りに漂う。シンイチの隙をついてタイゾウがまた攻撃するが、再び無駄に終わる。匕首を握る腕の動きはさらに鈍り、小刻みに震えてさえいるのだ。剣を握ったばかりの新米ハンターでも何とか太刀打ちできそうなほど、タイゾウの能力は弱体化している。これは演技なのかとシンイチは疑った。だが、演技ではなかった。本当にタイゾウの身体能力は大幅に弱体化してしまったのだ。それでもタイゾウの目に宿る、血に飢えた狂気の光は消えない。
 なぜだろうか。シンイチは目の前の敵をあわれに思い始めていた。母の仇であるはずのタイゾウは、今やただの、年老いた狂人にすぎなくなっていた。タイゾウに対する怒りも憎悪も、なぜかどこかへ消え去っていた。二年も憎悪し続けた相手なのに。母の仇をうつ絶好のチャンスなのに。
(こんな奴をわたしの手で殺めても、意味など無いんだ……)
 シンイチは刀の柄を握りなおした。その顔からは表情が完全に消え去っている。タイゾウがよろめきながらも、シンイチに襲いかかってくる。
(わたしがこいつを殺めれば、今度はわたしがこいつと同じ立場に立つことになる。どんな理由があろうとも、人を殺める事に変わりない……)
 シンイチはタイゾウめがけて刀を振り下ろした。


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