最終章 part2
それから二週間が過ぎた。Motherシリーズのいなくなった今は、ターキアが自力でコンピューターを設定し、食糧生産や水質浄化などを行わせている。本来ならば、人間が設定してやればあとは機械が勝手にやってくれることを、何度もメンテナンスを行ってきた彼女は、知っている。それでも、Mother−2がやってきた事を今度は人間の手で行うことの大変さを自覚した。町の人の人数の把握だけでなく、空気清浄や水質の浄化などの様々な課題を解決しなくてはならないのだ。今までは研究だけしていればよかったのだが、Mother−2を自らの作ったプログラムで破壊したのだから、今度は自分でやらなくてはならない。どれだけMother−2に依存し続けてきたのかを改めて知った。
町の生活は、Mother−2を失ったことで一時混乱が生じたが、ターキアがうまく機械を扱って何とか騒ぎを収めることが出来たので、すぐに元通りになった。新たなMotherを作ることはしなかった。
一方、彼女は医務室に毎日スペーサーの見舞いに行ったが、いつ見ても、彼が元の世界に帰りたがっていることは明白だった。Mother−2の作った病原菌がほぼ死滅したことで病は完治したものの、それでも、彼女の方を見ていない上、ひどいホームシックにかかっているのは、顔を見ただけですぐにわかった。迷子になった子供が家に帰りたがっているのと同じ顔だったのだから。
スペーサーが、元の世界に戻る日。
ヴィクトルは、顔を見たくないというので、見送りには来なかった。
「帰っちゃうのよね……」
「ああ……」
スペーサーは、少し気まずかった。ターキアは彼の顔を見ている。
「……あのね」
彼女は口を開いた。
「本当は、その転送装置を壊すつもりだったの。貴方に、ずっとここにいて欲しいから。けど、そんなことしなくても、貴方を帰そうとするマザーさえいなくなれば、貴方はここにいてくれるようになるんじゃないかって、根拠のない事考えちゃって、壊すのをやめたのよ」
「……では、何故壊さないんだ」
「ここの所ずっと、考えてたの。本当に壊せば、貴方をこの世界にとどめておくことは出来る。でも、貴方の心は私の方を向いてくれないかもしれないって。貴方には帰るべき場所があるんだもの。この世界は、本当は貴方の場所じゃない。貴方はいつも帰りたがってた……」
傍らで、転送装置が静かに唸り声を上げている。
「……一緒に、行かないか?」
スペーサーの突然の言葉に、ターキアは驚愕の視線を向けるが、すぐに目をそらす。その顔を見て、スペーサー自身、何故そのような提案を言い出したのか、分からなくなった。
「ありがとう。でも、やめておくね。貴方の世界に、ひょっとしたら私がいるかもしれないもの。同じ人間が二人もいるって、凄くおかしいでしょう? それに――」
「?」
「何でもないの。独り言」
ターキアは静かに言って、装置を作動させる。ゆっくりと機械は近くの空間をゆがめ始める。
彼女は、彼の側に歩み、少し背伸びする。そして、
唇を、重ねた――
ほんの数秒間だったはずなのに、永遠のように永かった。
ターキアは唇を離し、彼の体をそっと押す。硬直から解けたスペーサーは、何か言おうと口を開くが、それより早く、視界が真っ白な光に包まれていった。
遠のく意識の中で、彼は最後に、手を振って別れを告げる、ターキアの顔を見た。
「さようなら!」
にっこりと微笑んでいる彼女の目から、涙がこぼれおちていた――。
顔に叩きつける雨で、意識を取り戻した。目を開けると、激しい雨が叩きつけてくるのがわかる。
舗装された道路の上で、彼は横たわっていた。
自分がいったい何処にいるのか正確に知るまで、しばしの時間を要した。雨のために視界はあまり利かないが、見覚えのある景色が目に飛び込む。そしてこの天気。
あの世界に飛ばされたときと同じ、悪天候。
彼はしばらく頭の中が混乱したままだった。戻ってきたのかもしれない。しかしそれは本当だろうか。頭の中で十分整理がつけられないまま、立ち上がり、のろのろと歩き出した。
「一体何があったんだ? 車だけ放り出すなんて」
助手席のドアにロックがかかっていなかったので、助手席から車に乗ったアーネストは、車を車庫へ入れる。それから助手席に無造作においてある、スペーサーの鞄を取った。分厚い皮革製の鞄の中はテキストやプリントだけでなく、受講生から回収したレポートの山、大学専用のIDカード、筆記用具や財布などの細々したものが全部入っている。
「しかも荷物まで置いてある。どういうことだ?」
ヨランダは傘をさしたまま、周りを見た。まだ雨は降り続き、雨と闇のため、視界は狭くなる。遠くを見ることが出来ない。
「わからないわ。車を置いていくなんて、よほどのことがあったんじゃないの? キーも挿しっぱなしだし……とにかく、そのへん捜してみない?」
「そだな」
そして二人が近くを捜そうと家から離れたとき、少し遠くから、誰かの足音が聞こえてきた。
足音の聞こえてきたほうを、二人は振り向いた。そして、思わずあっと声を上げた。
雨の中、傘もささずに、スペーサーがとぼとぼと歩いて来るのが、見えた。
「お前――」
傘をさしていないアーネストは、自分がずぶぬれになっているのも構わず、スペーサーの方を見る。ヨランダは、呆れとも驚きともつかない顔をスペーサーに向けた。この雨の中、何故車を降りて傘もささずに帰ってきたのか、全く分からなかった。そして、光の加減のせいだろうか、彼が痩せているように見えた。
スペーサーは、二人の姿を見止めると、しばらく呆けたような顔をしていたが、やがてその場にくずおれた。
「帰ってきた、帰ってきた……!」
色々な感情がいっぺんに押し寄せ、彼は、泣いた。嬉しさ、悲しさ、不安、安堵感。だが今は、帰ってきたという安堵感と嬉しさが、涙腺を緩ませていた。
なぜ彼が泣くのかわからず、アーネストもヨランダも互いに顔を見合わせた。何か言葉をかけてやろうにも、何も思いつけなかった。
それから一週間、スペーサーは部屋に閉じこもって、ほとんど外へ出なかった。彼に一体何が起きたのか、二人とも分からなかった。彼は何も話してくれなかったからだ。何か変なことがあって具合でも悪くしたのだろうと、二人は考えていた。
部屋に閉じこもりきりだったスペーサーは、確かに体調を崩してはいたが、それ以上に、自分の気持ちに整理がつけられずにいた。元の世界に戻ってきたことは嬉しかった。だが、何かを失ったような気がしていた。
それでもある程度気持ちが落ち着いてきた頃、ようやく体の調子も戻ってきた。六時半過ぎに起床して、講義のテキストと、採点したレポートを入れた鞄を持って、階下へ降りる。
「あ、おはよー」
キッチンから、ヨランダが声をかける。
「あ、ああ、お早う……」
スペーサーは返答した。いつものことのはずなのに、新鮮なことのように感じた。
朝食のときにいつも飲むコーヒー。毎日飲んでいたはずなのに、その香りも味も、新鮮だった。
当たり前の生活。何も変わらぬ日常。だがその日々を過ごせることの価値を、彼は分かっていた。一度失ったからこそ分かるのだ。
何も変わらない当たり前の生活を過ごせることこそ、本当に幸せなことなのだという事を。
朝食を終えた後、大学へ出る。講義が始まり、レポートを返している間、スペーサーは受講生達の顔をじっと見ていた。毎日見ていたはずなのに、懐かしかった。受講生達はそれより、いつもよりレポートの採点が甘いことに気がついた。点が稼げたと喜んでいる者もいたが、この厳しい助教授がこんなレポートに高い評価をつけたことを奇妙に思っている受講生の方が多かった。
講義が終わり、研究棟にある研究室に向かっていると、学長が研究棟の付近で誰かと話をしているのが見えた。今年就任したばかりの、わりと肥満体の学長は、スペーサーを見つけると声をかける。
「おや、君かね。ちょっとこちらへ来てもらいたい。君は先週休んだだろう。だから新しく来た講師の先生を紹介したい」
スペーサーが行ってみると、学長は、研究棟の陰に立っている誰かを、連れてきた。その姿を見たとき、スペーサーは思わず驚愕の声を上げた。
「ターキア!」
そう、その講師は、ターキアだった。正確にはあの世界の彼女そっくりの人物と言うところ。顔はそっくりでも、彼女はポニーテールではなく、明るい色の長い髪をただ垂らしているだけ。そして、前髪は染めていない。
ターキアそっくりのその講師は、首をかしげた。
「いえ、私はアリサですが……貴方は、姉をご存知なのですか?」
「えっ……?」
「姉のターキアは、数年前に飛行機事故で亡くなったのです。貴方は、姉をご存知なのですか?」
スペーサーは返答に窮したが、学長が割って入った。
「まあ、個人的な話は後にして、今は、新しく受け持つ講義の話を」
学長はさっさとアリサを連れて研究棟へと入っていった。その背中を、スペーサーはじっと見送っていた。
頬を一筋、涙が流れていった。
ここ一週間、ずっと曇りの空だった。だが今は少しずつ晴れ間が見えてきている。Mother−2がふらせつづけた紫の光が消えた今、この世界は、本来あった「天候」を取り戻しつつあった。
長方形の石に名前を刻んだだけという粗末な墓標に、ターキアは、金の懐中時計を、首飾りのようにかけてやった。時計の針はまだ、二時五分を差したまま動かない。
「これで良かったのよね」
その顔は寂しそうだった。だがどこかでふっきれたようでもあった。
彼女の傍らに、目を真っ赤に泣き腫らした少年が立っている。「彼」が病の研究をして治療薬を作ってくれることを期待していた、あの少年である。
「……「彼」のおかげで、もう誰も、あの病気にはかからなくなったわ。「彼」は死んでしまったけれど、あの病は、根絶されてしまった」
「うん……ありがとう、にいちゃん。みんなに、知らせ、とく……」
少年は、それでもターキアに抱きつき、泣いた。
少年が去った後、後ろで見ていたヴィクトルは、言いにくそうに、口を開く。
「実は……育ててきた花が、やっと咲いたんだ。君に、見てもらいたいんだが」
ターキアは立ち上がり、ヴィクトルを見る。
「ええ、いいわ。行きましょう」
そして、にっこりと笑った。
誰もいなくなった墓地。雲の切れ目から太陽の光が差し込んで、墓地を照らす。眩しい太陽の光を反射して光る懐中時計から、静かに時を刻む音が聞こえてきた。
完
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ご愛読ありがとうございました!
今作では、人の心に焦点を当てての執筆に挑戦して、試行錯誤の末に完成しましたが、
まだまだ、あらゆる場面で書き足りない箇所が多くあったと感じています。
そのかわりあるアイテムを暗示に用いての心境の変化をつづれたかと思います。
つたない作品ですが、楽しんでいただけたならば幸いです。
最後までおつきあいくださり、ありがとうございました!
連載期間:2006年1月〜2006年6月
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